犠牲者と事実を忘却しないために、どうすればよいのかと思うことがある。
それは20世紀の思想や文学を読んできたのと、第二次世界大戦を経験した人たちの孫世代にあたるせいかもしれない。
ドイツ68年運動や、レヴィナス『全体性と無限』などを通して思った疑問(というよりも思い)を感じたシンポジウムテーマだった。

グアテマラの記憶回復プロジェクトと和解について早速本を読んでみた。
証言、そこから蕎呂箸靴董峩寡櫃離瓮ニズム」としてまとめられている点に考えされられた。被害者とは、加害者とは、なにかこうしたことが「起きて」「繰り返されている」(場所と時を変えながら)メカニズムとして問題提起されている。
私が思ったのは、「強制的な徴兵」と「軍の恐怖」それらが元々被害者である人たちを虐殺や暴力に向かわせている、もちろんそれだけでは説明ができない。
合意できない人々を「敵」として排除しようとするメカニズム。
見えない力。消えない力でもある・・・
うまく言えることではないのがもどかしいのだが、「遠い地」や「身近でない」とはいえない問題だと本当に思う。
しかもたった10年ほどまで起こっていたことでもある。


忘却してしまえば、繰り返すだろう。
不条理に殺された人々はどうなるのだろうか。

死者の名誉を回復し、遺族がきちんと埋葬(マヤの伝統にのっとって)できることで得られる安息という部分にも大変に思うところがあった。
心の問題、言葉では片付けられない部分、現代では「心」さえも「消去」し、祈りは無意味であるという理論さえある。それだけが「知」であるまで言う立場もある。
しかし形式だけでは何も変わらず、解決できず、和解にも自らの心、死者も救われない。・・・・・・

まさに紙の上での和解は、実際の和解とは異なる。
シンポジウムで実際の報告を聞く機会をえて、また色々と思ってしまった。
問い続けること、他人の問題と思わないこと、・・・それが無限に対する責任の顕し方なのだが・・・・貴重な4時間だった。

(余談だがこの日、母親に娘を預けて参加しようとおもっていたのが、母親が仕事で忙しくなってしまい、娘は学会シンポジウムの間、南・第1校舎で行われたワークショップに参加していてもらった。実はワークショップは翌日参加しようと思っていたのだが、いろいろ考えた挙句、やはり参加できてよかったと思う。娘もいうことを聞いて途中から一人でワークショップに参加できたようでひと安心。)

グアテマラ虐殺の記憶―真実と和解を求めて