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写真は2004年くらいの4月末に長野県・白馬でとった写真。
生え始めのつくしが一面に宿の近くにありました。


山形孝夫先生の「砂漠の修道院」と「レバノンの白い山」を読み返しています。
「レバノンの白い山」は大変興味深い本で一気に読んでしまう+何度も読み返したくなる文なのですが。レバノンの環境、それゆえの特質・特性、風土と人の関わりを含めたテキストが纏められています。
「農作物が取れる大地がある」というのは凄い価値なのだということが解る。
私たちが当たり前と思っている、水資源や耕作に適した地質などそれ自体が「特質」なのだという思いに至ります。「ブルータス」で「農業」特集が早々と組まれたときは中々早いな、と感じたものです。経済不況化だからという理由ではなく、何が適しているのか(風土・気候・人の気質的にも)が重要な気がしています。
あまりにも当たり前にあると、その価値に気がつかないということもあるのでしょうが...
また季節の変化に触れることが減ると、そして元々日本の季節行事が農耕との関わりを起源にしているためと生活は「商戦」というシーズンが中心になってしまう。
この辺りは間々田先生の「消費社会論」にあるとおりです。
さらに個人的には「桜開花」にこだわりすぎるきらいも季節感の喪失だと思ってしまう。春に劇的変化をみせて美しいのは桜だけではなく、球根や宿根の草花こそが早春を告げるものでしょう。自宅では数日前からゆき柳が開花してきました。
咲く前の変化も、実に長い間少しずつ変化が現れているのです。

葉山 アゲハ亭:上山口の自然 「ツクシ」 - livedoor Blog(ブログ)#trackback


葉山アゲハ亭さんのblog記事で土筆(つくし)の写真があり、とても懐かしく思いました。
私は今の家がある市にずっと住んでいるのですが、春になると土筆とりをしてました。小学生の頃はとるだけで満足だったのですが、あまりにも大量に隣の空き地でとれるため(現在は家)つくしの佃煮を祖母と一緒につくって以来、中高生になっても春といえばつくし!ふきのうとうは家でとれるもので買うものではない、というのを思い出すのでした。
ちなみにこの市は人口34万人を超えるいわゆるベッドタウンで日比谷線・半蔵門で都心まで35分程度です。たぶん近所のひとも気がつかないような残り方でなのです。
実家が神社の杜に比較的近く自然ベルト的なものを共有していること、近くに自然園的な植物園があったこと、その場所がもともと私鉄系役員邸だったらしく裏庭には竹林があったことも関わるかもしれません。この話を市内の人にしても驚かれます。
一体何処にすんでいるんだという感じですが、本当に表向きわからない、ひっそりと自然がのこっている場所でした。

ところが昨年から某植物園が閉演して周囲も旧い家が壊されたり、周囲の茂みが刈られてしまいました。その茂みが消えたためか、植物園の広大な自然状態の敷地にすんでいた狸の親子が実家の庭にすみついていたと母親から聞きました。これには私もびっくりでしたが....。

ほんの少しの、人の手があまり入らない土地があれば、たくさんの生き物がひっそりとでも住んでいけること、同時に完全な住宅地になれば、雑草(とわれわれが思っている野草たち)も生えず季節の変わり目がわかりずらくもなり、人と他の生き物の距離もうまれるばかりなのだと感じます。
水元公園の東京都鳥獣保護区のような場所、それがもっと首都圏に増えるべきではないかと感じています。
郊外型ショッピングセンターの拡大などで相当の比較的手付かずな場所がアスファルトの下に埋もれました。

以前記事にも書きましたが都市と田園は違う役割をもっていて、それぞれ違う性質と景観を保っている、イタリアにいくと移動の都度実感できます。
ちなみに現在の開発の基盤になっているのは、戦後のいわゆる「スプロール開発」というものが原型です。


自宅のほうにはめじろ、ほおじろ、ひよどりなどが、果物や実をたべにきます。
トネリコの木は冬も葉がしげっているので小鳥には安心なようです。

最後につくしとりをしたのは、たしか5年くらい前に上高地・白馬をおとづれたときに、朝宿の周りでのこと。
夜は現地であった旅行者のみなさんと天体観測もしました。
その時もつくしは持って帰って自宅で調理して食べましたが、春の味は私にとってはつくし、そしてたけのこ(ほりたての)ですね。

春は苦みがある野菜が美味しい。




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上高地は本当に素晴らしい時間を過ごせます。2回訪れたことがあります。
静寂で力強く、清々しい、厳しくも美しい場所です。