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ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ、
ピエール・ド・ロンサール、アイスバーグ、
ニュー・ドーン、一枝つづ切花で活けるまえに。(5月10日ごろ)

アイスバーグは今年はシュートが出てきました。
時間的な余裕がなく、5月15日以降に咲いたバラの画像はカメラから取り出せていません。夜中や仕事へいく前の数分に花がらをとったり、水をあげたりという状態です。分単位で今この時間でなにができるか?
自問しつつ行動するという日々です。


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ワイルド・イヴ(イングリッシュ・ローズ)
バレリーナと迷って植えたものです。今年はシュートがでてきました。
バラは中心から広がる形と色彩と香りの美を体現するものといわれる。
ダマスクスや、イスファハーンを例に出すまでもなく、ダマスクローズやセンティフォリア(千枚の花びら)は東方起源である。そして様々な兆候となって隠された真実を表すのかもしれない。

バラの香りを製品化したものでは、インフィニストリアのOPERAシリーズ、ビオリーブスのレメディ、アルゴナチュラのローズウォーターがお薦めです。香りによって、本来性調和へと感覚を呼び戻させてくれる。

芸術表現としてのバレエも、人の認識を本来性へと呼び寄せる美=即時善の働きをもっている。それは言語が持つ力と芸術表現としてのバレエが光が照らし出す作用と同じものを持っているからである。
月に1度、元東京バレエの辰巳先生のレッスンがありました。毎回説説もわかりやすく丁寧でレッスン時間がとても充実していて楽しいと娘から聞きます。私も見学させて頂いたことがありますが、レッスンを見学できる機会というのは、とても貴重なものだと感じます。


「光と美」、「ルネサンスの偉大と頽廃」を読んでいます。

時間の流れを意識すると、わずかな時間も無駄にはできないと感じます。ところで過去、現在、未来という時間意識より吟味されるべきで、過去と現在進行形として認識すべきだということを以前聞き、そのことを思い起こすことが多い。


「勘考を離れた自然的事態の変動」(プラトン「ピレボス」)
それを吟味すると「自分自身の(自然状態)からの退行と虚脱化は小刻みなものとして受取るが、その充足はいっきであり大規模だというものは、虚脱化の過程は感覚されないけれども、充足は感覚しうるものになり、魂の死すべき部分に対しては苦痛を与えることなく、極度の快楽をもたらす」(「ティマイオス」)

・・・虚脱化は、感覚されない。多くの人が自然状態ととらえ問わないのは感覚されない退行だからだろうか。
また「自然」という言葉がもつニュアンスはどこか、隠蔽されたままに用いられている。そして明らかにされないままに、共用される。しかし真実の共有ではないために、個々は分断され、それ以上にもそれ以下にも成れない状態なのではないだろうか。それ以上とは、「あるべき状態」である。

ところで、完全性は、適度さ・比によって限定され(形を与えられ)、美と認識される。言語もまた形を与えられるものである。
適度さ、調和を美とみなすとき、そしてその適度さと自我の表出の両方において、アルベルティのサンタ・マリア・ノヴェッラのファサードを思い出す。自宅にはテーブルとPCデスクトップに写真を飾っています。
善とはそれ自体が愛されるものを指し、悪とはそれを結果的に避けるものを指す。そして感覚で捉えられるもののうち、美だけが、光の作用と同じ作用をよりよいものを求めようとする力を呼び覚まし、存在自体がそれに向かおうとすることを言う。

ところでラテン語のnaturaにはそれ自体の生成力の内在、本性に内在される一への還帰を意味するのだろうか。 それは環地中海の太陽中心の豊穣さを前提にしているのだろうか? 
原風景の言語への投影なのだろうか。キケロやルクレティウスを通じてそれはリナシタ(ルネサンス)でも光のもとに再び焦点をあてられるようになるのだろうか。

それとも言語とは、原風景や風土という背景から切り離されたときに、独自の定点を獲得できるのだろうか。

光の作用、内的憧憬を原動力とすることは、教育、造形、社会的な制度・秩序でも鑑みられる必要がある。だが、善と真理のほうへ、という最初の命題すらも、おそらくは、習合や妥協、諦観、などによって認識されないことが多いのではないだろうか。煩雑さ、苦慮、他者依存など理由は沢山ある。
しかし、より善いものは最初からは提示されない。時間をかけて発見されるものである。発見ののちに理論となることで、他者との認識と実践に開かれた共有可能なものになるのかもしれない。
終点はない。ある認識からまた自己認識と見えざる闇への問いが始まる。