1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

July 2013



写真は栃木県 大笹牧場にいく途中、夏山はいいものです。

7月のキーワード等を一応更新します。

1 怪我理由
  天寿光希
2 バレエ Ballet
  堤 康徳
4 チャコット
  望海風斗
  動物実験
  リッチー・エドワーズ
5 ドナテッロ 
  マリアージュ・フレール
  春風弥里
6 ウェア・モア Wear Moi
  平野 玲
  ブログ blog
  小林京奈
  Art Forma

7 堤林 剣
  トゥシューズ Point
  コントラポスト

8 丸彫彫刻
  ブルネレスキ
9 マチルド・フルステ
  夕霧らい
  煌羽レオ


プロトルネサンス関連でブログを観てくださった方が多いのでしょうか、丸彫り彫刻はドナテッロの<聖ゲオルギウス>がローマ時代以来、再生した。(バルジェッロ博物館にあるのが本物)

ドナテッロの作品を観ずしてフィレンツェを去るなかれ、と私は思います。

ディアナ・ヴィシニョーワの世界、公演行きたかったのですが無理でした....。

7月の発表会、靭帯怪我が重なり(去年の怪我はリハビリがようやく4月初めに一旦終了になったばかり)出演できておりません...ステージには心ばかりのお花をお贈りさせていただき、スタジオからお礼のお葉書も頂戴いたしました。
去年または今年夏にバレエ関連で英国留学(短期)を考えていたものですが、年月と労力、練習の積み重ねも...

リハビリのめどがついて3月末にあたらしいポアントをフィッティングし購入しましたがまだ一度も使えてません。


近頃は、現中高生の中に、3.11とまるで何もなかったかのように隠蔽されている放射能汚染、先行きのみえなさというよりも、努力したとしてもすべてが根底から覆るような不条理、価値づけの言葉の空虚さが蔓延しているように感じる。存在を引き延ばされた薄さ。意味の欠如。それらの縫合によって保たれるかたち...

2000年代が二けたになったとき、生成と破壊は同時に起こるように思うのだが、何かがおかしい。
そしてそれが表象しないよう、表層させられるものは極めて希薄かつ陳腐だ。
それに嫌気がさすとしても、気にやむことはない。
必要なことは省察すること、客観視すること、それを言葉によって意味づけること。
ジョルジョ・アガンベン
月曜社
2005-09
KIMG0178

http://jp.rendezvousenfrance.com/ja/discover/50847


Albert-Karn美術館の改修には公募から日本の建築家が選ばれ、縁側がつけられたとのこと。(フランス観光庁からのお知らせ)


縁側、母方の祖母宅は築200年の日本家屋で、夏休みや冬休みには決まって何日か滞在した。湯殿が別にあり、門は二か所、二階だての蔵は閉じ込められた経験がある人にはお化け屋敷的な経験、私のようにそこで生活していない近親者には、白壁の大きな裏門に通じる建物という認識で、大切にされてきた家屋建築や写真などとともに何代化の人の生と秩序を記憶するものとして「美」しく感じられた。庭には小さな池があった。私の実家には錦鯉が50匹以上いる本格的な日本式庭園があったので(正確には祖父が受け継ぎ保っていた)それは小さなと記憶されるのだが、その池を囲むようにして広い縁側があった。
実家もまた祖父の部屋、書斎の前に縁側が設けられ、部屋にしつらえた雪見障子の内側で餅を家族分焼くのは私の役目だった。雪をかぶった庭の景色をみることもたびたびあったと思う。


家はそこに住む人が自由(これは放埓ではなく、与えられた責任は果たす前提で自ら行動するという意味を含む)に暮らす空間で、かつ季節の草花を取り入れ、額の絵画を替え(日常空間で変わる、ことが知覚されればそれだけ人の手の加わり方で「変わる」ことが認識できるのではないか)機能性だけではなく「美」という秩序で整えるというのは、祖父から受け継いだことなのかもしれない....買うことだけに頼らず、竹を使って素麺用の食器をしつらえたり、暦のそばにはペン差を日曜大工で作ったり...祖父は亡くなったが、祖母の家(上記とは別の家。実家の敷地内にある)を訪れると私が10代以前に作ったと記憶しているそうしたこまごまとしたものが今も残っている。今も使えることと、それを使うことがその人の記憶をつなぐものに無意識になっているのかもしれないのだが。

