1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

May 2014

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スプレーバラとあじさい。
ブルーベリーの葉をあわせてます。

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階段ホールのニッチに活けてます。

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こちらはもみじとあじさい。
もみじはたしかあかねという品種で、引っ越ししたときに実家の父親がくれたもの。園芸好きは父親の影響でしょうか。

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ばらはヴァニティ。
ヘリテージ、グラミス・キャッスル。


薔薇はこれからはイングシッシュローズ、ハイブリッドが少し咲いて、そのあとは紫陽花、ブルーベリーやブラック・ベリーなどが実がつきます。

室内で蘭を育てるのが密かな目標です。
浅倉彫塑館の蘭の部屋を思い出す。
蘭は祖父が育ててました。

年齢が上がると?蘭を育てたくなるのか?
どうなのか。

さて、月末で忙しないですが、もうすぐUK-JAPAN (日英交流150周年記念公式イベント)のメンバーとの同窓会です!



JOHAを通じたお知らせを掲載します。

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一橋大学大学院社会学研究科
ジェンダー社会科学研究センター(CGraSS)

● 第27回CGraSS公開レクチャー(一橋大学国内交流セミナー)

● テーマ:〈戦時、日中映画のモダニズムとジェンダー〉

 今回は多少、趣向を変え、共通のテーマを立てて気鋭のかたがた
が集うワークショップ風の開催といたします。
 日中戦争から太平洋戦争にかけての時代にあって、モダン文化
の中心ともなった日本/中国の映画とその社会についての注目の
研究書、宜野座菜央見『モダン・ラ イフと戦争――スクリーンのなか
の女性たち――』(吉川弘文館、2013)・晏妮『戦時日中映画交渉史』
(岩波書店、2010)の著者たち、さらにプロレタリア文学からエロ・
グロ・ナンセンスといったまさにモダンと戦争の時代の日本文学研究
で知られる島村輝氏を討論者に迎えます! 多様なかたがたからの
刺激的な介入を歓迎します(参加無料、申し込み不要)。

● 日時:2014年6月13日(金)16:30〜18:30

● 場所:一橋大学・第三研究館研究会議室
(東キャンパス、JR 中央線国立駅南口より大学通り左側沿いに徒歩約7分)

http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/index.html
(建物47番)

◎講師:宜野座 菜央見
(明治大学・大阪芸術大学兼任講師:近代日本史)

「モダン・ライフ映画が提起するもの:見えない中国・日本社会の二重構造」

大衆文化が活気づいた1930年代。日中戦争下、日本映画は戦争映画で
戦場と銃後をつなぎながらモダン・ライフを描く映画を提供し続けた。この
現象が示唆するのは何か、『モダン・ライフと戦争』が論じなかった点を報
告する。


◎講師:晏 妮(アンニ)
 (一橋大学社会学研究科客員教授:比較映画史、映像学)
「越境する映画、引き裂かれた表象:戦時日中映画交渉に見るジェンダー」
欧米一辺倒だった日中両国映画界は、日中戦争期に非対称の関係下で接
触を開始、映画製作や輸出入を行った。戦争相手国に進出した作品におけ
る表象とスター女優の身体に絞って、ナショナリズム、コロニアリズムとジェン
ダーの視点をいれて多角的に検証する。

ディスカッサント:島村 輝
(フェリス女学院大学文学部教授:日本近代文学)
司会:坂元 ひろ子(一橋大学社会学研究科特任教授:中国近現代思想文化史)

● 終了後、懇親会を開催します。参加希望の方は6月6日(金)までに
  下記問い合わせ先にご連絡ください(詳細未定)。

● お問い合わせ先:ジェンダー社会科学研究センター cgrass(a)
soc.hit-u.ac.jp
  ((a)を@にかえて送信してください。)

● HP
http://gender.soc.hit-u.ac.jp/

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Kさんがご実家に戻られてるとお知らせもらい、自由ヶ丘に。
ちょうどマリ・クレール フェス中で南口あたりは賑わってました。

ワインやお料理の出店をちょっとぶらつき。

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数ヶ月ぶりにアトム君(トム山さんという名前が加わってた)と再会!
すごく可愛いです、ごあいさつしてくれ、撫でるとすりすりしてくれます。
可愛い!

シンガポールをメインにしているTWGでお茶(Silver moon tea を選んでみました)をご馳走になり。

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自由ヶ丘といえばスペイン料理のマイカ、予約して頂き数ヶ月ぶりにおいしく頂きました。ムール貝、スペインオムレツ、バイ貝、全て美味しいです。
ムール貝は今年の初物とのこと。
久々にシェリー酒も飲みました。
スペインビールも美味。

またまたお家にお邪魔し、アトム君と息子さんに再会。


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これは送って頂いた金谷ホテルのお土産。私が奥日光訪れたのが上旬でその後Kさんも行かれたそう。5月、7月、秋の奥日光は良いです。都内から近くて、しかも国立公園で保護された区域のため、自然が残っています。

そして、たみちゃん(猫さん)にも会えました。

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お母様にもお会いでき、ナツメ椰子とお土産いただきました。この包装和紙がとても綺麗で但し書きをみてみたら手透き和紙で封筒に使えるのだそう。いいですね!



