ここ数年の読書や表現媒体で求めているものは、一言で言うと進歩主義では解決できないものに対するアプローチの方法、とでもいいましょうか・・・

元々ギリシア好きではあったのですが、そこから東方思想、古代オリエントと拡がっていきます。起源に迫るテーマに近づきたいという思いがあります。
現代に対して、肯定しきれないものがあり、それは形を変えて何度も疑問として巡ってくるものです。

西洋哲学を古代から中世、近代まで大まかに知ると、西欧ではやはりギリシア、ギリシア教父系哲学、そして中世、ルネサンスには原点だった古代ギリシアの体系的な知がビザンツ経由で入ってきて、その後は存在論よりも機械論になっていく。
デカルトからライプニッツに至り、ヒュームらが精神など経験主義で認識できないものを否定するに至る途の他の近代的な可能性はスピノザだと思っています。

現在の民主主義(しかも本来相容れない多数決の原理と結びついた)と自然科学技術で支えられた物質的な世界を肯定するならば、宗教改革はルネサンスよりも近代的と評価されるのでしょうが、ルター思想自体は、中世の唯信主義に似た部分があり、最も技術と精神、数学と芸術が結びついた時代は西欧という枠では古代ギリシアとフィレンツェでのルネサンス(初期・盛期)ということになるのではないでしょうか。

情報とグローバル化によって多様性が失われていると思った時に、イスラーム世界について学び始めました。西欧で、追放された哲学が生き延びて息づいていたのはイスラーム世界であり、スーフィズム(イスラム神秘主義)はグノーシスやネオ・プラトニズムと近い。そして社会的なシステムをみても、ギリシアーローマで創られた合理的システムはむしろイスラームで生きているといえる部分が多い。ローマの他なるものへの寛容性は、直接ヨーロッパには受けつがれず、むしろイスラーム世界の統治に組み込まれている点が多い。
少なくとも19世紀のヨーロッパ帝国主義時代まで、18世紀まではイスラームとヨーロッパは共存していた。資本主義経済の最終的な段階で消費による公共性喪失で、物の豊かさを由としなければ、精神的な豊かさを求めるのだろうが、しかし精神そのものは英語圏の主流な考えでは精神は神と同様に、否定すべきものでなんの実体もないとされたままだ。

何を得て何を失ったのか。
それは過去の豊かさを細かくみていくと次第に明確になっていく。


失ったものの価値を根拠を明かにする時に直接的、経験的に指し示すことができる根拠が現在直接残っているとは限らない。
感覚知、本質直観を英語圏では否定するが、しかし本来、経験的に踏み込んだことのない領域についての考えというものは、何か前例をもって説明できるものとは限らない。日本語記述も英語言語の特性によって、日本語の特性が失われていっている。
例えば、イタリア語では主語が明確な場合、省略されるのが普通である。
英語で必ず主語があり動詞がなければ何も語れないという影響を受けてはいない。
日本語も元々、そういった言語であった。・・・日本語の特性は常に英語化されて記述されることによって失われる。英語が語れない事物について、二重性や多義的な事象について語れる言語は、それを語る特性と必要性に気がついていた言語なのだから。フランス語、ドイツ語、日本語・・・・・・・

本来性は自ら求めなければ、失われていく。

断罪して多様性を認めず、同化を求めるものの暴力性は常に正しさと良心によって引き起こされる。この矛盾は至るところに見受けられる。


メモとして読んでいった数十冊の書籍・文献は近々書き留めておこう。
書き残したい事は多いのだが、同時に知るという段階でも酷く過渡期なため、書くことに酷く躊躇がある。


真夏に贈って頂いたカレル・チャペックのグリーン・ウォータというお茶を頂いています。洋なしとミントのフレーバーがナチュラルでとても美味です。
お茶と、アズーラ・フリザンテで割ったネトルのコーディアルをよく飲んでいます。



ローマ帝国の神々―光はオリエントより (中公新書)
意味の構造 コーランにおける宗教道徳概念の分析 (井筒俊彦著作集)
中世環地中海圏都市の救貧
公共性 (思考のフロンティア)
公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究