母方の祖母の家は、夏でも広い縁側を昼間は開け放っていた。
空調はない。
井戸の水は夏も冷たかった。
やはり母屋から長い廊下に続いてあった手洗いには夏は風鈴がかならずあった。

これらは十数年前の記憶だろうが、季節を肌で感じなけければその移ろいも気が付かないだろう。目や耳で感じられる移り変わりを認識することが、世界そのものと自らを結びつける面となる。

それらをよさ、利点としてとらえられるのはむしろ日本から遠く離れたフランスなのかもしれない。

ルーブル宮もまた公募によって建てられた建築であって、イタリアの影響を最も早く取り込みながら、いかにそれを「フランス式」にするかが急がれたのは、唐風から国風を急いだかつての日本のようでもある。しかしまた、もしもオリエンタリズムとは別にジャポニズムがモダニズムの代名詞としてのみとらえられるならば、それらは美ではなくアイデンテティの快さに拠っているのではないだろうか。だが他方、もはや居住空間にあるべき縁側は、暮らすことの主体である家では再現できないほど、空間は制限されている。無論、それは都市集中と住居価格においてである。この前提から脱却できるほど、われわれはモダニズムに以降可能なのだろうか?
誰かが決めた前提を問うことももはやしないのだろうか。




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銀座のギャラリーで7月末行われた展示おしらせのお葉書。
中井さんの作品は <柘榴> を以前買わせて頂きお知らせ貰いました。銀座は沿線なので行けるかなと思っていたのですが、7月末は症状が増悪なり結局いけませんでした。残念...




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<柘榴> はダイニングに現在飾っております。


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後日記入。

ブルーベリー。今年は枝も伸び、粒も大きくなってきました。ブルーベリーの葉枝は小さな花と一緒に活けるとなかなか自然な仕上がりになります。しおれるのも遅い。育てている方はぜひお試しを。

来年はブルーベリーも果実酒などにできるでしょうか?




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銀座のギャラリーで7月末行われた展示おしらせのお葉書。
中井さんの作品は <柘榴> を以前買わせて頂きお知らせ貰いました。銀座は沿線なので行けるかなと思っていたのですが、7月末は症状が増悪なり結局いけませんでした。残念...




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<柘榴> はダイニングに現在飾っております。


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後日記入。

ブルーベリー。今年は枝も伸び、粒も大きくなってきました。ブルーベリーの葉枝は小さな花と一緒に活けるとなかなか自然な仕上がりになります。しおれるのも遅い。育てている方はぜひお試しを。

来年はブルーベリーも果実酒などにできるでしょうか?

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大葉、茗荷、三つ葉、ふき等は実家にいたときは、店で買ったことがありません。(たけのこも)
庭、裏庭等で路地栽培でした。さんしょうも。

大葉くらいは買わずに、ミントやローズマリー等のように自家栽培したい...と移植してきたのが無事に根付いたようです。
あたりまえのように思っていましたが、季節ごとの香味・薬味を取り入れた食事を日常的に作る家だったのだな、と感じます。写真は摘んできた大葉。


(ところで、このブログでは消費主義的な生活迎合はしていませんが、かといってむやみに戦前・戦中の生活や世界観を肯定しているわけではありません。どうも、現代を批評する立場には、復古趣味の人と、批判的に継承・展開を望む派-おそらく少数-が混在しているように感じますが、私は復古趣味はありません。)


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ブラックベリーとブランデーで作った(数年前)果実酒を生協のレモン炭酸で割ったもの。
器はマリアージュフレールのリビエラ。
紅茶とソーダでもよさそう。




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母が仕事が休みのとき、明治期からの川魚料理店につれていってもらいました。
娘が怪我していたとき....かなり落ち込んでいたので....誘ってもらって良かったし、お店もとてもよかったです。
平日なのに満席。
やはりいい料理を出すお店は支持されるのでしょう。



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6月にHさんが自宅にお茶しにきてくれたときの焼きティラミス。はじめて食べました。
社会学系の話をしながら紅茶を。

後日記入です。
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みゆきさんからお茶の御中元いたたわきました。外側のラッピングも綺麗です。 ここはお煎茶もよいですよね。 いただいた水だし紅茶を作って涼みたいです。