Kさんのお家には、にこさん連れ、娘も遊びにいかせて頂いたことがあります。

久々に休日的な時間を過ごせました。
ありがとうございます。

次はおすすめのティーシェイクを飲んでみよう。


http://ousia.livedoor.biz/archives/2014-02-12.html
以前同一労働同一賃金について少々書いたことに対して追記。

単純に合理主義の立場から指摘されることに加えて、いくつかの問いがある。

第一に、技術の継承について。非正規とされて仕事をする場合、技術職や専門職の技術継承はどうなるのかということ。平たく言えば、ある仕事の立ち上げから完成までを一人で行うようなことが増えており、単純に人件費の削減という点からそれを行っているとすれば、問題となるのは技術と経験の継承ができるるのかということ。
あまり世代的なことを言いたくはないのだが、事実としてある一定の年齢以上では人脈と経年はあるものの、技術がない(あるいは古くなったまま)という立場の人(社員や正規雇用の人)がいる。
要するにこの人たちがスキルがないので、それより下の世代のスキルを需要に応じ、言い換えるならば必要なだけ買いとるような仕組みで仕事として動いている。彼らはいとも簡単に、自分にはできないから、あるいは自分だけでは完成できないから力を貸せという。しかしそれが本当に貸すだけになっている現状。本来ならば、中間的にワークをする人は中間的に機能して、それを次の世代に引き継ぐ必要があるはずだ。しかしこの中間的な仕事が丸投げされており、実際の労力と経験がどこにも蓄積されていないのではないだろうか。
一時的に人件費は削減できるかもしれない、しかしカンパニーが持つ技術や創造の価値は蓄積されていかないのではないか。これは損失にはならないのか。
(50代以上の人の円満な退職のために、技術職やスキルをもつ人の地位が脅かされているのではないかということ。それは結果的に損失にならないのだろうか)

クリエーションとはいつの時代も本来は有機的なものだ。 もう1つの問題はよく語られる時給の問題。1時間あたりの仕事とはどういう量、質を想定しているのだろう。 また企業は時給を低く雇用したいのかもしれないが、人はその金額より多く消費する心理は無くなる。また結果的にその仕事・業種の価値も低くなる。 またかつては専門職として認められていた、通訳、翻訳、旅行関連、語学系、経理などは外注化しているがそれらを担う人を教育している側は現状を認識していないことが多い。 かつて失われた10年と言われた喪失は、近頃ではいとも容易に20年と言われるようになった。 十分に語られていない事柄をどのように検討するのだろうか。

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額紫陽花が咲きました、早いです。

気温も高く、乾燥していて紫陽花くるしそう。


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大阪のギャラリーベルンアートさんからお知せがあり、5月上旬に有楽町駅前で開催された幻想絵画展の作品が大阪でも展示されます。

http://ousia.livedoor.biz/archives/52286042.html (Fantastic art show2014の記事)



私が自宅に飾っている古賀郁さんと浅野信二さんの作品からいくつか。

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お近くの方、会期中お見逃しなきよう。

http://gallery-bernart.sakura.ne.jp/160F3752-73BC-4D4C-A333-5B595A77C176/000A87D8-4650-4B03-9A8A-A0588DF1036E.html


テンペラ画の精密さ、仕上がりの美しさは絶対に印刷では再現できません。まさに絵画。


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イングリッシュローズはヘリテージとワイルドイブの花形がきれい。
ニュー・ドーンは色が美しいです。
一番美しい時は最も耀きのある花弁だと思います。バラがもつ真の意味は端的にいうと神秘だと思いますがそれが内包されている。


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はまなす。
八重咲き。原種に近いため、香りもあります。


あじさいは四種類育てていますがあまり種類に詳しくはありません。
そう言えば昔はあじさいにかたつむりがデフォルトでしたが最近あまりみない。
かえるも珍しくなった。
梅雨もスコール的になって、ゲリラ豪雨のような日が増え。
四季の中間がなくなってゆく。

http://matome.naver.jp/m/odai/2009060414235088935">
あじさいの種類をまとめたサイト。


ブリティッシュ・カウンシルからのお知らせより。


厳選した海外名作映像を紹介するアイ・ヴィー・シーでは、BBC文芸ドラマDVDシリーズとして、最新10作品を含む全31タイトルを、4月から6月の3か月連続でリリースします。
チャールズ・ディケンズ、ジェイン・オースティン、コナン・ドイルの名著をBBCが完全映像化!

