1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

February 2011

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三田文学名作選をようやく手元におくことができました。
創刊100年ということで、江藤淳氏、小川国夫氏など多くの作品が選集として収録されています。
埴谷雄高氏の文も・・・埴谷雄高氏の葬儀・お別れの会には私も脚を運んだ。棺に入ってスーツをその遺体にかけられた姿と、読んだ作品、短編集(「虚空」など)が交錯した。精神と肉体について、死とは何か、しかし言葉とは何か、そういったことを思った。会のなかでは現代(当時)の作品についての批判も含めて、文学の意義が語られた。
新宿で行われたその会には小川国夫氏の姿もみかけた。
私は当時19歳だったのだが、今もそれはよく記憶している。

(ただし埴谷氏の作品や考えについて私は全面的に肯定したり、心酔はできない。家族は面識もあり、吉祥寺の家に訪れたり、演劇を介して大変につながりをもっていたようなのだが。理解することはできる、動機も意義も理解できる。それでも全面的に心酔や嘆息はできない。そして多くの読者がまるでファンタジーのように文庫版をよんでいる現状にも迎合できない。いまだに心酔している人が、革新とか精神のリレーといったことがらを正しく理解しているのかどうか。私にはその点も疑問にも思うのだが・・しかしながら10代のときに「最後の審判」を通じて提出された問題は今の自分にもやや残ってる問題意識でもある。はたして、私たちは自分が正しいと「思う」ことには無批判あるいは無自覚なのではないか。アイデンティティと正当性と、他者性は無関係でいられるのか?)

江藤淳氏の漱石についてのテキストを読み返したいと思った。
高校生のとき、17歳くらいのときか、私は柄谷行人氏の「漱石試論」「近代日本文学の起源」を薦められて読んでいたのを思い出した。

三田文学選集についての刊行はしっていたのですが、会を通じて入手できてよかったと感じます。100周年記念のブックカバーも頂きました。
本をつねに持ち歩いている私にとってはありがたい記念品です。


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桃の花と、自宅にある雪柳が芽吹いてきたので一緒に活けました。
フィリッポ・リッピの大判のカードは、フィレンツェで購入したものです。

先週右目をいためてしまい、お返事、ご連絡などが遅くなりもうしわけない限りです....

:: 拍手お返事::
2011.02.19 20:28 浜小僧パリ・オペラ座バレエ ルネサンス精神とアカデミーの技芸
たいへん参考になりました。ありがとうございました。
記事をお読みいただきありがとう御座いました、あくまで私見と推論過程
の見解ですが、単に装飾的なもの、華美なものが本質ではないと思うゆえでもあります。

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写真はルピナス。

後日記入ですが、同じく論文を書いている方と図書館にいくときにお会いすることができました。久しぶりに図書館に数時間まとめてこもることができました、こういう機会を捻出するのも大変なので、じつに貴重な時間です。「正しい思いなし」について理解することが重要だという話題などでいろいろとお話できました。


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アピヴィータ(APIVITA)>Kさんから何度かすすめてもらいました
古代ギリシアから伝わる養蜂製品。またヒポクラテスが提唱した論をもとにしているというもので、ベースにも植物本来がもつ水分を用いているそうです。

先週前半は体調が芳しくなく、しかしそれを理由におろそかにもできないことが複数あり、なんとか集中して取り組む時間を捻出しなくてはと感じます。つくづく・・・身につまされます。



饗宴/パイドン (西洋古典叢書)饗宴/パイドン (西洋古典叢書)
著者:プラトン
京都大学学術出版会(2007-12)








テアイテトス (岩波文庫 青 601-4)テアイテトス (岩波文庫 青 601-4)
著者:プラトン
岩波書店(1966-09)










パイドロス (岩波文庫)パイドロス (岩波文庫)
著者:プラトン
岩波書店(1967-01-16)








メノン (岩波文庫)メノン (岩波文庫)
著者:プラトン
岩波書店(1994-10-17)










