現在唯一?購入して読んでいる漫画−−ともいえるヒストリエ(6).

登場人物が大抵、主要人物はもちろんだが、ヘカタイオスなど史上にある人物名だったり、現在の私たちからすれば、かなり異質のはずの古代世界を「現代風に」描写して「歴史性」からは距離をおいて描いている珍しい作品でもある。かといって、この時代のエッセンスは濃いものがあり、大抵は進行上、展開が見通せてしまうのに、話と話の連続性が意外なつながりをもっていたり。もっとも、この作品は、他の作品では焦点とならない部分を焦点にする、というのがテーマだと思うのですが。


この漫画を読んで「ギリシア 古典期のギリシア」を一から十まで、先入観としてマイナスチャージをもたれても困るのだが、ギリシアの他者性や文化も咀嚼されて描かれている作品である。
人に薦めたい気持ちと、やはりギリシア古典の原典に最初に触れてから楽しんでもらいたいという気持ちと、両天秤な心持になる、のだが、6巻のエウメネスとアレクサンドロスのやりとりは興味深い。

「設計」「製作」「運用」のどれがもっとも楽しいか、というテーマに対する職人たちのこたえは「製作」

「初め死に体の素材が目的をもってあるものとなっていく」
生成についてのテーマがごく自然に語られる。

「物質」の中にある「潜勢力」を形相で整える。
目的を果たすための道具をつくる手仕事と知の関係。



こういうテーマについて文章で説明するのも労力を要するのだが、見事に数ページで表されている。主人公エウメネスが読書好きで脚だけは速いというのは自分に似ている気がします。

hisutorie


ところで、この作品ではヘファイスティオンとアレクサンドロスはいわゆる「二重人格」として設定されているのだろうか。それを「書き物上」書記官たちは異なる人物として、しかも一心同体的なものとして書いた、という扱いになるのだろうか? 私としては、プラトン的愛、神的な一をともに抱くものがもつ驚異的な共同性というのは、実際にあることだと思っているので・・・そうなると、アレクサンドロスにとってのまことに信用できる他者が愛馬ブーケファラスだけとなってしまうのでそれはあまりに哀しい、とも思うのですが、気になります。プラトン的なものを・・・わかりやすく書く、エンターテイメントと歴史的なものとして扱う、というのは、なかなか、大変なのかもしれませんが・・・。
(初めに薦めてもらったのはKさんからです>ヒストリエ.)



ところでもう一冊、ある程度の流れを抑えたうえで、読むことを強く勧めたい物語として、ルチャーノ・デ・クレシェンツォの物語ギリシア哲学史がある。IBMのマネージャーを退職、文学、映画などの分野に入り、50万部をうった「物語哲学史」だが、たいていは「ソクラテス以前の」とか「七賢者」などでおおまかに説明されて終わってしまうこの時代の人々を・・・
真偽のほどは別として(それはそうだ、現実とは、真理ではない・・・・)
「面白いとおもったものは書いておく」というスタンス+特別な用語なしでその思想のエッセンスと生まれ育ち、死まで「物語って」くれる本。

その冒頭にはヘカタイオスの言葉が載せられている。

「私は自分に本当と思えることだけを書く。ギリシア人の話は数多いが、笑止千万なものも見かけるからだ。」

ミレトスのヘカタイオス

STORIA DELLA FILOSOFIA GRECA
I Presocratica

物語ギリシャ哲学史―ソクラテス以前の哲学者たち物語ギリシャ哲学史―ソクラテス以前の哲学者たち
著者:ルチャーノ・デ・クレシェンツォ
販売元:而立書房
発売日:1986-10
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あたかも日本語で書かれたように次から次へと読める本。翻訳者のどうしてもこの面白みを共有したい、という思いが伝わってくるような文体。
これですべて、と思い込むのは危険なのだが(それもこれもこの本が面白いがために)どこか彼らが活き活きと感じられ、なぜこういった考えが生まれたのか、そういったことを「問題外」とするのはもったいない。
七賢人からピタゴラス、ゼノン、デモクリトス、ソフィステス、プロタゴラスまで。ちなみに、ルチァーノ氏がなんどか本文中で触れているB.ラッセルの哲学史は、私はあまり馴染めなかった・・・・記憶がある。
今読めばまた違う感慨を抱くだろうか。タレス、パルメニデス、ゼノン、ピタゴラスの項は・・・本屋や図書館で立ち読みしていて平然さを保つ(つまり笑いをこらえたり、感心したり、どんなものを得たときよりも充実した気持ちになるのが一つの章ごとに詰まっている本なのだ)のに苦労する文章。コラムも面白い。このシリーズは、近代まで出ているが(最後はカントまで)ギリシア哲学史1・2が面白い。


物語ギリシャ哲学史〈2〉ソクラテスからプロティノスまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
販売元:而立書房
発売日:2002-10
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古代ものとしてにわかに人気があるテルマエ・ロマエだが・・・・
どこか、古代ローマ文化<現代日本という構図が根底にあって、この作品を面白いと思う気持ちの背後には、アイデンティティとして自己喪失=現代を肯定したいという欲求が先だっているような気もする。
問題なのは、ローマがもっていた市民的公共性についてあまり言及がないことなのだ。それはどちらかといえば、現代日本ではなく私には江戸期と重なるように思われる。現代日本には、すでに消費としての「癒し」だけがあるのであって、「公共」としての文化は途絶えている、もっとも古代ローマ共和制からマルクス・アウレリウスあたりまでの文化や歴史にもっと多くの人が興味をもつきっかけになればよいのだが、なんともよく描けた作品というのは、それだけを読んで満足するか、何か知ったような気分になってしまい、それ以上のものにあたることをやめてしまうことが問題なのだ。そういうことよりも、ルキウスがあの「ローマ」のルキウスを意図的に?模倣している、のが何か連鎖的。

