アイデンティティは「自らが無意識に心地よいと思える状態」(無意識に受け入れることができる自己と世界に対する認識)という吉見先生の定義が大変興味深い。そしてそのことは知らず知らずのうちに、特に戦後に「無意識に」浸透していると感じる。

20世紀以降、日本では特に戦後以降、農村社会から産業化したのでそれまで農業従事者だった人(家)が「勤め人」化することになる。拡大家族や家族経営(旧中産層)の元では家庭内に社会的生産基盤があったのだが、生産が家の外に移る(市場化)すると、家庭は「再生産」の場だけとなる。つまり、新たな労働力(または社会的役割を担う人)を「産んで(出産)」「育てる(これは教育ではない)」ことになる。この時点で市民としての家族の持つ権利は「自分の子供を自分で教育する(どんな人間にしたいか)」というものだけになるのだが、この意味で公立でも私立でも「学校任せ・家庭では責任を持たない」ということになると自らその権利をも放棄することになる。というのは教科書的かつ基本的な社会論ですが、実際にそんな状況になっているのも確か。私自身が、仕事と子供を育てることにかかわりながらもジレンマを感じることも多いのですが...たとえば少子化なども単純にシステム上だけの問題ではなく、自己実現するということと再生産と不払い労働(家事)に対するジレンマ・心理的な自己矛盾に悩む人が多いからのように思います。


ところで不景気、不況になると政府批判や政治批判は起きても「企業批判」にはそれ程結びつかないということです。19世紀末以降、大企業は準公的な役割を担っており、実際、文化公共性なども担われてきたし、個人の生活もそこに転換している。
実際、産業化した社会では、殆どの人が就労することでしか財源(収入)がない。ハーバマスがすでに指摘しているように、準公的な役割の大半を企業が担うようになると、就労できないとき(病気)しかし不況時のリストラの際なども、企業に同情的なまなざしを向けつつ、そういった人員削減に対しては当事者で内科斬り「受容的」だ。「しかたない」と思うのだろう。元々、農耕民族は自然に支配されるので、何か不条理なことが起きても「しかたない」「不運だった」「自分がかかわらなけらば」という内に引き篭もる体質・心性が指摘されている。現在の8割が被雇用者であり、かつては8割が農民だった。これは米国も同様であり、農業従事者が産業化と都市化で人口流入する。シカゴやフィラデルフィアで見られる現象である。(戦後東京と類似する)。

個人が自らの欲求と欲望を私生活の中(要するに週休二日でレジャーやショッピングだけ楽しんだりしている現在の”一般的”な生活)で行っている限り、どうか自分にはおこりませんようにと願う「不運」に怯え続けるのだろう。しかし元々はあったユニオン的な問題解決機関も無関心・不参加によって「衰退」させてきた結果、規制緩和が過剰になり、派遣社員、契約社員制度と正社員の待遇差を受容し、依存する社会になっていった。

ボードリヤールが指摘したように「民主主義でありさえすれば正しく公平な社会」であるということも過剰な信仰であり、「資本主義でありさえすれば豊かになる」ということでもない。別にそのどちらとも批判してるわけではなく。それとこれとは別の問題であり、システムレベルと実行レベルを吟味することが必要なのではないだろうか。
語彙がないので、巧く説明したり論じることができないのがもどかしいのだが、数十年前のアメリカのような過剰な消費社会で経済が依存する消費社会のあり方を吟味するべきではないだろうか。大型ショッピングセンターや、高層ビル開発も実はすでに飽和状態であり、その次に起こるのは競争と淘汰である。

目新しさだけではすぐに「古く」なる。
常に「新しさ」を求めることはどこか不毛であり、東京圏では常に「新しさ・最先端」を目指し、より「便利」さが強調されるが、はたしてそれだけで「ベター」になっているのだろうか。
一方で日本人旅行者は「日本とは違うものと価値」を求めてヨーロッパへ旅行する。・・・・