左サイドバーにあるブリティッシュカウンシルからのおしらせによれば、レディオヘッドの新しいアルバムが出たようですね。以前もかきましたが、私がプロティノスを読んでいたときに、丁度トム・e・ヨークがグノーシス派について多く語っていたのでもあり、一体今は何を基にして音楽として「あらわしているのか」ということはやや気になるのですが、自分がなすべきことが形にすることができたら、手にとりたいと思っています




door to the river  あるいは There by the grace of god

における詞の主題。

”神”のせいで我々は苦しむ
”神”の恩寵で我々は回復するはず


・・・・・

彼らがこの曲を作った動機や意味は理解できる。
そして恩寵によって回復するはずとうことも・・・・
正確には、恩寵としかいいようがない、善性の世界、人為を超えるもの、美、総じたもの。

だが私にはいつも起源にまつわる言葉が足かせとなって顕れる。

私もこと原因、これ以上に還元できないものに対して「神」ということばを持ち出さなければならないことを「不幸」と思えてならない。
これは結局のところ宗教用語である。
前提を信じるのか否か、
あるいは前提を問うのかどうか。

・・・・

前提を信じられたらよいだろう、とは思う。
しかし私にとってはすでに4歳のころから疑わざるを得なかった。
しかしそのことを否定もできない。


しかし、人があらゆる人為に対して不信を抱かざるをいえなくなったときに、あらわれてくるのもthere by us・・・・の心境なのである。


ルイス・ネイミアが晩年に英国で改宗したのちにようやく心の平安を得たという話は何となく解る。

私の周囲には、家自体はキリスト教ではないにもかかわらず、
幼少のころからその教育をうけてその影響を強く受けているけれども
家は違う価値観と伝統に則っており、どちらにあわせても不調和が起きるということが・・・あるように思われる。
個人や人間性というものを第一に捉えるのか、
あるいは、上位のもののためだけにあるのか、こうした考えの差異は実のところ大きい。
私の場合は伝統や拡大家族というものが途中から全く不合理で秩序を欠いたものになったために、内外で説明できなくなっている。
原因が失われるか、あるいは自分が不在化するかのいずれか、オルタナティブな状態が突きつけられている。

なぜなら自らの過失を認めず、誤りさえも見栄のためにまったく認めず、他人(家族)の苦痛も自分の快楽のためには顧みない、という場合があるからなのだ。家父長制と長男以外は存在価値がないという風潮は今も残っている。愚行権は認めることができない・・・なぜならば、他人に迷惑をかけないならば良い、という条件が不完全であり、他人に迷惑をかけているという自覚が全くないがゆえに愚行を行うからなのだ。それを指摘すれば、暴力に訴えてくる場合もある。それが露見しないのは、単に抑圧があるからなのだ。しかしながら、我慢することにも限度があるであろう・・・
こういうことを書くのは、自分のためというよりも、母親のためでもある。
古い家に生まれて明治時代の教育をうけてきた人にとって、我慢や忍耐は美徳であるがゆえに、・・・しかし単に我慢すればよいものなのか、それによってさらに「下位」で生きるものにとっては倍の不合理がもたらされる。どこかで断ち切らねばならない。

しかしどこか、自分の気分がまぎれていれば、それはもともと何の問題でもない、という風潮は強い。


ファスター/P.C.Pファスター/P.C.P
アーティスト:マニック・ストリート・プリーチャーズ
エピックレコードジャパン(1994-06-30)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る





「教師が子供を飢えさせても”良識政府公認”」

P.C.Pの詞はアイロニーではなく現実になってきている。
同じことを人間は「繰り返さない」
より善くなることができるという抗いがたい意志に対して
より低劣かつ残虐な行為を正当化することも、容易にしてしまう「力」は表象として強くなりつつなることもある。・・・




エブリシング・マスト・ゴー(紙ジャケット仕様)
エブリシング・マスト・ゴー(紙ジャケット仕様)
アーティスト:マニック・ストリート・プリーチャーズ
SMJ(2009-05-13)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

Lifeblood
Lifeblood
アーティスト:Manic Street Preachers
Sony(2004-11-01)








