ムービープラスでカンヌ映画祭特集をしている模様。ユーロスペースまで観に行かなくてはいけないか、と思っていた「ふたりのベロニカ」を観ました。

ポーランドとフランス、2人のベロニカという女性は象徴的。

1848年革命とその余波でも、革命が成功(一応ではあるが)フランスと、結局独立まで至れず、周辺国との圧力で封じられるポーランド。(第二次世界大戦でもそうである)キシェロフスキの作品にはこうした歴史性のイメージ化された対比が表現されていると思われるシーンが多い。

バスの中から、執拗なまでにポーランドの街中のデモ隊や混乱にシャッターを切るフランスのベロニカ。それを奇妙な「眩暈」のような世界認識的な目線で追うポーランドのベロニカ、彼女は取り残された存在である。デモ隊の混乱の中で、人から荒々しくぶつかられ、楽譜が散乱する。踏みつけられる。それは、彼女が死ぬ間際まで、「舞台の上で」歌っていた、ギリシア正教的な歌ではなかったか。


彼女自身もこの歌を高らかに、透明な高揚の中で歌いながら、生き途絶えてしまう。
以前、「トリコロール」をみた時にも思った、智慧の女神ソフィアを思い起こさせたシーンだった。ベロニカの歌唱は素晴らしい、技巧的なことではなく、自我を突き抜けて音楽や賛美される対象へ向けられた声だ。
彼女の声の異質さに気がついた女性教師は、「変わった声ね」と云うがその通りである。自我がそこには棲んでいない声なのだ。天国から(人間社会を超越した俯瞰的空間という意味での)の声のようだと私は思った。

人形師が操る人形は、天野可淡が作る人形を思わせた。
球体間接人形をつくる人々は、どこかみな、「精神の器」としての「人形」をつくりたがるように思える。つまり、物質で表現しながら、非物質的なもの、精神性を「形」にする。しかもその人形は「動かせる」ので、形もひとつに留まることがない。

どこか、人形劇をみやる人間のほうが、人形的に思えてkる映像だから面白いと同時にこのシーンは、神秘的であるだけでなく恐怖がある。美と恐怖は表裏一体であるし、美と醜さも表裏一体であるような、アレキサンドルの表現世界。
私にはアレキサンドルという名前も、どこか、ギリシア正教的な正統カトリックとは違う文化圏を思わせるのだが。


とにかく、二重対比的な作品である。
ポーランドのデモ隊の大勢の青年や鎮圧部隊に対して、フランスの街中ではサッカーをする少年達。この光景すら、コントラストが強い。

カメラの人称が切り替わる際の奇妙さ。
ベロニカの視線、俯瞰的な視線、私たちは映像を通して観せられる映像が直接語る以上のものをそこから得ている。観ている者が、常にその映像を再構成させながら観てしまう。
それが、この映画やキシェロフスキの映画作品で感じる時間の濃密さの理由のひとつかもしれない。

「トリコロール・青の愛」以上に音楽が効果的な作品。