同シリーズ作品2本購入で1本プレゼントのキャンペーンも実施中。

http://www.ivc-tokyo.co.jp/campaign/index.html


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ティージング・ジョージア、エイブラハム・ダービーほかをアイビーと一緒に活けました。

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アーチのバラ(Angela)も満開です。
このバラは凄く生育が旺盛でして...白のつるばらも一緒に活けているのですがうまくボーダーにはなってません。
ピンクのばらだったら、ローブリッターが良かったかも、などと思っているのですけれども。
でも照り葉もきれいだし、簡単にアーチにできるから失敗知らず。(剪定はまめに)



イングリッシュ・ローズはヘリテージも咲いてきました。

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一度、地植えにしたものの、土があわないのか元気がなく、鉢あげして株を大きくしてます。

ワイルド・イブもずっと元気がないバラだったのですが、今年はシュートも出て、新しい枝が増えているのでちょっと安心しました。
もう少しまめに土づくりをしなければならないのでしょうが、いかんせん体の負担もあるので...。

モダンローズの緑光、シェネバルツァーも咲いています。
オールドローズほそろそろ終わり。
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この数日でニュードーンも咲いてきました。一気に咲いてしまいそう。

今年は風が強い。
花が散ってしまう。

そして乾燥が酷くドライアイの症状がつらい....

わざわざ書いてませんが、どうもずっと微熱が続いていて体力を奪われるんですよね。少なくとも半年以上つづいているような、時々直接会ったかたには言ってるかもしれませんが。
それから背骨の関節(?)が鳴る...これも昨年夏からずっと続いてます、なんと表現すればいいのか、鈍痛とも違うのですが。
痛みどめはボルタレンです。それからリリカ。手術を担当してくれた先生に聞いたらあまり意図的に鳴らさないようにとのことです。同じ姿勢をずっととっていると悪いところに負担がいくのでそれは今後もずっと避けなければならないとのことなんですが、何か書いたり作業したり集中すると長時間になっています。
何事も些細なことが蓄積される。







以前「雪かきボランティア」を例にいくつかの疑問をメモした。
それに関連して、読んだ本の中で日頃感じた違和感に近い問題提起があったので追記。

「例えば、かつての政治の意味論に補足されていた「ボランティア」言説は1970年代以降、<教育>に憑依され、「活動者の成長や自己実現につながること」が「よいボランティア」の指標とされるようになった。そして、その活動経験が進学や就職の評価にも用いられる「共存状態」が作り出されていった」(「自由への問い5」(岩波書店) P.182)

本来のボランティアとは、他者を主体とし、必要性の観点から公助、つまり本来のパブリックな意味で行われるものだっただろう。 しかし昨今の行政ボランティア募集でどこか当初の精神を感じず、高圧的なものさえ感じるのはなぜか。この傾向にそのような違和感を述べる人も増えている。 これは、上記のような学校教育の枠組みからの拡散だからなのだ。
もちろん、ボランティア全般に意義を言っているわけではなく、私とて必要性の観点から、自分が持っている些細な能力でできることはいくつか関わっていることもある。

結果的に評価されることはよい。しかし評価あるいは自己実現のためのボランティアを「よいボランティア」として自然に定着させていくことには疑問が残る。特に末端行政の場面では。
「私はXをしている」ということがその人の価値になるような風潮。
ではしていなければ「やる気がない」とか「利己主義」とするような風潮はいかがなものか。

もちろん、もし「共存状態」や「評価」目的に活動を始めても、意義や価値を見つけたり仲間づくりができることは素晴らしいことだ。それ自体に異義はない。だが逆もあり、よくないこともある。

「教育的なもの」が社会全体に拡散すること、こうした動きが顕著になっていくのは1970年代以降だという。経済的に成長した時代に重なるため、私的時間や財を行政側(あるいは日本的な公)に還元させようとしたのかもしれない。

何も他者が必要と思っていることを助けるのに、公的な募集(あるいは強制)がなければできないわけでもない。即時的な補助などは日常的には多くある。それらには評価はつかないだけである。


「教育は、空間的、年齢的、システム的境界を超え、職場や市民社会へと浸潤していく。・・・ここでいう<教育>とは、<主体化されたもの/されてないもの>という区別のもと、後者から前者への変化を要請する意味論である。」(前掲書・同)

まだ「やってない人」に対して「やるべきだ、やってみたら発見がある」という説得がこれにあたる。それは主体的に決めるべきで強制や「やった人の価値を上げること」と結び付くべきではない。 (学校の強制役員もこのような要素があり、あまり活字にはならないが毎年多くの負担が囁かれる。社会が変化しても行政は変わらないため意識のギャップは不幸な状況になる) また奇妙なのは自己責任言説とよいボランティア言説が結び付く場面があるためだ。 つまり浸潤した「他者への作用 意図的自主性」が還元されるシステムが見出される。
要請した側も浸潤した側もそれには気が付かないので(なぜなら主体化されているから)今後こうした事柄が変化するかどうかはわからないのだが、ネット上にある「違和感」の正体はおそらく「助け合い」という自然な行為に不似合な「学校教育的な要請(強制的自主性)」と「よいボランティア意識」という付属品があり、その大きさが目につくからではないか、と思った次第。