Forever Delayed
Forever Delayed
アーティスト:Manic Street Preachers
Epic(2007-10-01)






FOREVER DELAYED
真実は、永遠に「遅れて」やってくる
それゆえに、真実を知ろうとしなければ、近づくこともできない


恩師から日舞の公演(於:浅草公会堂)のお知らせを頂きました。
3年に一度の公演で、毎回ご招待いただき、脚を運んできました。
恩師も毎回素晴らしい舞台をみせていただいており、今回も保名を踊られると聞いて、ぜひ行きたいと思ったのですが今年は断念せざるをえません・・・
とても残念です。
恩師の師にあたるかたも毎回舞台にでているのですが、この方は人間国宝の方で、一部のすきも無駄もない動きと形の美しさ。

舞踊の東西における差異というのは、すばらしいものを目にしたときに考えることがらです。
たとえば、ギエムやルグリは(私が真に尊敬の念を抱くダンサーですが)東洋的な「無」の概念を表出させるには苦心しているようにみえる。
それは日本やダンサーが「有」「あるもの」(esse)を「目に見える形で」あらわすことが難儀であり、はたして「理解」することも可能なのか、という問題に通じている。

・・・


このことは、プラトン学会市民シンポジウム以降、考えさせられることである。

あらわすべきものの違いについて毎回考えさせられます。
できたら、脚を運びたいのですが・・・・

恩師にはいつもお心遣いを頂いているので、テラクオーレの製品をお手紙と一緒に送りました。


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ハーブティは毎日飲みますが...
テラクオーレで新しいものが出ていたので必要を感じて自分用にも購入。
缶入りなので、使い終わったら他のハーブティをいれるのにもよいかと思いまして...

nara

平宗の柿の葉寿司。
今年150周年らしいです。ここのお寿司は美味しいですし、包みや素材のこだわりも素晴らしい。対応も丁寧です。
春は奈良、フィレンツェに行きたくなります。アテネに行きたいのですが叶う日はくるのでしょうか。体調もあまり芳しくないですし、休みは至極とりにくいので、生きてるうちに無理な気にもなります。
私にとっても愉しみ・意味とは、調べる・学ぶことー実際に見て確かめることーそれからまた考えること、また読むこと、に他ならず・・・
だから娯楽旅行とかレジャーなどはあまり関心がないというか。
こういうことは大正うまれの祖父譲りなのかもしれません。

死の観念にぶつかると、意味と生きることは切り離せなくなるのです。
また他の生命と自分の生も無関係ではなくなるのです・・・

追記

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にこさんは元気です、しかし私が不調だとその翌々日などはにこさんも具合が悪くなることが多く。獣医さんでもらっている薬をあげると回復しますし、心臓も問題はなく、体重も維持できているので獣医さんにも19歳でもとても元気ですねといわれました。ただやはり敏感・デリケートなので預けるとか長時間の留守番などが思わぬダメージになってしまうであろうと思われるので(事実でもある)負担はかけられません。無責任なのは嫌なのです...

110225_1222~010001オリーブオイルを頂いたのでほうれん草・マッシュルームのサラダ。白ワイン・ビネガーとオリーブオイル。もし味に変化をつけたいときには、ごまだれ(ごまドレッシングではない、単にごまだけをベースにしているもの)を少々用いても美味しいかと思います。


バレエは表面的な美しさだと思われているが、それだけに留まらない。
どう違うかと言う説明はあえてしませんが・・・
それはオペラ座学校のレッスンや教育方針をみていれば、わかるはずです。アカデミーの起源なども同様。



ルネサンスの芸術および学問、思想を学んでいると、現代でこれを継承しているのはパリ・オペラ座バレエがまず筆頭に浮かぶ。映像はデフィレ、ライモンダの一場面、バランシンなどが取り上げられている。(ドロテ・ジルベール、バンジャマン・ペッシュも)

新書館のオペラ座バレエ学校レッスンDVDを観ていて改めて思ったのですが。

フィチーノの著作には技芸(ars)について言及がある。
(残念ながらこの著作自体の翻訳は日本にはない)

