午前中病院へいき点滴、注射と治療をつづけています...
すこしでも快方に向かっていると、想いたい...
目の力も2日前はほとんど皆無だったのですが今は、ちゃんと周囲を認識してるようです。水も自力で飲めます。食事はまだまだ多難ですが。

9月は忙しい...ので出張のときなどは実家でにこさんを預かってもらう予定だったのですが、具合が悪くなったら面倒みたくないようで...どうもいつもそうなのですが、私は両親とはまったく考えも価値観もあわないというのもあるのですが、実際私が中高生のときに即入院というような具合の悪さのときも(ヘルニア含む)あまり気にしないようなところもありますし、ようするに都合がわるくなると「動物なんだから自然にまかせるしかない」などというわけです。
しかし重要なのことは、ぺット化した動物は、自然状態ではないわけです・・・・
人間、飼い主ができること、判断し、適切な時期に適切な行動をとれるかどうかが鍵だと思うのです。

「自然」=「放置/なにもしないこと」ではない。
自然とは・・・・たとえばホフマンスタールが「魂のない自然」と「神聖な(人為的なものをこえたあるべき秩序としての自然」をわけたような差異が純然としたものとしての秩序として認識されるべきである。

それはよく日本人が好んで用いる意味での「自然」であり、「自分がよかれ」と思い込んで結果的によくない行動を選択していくときの「天にまかせる」ような行動原理なのです。
自分が、私が、そうした行動をとれているかどうか、というのは常に自問(自答できるほどの能力も充分ではない・・・)のレベルなのです。

両親はといえば、娘が乳児のときも一度も預かってくれたり何か手伝ってくれたりということはありませんでしたね...。仕事がどうしても忙しくかったり、私の体調が悪化したときも預かってくれたりおむつがえをしたりするのを全く嫌がらずにやってくれたのは義理の父だけでした。

多くの親や飼い主は、他者である生命を自分の所有物か代替可能なものと考えている。自己愛の裏返しのレベルか、他者と自己の境界も認識していない。そして、何かあったときには最善のことをするまえに「仕方ない」「命あるものはいつか死ぬから仕方がない」というのであり、「死ぬ前に好きなことを好きなだけすることが生きる意味だと思い込む」のである。そして「他人・他者のことなど考えても仕方がない」というのである。


人権のないところには動物の権利も確立しない。
アニマルライツ関係の活動をしている人に特有なのは、社会や法、政治、制度などにはまったく関心がないというひとが多い。選挙にもいかない、動物にしか関心がないから、というひともいる。
それは多少なりとも、動物は「人にものをいわないから」 その人が不愉快になるようなことを「発言しないから」 「生命を握っているのが自分である」という深層の驕りなのではないか、・・・と思うことがある。

自分の自由を妨げてくるかもしれない隣人と他者を思いやれるか受容できるかどうか、が問題なのである。自分の「気分」「快さ」がそういう人はやはりもっとも重要なのであって、他利的だと思っているだけで極めて利己的なのではないか・・・
(日本ではまだルソーが高く評価されるような場面があるが、ルソーほど、自分の気分のために何か主張していると思われる”思想家”はいない。彼は自分の子どもすべてを孤児院送りにした。自分の「思索」「思想」する時間を子供たちが邪魔するからという理由だったのだ。それで良心を癒すために自分では育てなかった子の「ために」かかれたのが「エミール」である。この本の冒頭にある「自然」という言葉の誤読はとくにドイツや日本で顕著なように思われる.....。思想というものが存在するなら行動も一致していなければならない。実践の中で問われなければならない・・・)これは私見なのだが、古代ー中世思想をみていると、ストア派−エピクロス派あたりまでの人間理性というのは、ヨーロッパ近代ではようやくエマニュエル・カントくらいでむしろ追いつく−古典古代の復興としての近代を通してーのであり、その後、自由という概念をそれこそ放埓や無秩序、個人の「自由」などという言葉の使い方によくあらわれている、権利の1人歩き、つまり義務と切り離された権利の氾濫が起きている現代では古典期ギリシアよりも人間理性や人間の思慮のレベルでは退行していると思われる部分がある。

今でもよく見られるのは、子どもが自分たち(親)に何か利益をもたらす存在であればその存在をみとめているが、もし少しでもそうでないときに義務を怠るようなことがあれば、それは子どもや他者にとっては条件付の生きる権利しか親から与えられないことになる。条件付けられた生命と存在根拠はおそらく自己肯定意識を真に持つことはできないのではないだろうか。

そういう親は「他人」の評価ばかり気にする。それは想定されているだけで実際にはいない「世間」であったりする。その人にとっての最善であるよりも、自分の評価に関わるかもしれない噂話レベルの価値判断であったりする。(そういう考えはあまりにも浸透していて、他人と比べても意味はない、と促すと驚く子どもや人も多いのです)


日本ではとくに社会と世間の差異も問題にしない。

何かを語るときに「みんなそうだ」 「みんな同じだ」と日本では言うことが多い。
しかしイタリアでは「考えてもみて下さい」という。
考えることと問うこと、それを共有すること、対話すること。

無条件の同意や同感は思考停止と吾関せずの態度しか生まない。


「みんな同じだ」ということが何を意味するのか。それは協調ですらない。
曖昧な共感で繋がる他者排除の感情の澱みにしかならないのではないか。



「自分がしたいだけの手伝いをする」
「自分がしたいだけのボランティアであって、本当に何かの助けになる行動をしたいわけではない」 
「自分の欲求をまず満たすことが一番」という行動原理は私には理解できない。しかしそういう人は「親切で善人」としてみられたい、のでしょう・・・

しかし自分ではなにもせず回りが動くことを期待する人々というのは・・・
周りの人間をあらゆる意味で生き難くする、と思います。
こうしたことを暗黙のうちにとどめていられないのが更に自己嫌悪ですが・・・ 


歴史を見ると権力と支配の記録だが・・・
そのために存在を消されたもののは記録からも記憶からも遠ざかる。

しかしおそらくは、絶やそうとしても、そうしたものが永劫に駆逐されるわけではない・・・ これは願望でも展望でもなく、おそらくは血肉と場所を追われた存在の系譜は、細い水脈のようなものだけで繋がっているのだろう。・・・ 現在ではそれは、「再生産」を疑わずに受けれるものと問い続けるものとの差異となって顕れるのかもしれない。