*過去記事本来の意味は、社会が必要とする事柄をボランティアで解決しようとすること、への問題意識です。必要なことを抽出して予算化することが大切なのではないかということ。問題を顕在化するためにも解決するためにも、善意の作用に任せていてよいのかどうか。




ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)
ディオゲネス・ラエルティオス
岩波書店
1984-10-16




ポッライウォーロとサンドロ・ボッティチエリのニックネームについて書いていて思ったこと。
『芸術家列伝』の前例はディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』だろうがあだなの付け方もギリシア古典期を踏襲したのだろうか。おそらくそうだ、と考えての以下追記。

キュニコス派のアンティステネスは‘紛れもない犬’と呼ばれた。
他方プロトルネサンスのマザッチオは‘汚いトンマーゾ’である。これは絵に対する情熱のため身なりにかまわなかったためにつけられたがマザッチオは純朴な人で愛され、あだなに悪意はあまりない例。
アレッサンドロはロレンツォの遊び友達で樽(ボッティチエリ)は恐らく酒飲み的ニュアンス。

ギリシアがラテン世界で再生するのはフィレンツェ公会議以降。ロレンツォはペリクレス時代のアテネを目指した。
(それ以前は共和制ローマ)
ヴァザーリはシニョーリア市庁舎の室内装飾でギリシア文化のいわばラテン化をし、レオ10世(ロレンツォの息子)はヴァチカンのギリシア・ローマ化・共存をしている。
これは相当に画期的だ。が、ルターらはこの融合を攻撃していた。(攻撃の矛先がややずれている気もするが)
カトリックの起源にはローマ多神教・自由学芸が融合しているので、イタリアと北方では感じかたが異なるというのもあるのでは。



因みにラファエロの<アテネの学堂>も構想上、『ギリシア哲学者列伝』と『芸術家列伝』的なものを組み合わせている。自画像含め、ルネサンスの画家の集団肖像画の機能も持ち、しかも遠近法、レオナルド・ダ・ビンチ的なドラマの表現を用い、古典建築の造詣も生かされている。

『ギリシア哲学者列伝』はユーモアもありそれもヴァザーリは継承している。
あだなを愛着込めてつけているようなところも、シニカルな笑いも踏襲されている。

それにしても、この手のあだ名や通名の率直さは凄い。
恐らくだがロレンツォにつく、豪華王もこの流れによるのではないだろうか。逆に、痛風持ちのピエロ(デ・メディチ)の通名は、額面どおりではないような思える。豪華王とか、ミランドラの王子(ピコ・デッラ・ミランドラ)、アルベルティ(全能人)に対して、マザッチオやポッライウォーロの通り名よ!
それでも工房の職人から通名ある職人になり、芸術家列伝で彼らは芸術家になったのである。

同時代人が自らの価値観と審美眼、エピソードと業績を書き記し、価値付ける。
ギリシア哲学と古典期をルーツにもつ芸術家列伝だが、人文主義が規範にしたレプブリカとユマニスムの方法で纏められた記録だと思える。

もし、同時代のうちに価値付けをするならば、『ギリシア哲学者列伝』の手法を用いると良い。

因みにピコやアルベルティには天才エピソードも付随する。
ピコは本を一度読み覚えてしまい、逆からも暗唱できた、アルベルティの驚異的身体能力など。雄弁が求められたから全てを信用するわけではないが、その時代の空気や都市の様子も感じられるエピソードは愉しい。

一次資料の価値もそのあたりにある。

肖像、プロファイルは同時代性と我々(we)という意識の獲得が必要だが今日的にはどのように作用しているのだろうか。








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ポルディ・ペッツォーリ展で注文したポッライウォーロとサンドロ・ボッティチエリの額装、届きました。

GW明けに届いてましたが、やや忙しくなり写真撮る余裕が。

ボッティチエリの額装。
意外とサンドロ・ボッティチエリの額装は多くないように思う。
後期作品はサヴォナローラ時代以降のフィレンツェをよく表している。
ボッティチエリのテンペラで好きなのは<柘榴の聖母> <アペレスの誹謗> そしてもちろん<春>などです、しかし今回ポルディ・ペッツォーリ展で来日している<死せるキリストへの哀悼>に絵画に描かれる表情はボッティチエリの深い精神性が現れている。

サヴォナローラをフィレンツェに呼び寄せたのはピコ・デッラ・ミランドラだったとされている。
ロレンツォ・イル・マニフィコとアカデミア・プラトニカに集った人文主義サークルの影響から<春>や<ヴィーナスの誕生>は依頼作成された。(もっともロレンツォとボッティチェリはパトロンというよりももっと友好関係にあった)
それに比較する後期作品にみえる変化。
タブロー以外にもフィレンツェとヴァチカンにはフレスコも残っている。
サンドロ・ボッティチェリ作品を観るときには、作品を通して当時の社会的・文学的・思想的な多層が見えてくる。そして彼自身の心情の変化、境遇の変化の大きさも見えてくる。