「手に頼る学術を人は「技芸(ars)と呼ぶ。それらはとりわけその鋭敏さと完璧さを数学的力、即ち、計算し、計測する能力に負うている。これらはなににもまして、ヘルメスと理性の職分なのである。この力なくしては、これらの技芸は幻想のなすがままに狐疑逡巡し、想像と経験と憶測の玩具となる。」

オペラ座のバレエも感情、優美さとともにこの理念にのっている(厳密な階級秩序に則っているのもそのためでしょう)、と私見では考えている。
そして美とは装飾的なことのみによっているのではなく、「憧憬」「善い」「正しい」といったものを呼び覚ますもの。
簡単にいうと感動ということにもなりますが、感情に留まるものではない。それが「言葉」「言表」であるパの組み合わせと音楽というとも詩的なものとして表わされている。

平たく言うならば、よく日本バレエ団のコール・ド・バレエはそろいすぎて違和感があるという評論をみるが(その意味では佐々木涼子氏の感覚は理解できる)、それは本当に必要なのは「統一感」のこと、「あらわすべきもの」があるかないか、そういうもののことを言っているのであって、行進や体操のようにそろえればいいというものではないからだ。勿論、動きをあわせるとか、場所をそろえるということは不可欠なのだろうが・・・
言うは易し。
だからこうした表現ができる人を私は心から尊敬する。

逆にいえば、こうしたことが解らずに評論が書かれていると、複雑な気持ちになる。だれかが読んで、「自分も見てみたい」と思うのか?と・・・


マニエリスムは時に批判されるが、精緻な技巧なくして感性だけで作られるものは、美的ともいえない場合も多い。
練習は不可能を可能にする(と自分にも言い聞かせているのですが)

完成に向かう意志がなければ、それは終わりのなさをもたらしてしまう・・・

ところでよく聞かれるのですが、バレエフェスに関して、今はレッスンも増やせているものの試験もあり、夏以降減らしていたこともあり、今年はヴァリエーションなどもやりませんし、そのために遠方や休日に脚を運んでもらうのも、時間を創っていただくのも悪いような気にもなり・・・
 
勿論作品自体が全体として美しいかどうか、それが創り上げられているかを観てもらい、他方、創り上げるために尽力することが学んでいる人にとって一番大切なのですけれども。

実のところ「パリ・オペラ座のすべて」でも技芸によって保たれている価値が薄れ始めているのがルフェーブルや教師陣のなかに問題意識として描かれていた。アカデミーの歴史をみると、美を生むことの意味が理解され実践され実現されるのも早いのだが、衰退するのもあっというまなのだ>絵画彫刻アカデミー。100年後にはそれは薄れ始めてしまう。
しかし進化という点では、私見ではドロテ・ジルベールやマチアス・エイマンをみればその輝きは衰えていない。こう在りたいと思うことでそれに近づくことができるという"類似”の例を観る想いがする。

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写真は昨年のエイブラハム・ダービー 、アイスバーグ、ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ。

タイトルおよび、「数学のおかげで神の存在証明をすることは可能か」

「自然界にはゼロ、無限に等しいものは何もない。皆無である。これらは感覚ではとらえられないものである。両者の掛け算をすればどうだろう?
無意味な産物を手にすることになろう。どんな数もゼロに掛け合わされるとゼロに等しくなるし、無限も同様である。」

・・・ヒュパティア、ゼノン(エレア派)もまたこうした観点から考察していたといわれるが、(この場合の神とは、それぞれの民族の超人のような概念ではあるまい。パルメニデスの有に近い(と思うのだが。ゆえに薔薇を育ててている人もまた、人為では見出せない自然に在る光とか美を見るために、すくなくとも手間暇をかけている・・・場合もある)

物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房(2003-11)



私の場合も、量的理性までは想像が可能である、そして気がつかないままだと、そのままその無限の広がりがあるという気持ち(思われ)になってしまいかねない。私としてはブレーキをかけている。(つもりであるのだが、時々わからなくなる)家族が物理学からこの無限概念に取り組んでいたので、口に出すこともできない。・・・・。

