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「貧困」について考えよう〜『Blog Action Day』企画〜 に参加中!
ピックアップテーマ、action day企画関連で投稿します。

貧困について考えよう。

近代社会は中世、前近代、古代そのいずれの時代よりも「進歩」している、という事になってはいるが、市民社会では市民が「豊か」になることを目的としたために他者への配慮や還元ということが「損」「自己の利益を損ねる」という考えになってしまった。

現代では福祉や公共事業は一般の人々の税によってまかなわれている。
が古代や中世では、それらは富裕層、指導者、権力者たちの私財でまかなわれていた部分が大きい。しかも注目したいのは、彼らは他者のために寄進しつつ、自らの内面的幸福や安心も同時に得ることが目的だった、というところ。

人間から「私性」を取り去ることはできない。
自分が結果的に満ち足りる「実感」を得ながら、他者の救済にも役立つ。
貧者を排除するどころか、逆に必要とする、そんな社会が中世アラブ世界にはあった。

イスラーム圏では人の両肩には天使が守護しているのだが、善行と悪行をかたときもみのがすことなく「見張って・カウント」しているという教えがある。
そのカウントは最後の審判時に判断基準になるのだという。
他人が監視しなくてもそのように自己意識がはたらき、親切にしたり、私財を寄進したり・・・両肩に天使がいるという話を聞いて、くだらないと感じるだろうか?
私はいたく関心してしまった。
伝統的なイスラーム世界の考え方は何というか「結果的にとても合理的」なのである。

盲目の人を「見えない人」とするよりも、自分たちには見えない世界が見えている人として「聖性」を持った人として扱い、排除するよりむしろそのような施設を立てて寄進でささえる。
ワクフは、私有財産をうまく継承させるようなシステムももっており、「私」(一族)の益と、社会や他者の利益とが繋がっているシステムである。

他人のために、というだけでは善い行いはできない、という人間本性の解読の上で、価値観や規律、方法がとられているのではないだろうかと思うことが中世、近世では多い。

建築もそうで、古代ローマとルネサンス(リナシタ)・フィレンツェでは名誉のために、そして贖罪のために建築や都市建設を有力者が行った。

私財は長く世に留めることはできないし、いずれは失われる。
コジモはその財をフィレンツェに投じ、その財産でいまも街は輝き続けている。

「豊かさ」を個人が追求するのをやめることはできない。
しかし他者の苦痛が拡大する世の中は、他人ごとではなく、「私」の問題なのだと思う。だがそれを善意だけで解決するのは難しい。

他者の幸福を自らの幸福と大多数が感じることが大切だ。
他人が救われて、自分も救われると思うことはもう無理なのだろうか?
(私は少なくとも自分がしたことで、他の人が良かったと思ってくれるならば、嬉しいと感じることが多い)
しかし、金、そして数字を重視し、すべての価値をモノ化する感覚をどう転換できるのか?なにかそれには大きな発想とシステムの転換が必要なのだが...

進歩や改良には回帰性が必要(とつくづく思う)のですが、もともとあった良いシステムで活用できる知恵はないだろうかと思うことが多いのです。