日程、体調など、直前までいけるかどうかわからない状態だったのですが、チケットをとっていたAプロへ。

ボリショイがプティの「若者と死」を公演することに関連して、プログラムが大幅に変わってしまいましたが、それでもマラーホフがフィナーレでグランジュッテを見せてくれたときは会場が一体となった共鳴があった。
ただ、「アリア」を見たかったのでソロの変更は少々残念でした。もちろん、マラーホフのコンディションや要望は重要だとは思います。観客のために、犠牲となったり、そういった要求まで観客がしてはならないと思っています。ただ、販売する側(NBS)はそれならば、ソロは未定という発表であるべきかと。公演者側の倫理の問題です。観客(客席)と舞台の関係に対してのある種の鈍さを感じます。

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「カラバッジオ」はやはり・・・全体を通してみないと、ですね。
カラバッジョ的キアロスクーロ(明暗法)とバロック的肉体描写は現れていたように想います、ただカラバッジオというタイトルを知らなければミケランジェロ・メリージ・ダ・カラバッジオという画家を主題にとった意味は伝わりにくい印象は否めません。またこうした具体的タイトルをもつ作品ほど、どこか象徴性、記号への解釈までは振り付けに反映されておらず、どこか主観的な印象があります。プティの「プルースト」もそうですが・・・
つまり、もし、バレエや映画などが特定の主題や登場人物、文学、絵画、神話などを扱うならば、少なくとも、「原典へと誘う」ような魅力がなければ意味がないように思うのです。独善的なARTとあたらなクラシックとなるコンテンポラリー(同時代性・普遍性)の差異はそこにあるのではないか。

ヤーナ・サレンコとディヌ・タマズラカルの「ゼンツァーノ」、マリア・アイシュバルトとマライン・ラドメイカーの「椿姫」は良かったです。といいますか、マリア・アイシュヴァルトの「オネーギン」はすばらしいですが、、シュツットガルドバレエはよいです・・ポエジー、ドラマ性、音楽性、コンテンポラリー性が調和されている。

ベアトリス・クノップが来日してくれるならば、やはり以前の来日公演でみた「バヤデール」のガムザッティなどが見たかったという感じもします。

「仮面舞踏会」の四季では、吉岡美佳さんはギリシア的ムーサのような雰囲気でよかったです。冬では、宮本祐宣さん(先生)が出演されてました。宮本先生は以前ゲネプロのリハーサルをみたことがあるのですが、作品に対して「より善きもの」を求める姿勢が印象に残っています。さて、ポリーナとマラーホフの演目は、ジュエルズよりもこちらの仮面舞踏会・四季の夏が良かったです。ポリーナの「シルヴィア」を観に行けばよかった・・・と少々想いました。
この演目でパリ・オペラ座が演じた舞台をみてみたい、と思ってしまいました。秋はおそらくはローマをテーマにしてるのでしょうが、衣装と振り付けと動き全体がまだあっていないような印象でした。
同じことを「アレクサンダー大王」でも感じました。アレクサンダーのマケドニア的な、そしてプロメテウウス的な悲劇性と両義的な人間(アレクサンダーは「神のように永遠にいきるように、また連続する死の再生のような生き方を望んだ」)があまり感じられない・・・どこか、古典解釈に迫りきれていない演目が多いように思うのです。イマージュの世界は、たしかに個別的なものですが、しかし共有できるものとしての最低限の統一性というのは必要なものなのでは、と個人的には思ってしまった。

やはりプログラム変更によるトータルなガラ公演の内容構成は充分だったとはいえない・・と思います。特にドイツのコンテンポラリー作品では、「言語化するバレエ」が、次第に「踊らないバレエ」「静止する表現」になっていることがいつも気になります。
音楽、意味、言語、詩性、・・・そして踊るということの起源は、「踊るサトゥルス」にも顕著なように、ピルエットと跳躍、指先と爪先の表現・・・なのだと。芸術表現としてのバレエは、演劇ではないし、その代わりでもないのです。気分的に、「ザ・グラン・パ・ド・ドゥ」もこのプログラム構成の中で最初の演目としてあまり・・・これはまったく個人的な感慨なのですけれども。第2部の「仮面舞踏会」から始まってもよかった。なにかトータルな印象が弱いコース料理のような印象になるのですよね・・・
当日は数年前から知人だったバレエファン(ファンというよりも見者)のN様と一回目の休憩時に挨拶できました。今は英国へ出張へ行かれているということで、またエトワールガラBプロでお会いできればと想います。

近況としては、すぐに月末になるのが信じられません...1日はとても長いというのに。
短い睡眠時間の中で、直前まで読んでいたテキストについて、浅い眠りのなかで自己問答しているからなのか、あるいは考えたことの忘却がきになるのか、延々意識だけは目覚めているような・・・娘がいうには、明け方魘されているとのことです。・・・・こうしたドクサ(思い)に振り回されているようではいけませんね・・・ストレスは無意識に蓄積するもののようですが、皮膚が薄いのですぐに影響がでます。
ここのところ時間がとくに限られているので、マラーホフ公演のときにはマークスとアルゴナチュラに立ち寄りました。アルゴナチュラで取り扱っているハーブティ(イタリア産)がすきなのですが、在庫がなくなったら扱いは未定らしいです・・・。ミントティは水出しでもでるので、持ち歩きもできます。
温かくなったので、ハーブティ、ルイボスティのほかにはアズーラ(フリザンテ)を飲んでいます。あまりpetボトルは買わないようにしていますが、コンビニなどでもうすこしスパークリング・ミネラルウォーターを売ってくれたらどんなにかよいか・・・しかし日本人の味覚にはあわないものなのでしょうか? 私の周りには、スパークリングミネラル・ウォーター好き、ペリエ好きな方が多いので、よくわからないのです。

ところで、私は自分自身の悩みについては、酷く落ち込むこともありますがあまり自棄になったりはしません、できるだけやれることから時間がかかったとしてもこなしていかなければという思いがあります。
いままでもそうだったから、自己解決とそれに理解と手を差し伸べてくれる方の助力があって「今」が蓄積されている、と思っています。
(困難に直面している方に、なるべくできることをしたいと望むのは、自分がそういった恩恵を受けてきたからかもしれません。)

どう対処してよいのかわからないのは、本当に困り果てるのは・・・「嫌なこと・やりたくないこと」に直面したときに「他に対する攻撃や闘争的態度」を表出させたり、「感情的に自己の暴力性を他にむけて」きたりということに直面したときです。困り果ててしまうし、自己の居場所もまた同時に基底ごと喪失します・・・この状態で二日ほどは弱り果てていました。
しかし、どうにも・・・やはり私にはアリストテレス詩学にみえるような「悲劇をもとめる人間の特質」にはよさを感じられず、それに無意識に「酔う」(心酔)するような事ももとめることもしたくはないのです。

ですからなるべくならこのブログにも、主観的なこと、感情的なこと、日常についてはかかないようにはしています。
・・・しかし書かなければ、安寧であるというわけでは、ないのです。

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写真はシャボー・ド・ナポレオン(モスローズ)
今年はきれいに咲いてくれました。一季咲のばらが咲いてくれると2月の世話の結果が出てほっとします。苗も去年より元気そうです。