「マルシリオ・フィチーノは1433年にフィグリーネで高名な医者ディエティフェチ(dietifeci)と夫人アレッサンドラの間に長男として生まれた。「まだ幼少であった」フィチーノを、のちのプラトン・アカデミーの主宰者として選んだのはコジモ・デ・メディチであった。コジモのはゲミストス・プレトンを「あたかももう1人のプラトンであるかのように」崇め、そのプラトン主義に傾倒していた。フィチーノはフィレンツェ大学でアリストテレスの「ニコマコス倫理学」および「霊魂論」の注釈書を著したニッコロ・ディニョージにアリストテレス哲学の手ほどきをうけ、アリストテレスの中世的伝統に接し、アヴィセンナ(イブン・シーナ)とアヴェロス(イブン・ルシュド)を始めとするアラブ語圏の註解にも触れることになる。フィチーノは学生時代からキケロ、マクロビウス、アプレイウス、アウグスティヌスおよびカルキディウスなどのラテン著作を手がかりに集中的にプラトンの思想的遺産に取り組んだが、その際にプラトンとアリストテレスに対立させて理解するようなことはしなかった。」

中世における理性と霊性 (上智大学中世思想研究所中世研究叢書)中世における理性と霊性 (上智大学中世思想研究所中世研究叢書)
著者:K. リーゼンフーバー
知泉書館(2008-03)
販売元:Amazon.co.jp



「フィチーノは憂鬱な気質の持ち主であり、その健康状態は常に虚弱であったが、それを補ってあまりあるほどの知的関心の広がりによって、その文学的・音楽的才能ー彼は竪琴を弾いたーおよび芸術理解を統合し、その愛すべき人柄と聡明な判断力によって、それぞれに活動する卓越した思想家たちを結集し、当時のフィレンツェの精神生活全体に決定的な影響を及ぼした。その中にはロレンツォ・デ・メディチ、レオン・バッティスタ・アルベルティ、アンジェロ・ポリツィアーノ、クリストフォロ・ランディーノ、ピコ・デッラ・ミランドラらが数えられる。フィチーノの容貌および人柄については、さまざまな言い伝えを通じて以下のように報告されている。この痩せ型で小柄な男は、話しぶりはいくらか遠慮がちであり、風変わりで禁欲的で質素な生活を送り、節度ある日々の日課と菜食を貫いたが、ただワインだけは厳選されたものを好んだ、と。政治的主題にはほとんど関心を示さず、人付き合いにおいては柔和で、さらに若者たちとの親しい会話では熱中して多弁になったが、1人になると深い孤独に襲われたと言われる。」

(「中世における理性と霊性」 第12章 マルシリオ・フィチーノのプラトン主義)
P1010666

(写真は2009年にデル・フィオーレ聖堂内で撮影:高嶺)


「饗宴註解」もまた孤独と憂鬱から解放されるのでは、という友人たちからのすすめで書かれた。(De amore)この版は版を重ねて広く読まれた(日本語訳もある/国文社刊)・・・

「美とは人間の魂を自己のほうへ引き寄せる輝きである」(De amore)

・・・・・

私は例えば現代人的な視点の「高み」という立場から、ルネサンス期のひとびとについて、「疲れを知らぬ」とか「単なる混淆主義である」とか(フランスの思想家に多い見解)みなすことはできない。何が優れていて何が劣っているというような主張、二者択一にはほとんど意味がない。むしろ意味はそぎ落とされていくからである。しかし一方で近代的人間中心主義や一般的なヒューマニズム、英語化されたヒューマニズム(イタリアの初期人文主義ともルネサンス思想とも異なる)の立場から一切の批判なく賛美することもできない。ただルネサンスといえば、例えば盛期ルネサンス(レオナルドやラファエッロ)やコペルニクスだけが「優れている」わけではない。そして何よりもルネサンスが急に起きたわけではない。精神的支柱やその起源というものは意図されなければ隠蔽される。そして何か現時点で都合のよい部分だけを見ようとする。それは結果主義的すぎるのではないだろうか。
「差異」というものと「共通点」というものをどう価値判断するのか。
それは結局、立場の問題なのだろうか。・・・・・
それすらも、根本的な動機は「自己保存」の領域なのだろうか、他の言葉で表すことはできないのか。