平等は空虚な概念というのは、産業化に伴い、社会は「産業封建制」となっているとも言われている。無意識に「正社員」として位置づけられている日本では、プロテスタント諸国の「個人と全体(世界)」の認識が希薄なので、ムラ的共同体に類似した、「生活の保障を受けるために企業に奉公するような雇用システム」により、かつては人は企業と仕事に従属した。しかし終身雇用制が崩壊した後は、「何のために働くのか」すら意味を見出すことはできない。外資の基本的な理念は「自らの能力を最大に活用できる企業(共同体)に属することが世界と自分の意味」と考えて実行するのでおそらく、単に利益を求め、ホスピタリティや人の幸福を考えられない企業は吸収されていくように感じられる。職業を転じて顕すようになったドイツ語は英語ではcalling(召命)の意味。カラヴァッジョの絵画で有名だが「マタイの召命」と同時の意味である。つまりこの世界での個人の使命を果たすことを意味しているのだ。

アメリカでは雇用条件に男女・年齢は記載されない。個人の能力が性差や年齢によって就業が阻まれるのは差別にあたるからだ。これも、企業(集団)は最良の状態のためにそれに適した個人で構成されるということの現われだろう。
歴史上、世襲、地縁、血縁によって地位や役割が「閉鎖的」になるとその国や組織は急激に衰退する。ここしばらくの政府の在り様はそれを顕しているようだ・・・

市民・一般の人には財産を形成させないために、相続税が課せられる。
国会議員が政治地盤・選挙区を息子が継ぐのならば、そこに税をかけるべきだろう。

政治も「私化」が進展しており、その点をなぜ問題視しないのか疑問に思う。


すでにモノ(物質)は飽和しており、ほぼすべての「消費」すらサーヴィスや付加価値という「人間の心性」に関わる部分の充実に繋がっているからだ。

人をモノ、部品化、工程化して、必要がなくなったら排除するという規制緩和。こうたものを元に戻すのはおそらく難しい。なぜなら資本主義的、プロテスタンティズムの精神は、主観が最も強いので、自らが目標を達成するために必要かつ合理的でないものはすべて排除しているからだ。
こうした構造を理解しないように(させないようにして)空洞化した政治批判を行っても解決には程遠い。批判する側とされる側が交錯しているように思われる。

自分たちの周りには火が回らないうちは、消費と生産性を持たない娯楽消費にあけくれるのだろう。巨大化したショッピングモールには、大多数のための画一的な商品がならび、人の生活がほぼ画一化する。元々市民階層がいない米国や日本ではあたりまえの現象ともいえるのだが、なにか空虚なものがある。
それは豊かさが虚しさと紙一重の状態にまでなっているからでもある。

インターネット利用者の中でも自らに関わらないことに対して問題意識を抱くのは理解不能という態度(そして彼らは自らを進んで匿名化し(名無し)する。おそらく大学の中でも一部しかこうした構造についての問題を取り上げないためなのだろうか。

このような件に関して、流入して「東京人」「東京圏(1都3県)人」となった人にはわからないかもしれない。「東京人の研究」で分析されているのだが、江戸的な気質と文化を引継ぎながらも西洋的教育をうけたために、完全な下町気質にも受容できず、しかし江戸的なものを破壊する(開発・再開発)には懐疑的、否定的保守な態度をもつという「モダン東京人」(小林秀雄などがそうらしい)に自分も当てはまるのでいちいち気になってしまうのかもしれない。・・・
地方から東京圏に移住して「今」についてあまり疑問を持たない人にはまったく話が通じないのが不思議だと思っていたのだが、やはり先人の研究はこうした差異の明快さに通じている。

農村から都市化と冒頭に書いたが農業や農村を低くみているわけではない。というよりも、郊外から東京化するために都市居住者となった人が、農業や地方を低くみているような価値観が目立つということを指摘しておきたい。元々東京に居住する人のほうが、田園風景や生産に携わることの価値をしっている。

トスカーナの田園風景と都市文化。大型店舗がなく、チェーン店化されたレストランもなく、品質重視の店を家族経営小規模経営で保存しているイタリアの求心力を思い出す。

また、バーミンガムの例でも以前書いたが、画一化した生活において「質を高める」こと「所有ではなく、使用することの意味での消費」「生産性または生産的消費」に眼をむけるべきだろう。

(と書きながらも、国営放送自らが朝から「消費のトレンド」というコーナーをニュースで扱っているわけだが...)