P1080400

イングリッシュ・ローズのワイルド・イブ。
西向きの壁に植えているので、酷暑でも返り咲いています。
暑い中ですが、きれいに咲いています。観ている自分も活力をもらえるような気持ちになります。


バラの葉は、私はお米の研ぎ汁をわりとあげているので、それほど病気にはなっていません。農薬を使っていないわりには元気ではないでしょうか? 黒点病などに糠成分が効くようです。

「よみがえる古代思想」を読んでいます。
近代と異なるのはどこか、現代からみていくと判らない部分がとてもわかりやすい。

「正しい人間の魂の中では、これら三つの部分が構造的にきちんと秩序づけられているわけです。したがって、正しい人間においては知恵が支配して、勇気は知恵に従い、欲望ももちろん知恵に従うことになるわけです。しかし、ときどき政治体制の中では、勇気が知恵を追い払ってひっくりかえることがあります。そうすると、どういう国ができるかというと、スパルタのように、やたら戦争をする国になります。それならまだしも、三層目と一層目がひっくり返ると、お金だけがすべてという体制に変わっていくわけです。」 (『よみがえる古代思想』p.90-91)

戦争をすること、それ自体もプラトンの中では退けられるのが本来的である。なぜなら「調和」状態が望ましいのであって、自国が勝利することも「やむをえないことの一つ」で「最善」とはいえない。

プラトンが善さとして捉えたのは「適度」さである。
これをアリストテレスは、極端と極端の「中」(メノン)と捉えているけれども、プラトンのほうは極端と極端の間をとることだけを適度さとしていないように私などは思う。


古代では、橋や道をつくるのは政治ではない、とペリクレス時代のアテネをプラトンなどは批判している。

思案するのは、「実現可能レベルを達成しようとする」ことと、「理想的、より良い状態を目指す」ことの決定的な違いである。
一般に前者のほうが望ましいとされるが、実際によりよき状態の実現を望むならば、後者を目指すことで実現がなされるのではないだろうか。
どちらも有限を認識することから始まるが、その有限の先をみようとするのか、あくまで内側しかないと捉えるのか、この違いは似ているが結果的に大きな違いを生む認識の差異なのかもしれない。

カントの「普遍立法」では、立法者の個人的な思惑や意図が法に介入しないことを理念とする。個人的なというのは、政治家の身内とか支持団体なども入るだろう。日本の場合は普遍どころではなく、思惑や意図、利害のバランスは考慮するだろうけれども、基本的に特定の要望を満たすため、不平不満を調停するような形で法が作られることも多い。
(実際に、議席を有するような人に何か意見を話す場合、なぜか自動的に彼らは個人的な「不平不満」を言っているのだ、または要望を言っているのだと取り違える人がとても多いのです。つまり、立法の立場にいる人たちが議論するときには常にそうした集団の利害を代弁しあっていて、そのすり合わせを行っており、原理原則で正しいかどうか、どうするべきかを念頭においてはいないことが多いのです・・・すべての人がそうではないでしょうが・・・そういう人が多いのです・・・)

カントなども含め・・・プラトン、アリストテレス、ストア派、エピクロス派、新プラトン主義とこのあたりまでの思想は、後の世界でも何度も注解されるような形で登場する、と古代ー近代ー現代を見渡したときにそう思う。
名称はその都度変わるのだが、そしてある思想とある思想の中庸をとったり一部否定をしたりするのだが、原典は古典期にあるように思う。

それにしても、プラトン的愛(プラトニック・ラブ)やエピクロス派の解釈(エピキュリアンという語)もラテン語世界を通じ、英語的説明になると簡略されて通俗的になる。なぜだろうか。物質的なものを介入することで理解しようとするからだろうか。

思うに・・・光の量は数量的には測ることはできない。いい日ですねという挨拶をする地域、イタリアから南では太陽は特別な意味を持っている。

「太陽は、見られる事物に対して、ただその見られるというはたらきを与えるだけではなく、さらに、それらを生成させ、成長させ、養い育むものでもあると、君は言うだろう。」

「上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そして、その後で、天空のうちにあるものや天空そのものへと目を移すことになるが、これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間その光を見るよりも楽だろう」

(プラトン 『国家』 )

「多くの人間は、自分の中にある神聖な要素を開発しないままに死んでいっている。一つは、経済的な欲望によって、もう一つは権力欲によって。物欲、色欲、名誉欲というのはキリスト教の中でも三つの悪い欲望とされてきましたが、こうした感覚的欲望は本来開花すべき潜在的な要素を埋没させ、隠蔽している殻のようなものである。(略)もちろん、「原罪」などという概念は、プラトンにはない。(略)結局、人間の努力や意識改革などによって、そこはカバーできるような仕掛けが必要になります。」
(『よみがえる古代思想』P.72)

こでも三層目と一層目が逆転したときの不幸な状況が今日ではよくある・・・つまり、そうした努力や意識改革、実践などを人がしようとしたときに、「お金にならない」「経済効果が」などの類の素朴すぎる意図が「有力」で、そのような人々の意識の在り方さえも否定されたり中止させられたりすることがままあるのです。しかも、家の中(まだまだ家父長制が強い傾向がある)や、会社組織、学校組織など・・・あらゆるところにそういったことは根づよく残ってるように思われる。

そして更に困難なことは、人の世界の中で、自然に抵抗なく「美」や「正しさ」「適度さ」をもとめるような人々が多数を占めている場合はともかく、こうしたことは「趣味・好みの問題」だとまともにとりあわないような人たちが多数を占めているが場合、人に過度のストレスや実際上の不都合も多く生じるように思う。
目的論的すぎることはほとんどの場合、その目的にも達成できないようなことが多い。