都市と農村という言葉があったといる。そのとき多くの人が繋がりをもつものとして「都市」を選ぶはずだ。しかしそれはどこかねじれている認識である。

都市と農村はそもそもの役割が異なる。だから都市のような農村がふえてしまことは、都市にとっても農村によってもよくない。
農村としう言葉がどこかアンニュイなイメージがあるならば、それは「田園」である。都市は交換の空間、田園はそういったものから距離をおき、田園ならではの豊かさをもっていたのである。

こうした観点が日本の強制からは脱落している。
プロイセンドイツを見本にしたところで、プロイセンは農作物や生産がなりたたたない土壌だったのだ。農業が可能な土地というものは計り知れない価値がある。だからもっとも危惧すべきなのはスプロール開発である。
無計画に利便性とニーズにこたえる。
都市の類似周辺部をいくら拡大してもよさは保持できない。
人は生産力を内側に有してるべきである。

農業・生産が自然環境によってある程度達成できるのはとても重要なことである。この根本邸な意味を多数の人が認識すべきであろうと思う。
もはやあらゆる購買動機にはそういった副次的、あるいは本来的な選択をせざるをえない。企業は履歴中心から、意味と価値との浸透、価値の多様化、人々の臆見に拠り過ぎない判断が求められていると感じるのである。

忘れられていること。
それは、よさ(good)とは、十分自足的であること。
原料を買い付け、商品を売り、食料を買う。
このシステムが、すべて肯定できるほど持続可能なシステムではないだろうことはすでに多くの人が知っているか気がついている。

フランスの自給率は80%を超えている。
工業化とは、資源と耕作による収穫の見込みがひくい場合のみちのことであって、あらゆる国が「アメリカ」のようにテイクオフしなければならいわけではない。