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ミケランジェロ展の告知が出ていました。
ミケランジェロ、ドナテッロ、マザッチオ等ルネサンスの神髄は、建築、空間と一体化している作品のため、現地に行かなければならない。その価値は十二分にある。
今回はおそらく、カーサ・ヴォナローティの作品などが出品されるだろう、またミケランジェロの「動かせる」作品はフィレンツェのいくつかの教会と博物館、カーサ・ヴォナローティを数年で移動することがある。(ガイドブックとの相違理由)短期間の滞在ではそれらを探すことも困難なことがあるので、「動かせる」作品だけでもこうして企画展示されるのは重要なことだと思う。

しかし同時に、彼の芸術の真髄は「動かせない」ものたちなのであって、本来の芸術とは「持ち運ぶ」類のものではない。(タブローが芸術ではないといいたいわけではない)
ミケランジェロは、自然の石(マテリア・質料そのもの)と人間の知・技術・想像を対比させるためにあえて同時に存在させている。未完成の美(ノンフィニート)は、「完了」していないために、観るものと作品を同時に引き合わせ、観る者との間に対話を生じさせるのだ。
先日、ルネサンス思想について質問を頂いたときに、フィレンツェで観るべき作品とは?と聞かれたが、サン・ロレンツォ教会・メディチ家礼拝堂、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、バルジェッロ博物館は絶対にはずせない。ミケランジェロ研究をしていれば、カーサ・ブォナローティもまた外せない。
ミケランジェロの芸術はおそらく、それを目にして遭った時に生まれる数々の問いと生きた感情の共有を可能とする。

何が言いたいかというと、彼の作品はドナテッロやブルネレスキの作品とともに、目の当りにしないと凄さがわからないのであって、日本におけるイタリア年の最後の展示になるこの展示をみた人が、本物を観たい/観なければ、と感じて貰えたら幸いだし、(せっかく)イタリアを訪れる人がもっと「スタンダール症候群」のような目的を持って赴いてもらえたらよいのではないかと思っている。


The Renaissance Philosophy of Man: Petrarca, Valla, Ficino, Pico, Pomponazzi, Vives (Phoenix Books)
The Renaissance Philosophy of Man: Petrarca, Valla, Ficino, Pico, Pomponazzi, Vives (Phoenix Books) [ペーパーバック]

明暗 (岩波文芸書初版本復刻シリーズ)
明暗 (岩波文芸書初版本復刻シリーズ) [単行本]


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社会学研究会の前に、夏目漱石に関連する絵画および作品を集めた展示(東京藝術大学美術館)に立ち寄りました。開催前から気になっていたものの、脚を運ぶ機会がなかなかなく、諦めていましたが、立ち寄れてよかったと思います。

漱石の原稿は初めてみました。デスマスク、漱石が描いた絵画等。
生涯に一つでも納得のいく絵画作品が描けたらよい、という手紙の言葉。

英国留学中に、同時代の絵画芸術を視て吸収しているところに感嘆する。
たとえば、意外ともともと調べていたものを確認する、という観点では同時代のものを吸収することはできない。象徴主義、ラファエル前派、また書籍とデザイン(アーツ&クラフツ)などを取り入れてこの時代はよく再現していたとあらためて感じた。しかも模倣で終わってはいない。

写真は私が10代後半の時に手に入れた、復刻版の「心」。
岩波で装丁復刻版が出ていた。


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漱石は絵画を作品に取り入れていた。小説上に出てくる虞美人草の屏風を再現した作品があったが、完成度が高ければこうした試みも面白いと思った。
しかし本物の酒井抱一の屏風は実に素晴らしかった。
酒井抱一をみると、バロックやグロテスク模様を日本画に取り入れたようなモダンさがある。
写実性との距離は、描く主体(抱一)の在り方が垣間見えるように思う。
草花を描いているのに、それに留まらない。


展示に行く目的は、ウォーターハウス、ミレイの絵画が出品されていることだったので、こちらも観られてよかった。ビアズリーのアーサー王も久々に書物の状態で観た。
今後もラファエル前派の絵画展は開かれていくことと思うが、ウォーターハウスはぜひ数年前のミレイ展ほどの規模で開かれてほしいと思う。

ウォーターハウスの「マーメイド」の絵画に添えられた解説はやや疑問が残った。
ある類似点があっても、それを間違いないと言い切ることはできないだろう。
文学解釈の上でも、美術解釈の上でも、類似による推測はあくまで推測であって、観るものの願望・予測しか根拠がないような批評はあまり望ましくないのではないか。
語るべきことは双方に多大にあるのに、「私にはこう思える、間違いない」というのは何も見ていないし、何も読み解いたことにはならない。わざわざ書いているのは、こうして文学との接点で展示が開かれるのは、歓迎なのだが、根拠のない私的感慨を連ねたものが「解説」になってしまう、こうしたスタイルが助長されるのは、画家にとっても作家にとっても読者にとっても、鑑賞者にとっても良いことがないからである。

