東京文化会館・シュトットガルド・ガルドバレエの「オネーギン」を見ました。
オペラ「エフゲニー・オネーギン」をジョン・クランコがバレエ化したものですが帝政ロシア末期的な優美な哀愁が華やかな舞踏会や田園風景にも漂う。
モダン、クラシックというジャンルカテゴリーが無意味なように思えてしまう、モダンの身体能力の限界と記号的表現、クラシックのパの美しさと心情の表現のよい部分が融合しているから・・・モダン的な振付部分もよくありがちな「人体の機械論」の方法ではなく、あくまで人間性としての表現を追求しているように思われてならない。ジョン・クランコの「オネーギン」は単なるオペラの「ドラマ・バレエ化」ではなく、「再生され創造されたオネーギン」だと思う。
作品を構成するエッセンスを慎重に取り出し、もっとも効果的かつ実験も加えて舞台化したのだろうと思われる。

1幕のタチヤーナ。読書好きで内気な彼女の様子、籐椅子に腰掛けて舞台遠方で佇む姿は絵画的である。オリガとレンスキーのパ・ド・ドゥも素晴らしく、コールドも形が美しい。揃っている揃っていないというコールドの評し方はすきではないのだが、舞台全体で表現されている田園の邸宅でのひととき、それがコール・ド・バレエによって絵画で欠かせない背景のように時代性をも体現していた。作品自体、舞台自体の完成度を上げるのはやはりこのような部分であると感激ひとしお・・・

幻影・妄想の中に現れるオネーギンとのパ・ド・ドゥ。緩急のある、優美かつ息をのむ身体での表現・・・「ル・パルク」での夢の中のパもそうだが、この場面は本当に素晴らしい・・・まったく目が離せない。その後、パーティでのオネーギンに対して踊るタチヤーナのソロも含めて本当に素晴らしかった。踊りとはテクニックや美しさではなくパトスで昇華され固有のものになる、マリア・アイシュヴァルトのタチヤーナは理性的かつ感性の深さ、自分に忠実さゆえにパッションを捧げる悟性の少女を見事に体現していた。このような舞台をみられること自体素晴らしいことだと思った。

3幕の舞踏会の重厚さ、拒絶のパ・ド・ドゥは1幕とのコントラストを感じる色彩の違い、音楽の違い、何もかも対照的で、舞台は変遷を、しかも抗いようのない変遷を表現している。その中で最後に踊られる、タチヤーナとオネーギンのパ・ド・ドゥ。
変わらないものも確かにある・・・しかしそれも拒絶に抗える筈もない。
拒絶される手紙は観客の解釈コードとして共有されている。
ここの言語を介さずしてドラマが鮮やかに浮かび上がるのが奇蹟のように思える。

ジョン・クランコが、ドラマと人間の心性と身体表現、音楽と舞踏、記号と言語というもので「オネーギン」を創りだし、それを理解して踊り表現できるというシュトゥットガルドバレエというカンパニーだからこそ可能なした舞台だと感じた。
本当に素晴らしいバレエを見たときは何もいえない気持ちになるのだが、この「オネーギン」もそのような作品・舞台だった。
配役についても後ほど、記述しておきたいと思う。