そして忘れてならないように感じるのは、どのようにある時期に生きた人々が文化的社会的、創造物などを進歩あるいは深化させようとも、短期間のうちにそのほとんどが継承されずに失われるということは繰り返し起こるということである。


「なるほど、ルネサンスには強烈な生きる喜びを示す数多の証拠がある。けれども、これと全く同じ程度に郷愁と憂愁が見出されるであろう。ロレンツォ・デ・メディチの幾つかの詩、ミケランジェロの幾つかの彫刻、無数の哲学的著作は、ある種の悲哀がユマニスムに浸透していることと、永遠の美と真実に対するある種の郷愁がそこにあらわれていることこを証拠だてている。15世紀には、呑気で思慮のない喜びは問題外である。それどころか、各人が自らの限界を感じていた。というのは、人間の可能性を極度にまで発展させねばならないということを意識していたからである。」
(「ルネサンス精神史」 イタリアのユマニスム p.100)

まさに有限さを認識することは、可能性の模索と終わりのない実践(決して完成や完全に至ることはない)の繰り返しであると私自身が日々の中で思う。時間はただ「経過」するものではない。日々も一年も「過ぎ去る」ことをただ眺めるという態度はできない。外見には、そのような日常にあわせていると「ふるまう」「あわせる」ことはかろうじてできるが、それ自体が無理でもある。つまり、度し難いことに、おそらく「普通の人が「楽」とか「無理しないで」という状態で日々を過ごすことが、もはや有限さを意識する中では、「無理に表装することでしかとれない態度」なのである。無理しないでくださいといわれて、どうにもならないと感じてしまう。時間は25時間のサイクルでめぐり、その中で自分のやりたいかやりたくないかという傾向性・好みの気分に関わらず、為すかだけである。
平均的、ということが常に規範とされるような現代では、時間も行動も思いや思考もすべて、多と平均的なことがらにあわすことがまるで絶対化されているかのようである。・・・・



P1010675

同フィレンツェ デル・フィオーレ聖堂(ドゥオーモ)内。

右手側奥にフィチーノ像がある。
ブルネレスキ、ジォットなどが関わり、フィチーノ像、ウッチェロなどの騎馬像画などがあるこの聖堂に近年落書きをしたという日本人大学生などはとうてい赦せない。無知とは恐ろしいものである。そしてそれに対して、心から謝ってくれることを教会側は求めた。こころから反省してくれるならば、修復料金は請求しないということだった。この言葉を多くのメディア・新聞は「費用はいらない」というようなニュアンスで伝えたことは非常に残念である。金銭で形だけで償うようなことがもっとも恥ずべき行為だからなのだが、金銭的な価値観しかない人々には理解できないのだろうか...


DSCN0046

早朝のデル・フィオーレ聖堂前から。
花の女神フローラとマリアの名前を付したこの建築は都市の力とブルネスキの偉大さをそのまま感じることができる。ドームの先尖が完成したのはブルネレスキの死後だったが、ここからの眺望は後の人々に世界に対する広い視野をもたらした、この地平の開拓もまたこの建築のもつ一つの特徴であるように思う。
初期ルネサンスと盛期ルネサンスのそれぞれの特徴をおさえた上でフィレンツェを訪れることが望ましい。最近のアルベルティ研究からは、古典古代の様式がどのように展開したかを知ることができる。

また同時に、こうした建築、美術がコインの「表」であり「裏」の部分も認識するべきである。

DSCN0077

フィチーノ、ミケランジェロ、ギルランダイオ、マザッチォ、そしてドナテッロ、ブルネレスキらの仕事の足跡を求めて、フィレンツェ旧市街に滞在したときの写真。真冬なのに花のたえないこの町の空中庭園・テラスが大変に印象深い。ここからアルベルティが設計したサンタ・マリア・ノヴェッラのファサードもみえる。(フィレンツェにて:著者)

私が関心があるのはこの文化を支えた原動力としての思想である...

ルネサンス精神史 (1983年)
著者:S.ドレスデン
平凡社(1983-09)
販売元:Amazon.co.jp