日本は住み替え文化が定着していないため、住居も「消費物」的です。(住居に消費税が課されるのもそのせいでしょう)。住宅関連で「お客様の要望にあわせた自由設計」を商品として打ち出す会社も多いですが、果たしてそうした要望にあわせることが、住宅・住まい・建築としてよいことなのかどうか、といえば私の結論は否でした。私が住んだ家はどれも施主の自由設計に基づいた家でした。在来建築の自由設計、そして某大手建築会社の自由設計の家。どちらにもいえることは、建築主の「要望」を満たす家というのは、結局のところ、時間や家族構成が変化したときにはまったく「不便」かつ「不満」が残る一時的な形なのです。
様式は確かにそれに生活をある程度あわせる必要がありますが、それは何百年か残っているものなのです。それは、どの時代でもどのような人にも対応できるという意味を表します。ある程度人のほうが様式に合わせたほうが、ある生活の秩序にもとづいて暮らしたほうが結局のところ、不満がないのです。私が重視したのは、「飽きがこないデザイン、構造、空間」でした。そうしていくうちに、古典様式に近づいていったのだと想います。シンメトリー構造とプライベートとパブリックの空間を分けることは、つきつめて考えていけば、あるモデル・規範をもとにして、収納やキッチンなどを多少アレンジすることに落ちつきました。

家を計画しているときに、よく聞かれたのが、「何DLK」とか「何坪」といったような数に基づく価値判断でしたが、これはまったく住まいに関しては意味のない概念です。在来の建築会社などではモデルプランを聞く際に最初から上のようなことを聞いてくる営業の方がいます。結局のところこれらの数字上の意味は、空間をどのくらい区分けるかしか意味しません。大切なのは部屋数ではないです。ライフスタイル自体を考慮して、しかもある様式に基づくほうが失敗がありません。

便利さ、利便性などを基準にしても、設備はつねに新しくなるものですし、いずれは壊れます。ですから機能性だけを追い求めたり、流行の設備をいれてもすぐに「古く」なるのです。
新品のときだけ「よく」みえるものは、寿命が短い。
時間が経過したときのことを考慮して、表面的なことに重点をおかないことです。

輸入住宅と輸入風住宅の違いも大切です。
仕上げだけを輸入品にしているのは意味がありません。
在来と最も違うところは空間の概念だと思います。廊下やドアの基準が在来だと狭くなります。廊下ばかりだったり小さい空間の連続もあとから後悔します。

カント哲学などで、自然法という考えがありますが、この場合の様式と自然法は類似性を持っています。つまり、人為的なものはそれ以前にある秩序に従うほうがよい、ということです。一見それは不自由を連想させるかもしれません、しかし、一過性の利便性ほどすぐに価値がなくなるものはないように思います。具体的にいえば、「この部屋はお父さんの隠居したあとの部屋で書斎に使う、とか、この部屋はお母さんの趣味の部屋」とかそういう利便性です。特定の人の特定の行動を想定した家は、住みにくい、ということです。極端な例では、設計している段階と、家が完成した段階ではもうニーズが食い違っていることもあるのです。よかれと思ったことは、あくまでも臆見であって、そのときだけのことが多い。
自由設計をうたうメーカーが多いですが、こうした逆に変化に対応できないものは慎重に検討するほうがよいですし、モデルにそって多少変更するくらいのほうが費用の安く済みます。
結果的にジョージアン様式になりましたが、最初から古典様式を意図していたわけではなく、色々考慮していった結果ですが、今特に古典様式の建築物に惹かれることから顧みると、選択していったことの理由は最初からあったのだと思います。

最終的に階段という二階と一階の空間を繋ぐものをどこに置くかで迷ったのですが、空間の分離と調和、長く飽きずにいられ、他者にとっても落ち着く構造はどうかと考えていった結果部屋と階段は分離するということに落ち着きました。

様式は流行には左右されません。自宅に対しても客観視することが重要だと個人的な経験から思います。

本当の「自由」というのが個人の傾向性、好みによるものではない、ということを考えることが多いので、家と建築物についても記事にしてみました。
要望にこたえるということが最善ではない、ということは色々な面で重要だと想います。設計の段階で数値上の打ち合わせの前に、空間的なことをアドバイス頂きましたがそれはとても役立ちました。サービスというのは判断が充分できない人の要望をとりあえず満たすことではないのです。

日本のメーカー、会社が充分でないのは、そうした曖昧さ、いい加減さが、所詮「客」という他人事の意識に基づいていることが多いのだと思うことが多いのです。おそらくそれは施主のほうも、アドバイスを色々に受け入れる聞く耳がなければ提案しようがありません、自分の求めているもののイメージがあれば、専門家から的確なアドバイスが得られます。逆にそれがなければ、「何でもよい」「どうでもよい」のなら「どうでもよい」ものしかできないのです。

付け足しておくと、日本では家は資産として扱われますが、例えば重要な建築が多く今も古い住居がそのまま使われているイタリアでは、家は資産として計算されず、税の対象にもなりませんでした。ですから、建築にあれだけ費やすことができたのです。ストロッツィ宮、メディチ=リッカルディ宮など今も遺されている個人(有力者ですがこれらの家は封建領主ではなく、中産階級上層部です)の邸宅は本当に素晴らしいものです。
日本の住宅政策は戦後ずっとひどいものがありますし、日本の住居の酷さは英語コラムなどでも頻繁に登場するほどです。こうした構造のもとは何なのか。家を「立て替える」ということが産業の中心になっていること、つまり耐久性の低い家をたてること、家は20-30年で立て替えるのだという先入観を保ち続けることでしょう。そしてこれらでもっとも利益をえるのは、住宅ローンを扱う銀行と住宅メーカーではないでしょうか?
つまり、銀行と住宅の双方に会社をもっている大手資本がこのような構造を維持してきた一つの理由ではないでしょうか。

住むということは「食」よりも「衣」よりも重要なことで、そこの負担が重過ぎたり、課税の対象になっていることは、はたして「当たり前」のことなのでしょうか。

私が思うのは、選択する幅があるときに適当な選択をすることが「自由」の行使なのではないでしょうか。単なる「数値」の比較ではなく、「質」と照らし合わせる選択が重要なのではないでしょうか。