<a href="http://livedoor.blogimg.jp/unica/imgs/d/0/d00f94dc.jpg" title="image" target="_blank"><img src="http://livedoor.blogimg.jp/unica/imgs/d/0/d00f94dc-s.jpg" width="300" height="500" border="0" alt="image" hspace="5" class="pict"  /></a><br />


ポッライウォーロ<貴婦人の肖像>1470年 テンペラ
サンドロ・ボッティチェリ<死せるキリストの哀悼>1500年 テンペラ



ポルディ・ペッツォーリ展は25日までBunkamuraで開催。










上旬に金精峠から丸沼に行った時の写真。


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湖面が凍っています。

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気温は14度くらいあり写真撮ったのも午後です。きっと朝晩の気温差があるのでしょう。残雪も凄い。

この辺りは4月末まで通行禁止で5月から解除されます。
夏の青々とした緑と湖とは違う表情。

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丸沼は本当に静かな湖です。


奥日光でも湯滝あたりは大分、春らしい。

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市内の田母沢御用邸記念公園は庭の花が鮮やか。

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四季が見つけにくい昨今ですが、都市部を少し離れると移り変わりがある。
都市は人の交流や対話でその良さを感じられますが、自然は他の生命でその作用を感じる。


パルシステムでは時々特別なコーヒーが出ます。2月頃グァテマラのコーヒーについて書きました。今回はキューバ・コーヒー。

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すっきりしていてバランスが良い感じ。
ストレート、あ、コーヒーだからブラックか。そのままか、オーガニックシュガーをすこし加えるのが美味しいのではないかと思います。

上述したエィンフェルト農園のコーヒーは夏ギフトにもセレクトされてました。
もうそんな季節?

アーチのバラ、ニュードーンも咲いてきました。





井筒俊彦全集第4巻『イスラーム思想史』の第3部スコラ哲学(Falsafah)の章で書かれているアヴィセンナ、アヴァロエスについて。メモ。

アヴィセンナの「偶有」概念について。この概念はイスラーム思想史上、問題を引き起こした。
井筒はそれを 偶有と実体の関係と少し違って偶有と本質という次元で引き起こされたと書いている。アヴィセンナが存在を本質の一つの偶有として解いたところから始まるという。

事柄は存在論的に二つの要素から成り立つ。一つは現にそこにあるもの、もう一つは「人としてあること」「Xがある」というときのもの。
メモなので端的に書いていくが、限にそこにあるもの、とは私でもあなたでも花瓶の花でもいい。いずれ時間が過ぎれば死んだり朽ちたりする、またうまく作られた家具や、使えなくなった文房具などなんでもいい、そこにあるものである。
(このことで、プラトンとディオゲネスが大喧嘩になった、ディオゲネスが自分には机はみえるけど机そのものなんてものは見えない、と言ったところ、それは知が足りないからだということになり喧嘩になった。こういう議論は今日とてよく目にする。個物認識は感覚の働きでそれそのものを捉える・とらえようとするのは知(ヌース)が必要になるということ。)
だが、美しい花、良い馬というものは個物とは別にある。
これは良い馬という場合、それを満たす条件があり、その条件を満たす(十分条件的に)場合は「いいね」と言われたり評価される。
(ちなみに、「馬」の例が出されるのは、おそらく君主らにとって必要とされた知は主に治世と戦争と法のことに関するためだと思われるのだが...)

そして本質が具現化する際に能動態(どれだけか、どのようにかなど述語部分)によって個物の存在に影響する。おそらく、偶有性はこの作用に関わる。

「「本質」とそれの偶有と考えられた「存在」の関係はそうは行かない。「存在」という偶有、あるいは性質が、初めからそこにある「本質」に宿りに来るということはあり得ない。なぜなら、そこにあるとは「存在している」という意味だから。「存在」が偶有する以前の状態では、「本質」はないのであある。・・・・(P.442)

ここは「存在」という言葉をどう定めるかで解釈が異なる部分ではないだろうか。
「存在」(有)をそこにあるという意味で限定するのはおそらく実存的な立場であって、「有」を存在とするならば(ここが西洋思想の大半にも関わらず、多くは理解がぶれるところだが)、そこになくとも「存在(有)」はあるものとして「存在する」と呼ばれるのだ。
(このことは、ルチャーがパルメニデスの項目で不満を述べており、眉唾だと批判している、気持ちはわかるのだが、事態はパウル・クレーの絵画の芸術性のように曖昧にして眺めておくわけにもいかない。そこにある、ないという存在次元ではたしかに「実在しない」ことは「存在しない」と語られるのだが、そのように想定できたという可能態としてはある(有)とするのが「存在」という言葉が西洋思想史上(すくなくとも古代から近世まで)の考え方で、厳密にいえば現在でもこの立場のほうが正確だと思う。
だから存在しない、ということも一つの現象・表象であってそれは可能態×偶有性で実在の関連するといえるのではないだろうか。

