何かをやめる、というときに偶発的な理由や単独の理由でやめるということはありません。SNSなども然りです。個人的な理由をあれこれと書き連ねることもあまり意義を感じないので、あるときから思っていることを二つだけ。
マスメディアが「知る」ということの全体を意味するものではない、ということは理解されていても、未だに「ニュース」を知らなくてはならない、「ニュース」を読めば世の中を知ることができる、と多くの人は思っているか感じている。
しかし、その内容が変容していることはどのくらい問われているだろうか。

現在のポータルサイト(yahoo、Infoseek、livedoorなど)の「ニュース」としてヘッダーが流れるものは大抵が「雑記事」である。こうしたものに最近では「主要ニュース」というカテゴリーまで付きだしている。
紙の新聞もそれほどは変わらない、web上も・・・といいたいところだが、携帯サイトはさらに限定されている。もともと画面や情報量が少ないのだから当たり前になるのだが、この偏りは一般にあまり指摘されていない。
「ニュース」は、見せながら隠すのである。
実際には、例えば批判の矢面にたたされている人がいても、情報はそれだけではない。騒がれれば騒がれるほど、話題を占めればしめるほど、TVで言えば、同じことの繰り返しをキャスターやコメンテーターという人たちが感情的、気分的に「報道」するほどに、他の情報は、流される機会を喪失する。
報道は真実ではないし、現象でもないかもしれない。
メディアにおける擬似イベント体験は、深刻なレベルである。
編集され、婉曲された報道はコメントの一部をいいように放送したり、記事に引用したりする。web上の「ニュース」は記名でもない、匿名の誰かが、広告アクセスのために、つまり数量的な獲得のために、ヘッダーと内容が異なることもしばしばある。

作り出された現象はいたるところにある。

デジタル化され電子化され、固有の時間は、分断される。つまり、日記を書く「わたし」と読む人「他者」の時間が重なることがないのに、同時に共有しているような感覚を生んだり、メールを売ったら即届くという前提が、相手が返事をしないという猜疑を生み出す。空間と時間の感覚があれば、自己と他者が即時に呼応することはありえないか、あってもかなりの無理、負担を生み出すかのどちらかであることは自明である。
だから手紙の返事が今日中に届かないといって怒るような人はいないが、メールの返事が即時にくると思い込む人がいる。
もしきてもそれは返事ではない。反応である。反応で応答しあっていたいだけならばそれは必要なのだろうが・・・

機能が「利便性」のために向上したといっても、その機能のために、結局主体も互いの関係も悪化してしまうのは意味がない。
だがあまりそういうことは気にならないのだろうか。

つまり社会が成立しないところには個人の領域も存在しないし、共有しているとか同調しているというものが、単に曖昧な連動感であってそれはコミュニケーションをしないことで保たれている場合がある、ということです。他者とは自己が明確にならなければ、浮かび上がらない。
そういった人は他者の目線を感じないので、常に自己中心的にしかものごとや人を見られない。
webが商業化(コメルス)するとすべてのニュースが広告へと変容していく。企業主体となり、金銭によってのみ人が行動する。日本のウェブサイト上のサービスで、「無料」の文字と「楽に儲かる」という文字が多いのはこのためである。多くの人は「無料」で最大限に楽しみたい(したいことしかしないという意味でである)と考え、「働かずに金銭を得たい」と思うのである。そもそもそれが表層化されていることに、不合理性を感じないのだろうか? 

自己と他者の有限さに配慮すれば、何がもっとも共有していられるかが自明となる。つまり自分のなすべきことを最大限に行うという目的が日常で行われている場合である。
ツィッターで人々のアクションとシンキングが発信しやすくキャッチしやすいいのは確かだろう。だが、それは自分の時間をたえず分断していくことである。非連続性があたかも、真実のように捉えられてしまう。
実際にはこうして、文字を書いている間のその人自体とは何かギャップがよこたわる。書かれるものは、自らの内側にある別のもの、プラトンはこれを書記官とよぶが、書いている最中でさえ、その人と同一ではない。
これは私が嘘をかいているということではない。
自己認識とは、自分が思うところの極めて限定された部分しか表面化しないし、自分でも捕らえきれないのである。

日記でその人が理解できるような「気分」にはなれるだろう。
何もないよりは、共有できるだろう。
だがそれは一部であり全体ではない。あたりまえのことですが。

mixiニュースのPC版と携帯版では、まったく異なる内容の「ニュース」が表示される。PC版や新聞の主要ニュースすらもある傾向性をもっているが、無料サービスを売りにし、アクセス数を目的とするポータルサイト、yahooなどの「ニュース」はもはやニュースでもなんでもない。
雑記事はマスに訴えかけて、民衆裁判的な風潮を作り出す。世論は、作られるものである。娯楽化によって、その意図は巧みに覆い隠されている。無料の娯楽ほど、自らに本当に関る問題に対しては無関心でいられるように、成っていくのである。

