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写真をデジカメで撮影しているので、画像を取り出すのに時間がかかります.. イングリッシュ・ローズのLD.ブレスウェイト。ピンクのほうはニュー・ドーンです。つぼみが開きかけたときにまさに「新しい夜明け」のような美を持ってます。


批判的であることが非生産的であると思い込まれているのは、ありのままの受用、本性のままでいることに何も問題はないという意識に基づいているのだろうか。批判とは了解と提題としての応答であり、それは相手を認識しればこその反応である。無反応を由としたり無条件の従属を由とするのは、相手を本当の意味で認識していないからこそできる反応なのだ。ギャップは常に横たわっている。
しかし批判は他者を貶めるためにある手段ではないし、批判することによって自らの優位性を確保するものではない。

自らと他に分有されている本来性を求めることに拠っている。

「雄弁の伴わぬ知恵が共同体の役に立つことはないが、逆に知恵の伴わぬ雄弁も害を与えること甚だしいだけで、決して何の役に立たない。従って、学問と道徳に真剣で高潔な関心を寄せることなく、ひたすら全ての努力を弁論の鍛錬に向ける者は、自分自身にも何の役に立たないばかりか、祖国にとっても有害な人物にしかならない。それに対して、祖国の利益を阻害するのでははく、祖国の利益の為に戦う手段として弁論で武装する市民こそ、自身にとっても全体にとっても最も有益で好ましい市民となるだろう」(キケロ『発想論(De inventione)』

弁論の鍛錬とはあらゆる方法知と技術に向けられるだろう。
専門知識を持つものもその結果生じるかもしれないブラックボックスの未知に関しては、その知識がない人と同等なのである。
いかにそれを用いるべきなのか。その力をどの方向へ向けるべきなのか。
こうした立場を全く受け入れない人もいる。おそらく、何か知における階層秩序においてもう終点に達したと思い込んでいる人は全てに過信できるのかもしれない。しかしおそらくは、そうした過信を抱いたままでいられるほど、生ぬるい状況を生み出すのはカリキュラム自体とそこでの結論づけの方向がずれたままなのである。
学科上やカテゴリーの優位を争うような主張ほど見苦しいものはない。
よく思うのだが、なぜ自信のなさを覆い隠すために、他者の領分や他者の能力や分野を貶めるような言動をするのだろうか。

原点へ向かわせるような魅力はそれ自体に備わっているものである。

日記としては...
毎日の時間の中で優先順位をたてて物事をこなしていますが、その中で読む+書くの繰り返しです。推論の段階をそのまま文章としていてはエセー(自由散文)であって、論にはなりません。1日3-4冊は読みますが、一度読めば理解できるという類のものではないので、・・・リスト上にある資料だけでも50冊は超えますが、それもある程度絞らなければ。

何かをしている(実際、複数のことがらを平行して行わなければ、何事も終わらないわけですが、「何も終わっていない、まだ進展していない、充分ではない」という意識がとにかくつきまといます。
実際には何もしていない、という時間はほとんど・・・ないのですが。

タイトルは元々のこのブログのテーマです。最近はなかなか日常のことは書けませんが・・・デザイン・フォー・ライフというタイトルにしようとおもいながらも、それも延々後回しになっています。

何か、確信の持てなさがあり・・
自らの存在基底も定められていないことに拠るのでしょうか。
(確信など本当に持ったらそれこそ終わりなのですが)