段々記述が脆うくなってきたが、常々感じる訳語の問題で、「存在」という言葉がもつ物質的な特徴、人称的なイメージが理解を妨げていると感じる。日本やドイツといったアミニズムが残る地域ではこの傾向が強いように思う。神が死んだとか、神様にお願いするとかそうした志向から判断すると、なのだが。


「アヴィセンナの哲学では「可能的」は「必然的」と対立する。すなわち、「あり得ないとも限らない」し、そうかといってまた「あり得るとも限らない」ものの意である。」(P.444)

必然には疑問や偶有性はありえない。一神教の絶対性とはこの必然におっていると思う。
しかし必然的に対して、可能性という範囲が広がれば必然の決定的な力は根拠を失う、人に対しても同様で、「動くもの」「他のものになる」ことの「可能性」によって、絶対的に定められるものではなくなる。身分固定制や封建制はこの必然性を根拠にしている。
アヴィセンナの存在論体系に対してアヴェロエスが批判したのはこの点になる。


潜勢力という概念が、13世紀におこるがこれも同様である。

遇有性によって、存在はなにも定められていない、という理解は、一神教の神と人間の関係を揺るがすことになるので、イスラーム世界では歓迎されなかった。
実はこの働きは、そのままピコの思想、フィチーノ思想に現れる。
特にピコの「人間の尊厳について」(出版時のタイトルと周知されているタイトルだがピコはこのタイトルを用いてはいない。ある優雅な説教のようなタイトルだった)にはその影響がみえる。
フィチーノが「魂の不安」について書いたのも、この定められていないという本性によっていた(と思われる)。ピコの説教が比較的最初のカトリックに対する宗教改革的発言で、これがイタリアの内省的な宗教改革の動き(ミケランジェロなどにも見られる)から北方でいわゆる「宗教改革」になるのだが厳密にはこの働きよりも、イスラーム→ルネサンスの時期のほうが宗教改革的な思考であると考えられる。これはすでに自論で述べたことなのだが改めて思想史的なルーツを確認したくなる。

結果的にはピコとフィチーノは異なる結論に至るのだが、第一原因という概念を用いて「神」を説明したブルーノの思想もこのあたりが端緒になっているように感じる。(清水純一著作とブルーノ著作を参照)


『意識と本質』で語られる「本質(マーヒーヤ)」などの説明もこの巻が詳しい。だから主著『意識と本質』を読む前、あるいは合わせてこの全集4巻を読むほうがいい。
それからアリストテレスを読み返しながら接したほうがいい。
述語部分、あるいは能動態についてさらに区分して考察した論が中心になるから。


異なる目的で調べものをしていたのだが、息抜きに読んでいるうちにメモを書いておきたくなった。(図などで書いて整理していると抽象的な事柄が把握しにくくなってしまう)
おそらく間違えているか理解不十分なところがあるとは思うが、それも現在の状態...
より理解できるようになればよい。

それからこうしたことを形而上学だけの問題と思うふしにはあまり同調しない。
こうした事柄は実際のことがらの良しあしや選択に関わるためであって、極端にいえば日常的なことがらも無関係ではないからだ。)日常的なことの大半がこうした思考を延々へて選択するわけでもなかろうが、それでも無関係ではない。
法とか制度、あるいは在るもの、作られるものすべてはこの関係に連なっている。




新選組血風録 DVD-BOX1【DVD】
永井大
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2011-12-09




4月から見はじめていた新選組血風録(2011)のDVDを購入。NHKエンタープライズ。volume 1と2があり1は第1話から6話まで収録。

購入に際してなかなか映像特典の詳細がわからなかったので今後もし同じような方がいるかもしれないと思いメモ。

映像特典は第1話2話のディスク1に収録されています。ドラマチック・アクターズ・ファイル(DAF)というNHK 内で放送されたらしい映像です。15分くらいでしょうか。
紹介コメントはこちらNHKの映像紹介コメントが凄い...)

土方歳三役の永井大さん、沖田総司役の辻本祐樹さん、加納惣三郎役の佐藤永典さんの順に3名分収録されています。
永井さんのは屋外ロケや役づくりについてなど、土方ならではな殺陣を作っている、刀が特別長いなどのエピソード含みます。
辻本さんは沖田役の殺陣含む役づくりや稽古場の様子、メイク途中も見られます。どんどん総司になっていく様を捉えてます。
インテリアショップ巡りのなかで語る仕事の取組へのコメントなど。稽古風景が見られるといいな、と思って購入したのでよかったです。
佐藤永典さんのは他作品の稽古場レッスン風景とコメント、第6話撮影風景など。

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パッケージはデジパック三枚組で解説付。こんな感じです。
三面に近藤、土方、沖田になっています。パッケージや解説の写真も綺麗だと思います。

VOL.1では、第1話(初回特別で70分以上の本編)、第3話(芹沢暗殺)、第5話(池田屋異聞)、第6話(沖田総司の恋)が好きです。第2話の羽織と隊旗を作るエピソード(オリジナルらしい)も好きですが....あれ、ほとんどですね。毎回の着物の着こなしなども楽しめます。色合いなど本当に絵になる映像、どう見せるかという細心さが好きでもあります。こういう映像とエピソードだったら字幕をつけて国外でも好まれそうですけれども、国外のドラマ専門局とかで放送したらいいのではないかと思います。NHKですしね!
映像的に英・仏・伊あたりの方はすきなんじゃないでしょうか。
VOL.2は第11回(菊一文字)、第8回、第10回が好きです。



