ベジャールは、男性ダンサー、女性ダンサーを性差だけでなく、性質(属性)としてのポジションを与えているように思え、またそれゆえに選ばれたダンサーたちは、その意図に忠実に、しかもその人の持ち味(個性ではあきたらない、何か決定的な存在の差異として)を舞台の上で表現する。

「ボレロ」は不思議な作品だ。女性ダンサーが踊るとき、フォルトゥナのようである。エリザベット・ロス、ギエム然り。

ギエムがインタヴューで「私はベジャールのダンスを通して「自由」を与えられた」というようなことを行っていたが、それはクラシック・バレエ(いわゆるモダンも)があるべき「規範」を目指して、もっというならば、いささか哲学用語的になってしまうが「至高善」(アリストテレス的)や「至高美」(プラトン的)な規範にかぎりなく近づくための技術や舞踏であるのに対し、ベジャールは、常にそれらに近づきながらも、その規範の外へ、外部へ向かおうとする意志をバレエにしていると思えるからだ。

以前私がルネサンス建築とバロック建築を学ぶときに、比較するのがルネサンス的な規範と調和の美と、ローマ建築にみられる地中海的なエッセンスが、根本で造形を支えているという板屋先生のあとがきを思い出す。

ベジャールのバレエが後継者がいないというのは、近代的な西洋人的な知性や技術だけではなく、さらにもっと古くて新しい(むしろ最高地点で費えた)古代地中海圏の文化や舞踏、神話を取り込んだ多元的なものを表現するからだろう。
多元的(多神教的といいうよりもアミニズムやシャマニズム)な要素という点では、「ニーベルングの指輪」や日本の東京バレエに振付けた作品「M」「カブキ」まで範疇となりその創作範囲は広い。おのずと、イリ・キリアンなどとは対照的にな作品になっているといえるだろう。

それからいつも思うのは、ベジャール作品の多くは、なぜか寺山修司の演劇を思わせるものがある。これは時代性が共通しているからだろうか、やはり、思弁に飽き足らず実践と実験によって現象させることを目的にし、多くの大衆をとりこもうとするその意図も似ているせいだろうか。
私自身は、寺山の「天井桟敷」時代ではなく、むしろJ,A,シーザーの「万有引力」の世代なので、「書を捨てよ町へ出よう」も万有引力による舞台をみているのだが。
なぜか、今回放送された「中国の不思議な役人」の特に冒頭のシーンは、寺山演劇のようなものを感じた。この作品では、『ニーベルングの指輪』にでてくるミーメや、実際に関連がどの程度あるのかわかならないがジークフリートなど役作りに似た部分があると思った。いずれにしても、ベジャールが「エトワール」内で語っていたように「バレエ愛好家だけでなく、すべての人に見てもらいたい。「第九」(ベートーヴェンの)は正確にいえばバレエではなく、デモ行進なのだ。劇場ではなく、スタジアムでやるのが相応しい」といっていたように、バレエの可能性を開いておくことが、ベジャールのバレエが目指したことなのではないかと思う。

常に実験的に、しかも限界の表現を求めていた人たちはそのように創作を捉え、構想し、実践しようとすることが多い。たとえば、19世紀末ではステファヌ・マラルメが詩や「書物」に対してそうであったように、私にはそう思えることがある。
しかもそれはおそらく、伝統に対する深い理解と見識がなけけば「新しいもの」はできないように思われる。


後半のベジャール・バレエ・ローザンヌの公演ハイライトもよかった。
エリザベット・ロスの「バレエ・フォー・ライフ」は東西冷戦と分断の時代を象徴しているように私には思えた。そして、ベールを被ったロスはベールをはずされると、封印されていた力を発揮して両者の統合の境界で「踊る」。そしてまた役割がすぎると力を封印されて「去って」いく。
へーゲルの歴史哲学における「英雄」論を彷彿とさせながらも、ドラマの背後にある、女神的な象徴性、あるいは「自由」のアレゴリーを思わせる擬人像としてのエリザベット・ロスの役割−−やはりここでもフォルトゥナのようである−ーを強く感じ、非常に興味深い演目だった。

他にジル・ロマンが演じる地中海圏から中央アジアへ向かい帰ってくる20世紀フランス文学の流れとの共通するテーマの作品もあり、あとで追記したい。

文化的な史観から眺めると、ベジャールの絶対性はキリスト教の神というよりもゼウス、ミトラ、のような天上神的な要素だが、同時にフォルトゥナやキュベレー、イシス、イシュタルのような女神・大地母神の要素と両立している点が大変興味深い。
それは、放送の際に解説で触れられていたような「エスニックダンス」「エスニック音楽」では表しきれない、「深い時間(DEEP-TIME)」と多様性に対するベジャールの好奇心と多様な文化への敬意と親しみの表れでもある。
(※だから、ベジャールの「カブキ」と「歌舞伎」は違うというのも論点先取りだし、そもそも歌舞伎踊りと「歌舞伎」が違うように、その違いをはっきりさせていくことによって、作品に迫れるのではないかと思う。そういうことが大切なのではないだろうか)

週末明けから不調で胃痛が続いているのですが、つい長く書いてしまった。
追記と修正は後日行います。