風景画は長い間、絵画ジャンルとしては確立されず、画家が私的にメモリアと観察と省察とをふくめて描いていたもののことが多いですが、風景に出会うと、描くしか遺せないのならば精緻に丁寧に画家たちは描いただろうなと思うことが多いです。



ですからクロード・ロランの絵画には「主題がはっきりしない」といった批判がありますが、それはロランが主題を風景に重ねようとした結果であるからです。外的な光は、常に超自然的なものとして描かれる。それを認識するわれわれと、外的なものは、知・知者という層を通して描かれる。知の具現化として描かれる天使がパワーから受動的なものに変わっていく過程は17世紀前後からはっきりしてきます。それは人間の世界、ノモイ、日常の他に、神聖な法を認識するか否かにもよっています。大げさなものではなく、花や躍動する動物、天空、海、湖面、森林などを通して認識されるもの自体です。古代ギリシアでは、自然科学、つまりどうなっているかについて書き記すことと、自然の神聖さを謳い上げること、つまり文芸(ムーサの領域)は同等の意味と価値をもっていました。
はたして現代ではどうでしょう。・・・・・
現代とか中世とかいう言葉も不思議なものです。
常に現代を問うた時代こそが古典期のギリシアであり、大文字のルネサンス(フィレンツェ)であった。

古典期のギリシアでは中世といえば紀元前8世紀ごろを指すようです。現代はでは何に対して現代・現在というのでしょうか。その差異が明確にされることも始められれば、忘却されるといった繰り返しなのではないかと感じる。
8世紀、12世紀のルネサンスとは、一つには翻訳の時代、もう一つは合理性と多文化共存の途でもある。
翻訳の時代のあとに、受容の時代があり、その時代は前の時代に受容する主体が準備される。(日本でも近代文学の萌芽は江戸末期の著者たちが率先して読者であったことが指摘される。変化や転換は突然顕れるのではない。準備され継承される中で展開されるのだが、継承されずに消失する時代もいくつかの段階である。現代ではある面では進歩しているようにみえるが、一方では退行の兆しが顕在化している。)

技術の発達と恩恵はあるけれども、一方で私たちの手仕事の技術はおとろえるばかり。外的なエネルギーがなくなればなにもできないしなにも形として現れないのではないか、とおもうことも多いです。
電子書籍などもその一つ。


「一般的に」長寿となっても、人間が実践できる期間はむしろ短くなっており、多くの場合は消費、もっといえば浪費に時間も物質もあてられている。生命維持が「生きること」と同義に捉えることに釈然としない思いを抱くのもそのためではないだろうか。

人に与えられている時間は短い。

自分の体調などがどうであれ、やることが一段落、まとまりを与えない限りは休むとか無理しないということは不可能な日常ですので月末までの仕事、出張と重なり体調を崩れがちです。あまり自分の具合について口にだしたりはしないのですが、ごくたまに知人と会話したりすると、自分の「通常の状態」というのが果たしてどんなだったのか、不調が通常にいつのまにかなっていると感じます。けれども個々の状態というのも、なにかの基準と比べたりしてもあまり生産的ではないのであって、結局はできることをできるだけ成す、しか個人にはできないのです・・