February 12, 2008

マラーホフの贈り物20083

マラーホフの贈り物(Aプロ)に行ってきました。

マラーホフの牧神はマラーホフならではな解釈という感じよりもニジンスキー版を正確になぞるような方向を感じた。牧神は半神半獣、人間を離れナトゥーラより以前の原始神聖のような自然(physis)にいるものであり、ニンフもそういう意味では人格と自然神聖の間にあるもの、その二つの遭遇。しかしニンフたちは類を持つが牧神は始めから最後まで個。ニジンスキーはこの森の奥にいる個としての自己ととらえきれないエゴを古代ギリシア美術のプロファイルのように客観として描く。
側面しかみせないこと、記述的ともいえる感情・装飾性の排除などこの作品を魅力的に見せるのはとても難しい。
抑制され隠された感情表現だけにマラーホフはなかなかその思い切りが難しいのではないだろうか・・・?自己にも無意識が広がるエゴになりきるのはとても難しい。
動きの一つ一つが断絶ではなく繋がりとしてしかみえなくなるような、静性はやはりシャルル・ジュドの印象が大きすぎるためか、それを凌ぐものはまだない。
もっとも、ニンフの群舞(という表現があっているかは別として)もどこか動きをトレースしているだけで、それ以上の表現を感じられなかったのでそう感じてしまうもかもしれない。ニンフの井脇幸江さんは美しかった。ただ、ニンフの無知(いい意味で)の部分よりも、ニンフに無くてもいい神格のような特別な存在感がでていて、良いのに存在意味としては矛盾してしまうような部分も・・・

記号化されたバレエの美という部分、そういうものを表せるのは、やはりパリオペラ座の芸術性が特別だと思う。

ゲストの踊りではやはりマリーヤ・アレクサンドロワが特に素晴らしかった。
技巧だけではなく、音楽性がとても高いところが素晴らしい。
技巧は見えるもので音楽性は見えない部分、その両方がまさに見える舞台だと思う。12月のボリショイの公演もできたら行きたいと思っている。

マラーホフは白鳥の、天を見つめるシーンでの悲愴感がまったく大げさなところがなく唯静かな眼差しだったのが印象的。パンフレットの扉部分に、ベジャールに捧げる旨の言葉を載せており、その写真もそういう表情だったからかもしれない。
ベジャール追悼特集に、お別れの会の場にいたマラーホフの記述があり、どこか近くでみたマラーホフに感じたときの佇まいを想起させるものだった。

イリーナ・ドヴォロヴェンコとマキシムの夫妻の演目、特にコンテンポラリーは彼ららだから作り上げられるのかと思うような関係性だった。
俄なペアだったら、また動きと振付をトレースするだけの演目にしかみえないだろう、パンフレットの解説には犠牲とあったが、むしろ自ら「与える」ことの関係性が現れていた。関係の無償の贈与、それがよく表されていたと思う。見た目よりも美しいと感じられるのは、そういう表現を眼にしたときだ。





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高嶺(タカネ)
EMH(エヴァソン)にてブリティッシュ・コロニアル輸入住宅を建築。興味ある方は輸入住宅/庭のカテゴリーをご覧下さい。カーテンはローラ・アシュレイ(HOME)で揃えました
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