余談だが、いつも美術展の焦点が日本では特に、「美女/貴婦人(または高級娼婦)」といったものにあてられている気がする。つまり、基本的には「美女」を絵画においても日常においても眺めたいという素朴な願望が趣味として「絵画を観る」ことを「好み」とする層が一様に求めるからだろうか。そのターゲットを外すと、美術展自体が成り立たないのだろうか?とすら思うほどである。
そこまで鑑賞者を限定したりする方法/迎合するような時代でもないと思うのだが、どこかそういった姿勢を感じることが多い。

しかしいうまでもなく、絵画の主題や要素は、それにとどまるものではない。
何がいいたいかというと、こうした基準を顧みない限り、傑出した芸術が来日したり紹介されたりはしないだろう、ということなのだ。

また付け足しておくと、高級娼婦というと何かいかがわしいものを感じる人があるかもしれないが、西欧では特にー古代ギリシア以来ー知識や教養といったものはすべて遊女が身に付けたものである。「よい生まれの子女」ほど、「無学で何もしないこと」が推奨されたのである。前者はそれによって幸福になれたとも考えられない。ルネサンス期の女性の中には才能を教養を持ち合わせた女性も何人かいたが(ストロッツィ家出身でコジモでメディチにその才能を認められ、息子ピエロ(イル・ゴットーゾ)の妻になりーサンタ・マリア・ノヴェッラにはドメニコ・ギルランダイオのフレスコでその姿が描かれているーロレンツォ・イル・マニフィコの母やエステ家のイザベラなど)それは稀であった。知識や博学な女性を年齢や性別を理由に貶めたりするのは、決まって嫉妬深い男たちに拠る。ルチアーノ・デ・クレシェンツォはこうした男性たちや、我が物顔で愛を独占物のように扱う妻や母親に対して、愛と力を欲する「法王の領域」というカテゴリーを宛がってる。少しばかり考えてみれば当然である。この領域は「愛」が「憎」に少しばかり変化するだけで「暴君」に化す領域だから、他者依存的な老若男女は、そういった危険を無意識に周囲に振りまいていることにもっと注意深くなるべきだろう...と思う次第なのだが....。ルチアーノはこの領域には古いタイプの企業家も含めている。表では愛や温厚さを振る舞いながら、自分の利害を第一に、いやそれ以外のことはどうでもよいと考えるタイプの人間が要するにここの領域に相当する。(いうまでも「法王」とは比喩の問題である。すべての法王がこの領域にいるということではない。賢者の領域にいる人物もいたし、暴君の領域におかれる者(サヴォナローラを破門し、サヴォナローラもまた破門した(!)アレクサンデル6世やボニファチウス8世が例として挙げられている)私は単なる範疇・カテゴリー分けをあまり好まないが、このカテゴリーが興味深いのは、座標軸で顕わされ、常に移動変化するものとして表されているからである。

歴史画が長い間、絵画彫刻で主題だったので美女(なんという主観に左右される概念だろう!・・・)というキーワードで展示を構成すると、ほとんどは単に眺めるだけか、装飾的な絵画になってしまう。なぜかといえば、歴史画と肖像画の間にあるものになってしまうからだ。しかもこのジャンルから宗教画を取り除くと主要作品ほど来日しないという状況になる。そうなると中間層のための消費的な絵画中心となり、・・・・ということに繋がる。単に眺めるだけに堪えられるべき絵画がどれほどあるか、というと実はそれほどにはないように思われる。カテゴリーの問題ではないとしても、新しくしかも独我的でない芸術というのは、カテゴリーとカテゴリーの中間にあって、多様な要素をあわせもっているものである。
そして、消費主義的な展覧会の要素は、つまり、花押(だれそれの作品)だから、という理由で価値付けを行わないことだ。それは本来的な価値とは別である。

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解読や理解を伴わない絵画鑑賞は、ではどうなるかというと、1)感覚を悦ばすもの・自己満足的な好みのレベルで観ること 2)外的権威づけ(だれそれの作品とか、誰のコレクションであるとか) 3)金銭的換算によるもの (ゴッホのひまわりが何億円であるとか)のいづれかを引き起こすのである。

ジオット、チマブーエ、マゾリーノ、マザッチオらは自分の絵画にサインをしたことはない。ゴッホは生前に絵が売れたことはない。(「哀しみは永遠に消え去らない」この詩を曲にしたのはマニック・ストリート・プリーチャーズである)
何家のコレクションであるというタイトルは日本美術の間でも、西洋美術の間でもここのところより顕著である。「皇室の至宝」とか「冷泉家の・・・」とかのタイトル、ハプスブルク家の・・なども基本的にはそういう呼び込みをしている。この趣味の人々は基本的に所有と単なる豪華さ(つまり装飾的美)を好み、鑑賞によって観照にいたること、自省的になることを望まない。自己認識が変化することも望まないし、フォルムにあるべき姿を望まない傾向がある。企画自体が問題というよりも、広告の仕方が問題があるのかもしれないが、・・・また画家の生涯を読み取って同情したり感傷にひたることもあまり意味がない。
形式を理解することは、個有のものをよりよく理解することに繋がる。
私は西洋美術史と日本美術史ともに学んだが、何が表層されているのか、それを理解すると愉しみは拡がるし、価値をみすみす見逃したり低く見積もったりすることは避けられると思う。また商業や広告によって誇大に表現された価値づけに対しての自分で判断できるようになると考えている。何より流れを知ることは、モノを見るだけでなく、そこに生きた人個人とそこに生きた大多数の人々の価値観を知ることができる。そして現代に価値が置かれているものの多くは、当時の大多数の人が理解できないか、価値がないと見なしたもの、批判にさらされたものであることがわかるだろう。あまつさえ、芸術的に生きる場合は多くの場合、死か孤立を余儀なくされることが多いのだ。

幇助のシステムも、工房やギルドといった結びつきも都市から失われた現代では、才能も多く沈み込む時代になっているという想いもあるのだが私だけだろうか。