岩波講座哲学 4 (4)  知識/情報の哲学岩波講座哲学 4 (4) 知識/情報の哲学
販売元:岩波書店
発売日:2008-10
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バレエ、クラシックにおいても、コンテンポラリー作品にも共通な、芸術表現としてのバレエと言語の関係と本質についてを納富先生が書かれていたので、引用させていただきます。

「言葉を自由に用いることは、芸術表現としてのバレエに似ている。人間の身体がもつ限界や重力による自然法則をもっとも強力に引き受けながら、そこであたかも身体が自由に可塑的に美を生み出し、重力から開放されているように振舞う。その活性的な身動きは、私たちが囚われて生きている身体と精神のあり方を、硬直したイメージから真に開放する。」
(『知識/情報の哲学 岩波講座哲学4』より <知の創発性> 納富信留 P.96)

納富先生の「知識」「知」とは何かについてを読んでいる。言語で現象や本質に迫ろうとすると、言語表現でどこまでそれを表出できるのか、という思いにいつもぶつかるが、私が優れた作品をみたときに感じることがテキストとしてかかれていた。
日本におけるバレエ批評、特に新聞などの記事ではその作品についてまるで言い表せているものがない。ほとんど見かけない。
バレエの本質はあらすじではなく、表面的な動きでもない。コール・ド・バレエの美は、多のダンサーが生み出す統一感に根ざしているのであって、機械的にそろっているかどうか、が問題ではない。
バレエのコンテンポラリー作品---「モダン」「クラシック」という比較はここでは意味がない。クラシック作品は常に「モダン」であったのであり、コンテンポラリーは同時代性であって、クラシックになりうるものが、コンテンポラリーなのである・・・---について、例えば、パリ・オペラ座の「ル・パルク」(Le Parc)やベジャール作品などにも言ってきたことなのだが、言語としてのバレエ、記号としてのバレエは視覚の快以上に、言語表現を超えて存在する。そして対話と同じように、観る物と言語を発するもの(ダンサー)の表現は、その場かぎりのものである・・・・)
「シーニュ」(記号)もそうであるし、パリ・オペラ座作品には、「ジェニュス」(生成)も作られた。「ジェニュス」は生成を意味する。振付家ウェイン・マクレガーのこの作品は、振り付けからリハーサル、舞台までのその一部が映画「パリ・オペラ座のすべて」に記録されているが、この作品もまたそのことを気づかせてくれる。

「同様に、日常それに依拠して生きている言葉を新たに語り直し、自由に創作する詩的な驚きは、言葉そのものが人間の生を開放する可能性を感じさせる。イメージやアナロジーを縦横に用いる言葉の世界は、想像や閃きや曖昧さが織り合わされることで、新しい視野と世界を拓いてくれる。世界と自己を了解するとは、そういった言論の行使がもたらす人間の知的あり方であり、言葉の多様で創造的な挑戦によって「知」は深まる」

(同.p96)



すばらしいバレエや、時や空間を越えて遺されてきた言葉(そして生きた言葉(ロゴス)を読んだときの想いは、端的にいえば「目が覚める」思いになる。新しい認識をみたとき、それを受け取ったときに、了解する地平は少しずつひらかれていくような思いになる。
バレエを視覚の快さを超えて観たい想いに駆られる人たちは、どこかそれが自分の言語表現を凌駕している領域を、捉えられる表現であり、一瞬一瞬に刻まれていくその表現が、消え行くものでありながら、活きている証明であり、普遍の美や意味をそこに感じるからではないだろうか、いや意味(ratio)では、おそらくそれは不十分なのだが、意味論を超えている言語表現だからではないだろうか? バレエはパの一つ一つが言語化されており、その連続体でもある。音楽性と詩性、そして、言語を超えて顕れる世界、時どき、稀にそういった舞台を「体験」した人なら解るだろう。しかしあまり、そういった時限では日本では批評は書かれない(ように想うのだが)

「言論の遂行をつうじて自らの知のあり方を自らに透明にする者、すなわち自己を知ろうとする者」 「「知る」ことは、自らの内に目を向けて探求しつづけることで、自らのあり方を形づくる、自己了解であり自己制作である。」

人間の自立(生活の効率)や自己保存だけが人の一生の問題だという言説がすべての価値を多い尽くせば、そのどちらもおそらく行き詰るだろう。人は、人であろうとするならば、「目的」を物質や所有のほかに見出せなければ、不足を感じ、それが「ない・意味がない」といわれることに対して不安になるのではないだろうか、こうした意識は近代以降に特に顕れてくる。ある時代・地域境界の大部分では、「知・美・善」などがもはや物質ではないゆえに、価値がないとされてしまう。これらは所有することを目的にはできない。絶えず求めるしかない、・・・どのような視座を自分の内部に設けることができるのか、それを実践できるのか、それが問題になる。

「まことに神々は、始めからすべてを死すべき者どもに示しはしなかった。
(人間は)時をかけて探求し、よりよきものを発見する。」

納富先生は、クセノファネスの言葉を引いているので引用させていただく。死すべき者=人間である、つまり有限性であり、肉体は必ずいつか滅びる。それを知って(認識)いるかどうか、その上で、「善さ」を求めようとするのか、よりよきものは、「現在」「現状」「現実」を認識しないことには始まらない。「よりよい」ものを「理想論」と片付ける向きは未だに多くみられる。しかし、むしろその考え方は限定的すぎる。受け継がれてきたものの本質は、現象するか、現象しないか、表層にあらわれるか隠蔽されるかは別として、一つの根源なのだと、私は考えている。
そしてそれが、芸術として顕れるとき、卓越した技術(時をかけて発見する実践の結果と過程の形でもある)によって、顕在化したときに、私たちは、その言語化された表現を、共有できるのだと私は思っている。
そのことについて、自分なりにまとめ、論じることができればよいと思っている。

納富先生の「プラトン」はぜひ多くの方に読んでもらいたい。また、「情報技術」や「情報」というカテゴリーや価値、イメージの流布が多大な現在で、「知識」や「情報」のたしかさ、不確かさとは何かを確認するためにも多くの方に読んでもらいたいテキストです。

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