おそらくよく描けた漫画は戦後以降の日本のサブカルチャー、カウンターカルチャーの最たるものだと思う。
(漫画が「文化」として語られることがあるが、「文化」とは「権力」と結びついた形のものを指す。おそらくリアルタイムで「名作」といわれる漫画が出版されていたころは「文化」とは呼ばれていないはずである。日本的文化が決定的に喪失しはじめたころに、「文化」と「固有さ・価値」の切り札のように語られ始めた感がある。・・・)
だから、何が、パラフレーズされたのか、が重要と思われる。
逆にいえば、パラフレーズが自然になされている作品は、「文学」としての役割を追っている。

言い換えれば文字の特徴と特質は、イメージを付与しないで表現・言表できるということである。

ところで、最初のテーマに戻れば、古代において「ヨーロッパ」と「アジア」という概念が最初からあったのだろうか。東という言葉が誇張されるのは、おそらくは東ローマ帝国と分離したあたりからである。東ローマ帝国はといえば、自分たちが「ローマ帝国」であるとずっととらえていた。
「東」という言葉を付与することで、「差異化」「区別化」=「自らの優位性」を表すことは、たとえば、「東ヨーロッパ」と呼ぶことなどにも関る。
アイデンティティの確立のために、他を自と区別することと全体性が関るとき、もっとも「優位なはず」のその自意識はひどく「差別的な」言動を起こす。私たちはどういう感情を自分や自分たちに抱くとき、「安心」「快適」さを得るのだろうか? それこそが「思い込み」と密接に関っている。



ヒストリエ(5) (アフタヌーンKC)
著者:岩明 均
販売元:講談社
発売日:2009-02-23
おすすめ度:4.5


ヒストリエ(6) (アフタヌーンKC)
著者:岩明 均
販売元:講談社
発売日:2010-05-21
おすすめ度:4.5


とにかく少しでも興味をもったら、ギリシア古典時代とはどんなものだったのか。さらに詳細なものへと向かってあれこれ読んでみれば、「誰もが楽しめる、興味がもてる」といったものを書くこと、「自分たちの」物語として再生させることが、より一層理解と愛着とパッションを必要とするか、それがいかに表れているか(限定的なところがあるにせよ・・・)よりわかるはず。と、私などは思うのです。

西洋の歴史〈古代・中世編〉西洋の歴史〈古代・中世編〉
販売元:ミネルヴァ書房
発売日:1988-07
おすすめ度:3.0
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饗宴 (岩波文庫)
饗宴 (岩波文庫)
著者:プラトン
販売元:岩波書店
発売日:1965-01
おすすめ度:5.0
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ギリシア・ローマ古典文学案内 (岩波文庫 別冊 4)
ギリシア・ローマ古典文学案内 (岩波文庫 別冊 4)
著者:高津 春繁
販売元:岩波書店
発売日:1963-11
おすすめ度:5.0
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プラトン全集〈4〉パルメニデス ピレボスプラトン全集〈4〉パルメニデス ピレボス
著者:プラトン
販売元:岩波書店
発売日:2005-04
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ルチャーノ氏が、「哲学史上最も複雑で・・・・とても最後まで読んだ人がいるとは思えない・・・」と書いた「パルメニデス」・・・・。
パルメニデス、ゼノンはある理論だけが有名だが(アキレスとカメなど)
ゼノンがこういう死に方をしたとは初めて知りました。
ソクラテス以前の哲学者たちは、僭主に恨まれて殺されたり、民衆裁判によって死刑にされたり、あるいは生きる気力をうしなって断食で死んだりしているが・・・・そういった心情が理解できるというあたり、自分の未来が透視できるような気にもなってしまう。

しかも消費社会という害毒が蔓延する前の世界ですら、そうなのだから、消費社会の中で、大多数の人がそういった性質全く問題視しない態度を持っている中では更に難儀なような気もする。・・・・


プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)
プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)
著者:広川 洋一
販売元:講談社
発売日:1999-01
おすすめ度:5.0
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529年アカデメイア廃止のあともおそらくは細々と存続はしていただろうという指摘と、具体的なアカデメイア説明があって面白い、廣川先生の本。

この本を読むとプロクロスが怪しげな人物に見えてくるが、プロクロスの美即善など、プロティノスープロクロスー偽ディシオニウスのもつ深遠さは他の資料を読むほうがよい。何にせよ、人は多面的なものである。理論的な部分もあれば、おかしみを感じる部分もある。そして多面的な人物は魅力にあふれている。

あれこれと書いてはいるが、目下勉強中といった部類の私ですから、あれこれと至らない部分は御赦しいただきたい。とにもかくにも、少しだけ賢くなったような気分、これは後々もっとも自分自身が恥じ入るものである。
それの繰り返しによって少しは研磨されればよいのだが。

ぞっとするのは、「向上心」をもつ(いわゆる地位や金銭的なものに限らない)こと自体を「妬む、嫉む」態度をもち更には、脚を引っ張ったりするような態度が集団の中でまかり通ることが多いことです。つまり、自己の能力を引き上げようとすることを、暗黙のうちに非難されていると思い込む態度、他人との比較にしか尺度をもたない傾向・・・
果たしてこういう集団の中に、あえて迎合していくことが「協調性」といわれるものなのかどうか? 
多数の規範が多数なだけで肯定されることが続けば、悪循環は続くだろう。善の連鎖というものは短命だが、それでもそのようなものを繋いでいくことしかないのだと思う。

完全に中立・中庸・客観的であるのは難しい。
「私性」というのは消え去らない。
できるだけ「自分の立場」を明確にした上で、自省的に「観る」こと、照観すること、そして、行動として「成す」ことができればよいのだが...

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