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サンマルコ修道院を思い出す。

14世紀クワトロチェントのイタリア、スコラとプラトン主義のネオプラトニズム的解釈について、コジモ・デ・メディチのパトロネージについて、フィチーノの生成と場について考えているせいか
場は想起の契機ともなりうるのではないか。

それが本来的想起であれ、個人的なメモリア、情緒の一部であれ、場はそうした力をもっている、のかもしれない。

コジモの個人的な礼拝するための部屋もおとずれたが(2年前だろうか)
サンマルコ修道院とドメニコ会、を少し知るようになった今では、またその場に訪れたら何か気がつけることが増えるような気もする

ジョバンニ・ピコ・デッラ・ミランドラはサヴォナローラの前で息をひきとった。秘書による毒殺であったとされている。フランス軍がフィレンツェに侵攻した日である。
コジモはドナテッロに、遺言で死後自分の隣に埋葬されることを望んだ。

サンマルコにはサヴォナローラの部屋も残されている。



・・・死はその人全体とその人の生を照らし出す。
思慮ぶかさとは調和である。

知は支配のためには動いてはならない。

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自らの正当性や生の優位性、自らの活力もまた、他者の犠牲や他者の死、正しいが故の死、殉死のような構図を・・・・本能的にもとめる人がいる。しかも多神教と無神論者(自負にすぎないレベルにしろ)世界ではより多数がこの心性を持つ。他人の死や病気、病状、抵抗できない人への懐柔、そういったもので自己の支配欲をみたす人がいる。

下位への配慮、同意の結合、上位への転回、そういったものをプラトニズムでは由とするのだが、下位への支配、同位での抗争、上位への従属、これは善に反する、とごく単純に私には思えてしまうのだが、・・・

ドイツで歴史上いわれ問題となった「知識人の裏切り」

これはいたるところにはびこっている。なぜ「知」を従属、しかも既成権力への従属と配慮への道具としてみなすひとが多いのか、・・・・・疑問だし、そういった人には、ほとんどの「言葉」が通じない。だから私は遠慮するしかない、と思うことが多い。


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フィレンツェ サンマルコ修道院(美術館)にて 2年前 4月(FIRENZE)

アルベルトゥス・マグヌスがいったように場は生成と作用の場であり、サンマルコと付属図書館(ニッコロ・ニッコリの私的蔵書をもとにしてつくられた。)もそうであったろう...

生は煉獄である、もしそう思えないならばそれは忘却しているからだろう...
私はといえば、ペシミスティックに気分に関らず、言葉そのもの、のレベルになれればよい... 肉体は解体される、おそかれ速かれ、それは私の実体ではない。
これは単に苦しみから逃れたいとかそういうことではない。・・・・