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第9回プラトン・シンポジウム市民公開講座
アジア圏で初めて行われたプラトン・シンポジウムの後、公開講座が開かれました。
基調報告は首都大学東京・加藤信朗名誉教授、国際プラトン学会会長
報告1:納富信富・慶応義塾大学教授『ポリティア』の現代的意義

報告2:リヴィオ・ロセッティ・イタリア・ペルージア大学教授
「プラトンの『国家』論文ではない」

報告3:岩田靖夫・東北大学名誉教授「アリストテレスの政治思想の現代的意義ープラトンの『国家』の思想との対比において」

報告4:リュック・ブリッソン・フランス国立中央学術研究センター研究主任「プラトン『ポリティア』における女性」

報告5:佐々木毅・学習院大学教授(元東京大学総長)「20世紀政治の中のプラトンと『ポリティア』」

司会は三島輝夫・青山学院教授。総括の発言も行なわれた。

基調報告は加藤信朗氏。
8月2日から5日間行われたシンポジウムをもとに、「ポリティア(国家篇)」についてお話があった。プラトンの「ポリティア」は「ノモイ(法律)」と共にプラトンの圧倒的著書である。アリストテレス「政治学」の序論でもある。
現在の国際政治にどのような意義があるか。
日本にはどのような意味があるのか、我々と共有することは何か。
近現代ではプラトンの「ポリティア」はカール・ポパーからの批判に長い間さらされてきた。
日本では「国家篇」と訳されているのだが、ヨーロッパではレプブリカ(共和国)と訳されている。ラテン語訳が”De re Pubulica”に由来しているのに対して、日本の「国家篇」というタイトルはドイツ語版からもたらされたものをもとにしていることが指摘される。レジュメによればこのresについて「人間に関わること」を意味する。

レジュメで加藤教授がポリティアの価値についてこう記している。
「『ポリティア』(Politeia)は「人間の(人間としての)共同体」(he anthropine koinonia : human communiti)の「あり方」が「何であるか」、またさらに「何であるべきか」を論じた書物である。そして「人間の(人間としての)共同体」を結ぶ絆は特定の個人、または特定のグループの「利益」ではありえず、それは人間の(人間としての)正しさ(dikaion)であり、この人間の人間としての「正しさ」が「何であるか」を全10巻を通じてさまざまな角度から追求した「哲学探究の書物」であるところに本書の不朽の価値がある。」(加藤信朗 P.3)


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納富先生はプラトン哲学もまたあたらしい段階にあることを指摘された。
ギリシア語テキストが校訂されシーム・スリングスの新校訂版が2003年に出版された。2007年にはあたらしい訳注がマリオ・ヴェジェッティによってイタリア語で出された。(La Repbulica, traduzione e commento,)

まずポリティアには、「よきポリス」について、「人間が共に生きること、政治とは何か、正面から挑戦している」書物であり、次に倫理学の問題、「一人一人が正しく生きること」「節制、勇気、知を持って生きること」が論じられている。そして一人一人の魂に、視座を与え、理性が魂の三つの側面、気概、知、欲に関わることが示されている。
そして、魂の在り方をつくるのは教育であるゆえに、教育学の成立もポリティアには含まれている。
初等教育では、心と身体。(正しい物語を聞く、身体を正しく鍛える)その後の高等教育では数学と哲学が理性を働かせて生きることを支える。ぷラトンのアカデメディアではこのような教育プランを実践していた。
また文芸の復興も重要である。言葉と使うこと、どう語ればよいか、正しい言葉を用いることである。
知ること(思い込み)が知識に到達できるのかという学問論(知識論)の成立、また存在論、形而上学の成立、これらすべてを包括して提示する「対話篇」であることをあらためて納富先生がお話された。
哲学が成立することは対話が成立することである。この対話と自己と他者の問題については、「ギリシア・ローマ世界における他者」でも納富先生が「ロゴスと他者ー哲学成立の緊張」というタイトルで書かれています。

「ソクラテスが実践する「対話(ディアロゴス)は、基本的に二人がロゴスをやりとりする営みです。一問一答という形式は、主題についてそれが「何か?」を一歩一歩探求していくのに適しています。ゴルギアスのなす演説が、語り手の思いによって恣意的に進められ「思い」を強めていくのとは対照的に、ソクラテスの対話は「思い」を吟味しつつ事柄そのものに迫ります。
対話とは、独立した1人と1人が交わす言論であり、語り手が相手にするのは顔をもった特定の個人です。そこで問われ吟味されるのは、その人が何を考え、どのように生きているかなのです。」(『ギリシア・ローマ世界における他者』 p.190)

知識論については、「私たちは本当に知っているのか」というタイトルで、岩波の哲学講座で書かれています。

プラトンのポリティアは「対話篇である」「開かれている」、このことは報告2の「プラトンの『国家』は論文ではない(Plato's Republic is not a treatise)」(リヴィオ・ロセッティ教授 イタリア・ペルージャ大)でもテーマになりました。

おそらく、受容史の問題として、受容したときに「理解する限りにおいて理解する、そして実践される」という問題があるのだと私自身は感じます。歩パーは対話篇をおそらく論文であるかのように、またはマニュアルのように受取ったのではないでしょうか。ポパーが批判した人々もまた処方箋のように受容し、それは彼らにとって「良いこと」だと思われた。私たちはしたほうがよい、と単に思う(思い込んで)行動することが多々ある。しかしそれが正しいかどうか、良心からの行動=善でないことのほうが多いくらいである。

誤解はおそらく一と全が一致するような錯覚を多くの人が抱くからなのではないだろうか。自由主義批判に対する全体性はこのように常に反動的なところがある。全体性は倫理的に正しくはない。それは共存不可能な論理に到るからであり、極論を容易に導くことに繋がるからではないだろうか。数量的、機械的根拠であり、個の顔貌は無視され、美や調和、質的なものは無視される。合理性とは効率的という意味ではない....
多様性、個人が保たれて、一のほうへ向かう必要がある。そして人間のすることは完全ではない。より善い方向へ進むしかないのである。


また「プラトン『ポリティア』における女性」についてフランス Luc Brisson教授からの報告があった。
シンポシオン(饗宴)では、三性について語られ、ポリティアでは、女性も同等に教育され市民政治に加わるほうがよいとプラトンは対話篇の中でソクラテスのことばとして明確に語っている。こうした言説は伝統的ギリシアとヨーロッパ市民社会からすれば、受容しがたいものだと思う。この意味では現代社会でも実践だけではなく議論としても充分にはされていない。プラトンのテキストの上に、男性ヘゲモニー構造について議論されるべきだと感じた。

14:00から18:00公開講座は開催され、西校舎ホールは多数の来場者があった。全員から質問票を受付、報告者の先生方がそれぞれに回答をされた。国際プラトン学会の発表者と題目も付されたレジュメも充実しており、報告者の先生方のテキストも付されている。大変貴重な機会だった。

現在「饗宴」を(コメンタリーとともに)読んでいるが「ポリティア」を再読し、「ノモイ」も読みたいと思った。 


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