一度観た第11話、12話もGW中観てました。改めて『菊一文字』は見応えあります。こちらはvol.2を買った時に改めて。

改めて全く古さを感じない作品だと思います。クオリティが高い。




辻本祐樹さん、加藤虎之介(山崎丞)さんが出ている大河の「平清盛」もGW 中に観てみました。こちらもなかなか映像として作り込まれていて面白いです、DVD 完全版だとまとめてみられるのでエッセンスが何なのか、ちょっと客観的に見られるのも良い。辻本祐樹さんは重衡、加藤さんは西光役。芹沢役の豊原さんも出演してました。後白河や成親もよいです。

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フローラ・ガーデンのすみれver,に50mmサイズが出たので先日購入。良い香り。
フローラ・ガーデンはGUCCIのフレグランスシリーズ。チュベローズを最初気に入って段々増えてきました。
マンデリンとヴァイオレットが路面店限定です。

かおりのよいEnglish Roseやシャポー・ド・ナポレオンも咲いてきて天然ばらの良いかおりを一年ぶりに思い出しました。

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Teasing georgia
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ワイルド・イヴは蕾が傷んでちゃんと咲いてはいません。このバラはフルーツ系のかおり。

そろそろニュー・ドーンも咲き始めそうです。でもそうなるとすぐに梅雨なんですよね。
一番良い季節の過ぎるのは何と早いことか。最良の季節の短さ。


BSフジでローマ街道の番組がはじまりましたね。日曜の1900からでしょうか。
仕事場いってたので途中からですが見てみました。
ハドリアヌス帝のカノープスが映り感動。でも気になったのはBGMがアルタンaltanだった。アイルランド・トラッド・ケルティックな彼等の曲がなぜか。

アッピア街道も特集されるらしいので楽しみ。古代ローマは公共事業は個人、有力市民が私財で作っていました。
コロッセオも正式名称はフラヴィウス闘技場だったと思います。


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フローラとフローラ・ガーデン。



4月のキーフレーズ

1 天寿光希
2 スタイル・フランス ランプ
  鳳樹いち
3 新選組血風録
  オペラ座 マチルド・フルステー
4 真那春人
  ポアント ヘリテージ
  美弥るりか
5 radiohead
  デザイン・フォー・ライフ
6 if you tolerate this your children will be next
7 エレオノーラ・アバニャート
8 バンコク オークラ レストラン
9 沙月愛奈
10 平野玲 バレエ
   小笠原亮 バレエ





スーパー・バレエレッスンのマチルド模範演技。




東京バレエのボレロ (ベジャール)


美弥さんは今年、凪七さんとW主演するようですね。



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ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ(Variegata di Bologna)が咲きました。オールドローズのなかでも一季咲きのため咲くのはこの時期だけ。

ブルボン種。1909年。
毎年このバラが咲くと、初夏と5月という季節を実感します。

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イングリッシュ・ローズを数種類活けました。ハーマンとメリーソートのテディベアが好きです。ハーマンのはオルゴール入り。
それからキュー植物園のペーパーウェイト、のえるさんが手作りしたのをいただいたイースターエッグ。

のえるさんが居なくなったのは本当にショックで、美術展や劇場にご一緒したり話しをしたりそれが当たり前のことのように思っていたのが、叶わなくなり。
今でも行きたい展示があると、のえるさんならどんな感想を?と思うのですがもう話すことは出来ない。
でも不思議と共有してきた舞台や絵画の感想ややりとりした会話などは忘れないものでそれは生き続けている。

イースターエッグと復活の意味を何となく考えると、可能態そのものの象徴なのでしょう。変化しないもの。時の移り変わりや物質の移ろいにかかわらず、可能性としてあるもの、失われても繰り返し価値として、いや価値を越えて有る(有)ものを象徴として、作用を復活と名付けたのかもしれない、と考えていました。

それはおそらく春の生成と再生の神話と結合して残ってきたのではないでしょうか。

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原種の八重、黄色いはまなす、モスローズなどの一季咲きのバラ、オールドローズも咲いてきました。

幻想芸術展2014 (Fantastic art show 2014)の展示に行ってきました。

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5月4日から10日まで東京交通会館(有楽町)で行われています。
入口のボッティチエリを模した作品製作のディスプレイも良い。

古賀郁さん、浅野信二さん、伊豫田晃一さん、中嶋清八さんほかの作品を拝見してきました。

古賀郁さんに感想をお伝えしたところ、気になった作品、<PROCRATIO>の作品画像を提供して頂きましたので、記事に掲載させていただきます。

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<PROCURATIO>
180mm×140mm  テンペラ・油彩 キャンバスボード