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現在は建築物保存のため公開されていない奏楽堂。
空き時間は1時間半程度だったので、正直なところ展示に立ち寄れるかどうか?と思ったし、すべてをじっくり見られたわけではないのですが、やはりリーフレット等を見て、「観たつもり、知った作品のつもり」でいるのは間違いで、脚を運ばねばわからないこと、感じないことが多いと思った次第です。

ブラックベリーがなりました。image


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ちょこちゃん。にこさんや、こっぽら、くろちゃんが18-9才の長寿だったためいつまでもこども扱いでしたが、もう8才。家族の帰宅を玄関で夜中まで待ったり、忠犬かつ元気です、つくづく、戌たちからはいろいろな元気を貰います。



・・・・・

などと書いていたのは、あまりにショックすぎる事柄が5日昼にありまして....、娘が学校にて昨年傷めた足と逆の、右足首靭帯3箇所を切る怪我をし...。
入学後、3年間連続です...。小学校の時は、陸上競技選手(高跳び、短距離、リレー)、サッカー、体操の模範、などなど体育活動もたくさんしていましたが、一度も怪我はありません...。バレエをやりながら運動もしてましたが(市内で個人では二位、団体では優勝)、たくさん練習もしました、バレエも勉強も両立させていました。
しかし、中学入学後、毎年1学期に毎年骨折か靭帯を切っています.....。
当然、通常の動作も難しい日常、通院も加わります、つまり夏の休みに必須の課題やスキルアップできる時間を毎年失っているのです。バレエも昨年の怪我で中断せざるをえなくなりましたし...
私がある程度、自分の腰椎狭窄症の回復ができてきたところに、再度怪我することだけは避けたいと思っていましたし、...外履き(ローファー)のまま校舎を移動するスタイルなのですが、豪雨のため廊下や通路が濡れていたようです...
昨年、一昨年のこともあり、対応は学校側も配慮してくれたとは思います...
しかし、本人も私もショックすぎて、外面上は平静を保っていますが、心中穏やかではありません、というより最早、この先何の展望も抱けない状態になっています、すくなくとも私は...
失うものが多すぎる感。何も目的が設定できない状態になっています...こうした心中が表面に出れば、家でも仕事でもよいわけがないので、私なりに繕って表層させていますが、正直なところ、「言葉がない」です。



また先日は、舞台芸術、アート、歴史文化などで数年来(もう何年だろう)仲良くさせていただいたのえるさんの御誕生日でメッセイジかカードをと思っていたのですが、4月に亡くなられたと知り、丁度私は仕事を増やした時でほとんど郵便以外のメッセイジはチェックできていなかった時だけに、こちらも言葉がない...
2月のイリ・ブベニチェクのバレエガラでご一緒して、終演後本当はお茶しながら感想や近況を話そうと予定していたのですが、私がやはり当時まだ常時コルセット着用かつ歩行もままならない状態だったので、3月頃にゆっくり話しましょうと言っていたのに。頂いた葉書や、イースターエッグ、一緒に撮った写真等...のこっているものがあること自体が貴重だと思いましたし、やはり、手紙やカード、手がきの「言葉」には生命があると強く感じる。
共有した時間や舞台、作品などを通して語った言葉も、生き続けています、私にとっては。
家族で舞台公演に行くことが多かったから、娘も夫も面識もあり。

私たちには、それぞれに与えられた「時間」があり、その限度ある時間をいかに生きて、他者と共有できるものを増やせるか、事柄、人、感慨、思われ、思考、実践等....共有することで、生まれたものが、おそらくは「生きた」といえるものなのではないかと感じる。しかしそれには、時間が不可欠なのである。「自由」(つまり自ら希み、かつ自ら責任を持つうえでの自由、放埓ではない)になる時間の欠落、それがおそらくは、「失われたもの」なのだろうと感じる。・・・・



「落ち込んでいる」とか「出口」を求めている感覚ではない。
光自体に、本来の耀きすら、もう元の通りには感じられない。
(「時」がそれを緩和できるのかもしれない、とは思うのだが)

