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フットタウン(と東京タワーに付属する建物は呼ばれているんですね..)で開催されているNEVERLAND展に立ち寄ったときに撮影。

THE POWER OF THE MUSIC
IS THE POWER OF THE SOUL.

まさにそうだと思った言葉。これ以外にもマイケルの詩が最後のセクションにあるのですが、上昇と太陽(一)、より原初の太陽と一とウマニズムがエンターティメントとして顕わされるというのは、ほんとうに稀有なことだと思った。SEEKER、探求者という言葉も印象的。
マス(大衆)の快さとして消費される音楽ではなく、覚醒の契機としての音楽、POP(ポップスではない)・・・息の長い音楽はこういった特色をもつと思う。ふと思うのは、消費は生成に転換できるのだろうか・・・?

音楽を「感覚を悦ばすためだけのもの」としてカントは不必要としたが、そういうものでもないだろう。私は割りとエマニュエル・カントは好きですが、ドイツ音楽・ロマン主義などの風潮のもとではそう思っても仕方がないかもしれません。
私が思うに、感覚に依拠すれば音楽も絵画のように堕落する。消費に依存すれば全ては広告化し時とともに崩壊する。時によって価値が劣化しないもの、そして特別な説明なくして、人をひきつけるもの。人がそれについて語りたくなるもの、感情を超えて引き寄せられるもの、それが「生成」の力、人に分有された「創造」「想起」の力ともいえる。

スクリームのセット(いす、キーボード)があり、あの影像を観ると何かすべてCGで作っているような錯覚を覚えるのだが、実際にこうしてセットが「造られた」のだと不思議な感慨があった。展示会場自体は、やや雑駁で演出も含めてそれほど展示に工夫がみられるわけではない。料金設定もやや高め。どこか、「モノ」を見せるだけという要素も強いのだが、それは仕方がないかもしれない。


ダイアナ妃とマイケルの写真が印象に残っている。二人ともマスメディアの餌食となり急死しており死因や背後の事情もわからない。
なぜかダイアナ妃が急死した時は、よく覚えており、丁度私は新宿の紀伊国屋書店にいく途中だった。だからニュースを街頭で見たのを記憶している。

アンソニー・ギデンズが「暴走する世界」で言うように、1日に巨学の資金が動いている。あたかも自らに不可能がないかのように投資によって生活している支配層にとってはおそらく、世界の暴走も自然現象のように、必然のように、事故や急病として起こせるのではないだろうか。
・・・・

バランス、調和をとるためにエゴを乗り越える人は犠牲となるし、事がすめば、「洞窟」にいる人々は死を単なるできごととして、せいぜい個人的感慨の内にしか想いを寄せない。自らもあるべき方向へ向き直るべきなのに。

彼らが真実を語り始めたら困惑する、または権益を失う人々、どこかそれは帝国主義の時代から、「顔」のみえない支配者たち、という想いもしてくる。

ところで近代ジャーナリズムの先駆者といわれるのはピエトロ・アレッティーノである。ミケランジェロ・ブォナローティの敵であり、「獲物を狙う冷徹な眼」は徹底したリアリズムと恐喝と追従をあわせ毒舌に溢れた文であらわされた。
権力者への追従と物欲の塊ゆえに、権力欲や物欲が薄いものの気持ちはこういう人々にはわからないのだろう。
彼らの基準からは外れたものは、「偽善」「異常」のレッテルを貼られる。彼ら自身、マスメディア自体が「道化」なので、「真実」を語るものは、「道化」や「偽善」のレッテルをすぐに貼りつけるのである。そして我々は、ほとんどのことを、メディアを通してしか知ることはできない。我々はメディアではなく、真摯な学問研究の結果としての書物・テキストを通じて、与えられた「真実」を吟味しなくてはならない。
このメッセイジの背後にある本当の情報は何か。
何をイメージとして「ばら撒きたい」のか。
多くの人を何に「従属」させたいのか?(しかも自ら望むようなやり方で)
良心や良識ですら利用されるのであり、大衆を目覚めさせようとするアーティストが「死」を迎えると、神聖化されるが故に、最近は事故死や犯罪者に仕立て上げられるというような疑念もよく現れてるように思われる・・・

理想主義は、より善い将来を望むのだが、それが理解できない人は、理解できないものへの羨望からか、彼ら自身の「知」の絶対化によって、理解できないものを誹謗し始めるか、価値のないものとしたがるように思われる。理想は、現実認識の次段階なのであって、空想的産物ではない。
自称「リアリスト」はそれゆえに最初から現実よりもよい結果をもたらすことはない。

話がそれてしまったが、娘が見たがっていたので観にいけてよかったと想います。もうすこし展示自体が充実しているとよかったです。
私も娘も5月からほとんど休みはありません。もっとも「休み」とは何かといえば、単に「休むこと」にあまり意味を私は感じないのですが・・・