ナポリ大学で数学と工学を学んだルチャーはこう結語している。

「神を見つけるのは棒高跳びをするようなものなのだ。選手は少し走ってから、バーにぶつかる直前にジャンプする。数学でも大なり小なり同じことが起こる。
つまり推論をもって助走し、直観をもってジャンプする。私がお手伝いできるのは助走だけであり、逆にジャンプするためには読者諸賢がすばやく一人でやってもらわねばならないのである。」


私が昔行った競技は、気の毒にも棒高跳びとは逆の概念であろう、走り幅跳びと短距離、リレー。今私が、一人で動揺したり迷ったりしている問題でも、推論から助走まではよい。だが、バーを超える前と超える際にも、しかも超えられたかどうかという実感も、着地、すなわち論のおとしどころも、逡巡してしまうのだ!
量的理性をこえたものを思案するのはなかなか、大変であって・・・
そしてまた推論しない知性であるとか、推論を用いずに行う論に対する理解が足りているのか?という疑問が尽きない。
(実を言えば、私にとっては推論しない直知とはそれほど不可思議なものではないのだが・・・)

尽きない疑問なのだが、たとえば誰にでも口に出してよい話題であるともいえない・・・・ゆえに、逡巡と言葉が迷子になっていくような気になる。
集中して考えられる場であったらよいのですが・・・・


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パルシステムの芽キャベツ入りシチューを作ったとき。

少し前はわからなくなったら、実用をかねて料理・・・ということができましたが、ここ最近はその余裕もなくなってきました。
こうしたことを現代では日常と両立しなければならないことのだが、私にとっては容易ではない、しかし、やらないで済む問題でもない。
とはいえ、お弁当作りや、野菜スープなど、最低限の料理はしてますけれども・・・「被造物大全」を執筆しながら、トマス・アクィナスも焼きそばづくりに追われたりはしておられまい・・・

アンセルムスが、古典研究に没頭することを父親から禁じられ心身ともに弱ってしまったという心持がよくわかる、のでした。

とはいえ、現代では世俗的生活をしながらこうした研究ができるということを幸せに思うべきなのだろう・・・・とはいうものの、私としては、そのことを理解するためには、このことに没頭できたほうが幸せなのである・・・
(自分がやっていることのために、娘やらにこさん、家族に迷惑をかけるわけにはいかないのです。しかし限界もある・・ 他方、いいかげんなものを書くわけにはいかない。)

別の問題は、テキストの著者(フィチーノ)も、逡巡して不安になっている(ように見える)箇所があり、しかもその動揺の理由が解る(ように思う)だけに・・・

とにかく集中できる時間を捻出するためには、世の中が眠っている時間帯にそれを成す必要があるということです。


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英国バーミンガム ロイヤルバレエ
「真夏の世の夢」「ダフニスとクロエ」が5月来日公演になります。
個人的には、Sleeping Beautyよりも「真夏の夜の夢」「ダフニスとクロエ」のほう観れたらと思っており、来日公演に期待しているので記事にする次第です。

観にいきたいと思っていますが・・・5月、先のことはわかりませんね...
とはいえセット販売の枠が拡大されたのは喜ばしい。
今まで親子セット券はB席まででしたが、私は舞台全体を見たいし、多くの舞台に脚を運びたいほうなのでC席セット券等は歓迎なのです。
ただ、東京文化は奥まった席だと大変バレエには向かないのが困ります。新国立劇場ではシートクッションなども貸してもらえるので、小学生の低学年のときはやむをえずそちらに脚を運ぶことも多かった。
舞台芸術は子どもの文化活動に力を入れるといっていますが、配慮と甘やかしは違いますしね。・・・最低限、マナーを守って劇場に脚を運ぶ観客には舞台を見やすいようにしてもらいたいものです。
逆に大人でもマナーがなっていない人は多く。