最善に近い選択肢を常にいくつか考え、実行可能な範囲と手順を考える、のだが、...可能であるという認識よりも、不可能であるという認識が顕れてくる。可能性について、いくつかの達成の見通しの立てづらさ...
(言葉にできない、あるいは語ることや思うことにも、肯定的には思えない)

それでも何かを日々の中で積み上げなくてはならないし、僅かでも成さねばならない。





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21世紀の知識人21世紀の知識人 [単行本]
著者:ジゼル サピーロ
出版:藤原書店
(2009-12-21)




自由貿易は、民主主義を滅ぼす
自由貿易は、民主主義を滅ぼす [単行本]
著者:エマニュエル・トッド
出版:藤原書店
(2010-12-22)



帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕
帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕 [単行本]
著者:エマニュエル トッド
出版:藤原書店
(2003-04-30)


文明の接近 〔「イスラームvs西洋」の虚構〕文明の接近 〔「イスラームvs西洋」の虚構〕 [単行本]
著者:エマニュエル・トッド
出版:藤原書店
(2008-02-25)


青山学院大学名誉教授、石崎晴己氏による、サルトルとボーヴォワール、その時代、講演会に出席しました。
レジュメ、年表、映像資料など資料も、石崎先生の説明、解説も充実してあかた大変貴重な講演会でした。北越谷の会場はほぼ満席。私は、サルトルのアンガージュマン、現象学の立場からの読解から文章を書いたことがある。石崎先生は、2012.2月に青山学院大学にて最終講義をされており、その講義録(<サルトルという問題>)を事前に読ませていただいたので、質問もさせていただいた。

講演会後に、トッドについて、および世界史の細部考察について、批評テキストにおけるサルトルの役割、影響、ポジシオンについて1時間以上お話しさせていただいた。石崎先生は、越谷でエマニュエル・トッドほかの講演会を参加費無料で数回される傍ら、6月は日仏会館で講演をされた。
 今後も石崎先生が翻訳されているとトッド、ブルデューも含め、講演会や勉強会が継続されることを願っています。 当日の企画運営の方々に機会を設けてくれたことに感謝します。 また、個人的に講演会をお知らせした、埼玉三田会会長さまもいらしてくださり、感謝です。 二時間本当に充実した、講義的な中身も知識量も多い、講演会だった。

Platonic Theology, Volume 3: Books IX-XI (I Tatti Renaissance Library)Platonic Theology, Volume 3: Books IX-XI (I Tatti Renaissance Library) [ハードカバー]
著者:Marsilio Ficino
出版:Harvard University Press
(2003-06-01)


The Letters of Marsilio FicinoThe Letters of Marsilio Ficino [ハードカバー]
著者:Marsilio Ficino
出版:Shepheard-Walwyn Ltd
(1995-09-01)




The Renaissance Philosophy of Man: Petrarca, Valla, Ficino, Pico, Pomponazzi, Vives (Phoenix Books)
The Renaissance Philosophy of Man: Petrarca, Valla, Ficino, Pico, Pomponazzi, Vives (Phoenix Books) [ペーパーバック]
著者:Ernst Cassirer
出版:Univ of Chicago Pr (Tx)
(1948-06)





先日少々取り上げたフィチーノのルチャーノの紹介文、ルチャー自身がわからない、としている4つのものについて、独自に簡単に取り上げてみたい。と思った次第。こうした論文を書いてもよいのだろうが、小注解的に、できるだけ日常語範囲で語りたいと思ったので。物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで [単行本]


身体

天使



一見すると、身体以外はなんら実質をともないないモノに見える。だが、モノでないゆえに、意味がないとか考えるに値しないとするのは気が早い。先日も少々触れたがこれらは、象徴である。
では何を意味するのか。

身体・・・つまり我々の肉体。それは生まれ、成長し、衰え、死に、骨となる。骨にしかならない。生命には時間的な限度があり、それをわれわれはコントロールできない。また肉体をもつ以上、移動するしないはともかく、場所も限定されている。身体を通じて認識ができるという主張は、意外にも15世紀のマルシリオが述べていることなのだが、これは後の経験主義を先駆けて、五感の働きを吟味している点でも有益な叙述だと思っている。。