今の大学生は極めて強い同調プレッシャーの中で育ち、ゆとり教育によってほぼ世界と自国の認識が大幅に欠如したまま、「みな同じ」感を得たいという気持ちが強迫観念的に強い。
1人で食事ができず、トイレで食事をする大学生が増えている、クラスではないので大学で講義のあとなにをしたらいいかわからないという人が増えているそうだが、・・・それほど課題が出ないというのも凄い話である。
余暇、有り余る時間を、他者への干渉と1人でいたくないためだけに「誰か」を求める心理が増大しているのだろうか。

運営者も利用者も「顔」が喪失した空間。
匿名性の保護と、「顔」のなさ、「主体のなさ」は同一ではない。
「顔」とはレヴィナスが用いた概念である。
わたしたちは、自分の顔を自らみることはない。
鏡に映ったものをみる以外には。

他者と対峙しているときも、1人でいるときも、自分では自分を見ることができない。(だから古来の権力者のみが鏡を持っていた。自分がどうみられているか気になるためであり、自己認識なしには存在できないからである)私たちは、自分が知っていると思い込むほどには、自己了解さえしていないのである。・・・・

すべからく、配慮は必要である。

しかし意見をすぐにクレームと受け取り、改善点として認識するよりも、改善する必要がないことを説明する傾向は、実に根強い。意見をいわないのが当たり前で、しかもその不満が金銭や快さの問題としてしか認識できないということが問題である。

官僚化と市場原理は、個を喪失させる。

以下は「意見」に対しての「お詫び」的メール。
なんでもすみませんといえばいいというものではない。
少なくとも「情報」というものを「意図的に発する媒体」であり、「商品化する」以上、配慮しなくてはならないのは「客・利用者」への「快さ」の問題ではないのである。それは最低限のレベルである。
脱会したあとにこのメールが来ました。
しかし、紋切り型というのは言動不一致のいい見本だと思います。

それとは別に個人のレベルで、わざわざ相手を不快にさせるような言動をしてくるような人(それで楽しむのでしょうか)もいますが・・・自分に自信がある人は、常に対象が外側に向いていますね。
そして周りがそれにあわせるしかない。・・・行動が先で、思惑(思慮ではない)があとから出てくる(快いときは問題にしない)のが不思議だな、と感じます。

ともかく、すべての人が皆同じように「余暇」をもてあましているわけでもない。それが標準であるというのも、どこか誰かを安心させたり、それ以上気がつかせないための、無知のヴェールのように思われる。

個々の事情、というあたりまえの配慮すら、前提にできない人も多い。
年齢があがれば学習するというものでもないらしい。
認識の問題だろうか。
それとも、すべて経験をしなければ、そして困窮を味あわなければ何もわからないということなのだろうか。つまりすべてを自己のカテゴリーとだけ照らし合わせているだけなのだろうか。

1日が24時間でも、その時間において均質なわけでも均一なわけでもない。すべては状況と環境にも限定を受けるのであるのに。

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お忙しい中、貴重なご意見をいただき、誠にありがとうございます。

この度は mixiニュースの掲載記事に関しまして、ご不快の念をお掛けし、
大変申し訳ございませんでした。

ご指摘いただいた内容を元に、より多くのお客様がご満足いただけるサー
ビスを提供できるよう、今後の改善課題として検討させていただく所存で
ございます。

また、mixiは以下のヘルプにもございますとおり、ご友人様同士の交流を図っていただくためのサイトとして運営しております。

居心地の良い空間を醸成するため、この度ご指摘いただいた内容を参考に、
さらなる健全性の強化、ならびに、より安全に mixi をご利用いただける
よう各種の啓発に尽力して参ります。

貴重なご指摘をいただきましたこと、重ねて御礼申し上げます。
今後とも mixi をよろしくお願いいたします。
――――――――――
ソーシャル・ネットワーキング サービス mixi (ミクシィ)
mixi運営事務局




退会したあとに紋切り型の文面が送られてきていることはさておき・・・.


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友達百人できるかな、というように友人は多ければ多いほどよい、フォローされていればされているほどよい、コメントは多ければ多いほどよい、というわけでもあるまい・・
実際に百人以上の人や、本当は嫌なのに義理でといった不一致が「友人同士」なのかどうか。有名人、無名人というカテゴリーわけもよくわかりませんね・・・誰にとっての、というものが欠如してる限り、あまり意味を感じません。メディアによって単なる目立ちたがりが増えたというブルデューの指摘は正しい。そして事態は更に根が深くなり、透明になっている。
気がつかない危険、眼に見えにくい危険ほど防御しにくいものはないように。

直接の理由は、かなり一方的なメッセージ、異様に執拗な思い込みの激しい人、すべて他人のせいにしてくるといった人がいたためなのですが。
他者依存的、対話不能、つねにおだてられていないと気がすまない人、こういった人に合わせるのも限度というものがあります。ただでさえ自分の家や実家などに「好き勝手したい・自律性がない」という性質の人がいるのに、会わせようがありません。
他者の時間やそれぞれのなすべきこと、を自分に他人があわせるのが当たり前と思っている人・・・所有欲、数量的な価値観によって人の話をきかずに、断定的に無自覚に振舞う人、どのくらい迷惑だったかというと1日に数十通以上、一言メール・メッセのようなものを送ってきたり、・・・・・分別がない世代というものがあるものですね・・・

それとは別に、羨みや妬みなど私はそういった感情もわからないですし。