熊田陽一郎先生の「美と光」を読んでいる。

プラトニズム、プラトン、プロティノス、偽ディオニシウス....と続く光と可知性の基底。 スコラ哲学の中でプラトンとアリストテレスを統合させようとしたアルビノス、西欧に偽ディシオニウスを紹介したフランスのエウリゲナなど「プラトニズムの水脈」は大変に読み応えがある。しかし現在は入手不可能な書物となっている。ちくま学芸文庫などで再販されるべき書物である。または講談社学術文庫などで・・・プロティノス「美について」が今年文庫化されたのだから。ノートをとりながら読み進めている。

美とは何か? 装飾、華美、豪奢こういったものは美の本質ではない。善とは何か? 忘却された中で美だけが視覚(認識)を通して、本来性を想起しつつ、「善」それ自体に近づくことができる。
そして知とはなにか? それは光によって照らし出され顕わになるものである。本来性回帰のため、人があるべき姿に近づくために必要なものである。

善さと善について、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」とともに読んでみると、類似性と差異が一層明確になるようにも思われる。


では伝統的美のカテゴリーはどうか。

「高次のものの低次のものへの配慮」
「同位のもの相互の結合」
「低次のものの高位のものへの転回」
「すべてのものが自己を保ち、確乎として自らにとどまること」

プロクロスにおいては、美=即時善として語られる。
 
(フィチーノにとっては、他への益、友愛、志向(目的の達成)などよりローマ的な解釈をしている部分があるように思われる・・・のだが、)
フィチーノも、美といったときに美しい顔、美しい身体などを「目指してはならない」という。「模倣の模倣」がそれに近づくことがないのと同様である。
(※高次と低次を定まった範疇のみとしてとらえないのがプラトニズムの特徴である。
アリストテレスはこの範疇を固定する。というよりも、少なくとも、同じ場所にじっと留まること(身分の固定)という秩序に利用されてきた。位階秩序にダイナミズムの余白を設けないものとして様々な形で流入されている。)

よきものとは、第一次的に「適度」さが筆頭に来る。すなわち時宜をえていること、比、調和のための条件となる。
ものの形、色彩もまた「適度な混合と限定」によって定められる。

こうしたときに、氾濫する「美」がいかに「その場限りのもの」で「本来的なものではない」ことが判るだろう。
古典主義やクラシシズムに対する批判としての感覚重視の態度、感性という個人主義と曖昧な連帯感・・・ 差異を明確にしたのちに、本来的統一というものはあるだろう。しかし、大抵は、明確にしないために、連帯感を作り出すのだろう。

ところで、日本ではよく教育に思想を反映してはいけない、といわれる。
だが思想に基づかない「教育」がそもそも存在するのだろうか?
この次元の自論を持つ方の多くは、「公共性」「公」についても、いわゆる官公庁の管轄を「公」とみなしていることが多い(ように思われる)

そもそも「思想」が何を指しているかも曖昧である。
もっといえば、法と制度のなかに浸透している「恣意」「固定させようとする力」は問われないことが多い。
話がずれたのだが、議論の前提となる言葉の確認も曖昧なままである。そして、日本では「議論好き」を自称する人ほど、他者の声や考えは聞こうとしないのである。・・・「雄弁家」のように主張するだけで論じることにならない。論じるとは、他者の意見と知を理解したうえで、自信の見解を述べることである。それも「あら捜し屋」のような態度ではなく、より善いものにむけてなされるべきだと思うのだが・・・

制度を定める際に、「習合的」になることが多いのは、よりよきもの、という概念が欠落しているのだろうか・・・と思うことも多い。
多くの人は、「思い」「過去の記憶」を中心に主張したりするので、「より善き制度」は、善きものへ近づくどころか、より不確定なコアをもたないものへと改変されていく。性質の違うもの同士を比較して、権威づけられるような人間性への配慮のなさを、感じることが多い。
はたして、学ばなければならないのは、「大人」たちである。
ウィリアム・モリスは、なぜ多くの人が、大学を出たあとにもう何も学ばないという姿勢をとるのか、支配と所有、しかも数量的なものへの偏りを疑問に思っていた。自らが上昇志向のない大人たちが何を「教えられる」のだろうか、といよりも「知」の獲得への憧憬をどうやって伝えるのだろう。
おそらく、そのあたりが問題なのである・・・

熊田先生については堀江先生の講義を聞いたときに論文雑誌に載っているのを拝見したのがきっかけなのですが(もう8年近く前になるでしょうか)、改めて必読するように納富先生から助言をいただきました。
家人は院生のときに熊田先生を存じているようで、熊田先生と丸山先生の講義がまったく同じ時に行われていたとのことです。当時デリダから井筒先生に送られてきた手紙を、丸山先生のゼミが翻訳担当していて、それを手伝っていたとのことです。
なぜ熊田先生の講義にもでなかったのかと思わず口をついて出てしまいましたが、・・・
昨年夏以降、フィレンツェにおけるプラトニズムについて色々と文献をみていたときにも手にとって読んだのですが、改めて「プラトニズムの水脈」「美と光」を読みすすめたいと思っています。


言論と議論を論争と勘違いしている人が多いように思う。
同様に対話はおしゃべりではない。
この論争が行き詰ると抗争に転じてしまうのが日本の議論という状態なのではないだろうか。議論においてまったく意見のことなる人をも説得する力は必要である。それは丁寧な説明と具体性によるものでなければならないし、感情や暴力性によって誘導されるべきものではない。
難しいのは「思いなし」という状態の言表である。
プラトン、ピレボスにおいてパテーマ(パテーマタ)といわれる状態、すなわち、怒り、自身、恐怖などであり、それは「真実」にある記憶や感情といったものが付加するとおきるものである。こうしたものに囚われない言論、言表がロゴスであり、それがおそらく言葉としての生命なのである。・・・・


「汝自身を知れ」=「自分自身をしる事はない」

これはそれゆえに問わなくともよい、知らずともよいということではない。
まったく逆の意味を真理として問われている。
自分自身が、果たしてこの問いと推論は正しいのか?悪しき憶測に囚われているのではないかとの思いはつきないのだが、「思いなし」(ロゴス)はその憶測に光をあててくれるように思う。・・・・
これも「思われ」だろうか?
今になると、フッサールが思考と単なる思われとを差異化していたことの意味が理解できるようも思う。

(しかし、私のような「無知」の人間にとっては思いばかりに付きまとわれる・・・しかも自覚している以上に、そうなのだろう・・・・)

光の作用によって善自体への認識の契機となる。
光の強さは影の認識にもつながり、この影の部分がおそらく、自己とこの世界の認識、足元と闇の認識にも繋がるのかもしれない。

おそらく建築空間は光の認識作用をいかに想起につながる美の空間として創造できるか、を目的としている。空間の対比、光源の中心に立ったときの感覚を通して知る光。その光源を見上げることが上昇の契機としての美=即時善の体験に繋がっていくのである。その場が日常の場にあるか否か、長い年月を考慮するとこの差異は大きい。