レッスンは先週は東京バレエの宮本先生のレッスンだったそうです。
グランジュテやグランパデシャするときに着地の音がない、とほめていただたとのこと。娘が始めて観に行った演目はたぶん、マラーホフのバヤデール、ニーベルング、東京バレエのシルフィードだったと思うのですが、マラーホフの足音のなさは幼児のことからイメージがあるようですね。
また藤沼先生には「幻影の場」(アンソニー・ダウエル卿版/ヴィヴィアナ・デュランテ)もスタジオでみせていたたいたようです。
昨日は辰巳先生のレッスン。小林先生、中俣さん、受験からもどってきた高校生の先輩などなど大変楽しく、しっかりとレッスンできたようでした。
終ってから皆で自主的にライモンダを通してレッスンしていたところ、藤沼先生が音をかけてくださったと聞いています。



現在大変忙しいです・・・・
PCが不調でもあります
私は買い物はほぼパルシステムで宅配を利用してますが、ここ数週間忘れてしまう。

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私たちを"漠然と"困らせたり、怖がらせたり、絶望させたりするもの、
中世ではそれは至福千年説で、1000年の日に世界が終ると思われており、その前には人々は(最期の審判が近づいたと思われたため)いたって善良だった、らしい。
だが、何事もなく、1001年になり、人は前よりも悪いことをし始めた・・
こういったことは、じつのところ今日にも残っていまいか
(近代が実は中世の連続だというのは、考えてみる余地があるだろう。
たとえば廃藩置県のあとなおもこれほど狭い国で47都道府県もあるとは!ドイツの小国君主時代ですら(たしか63国であり、アメリカはあの国土の広さで55州である。・・・)
2001年9.11のNYや、2011年のエジプトも、なにか・・・この千年単位あるいは10年単位で、ある心理作用が契機になっていないかどうか。
だいたい2000年になる瞬間に、コンピュータが機能停止になると、日本のテレビでも騒いでいた。そして「めでたく」2001年になったとき、近代国家の大半は花火をあげて喜んでいた!

物語中世哲学史 アウグスティヌスからオッカムまで
ルチャーノ・デ・クレシェンツォ
而立書房
2003-11-25



以下はルチャーノが語るところだ。

「実はわれわれがどの年に生きているかさえ、知るのは難しい。われわれ自身、それはわからない。ヘロデス大王が紀元前4年に本当に死んだ、したがって、キリスト没後4年に嬰児虐殺を命じることができなかったとしたら、また6世紀にディオニュシオス・エクシグウスが、16世紀にルイジ・リリオが、太陽年の正確な持続期間を計る際に重大な誤りを犯したのだとしたら、イエスは誕生したと信じられたときには誕生しなくて、少なくとも紀元前6年に誕生したことになろうし、だからこそ我々は2003年ではなく2009年(したがって2014年かもしれない)に生きているわけだ。」

私がこんなことを書くのは、すべてを疑えといいたいのではなくて、何もかも信じ込むのは、だれにとってもよくはない、集団ヒステリーや、暴力行為を民主運動と混同するのはよろしくないと思うからであり・・・

アメリカの主流派は、まだ66%の人が聖書に書いてあることはすべて真実であると答えているのだから..私見では、我々にとっても無関係な話ではない(と思われる)...。
大量破壊兵器があるという開戦理由も、私はカプラのTURNIG POINTを読んでいたこともあって、あまり信じてはいなかった。「テロとの戦い」というスローガンも、行為というもの自体を標的とすることによって不鮮明で定まらないものに流されるような気がしたものだ。
(当然ですが、テロ行為を肯定するわけではありません。)

漠然とした恐怖感がもたらす実際的恐怖・人的被害・暴力などを避けるべきだ、と私はおもうのだが。より善くなる(なれる)と働きかけることのほうが重要だと個人的には考えているのだが。

1980年後半あたりから、なぜか至福千年説のように、「ヨハネ黙示録」が流行っていたし、異星人特集も妙にされていた。
無知な人はすぐに信じてしまうだろうし、ひどい場合には懐古趣味的にリバイバルされたりもする!
中世でも異星人や、超常現象について、また病気などの恐怖は蔓延していたし、説教師たちは怒って叫んでいた。今日では、TVコメンターが、あまり信じがたい説明的でない解説をしているのに少し似ている。



