今年はRadioheadのベスト版がリリースされた。「パブロハニー」(1st)から聴いているので感慨深いのと同時に、彼らが3rdアルバム辺りから出していたテーマが、つまり彼らが訴えていた問題が露見したのも今年だったから余計思うところが多い。

イギリスのアーティスト DEAD CAN DANCEの紙ジャケット盤が今年再発売されている。多くのブリットポップには、パーソナルなものと少なからず告発を含んでいる。時代性を映し出し、音楽は世代を超えて残る。心地よさを超えて、世界に対する繋がりをリスナーに与える力がある。

中東アラブ−ペルシアとカタルニア、中世を調べているうちに、思い出してDEAD CAN DANCEを聴き、、そしてグローバル化について調べているときに久し振りにレディオヘッドの「パブロハニー」と「ベンズ」を聴いていました。
久々に耳にし、とても新鮮でもあった。レディオヘッドを聴くためのキーワードは、チョムスキーであり、グノーシスでもある。一見パーソナルな詩に見えても、そこには世界やそれを「当たり前」と無意識にみなす人に対してのアラートであり、声にならない叫びでもある。

当時は単に「好き・良い・他では得難い」という理由で聴いていたのですが、今改めて聴くとなぜ好きだったか理由がわかってくる。
そして少し納得。

いずれも英国アーティストかつ、しかもカウンターカルチャー。

DEAD CAN DANCEは「AION(エイオン)」を聴いていたのですが、中世ヨーロッパはアラブ、中東、北アフリカ、との繋がりの中で初期ルネサンスまで文化的発展を遂げていく。そのコアな部分があるし、それは近代以降のの改良主義、進歩主義、経験主義では捉えられないものだから。
回顧主義ではなく、それはもっと広い意味でとてもポップなものだと思う。
再生としての回帰であり、根源と同時に進む方向を指し示して円環する音楽性。


レディオヘッドから当時チョムスキーを読んだりするようになったという事も関係するのだが、やはりレディオヘッドは鋭い。
グローバル化する中で、「自分が属している以外のこと」に関心を持たなくなり、全体的な利害よりも、商業的利害が優先されて、個は分断されていく。日本では2000年代からようやく問題視されてきたようなことをすでに93年くらいには作品として明確にうちだしている。 しかもポップカルチャーとして、メッセイジソングではない形で、斬新にしかもこちらも回帰性を備えた柔らかさで奏でられる。

レディオヘッドは、初来日の川崎クラブチッタ、二回目の渋谷WESTもよく覚えている。特に川崎の初来日時は、公演後にたまたま駅近くでトム・e・ヨークやジョン・グリンウッドに会って二言三言直接離すことができたから余計にそう感じる。全てを見つめている透明な眼差しが印象的だった。
やはり『パブロハニー』から『ザ・ベンズ』の辺りと、『KIDA』は特別なアルバムだと感じる。今年は集大成的なアルバムも出たが、もう少し彼らの音楽性については語られるべきものがあると思う。行き先の見えない静かなカオスと可能性、それらは語られない間は享楽的に「忘れられ」ていて、覆われているだけなのだ。


DEAD CAN DANCEも今年は紙ジャケット仕様で再発売され、奇妙な一致で思い出したように聞いてしまった。
ザ・ベスト・オブ
ザ・ベスト・オブ
Aion
Aion