断続的に体調が崩していたので(それでも期限がある作業や仕事はこなしているので余計でしょうか・・・)、ナポリ国立美術館展(西美)もまだ行けていません・・・

帰りは神谷町まで歩いてから帰りましたが凄い雨でした。
図書館へいく際によく東京タワーは見るのですが、足元から見上げると遠くから見るのとはまったく異なる実感がある。
「橋は下から眺めるのがよい」という「死霊」の一節を思い出してしまうのですけれども。


マイケルが作品・CDだけを見てほしい、聞いてほしいといっていたメッセイジは痛切である。後に彼がシンガーではなくダンサーにより傾倒していったのも理解できる。以前も書いたが、ダンス・舞踏の身体表現は、翻訳がいらない言語なのだ。しかも日常生活を節制する必要がある。メディアが彼を放埓扱いするのは、その節制やコントロールを理解できないせいなのだ。メッセンジャーとしての「天使」や「隼」「鷲」といったモチーフが好まれるのもそういった背景がある。一としての太陽と地上の中間にあるのが、知者としての天使だと考えられるものがある。(だからピコなどは天使も階層化してとらえている。)

「すべてを一瞥のもとに理解する存在」
この視点は、映画「アレクサンダー」(オリバー・ストーン)にも多く出てくる。だから古代から中世の人はそういうイメージでヌースというものの原型を見たのかもしれない。

中沢新一が「天使空間」としているのは、地上と一者・原理の中間であって、地上(生きて死ぬという時間と空間と物質に限定されたもの・人にとっての必然)からより光とより善きものへの憧憬と自省、さらにはイマージュの空間である。・・・・

地上を越えたものを地上にいる人間が完全に認識することは不可能である。だが不可能なものの余地を取り除くことはできない。気がつきながらそのことは保留するという態度もおそらくは肯定できない。・・・(ウィトゲンシュタインのように)


純粋さと完璧さは同様である。
だがそれゆえにそのままでは地上において生きることは困難である。どういう小ささであれ、我々は完全な自立はできない。私性を完全に切り離すことはできず、どんなに最小限でも物質を得なければ生きられないからである。しかしそれゆえに、様々な悪を選択することもできない、というかそれをする自らを赦せない。永遠に生きるように一瞬一瞬に死ぬように在ること。
そのように在りたいと望むことはよいが、そのように在ることを選択する人をただ眺めて満足することは、裏切りである。
(多くのミュージシャンたちが味わうのはこの点なのだろう。彼らは詩人でもあるから、舞台の上に生きるとき、どこか生死をともに感じるのだろう、観客が異質にもかかわらず、喝采を浴びて望まれるからである。多くの人が熱狂すればするほど孤独は深まる。成功すればするほどギャップが深くなる。何かを切り売りしているような気分になり、自分自身が影のように感じられ、影しか人の目に映らなくなるのだろう・・・)

こうした意味をわからないかわかりたくないという人は、容易に、真摯さを道化とみなす。対極にあるものでさえ、区別ができないのだろうか。


七賢人のビアスは、「自分が何も書かないほうが、みんなのためによいのだよ。」といいながら、何か痕跡をのこせという声に応えて、躊躇しながらこうギリシアのデルフォイにこう刻んだとされている。

「たいていの人間は劣悪である」

・・・「サッカー試合の最中に競技場にはいりこんだことのある人なら、群衆の素顔を知っているはずだ。古代ローマの剣闘士は敗れた場合、皇帝に助命を乞うことはあっても、大衆にそういうことをしたためしは全くなかった。大衆は親指を下に向ける(死刑宣告をする)に決まっていたからだ。ローマ市民が一家そろってコロセウムに出かけたのは、できるだけ多くの人間が殺されるのを観たかったからなのであるし、こういう考え方は今日まであまり変わっていない。
人間がこの世でもっとも残酷な動物であることは、誰も疑うまい。唯一の希望の曙光をあたえてくれるのはベルクソンであって、彼の言によれば、人類は遅々としてではあるが、断然だんだんとよくなっていくという。」
(「物語ギリシア哲学史 ソクラテス以前の哲学者たち」 Luciano De Crescenzo)

私自身といえば「大抵」とか「多数」とか「みんな」というものから遠ざかっていることを望むし、同時にあまり「みんな」という言葉で1人1人の個人を一概にとらえること、レッテルづけることもしたくはない。

少しずつよくなっていく、これは事実である。
だがその進展すら瓦解させたり退行させたり逆行することもおきる。
これは容易におきるものであって、考えることよりも信じること、行動することよりもその場にとどまること、他者の領分や生産性を安楽に奪うこと、そういったことを自問せずに望む多くの人によって容易くおきる。そしてこの逆行は、逆行であるがゆえに、多くの人を巻き込んで、誰にも、真の利益をもたらさない。

・・・今日ではあまりにも容易く、退化が加速度的なので絶望的にならないことのほうが難しい。

人間は、自分が味わった経験を同じように他者へしてやろうとおもうか、または、自分が嫌だったことは他者には味合わせたくない、改善したいという意志を持つのかのいずれかであるが、大抵の場合は、自問することなく前者の行動をとっている。