魂・・・ ドグマといってしまえば御仕舞だし、脈絡なく言えばやや信憑性が問われる、が魂の問題は大真面目であるから、一度は考えてみるべきだし、それを考えてなで死を迎えるのは、何かとんでもない損失に思われる。
魂は、肉体に依拠するが限定はされない。それゆえに、ルネサンス期では、身体より魂は優位に置かれた。
現在は、肉体の機能と脳の機能に関連付けて心、感覚からのクオリアなどが提唱されるが、その肉体をつかさどるもののシンボルとしての魂、なのか、魂には個別認識はもはやないのかはわからない。
いずれにしても、肉体に限定されている場合は、とらわれており、よい意味は与えられないし、魂が肉体とともにあるときは、「落下」している状態とみなされる。肉体は死ぬが魂は不死が前提。

天使・・・ルネサンス思想の醍醐味の一つかもしれない。肉体はもたない、空間と時間を超えて出現し、人間に対して秘密を告知する。ユダヤ、キリスト、イスラームすべての天使は共通存在である。
不死であり、知者であるが全能ではない。位階がある。人間に積極する存在は、比較的下位の天使である(ガブリエル、ミカエル等)人間は空間移動には時間がかかり、時間の移動は難しい。出現し、どの時間でも出現するという時点で、場所、時間および肉体消滅、死等とは無縁。

神・・・これをどう考えるか? 宇宙の始まり、という観点もあるだろうし、我々がすべて生まれる前とその後も世界なり宇宙なりがあるのならば、おそらくその全体を秩序づけるもの(証明しようとした哲学者は多くいるが、それは普通の意味で存在するのではないのだから、証明はあまり・・・。
魂、天使のレベルで肉体の限界も空間からも自由なため、神の意味はただ在る、ということがすべて。
当然、人間の願いや祈りなどをいちいち聞くとも思えない。人間側はひたすらに神や節理に感嘆し、できれば古代ギリシアのように、その神秘と力を解明し賛美しようとするようなかかわり方が望ましいのでは。
こうした文脈での神は、全能かつ全知である、はず。
神は死んだ、という考えはもともと間違い。死ぬ、終わりなどにも関わらない。
ようするに、神が死んだというフレーズは、アミニズム的であり、セム系一神教の流れでは意味をなさない。
人称をもたない故に、身体に関わることで弱ったり死ぬことはない。
肉体のレベル、知のレベル(推論せずに知るという直知)、結果など時間的な事柄についての全知、空間的に自由、時間的に自由。
美しい風景、海などの自然(コスモス)秩序をみるとき、おそらく人知を超えたプログラマー的な何かがある、と感じることがあるが、そんな感じで接するのが神の日常性として妥当だろうと思う。
私は無神論者ではない、しかし信仰を抱くには、疑問や知りたい気持ちのほうが強い。
人間は、時間的、空間的にどんな最善をつくそうとも、完璧は無理である
それは神の領域であるから、思うに神という存在は、人間の傲慢さにブレーキを、向上心や善をもとめる活動のなかでは目指すものとして、ある。
天使は、姿を現す、しかし神は姿を現さない(というかもたない)
ジャンヌが神の声を聞いた、ではなく、、天使が告げに来たといえばもしかしたら、処刑されなかったのかもしれない? どこそこにいる、という意味ではいないが、いるわけがないというのはおそらく間違い。
そしてこうした神の捉え方は古代キリスト教および初期プラトン主義者たちの考え方で、イエス=神としていた教会としては、起源的には正しい解釈(であるし、この考え方は起源だから宗教対立が起きにくい考えである)であるにもかかわらず、異端扱いであった(ので、当時のルネサンス思想家の苦労は計り知れない、そのため、テキストも読みやすいとはいえない。ボヘミアのフス以来、自由言論の状態とは程遠いのだから)


そしてルネサンスの時代は、全能な神の領域には人間は寿命のため届かないが、知と真理を求めるために、天使の領域までは達成可能であるという目標を立てていた。・・・それゆえに、彼らの仕事ぶりは通常の量ではない
質的なことはいうまでもない。彼らは身体の限界を自覚していたので、生きている間に、不死の知、美、力などを目指したのである。

天使の位階については、ピコの直作が詳しい。
不死の存在や死者の尊敬による原動力は、当然肉体をもつ、通常の人間が生きることへの最大限のことを実行を当然示す。この精神史における原動力の高さと活動量は、殆ど奇跡のようだが、他方、彼らの熱情はわかるような気がするのだが。


