水辺と川岸の風景写真をUPしたからというわけではありませんが、惹かれる絵画について書きたいと思います。
ASAの読者特典であるテート・ブリテン「ミレイとラファエル前派の額絵」シリーズ、前回の特典はウォーターハウスの”シャーロット姫”の額絵だった。この絵は本当に素晴らしいと思う。色彩と素描のどちらを画家が選択するかという問題は特に色彩論争(仏)以降、二者択一的な選択として絵画の在り方を狭めてしまったように思うのだが(結果、色彩派が勝利したことによって更に)やはり絵画の本質は色彩と素描のどちらもなければならない、と18世紀、19世紀の優れた作品をみるたびに思う。
(20世紀は個人の自己表現としての「アート」というエゴの表現や感覚や感性という言葉がもてはやされたために、エゴが強い作品がより重視されたが、21世紀ではやはりエゴを超えた作品が正当に評価されるべきだと思ってしまう。アンカー展でも思ったことだが、本当に素晴らしい作品はまだまだ日本では十分に紹介されていないと思う)
ウォーターハウスの”シャーロット姫”はミレイの<<オフィーリア>>が表現した、詩情、文学性、象徴性、自然描写に加えて、風景の奥行き、写実表現が強まった上でのより幻想的な自然風景などが描かれている素晴らしい作品だと思う。

この作品をみると、トールキン”ロード・オブ・ザ・リング”の映画美術でのエルフの世界観はウォーターハウスの絵画の世界をモデルにしているのかも....と感じる。というよりも19世紀以降の美術・音楽の才能はほぼ映画に集約されて反映されているかもしれないのだが..。エンヤなどの幻想性もここにインスピレーションがあるような気がしてくる(これは私が勝手に思ったことだが、もはや失われた原風景を表現したいのかもしれない、深層の志向としてそれがモチーフになるのかもしれない。つまり衰退していく風景と、夢の存在者というモチーフが度々表現者の中に現れてくるのかもしれない。それを発見したとき、見ている私たちもまたそこに魅入られるのだろう。)重要なのはその超現実的な風景が、写真とみまがうほどの写実性によって成り立っているということではないだろうか。北方絵画やガリア系の絵画では写実性は時に美と対立してしまう。しかしウォータハウスの”シャーロット姫”に描かれるのはそれとは逆の写実自然描写による美の体現なのだと思う。ほとんど奇跡的な技術の高さによって、超現実的な風景は自然な美として絵画になる。

ウォーターハウスはローマに生まれた。両親とも画家である。
しばらくみていて、イタリアの美(イデア的優美さ)の伝統と理想と写実主義の融合と調和がそこにあるのかもしれないと私は思った。

イヴリン・ド・モーガンについて以前書いたが、ウォーターハウスの絵もさらに取り上げられるべきだと思う。

ASAの読者特典は他の新聞に比べて非常に美術・文化面での優遇が少なくなっていて大変残念なのだが、今回の額絵シリーズは本当に良かった。
ただ、額絵のフレームがただの白木のフレームだったのは残念でしかたがない。
絵画に合う額(シンプルでも黒檀調のなど、または倍の金額でも絵画の様式と合うものにしてもらいたかった。)絵にあわせたフレームも、と書いてあったので注文したのだけれど、これではあまりにも安易すぎる、不十分と思ったのは私だけでしょうか。