Twitter が 「常識」になりだしたことは何を意味するだろうか?

ツールとしてのツィッターではなく、カルチャーとしてのツィッターについて現時点の私的な感想を書いておきたい。

なぜなら、情報はつよい影響をもつようになるとき、その表出の力の強さによって、隠されるもの、消失するものを伴うからである。
手軽さ、の背景にはなにがあるだろうか?何をもたらし、何が失われていくのか?

webの力は、サイバースペースに有志のコミュニティを国境を越えて創設することにある。時間や空間、距離の壁を越えた公共性。

それとも、単に、・・・短い文章で断片化され、個人が現実をあたかも「知って」いるような錯覚をおぼえ、「繋がって」いると思うこと・・・情報を所有したい、放出したいと志向するのだろうか。離されるために、繋がっているという錯覚を覚えないだろうか? 常に流動的でとらえられない流れの中に、個人はふたたび放り込まれているような気にもなる。
固有の空間と、固有の時間をもって初めて、共有できる空間と時間が持てるのではないだろうか。
「われわれは一つの世界に生きている」
この感覚は間違いではない。
しかし、完全に内部化できない世界がある。
それを排除したり、ないものとみなしてはならない。
つまり、WEBに表出しないものを「ないもの」として扱うのは危険であるし、排除志向をもってはならない。
「同じ」「類似性」「共通点」だけで繋がる世界は、真の豊かさには繋がらない。かかわりをもちたくないか、もちたいか、に関わらず、関わっている物事は数え切れないし、むしろその世界のほうが広いのである。

時間は、デジタルのように均一なものだけではない。私と貴方、また誰かの時間は表記上おなじであれ、流れ方は異なり、異なる経験の中で生きている。その異質なものを、多様なものとして共有することが重要であると、私は思っている。