プラトンの対話篇『パイドン』はピタゴラス派の影響をもっとも受けた作品といわれている。ピタゴラスの定理で有名なため、数学者のカテゴリーに入れられて現代では語られる(少なくとも日本では)が、ピタゴラス派は理念実践のグループだった。

「ピタゴラス学徒は肉体を浄めるために医術を用い、魂を浄するためにはムーシケーを用いた」(パイドン訳注 p.179)

ムーシュケーとは何か。mousikeとはムーサの女神たち(歌、音楽、ダンス、詩、文芸などをつかさどる女神たち。9人いる。「饗宴」において適当な人数は三美神からミューズの数まで(3人から9人が共通の話題で過ごせるとしたのもこの数と意味からであろう)の技術という意味である。ピタゴラス派では大きな意味を持っていた。

このムーシュケーの技術がプラトンの「教育論」では論じられる。

「人間を教育する際、その気概的な要素のためには体育(gymnesuike)が、知的な要素のためにはムーシュケーが必要であり、これらの両者が適切に混合されたときに、最高度に教養のある、調和のとれた人間が生まれる」(「国家」)

そしてなおこう付け加えられる。
「もちろんムーシュケーの方がはるかに重要である。もしも、教育においてムーシュケーをないがしろにし、体育のみに励めば、そのような教育を受けた人はやがて知を愛する心を失い、粗暴な性格になり、金銭や欲望のみを追求することになるだろう。」(国家)

理数特化したり、体育特化したりする高等学校のカリキュラムに欠落しているものが、本来的なこの部分である。もちろん個人や家のなかでそれらを大切にすればいいが、私的時間の確保は、保護監督体質の強い、固有な時間の意味をあまり考えない進学校では保護者(親)もそれを求めない傾向にある。

・・・・・幼児早期教育(つまり脳や感覚が形成され経験が蓄積する時期)に公文的なことをさせるのは余り意味がない、それ自体を非難したいわけではないが、あまり公言されてもいない。幼児期にパソコンなどをさせる幼稚園もあるそうだが、それは人間ではなく機械化することには意味があるだろう。親や大人は自分にその技術がないことで焦るのかもしれない。その気持ちはわかる。が、すでに高度に機械化されある部分ではすでにコンピュータや人工知能のほうが人間の能力をはるかに凌駕しているのであって、機械的な人間が、機械の代わりもはたせないのではないか、ということである。欧米では子どもには電磁波・脳波に影響があるので子どもには携帯電話を使わせないという法整備がされているし、コミュニケーション能力にも悪影響が出る、つまり心的なコミュニケーションではなく、反応的なものになる。しかし日本ではほとんど問題にされず、問題提起をした教育的配慮のある人たち(専門研究者)へも、市場単一思考と価値観「売れることのみ・自社と自社のカテゴリーの利益のためには他者の健康や利用者への長期的な影響を黙殺する」という理論が働いている。大学や教育の内部にまで、コメルス(商業主義)が入り込んでくるのは見えにくいが、近年の大きな問題となっている。それが親の「需要」によって支えられいると説明されるが、教育は需要と供給の原理とは異なるものなのに、である。未だに多くの高校が、週刊誌のランキングを気にしている。気にしすぎていていると感じるくらいである。

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子ども観というのは人間観に拠っている。
その問いがないままに語られる教育は欠如している。もちろん、近代現代後期では、自由民と奴隷という身分固定型のギリシア的価値観をそのまま当てはめるわけにはいかないが、教育のコアには、大人・親の人間観への問題意識と志向は不可欠である。どこか、そうしたものが、ほとんどの日本の学校機関からは欠落している。組織の一部になる人、顔のない人、特性のない人、人の感情や配慮を理解できない人はおそらく市場理論においても、機械の役割以下になる。・・・マニュアル化され、同調意識だけの協調がすでに意味のないものになっているように。それはもはや「売り買い」の選択肢から外れていくものになる。

公立中の極端な体育指向(欲望や探究心をもつよりも、その体力と気力と個人の時間をそぎ落とすことが目的のような)と、公立高校の「文武両道」志向はともに欠落している。日本の文化の衰退、継承は以前から危惧されているが、ますますそうなるだろう。個人の確立が成り立たなければ、社会も確立しない。全体性という、個人の生活を丸ごと喪失させる原理が、感情論と滅私的価値観によって復活してるくのも、大抵は、そういう時代であり、金銭と暴力の支配力が有力な時代である。