L'idea religiosa di Marsilio Ficino: e il concetto di una dottrina esotericaL'idea religiosa di Marsilio Ficino: e il concetto di una dottrina esoterica [ペーパーバック]
著者:Giuliano Balbino
出版:University of Toronto Libraries
(2011-02-17)



La Morale Nelle Lettere Di Marsilio FicinoLa Morale Nelle Lettere Di Marsilio Ficino [ペーパーバック]
著者:Ettore Galli
出版:Ulan Press
(2012-08-31)




国語現代文の問題、あるいは出題者が求めている「答え」に変化があるのかどうか。しばしば、ある事柄について「あなたの意見を書きなさい」という問題が出題される現代文。時事的な事柄よりも、より日常的でそれほど重要ではない問題が出るのだが、最近の傾向は「インターネットの情報」と「出版文化」についてどちらが「正しい」のかどうかを、教師側は「問いたい」ようである。
それを考えてみることはよい、しかし同質のようで非なるもののいずれかの優劣を決めるにはそれらの差異を明かに述べるほうが、まだ「作文」の問題としてましに思えるのだ。そののちにいずれかの立場を述べさせてもよいのかもしれないが、「そもそも異質」なものなので結局はそれらは「好み」を述べることになる。差異を記述する手続きや文字数を問わないなら、それは「好きな(感情)理屈」を述べるにすぎない問題になってしまうだろう。

記憶している問題の中で問われてきた内容を思い出してみた。
「自動販売機で買い物するのはよいことか」
「スーパーマーケットで買い物するのはよいことか」
「手紙とメール」
「テレビと新聞」
「テレビゲームと外遊び」
・・・・などなどだが、この手の問題の問いの設定が未熟であることと、一過性が見えないだろうか。しかし同時に同じ問題意識に貫かれているともいえる。いずれも「コミュニケーションの問題」を扱っているように思われる。加えて前近代的なノスタルジアもあるかもしれない。買い方、方法の問題は問われないので、この手の問題は常に出題されつづけるだろうし、もとめられている答えも決まってくる。逆にいえば先に述べた理由、「好み」の問題に始終するために、真剣に考えられる問題とはならないのだろう。
どちらを好むか、ということに(国語科目的道徳観?を交えて述べることに対してはさほど価値もない、ただし義務教育では自分の好みや立場くらいは平明に文字化できることが望ましいとは思う。)変わりなく、しかもいまや「自販機はよくないのではないか」などという問題は出題されない。学童期をすぎ、なぜ日本には自販機がこんなにあるのか!ローマやアテネのようにキオスクやタバッキで売り買いするほうがよいだろうに、とは思いはするけれど、すくなくとも現在で「自販機」を問う問題はない。スーパーマーケットも、また電話や手紙かという問題も出題されるわけがないだろう。つまり一過性の問題意識しかなく、人とのコミュニケーションの希薄さ、だけは常に20年たっても30年たっても問われていることになる。

都市化、スプロール開発が進むにつれ、コミュニケーションと場の問題は問われ続けるだろう。また、それらは本当は「都市化」ではなく、単なる「開発」(というと聞こえはポジティブだが実際は?)にすぎない。

世相を問うような問はこれからも出題されるだろうが、こうした問いは「望ましい答え」が設定されているから、それを書けばよいし(本当はよくないのだが)、その程度なのである。

いうまでもなく、出版されているものがすべて正しいわけではないし、ネットの情報がすべて疑わしいわけでもない。資料引用であってもURL、日時を記載すれば根拠と認められる傾向になってはいる。そしてウィキペディアの情報は概してあてにはならない。重要なのは、信用に足りる情報を見分けることと、その条件なのだが、あまりそのことには触れられていないように思われる。

差異をできるだけ明確にすること、それをさせないように、あえて「好み」の問題にすり替えて出題されつづけているとしたら、またこの方法で物事の是非を決定するような慣習が続けば、おそらくは問題はおきざりにされてあと30年同じ問題が横たわりつづけるのかもしれない。方法と選択肢が増えてもそれが「自由」や「幸福」に結びつかず不安や迷いが付きまとうのだとしたら、何か根本的な問題に欠陥があるのだ・・・しかも単に「昔はよかった」というノスタルジーという「好み」の問題では決して解決はできない。

私はときどき感じるのだが、技術が生まれてもそれを活かせる社会的な方法知や基本的意志が共有されていないので、ツールが増えても何かを改善できるような力にはなり難いのはそのためではないかと。