フィレンツェの写本装飾に観られるような精密で鮮やかなモチーフ、ケルビム。柱頭の描写も繊細。どことなく13世紀ビザンティオンから15世紀フィレンツェを想起させる作品。
フィレンツェ公会議はコジモ・デ・メディチが発起人として初めてビザンティオンから140人のギリシア人たちがラテン圏にやってきた出来事として記録されている。ゲミストス・プレトン、クリュソラスらのギリシア語の公会議での発言を聞いていたピコ・デッラ・ミランドラやマルシリオ・フィチーノらはその内容に感化され、ギリシア原典の読解・翻訳・写本収集が始まった。
偽ディオニシオスの『天上位階論』の中に天使の意味という項目がある。またピコもこれについて考察しており、ケルビムは第二位かつ智天使とされている存在。
古賀さんから写本などもコンセプトになっているとコメントを頂いたのだが、たしかに偽ディオニシオスも偽書として長らく人々の興味を引いた。どこか意味を探したくなるような作品だと思い、何度となくその前で時間を過ごしていた。
本来的な天使の位置づけは、不死、肉体を持たないこと、飛翔するもの、メッセンジャーであること、一瞥して知る知者、秘密を告知するもの、である。こうした存在が憧憬を集めていたのはペストや運命論への懐疑、戦争などが関わると思われる。ルネサンスは甘美なものを想起する人も多いが、実際の教訓は「死を忘れるな」であり、有限性の自覚が強かった。
ケルビムは智天使であり、一瞥して知る存在として想定され、時と場所という人間に制限されたものを超越する。

古賀郁さんのテンペラ画は色彩と筆跡が美しいものが多く、この作品も鮮やかな色彩とそれでいて古い時代への回帰と憧憬がコラージュされていて興味深い。筆跡の後もないフィニの状態で仕上げられており、12世紀ルネサンスからのビザンツとラテン世界の交わりもどこか思い起こさせてくれるように感じた。

他の作品についてもタイトルを頂いたので記載します。

<Zur Ambivalenz Ritual>
 220mm×160mm  油彩・ボード

ろぅささんと悠雅くんをモデルにした絵。観たときに実際のモデルさんがいるのだろうなと感じた作品で帰宅してから詳細を知りました。


<節制 ・Temperance >100mm×148mm  油彩・キャンバスボード

寓意・節制をテーマにした天秤を持った男性が中心に描かれている。少しヴァニタスの要素も感じる。他の寓意も観てみたいと感じた。新作で、作成途中の写真をFBで観ていたので実際のものを観られてよかった。

東京展は10日まででこれから大阪へも出品するとのことです。


画像は作家・古賀郁さんご本人から寄せて頂いたもので、許可を得て掲載しています。


会場は有楽町駅前イトシアに隣接している東京交通会館2階。
前々回のIFAA 幻想芸術展でも拝見した伊豫田晃一さんの<結び>、中嶋清八さんの<ル・マスク・ドゥ・ファム>(水の音)、浅野信二さんの4つの連作(これは新刊のゴーメンガーストの表紙。その原画が展示されました)などが印象に残った。

マーヴィン・ピーク著「ゴーメンガースト」三部作+近年発見された幻の続編「タイタス・アウェイクス」が創元推理文庫より近々刊行.
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488534028



マーヴィン・ピーク&メーヴ・ギルモア
東京創元社
2014-06-21




澁澤さんがマニエリスム礼賛の立場を推していたように、また先日のサン・ドニ聖堂のシジェールの言葉にもあるように、「貴き業」は人を引き付ける光を発している。表象された形、色、造詣から無形であるはずのスピリット(精神)を感じるが故に、芸術としての内省作用を持つのだろう。

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田母沢御用邸記念公園に行って来ました。こちらも10年以上来てないかもしれない。ちょうど5月6日まで普段は公開していない皇后御学文所が特別公開期間中でした。
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明治32年に造営、昭和22年に廃止、2003年に重要文化財として指定。2007年に日本の歴史公園100になったとのことです。
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紀州徳川家江戸中屋敷(1840)の建築を移築、玄関は明治期、大正期の建築が集められてます。
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邸内の中庭、二階から見る庭園も美しく、建築と庭園、静けさを堪能できます。


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ヤシオツツジが新緑に映えて鮮やかでした。庭園を流れる小川の流れも清らか。
現在の天皇の疎開先でもあり、庭園の片隅には防空壕があります。
映像では疎開先やその後来訪されたときの植樹の様子も公開されています。

お茶屋があり、日の輪という御用菓子や塩ようかんなどと抹茶がいただけます。
日の輪美味しかった。
4月から11月まで。


江戸期の三階屋が数寄屋風書院、明治期は栂普請の京風住宅、そこに洋式の生活を取り入れた部分とみることができます。照明も工夫されている。

奥日光から市内にいく途中にあり、日光市から東照宮あたりにいく場合は少し足をのばせば立ち寄れるのでおすすめです。ここでしか買えないお土産もあります。


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