ところで、子ども手当てが、市町村行政区分で政府が合意したことは、教育に関しての無関心さがよく顕わせている。こうした予算を無駄とみなすのは、ではなにを利益とみなすのか。そのまま、その問いはでてくる。歴史的に、長期的な豊かさを持続できたのは、その国の教育制度と理念と実践が大きくかかわっている。なぜなら「同じように教育された経験をもつ人によって、それは血や地縁を超えて受け継がれるから」である。パリ・オペラ座バレエ学校のクロード・ベッシー元校長は「卒業生すべてが子供たち」といっている。教育にかかわるものが自らを権威、教権に属すると思えば、すでにそれは、教育ではない。守護者、誘引者として、方向性をあたえ、必要なものを示すこと(実践によって)で、受容されるのである。

ある一定の領域までは、説明書のような教え方が通じる。しかしその先の考えることや問題解決能力、創造性、価値を生み出したり、判断するような能力は、そこにいたるまでのその人の経験に基づいていると私は考えている。だから、規範となるようなものを認識・認知しておく必要がある。しかし、日本ではそれは衰退している。そのことはおそらく、今後も公には報じられないだろう。格差といわれるが、階層は実は以前から移動していないのが実情である。しかし、もっとも活力ある国や共同体では、階層移動が個人のレベル・世代で可能な法制度があることが特徴である。

比較ではなく、調和の価値観をもたなければ、多様性と自由が基調となる世界とは相容れない。

「ムーシュケーには、音楽、詩歌、舞踏などの要素がある」
ものごとの本質(ousia このプログのアドレスでもある)は、実体でもあり、可能性が現実になるために必要なものである。論理と倫理が欠落した世界では、そのどちらでもない、他者依存的な「癒し」「ヒーリング」などが流行する。そういったものでは、本質的には「癒されない」ということも、おそらくは商業化と広告が一体化したマスメディアでは公言されることも吟味されることはないだろう。

この時期、多くの学校パンフレットや説明に接するが、この問題は難しい。個人と家庭(家庭=母親ではない。父不在が、成人したときの問題解決能力や、話あいによって問題を解決するということをしらないまま、子供が親になるという危機がある。ちなみに私自身がそういった経験のもとにあえてこうしたことにこだわらざるを得ない理由でもあるのだが、私は自分がした経験を他人にはさせたくはない。)が、保護監督と量的な勉強と自立のための協力をすべて他人まかせにすれば、学校は教育の場ではなくなり、本来性から離れていく。しかし、各人の責任にのみに寄れば、公や国家や自治体の制度や法自体が不要なのであり、時代錯誤的・逆行である。・・・・・

多様さを保つためには統一が必要であり、統一を保つためには多様さと個別の力が不可欠なのだが....

よりシステムの力に抵抗を持たない存在・不合理な理由で排除されたり、その人が排除されているという感覚を生み出さないための、法・行政法が必要だと感じるのだが、それを制度化する人たちは、大人たちの組織に都合がいいシステムに「合意」させることで、つねに必死な印象がぬぐえない。

多は一の方向性に向か、対話の中でその方向を性を見つけ出し、実践の中でよりよいものへと向かわねばならないのだが・・・

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バレエ学校の卒業時には、バカロレアも合格しなくてはならないオペラ座バレエ学校は、人間の調和と自立自律を考えた学校としても大変興味深い。この映像の中でも、それはつねにルフェーブルやイレールによって語られ、実践されている。そして彼らすら危機を感じているのがわかる。
世界最高の水準、といわれている彼らだからこそ感じるのかもしれない。

ダンサーはレーシングカーであり、レーサー、強靭な肉体と精神、その行使、終わりのない表現と技術への探求、・・・ベジャールが名言をとルフェーブルがいう。「修道女でボクサー」のこの相反する類似し性質に、さらに上述したムシュケーが必要になる。競走馬であり騎手でなければならない、自らの肉体と精神をコントロールし、創造を生まなくてはならない
それは、過去の経験(教師たち)からの継承から大部分が生まれる。
そして「修道女でありボクサー」である芸術に肉体と時間を支える人たちをどう社会が支えるのか、これは同時に重要なテーマである。特に日本ではそうだろう。


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アルベルティの家族論については、池上俊一氏の本に詳細がでているが男性にこそ読んでもらいたいものである。


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