バレエと舞台は確かに観るものです。観ることは感覚によりますが、単に感覚的であるというよりも、生きた言葉をありのままに観せられるという極めて言語的な世界で、それは歓喜と認識、憧憬と内省、生きる本質に立ち返る表現なのではないでしょうか。

「テクストの破壊」と、そのことの肯定に関して、あるドイツ演出家の話を読みました。何度か記事に書いたこと(コンテンポラリー)に関連することもあり。
結論から言うと、テクストを破壊して新しいものができたと思えても、それはテキストからの逸脱であり、もとのよさを超えることはできない。内省は個人主義的なものとなってしまうかもしれない。(後期ロマン主義のように)
なぜならば、観客の個々に解釈が分断されれば、全体の価値も統一からは分離する。ついには、芸術が「趣味」扱いになってしまう(ライブドアブログも最初はアート・学術というカテゴリーですが、今ではアートとホビーは完全に同列になってカテゴリーになっています・・・(上部参照)社会認識の退行の一端のように思われます。

同時代性とは歴史性との連動によって生まれるのであって、歴史否定や無視によっては「新しいもの」は生まれない。ドイツオペラの演出には以前から「テクストの破壊」に類似する問題があったが、ドイツにおけるコンテンポラリーもおそらく問題にされるときが来るだろう(もし、それが国民性やドイツ的などという言葉で語られるようになったら、それはすでに限定された価値を認めたことになる・・・)・・・現時点ではオペラよりもそのことを指摘する専門家はいないように思える。むしろ、舞踏批評があまりにも演劇批評のごとくで、表面的(動きや感情レベルの表現のみを追うからだろうか)批評理論がまだ日本語に確立されていないか、確立する意志がないのだろうか。言語も舞踏も、表面的なものではまったくない。事物として扱う範疇ではないのだが。あくまで私見なのですが。

「現代ドイツのパフォーミングアーツ」にはマラーホフ、ポリーナやバレエ・カンパニーの編成などもにも詳しいが、興味深いインタビューは、フォーサイスのものである。

現代ドイツのパフォーミングアーツ―舞台芸術のキーパースン20人の証言



フォーサイスの作品は、いくつかにおいて、「テオリア」の意味が逆転する。見るものと見られるものとの関係を認識の外部から、それは「客席」にむけて透明に演じられ、私たちは観客という役割(受動状態)がいかに慣習による被作用・暗黙の受動状態であるかをしるように。
しかもそれは観客の意図が関与する前に、舞台上で成し遂げられている。

視ることによって、観る側はその対象からの差異を認識する。
・・・モーリス・ベジャールが、演目の上演を、「広場」で行ったのは、観客に観ることと自己認識を即時的におこすためでもあるためではなかったか。また、ダンサーたちにも「見者」としての視点を認識させるためではなかったか。そして第三の視点を想起させるためではなかったか。


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写真は4月1日ごろに撮った湾岸線方面からのスカイツリー。
なぜか見るたびにバベルの塔を思い出してしまいますが、POINT VIEW POINT 的に・・・斜光。


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5月のほうが多雨でした。つぼみから咲きかけた、エイブラハム・ダービー。(庭にて)