安倍首相の靖国参杯の是非についてBLOGOSに多くの意見が出たので年始はモバイル画面でそれらをおっていた。個人的に正鵠を得ていると思ったのは池田信夫氏の記事。

以下は個人的かつシンプルながら少しだけ意見を書いておきたい。
私は靖国参拝=慰霊とは感じないし理解しない。
私の祖父母は東京大空襲を体験しており、以前も書いたが戦闘が始まる直前まで硫黄島に出兵していた。(肺炎が悪化し、戦闘前に帰還)
私の記憶や聞いたところでは戦争体験が熾烈だった方ほど、靖国に思い入れはなく、慰霊のためにそこを訪れることはない。個人の寺や墓へ参るという死者の追悼を、戦争体験者すべてが靖国で行う、ということはないのである。ちなみに個人の墓も、東京第一山の手地区にあるので墓が地方にあるから、という理由ではない。
何がいいたいかというと、靖国参拝を支持している方を個人的に批判するつもりはないが、なにかロマン主義的な傾向がそこはかとなく、メディア・記事・論調から感じられるのが気がかりなのである。参拝を支持する記事で当事者はほとんど見当たらない。おそらく子、孫世代なのではないだろうか。自分が体験していないことは美化してとらえがちであるし、漠然とした憧憬も、よく理解していないか誤解しているかのどちらかであることも多い。

しかし戦争状態になったら、誤解や理解不足、ロマン主義のなれのはてでは済まされない。
憶測にすぎないのだが、好戦的な論調の集団(これもレッテル貼りでよいこととはいえないと我ながら思うが便宜上)は、ブラック企業云々と批判している層と似ている。しかし強制徴兵された軍にはなんとなくロマン主義を抱きながら、自分が就業するかもしれないブラック企業は...というのは...

戦時下では常識は覆される。
海外と国交が途絶えてもよいというような単純な意見も見かけるが、日本の食糧自給率を考えてみれば、そんなことは現実的ではない。
戦後批判も結構だが、その「戦後」の何十年か、しか我々は知らず、その中でのみ経済的な繁栄が可能だったのだ。

バンコクなどの都会に行くと、日本にはまるで活力がなく斜陽だと感じるが、閉塞感、焦燥感が終末観を助長させているのだろうか?

死者は追悼すべきだが、死者追悼を道具にするべきではない。
死者は忘却すべきではないが、死者を賛美するのは恣意的となる恐れがある。


ロマン主義的な戦前回顧趣味は、実感の伴わない感情が大半である。
「理解を求める」という表現も、本当におかしな公式発表であって、「理解」とはあくまで「相手」に「伝える」ために働きかけた結果なのであって、主観と特殊感情を示して説明したつもりになるのは甘えなのではないか、と思う次第。