私見ではG.アガンベンはこの角度から、支配というものを見出そうとしている。私は、「ルネサンス」のあとにすぐ「北方宗教改革」が教科書的に書かれていることを問題視しているからかもしれない。
(というよりも、現在の歴史の教科書(義務教育)にはルネサンスもフランス革命も削除されていることが多いのだが...。)

個人的な近況としては、ようやく痛み止めを出してもらってきました。
なかなか時間を見極めるのが難しい時期です・・・・



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エリザベス女王の父、ジョージ6世のエピソード。
駐日英国大使館広報部からのお知らせと、Bunnkamuraからのお知らせを頂きましたが、昨今の映画作品の中では一番観にいきたい作品です。http://kingsspeech.gaga.ne.jp/ (公式サイトとトレーラー)

主題以外で気になるのは、ヘレナ・ボダム・カーターが出演していることでしょうか。「チャーリーとチョコレート工場」ではチャーリーの母、スィーニードット(個人的にこの映画はあまり好きにはなれませんでしたが・・・・)にも出演していましたが、今回は役柄の変化に女優の真髄を感じました。
彼女とケイト・ブランシェットはそういった底力を感じます・・・。

Bunnkamuraおよび、私の居住地の近くではムービックス新都心(さいたま:京浜東北線)、シネマイクスピアリなどで上映されるようです。


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追記として私見を。
映画レビューなどでは「サクセスストーリー」として書かれていることも多いがこの映画の素晴らしいところは、理解者、友があってこその克服が可能であるということだ。そして、単なるサクセスストーリーや「いい話」っぽくまとめたものではないことではないだろうか。また「英国人」や「豪州人」といったものよりも人としての力のほうがより重要であるということではないだろうか。ファンダメンタリズムとコスモポリタニズム、二者択一ではなく、最善のものをもとめなければならない。
人は「王に生まれるのではない、王になるのだ」という言葉を思い出した。
それと同時に戦争は美化されるべきではない。
どのような勝利にも死や犠牲は生じてしまう。
強制が重なるとどこかに影響を残してしまう、しかし私たちは在るがままでいることにも限度がある。

二回以上観るとこの作品のよさがすぐれた役者や脚本、構成といったものに支えられていることにより気がつけるだろう。
英語の会話表現も興味深い。
シェイクスピア演劇の台詞がライオネルとその家族たちによって用いられるのが印象深い。

個人的に印象深いのは、ライオネルの妻が助言するシーン。
「謝るのよ、お互いのために。」

DVDで観るのもよいですが、劇場で観ることをおすすめしたい作品です。

入試について、備忘録的に。
中学入試についてはほぼ家庭内だけで行いました。大手進学塾などは一切行っていません。英語学習はずっと続けていますし、数学も小5のころから中2内容までは学んでいましたし(娘)、二次方程式までは解けるようになっていたので中学入試の問題も方程式を使う方法で解いていました。数学との関連が重要だと思ったからです。
また、バレエも休会にはしませんでした。
ピアノは6年生の春でやめてしまいましたが・・・

秋口が一番大変だったかもしれません。模試と英検が重なっていたのですが、無事に英検準2級の一次、二次面接まで合格しました。
ただ模試の偏差は目標よりも1ポイントとどかず、それによっては多少現在の状況も変わっていたかもしれません。ともあれ、2校しか受験しませんでしたし、どちらも合格したのですが、教育方針や環境、道徳・モラル観などを重視して選びました。
1月は2日違いで私の試験もあり、私の体調は最悪でした。

2月入試のときは切り替えるのが大変でしたが、自分に関しては文献読みをしながら、日程を終えました。その間、ジルソン、マレンボン、プラトン「テアイトス」 「国家」などを読みかえしていました。


何が一番大変だったか、それは娘と父親の「とりなし」を始終しなくてはならかったことかもしれません。双方の立場を客観的になるべく観るようにし、どういう心情や必要性から、相手の立場を注解するようなことをしていたような気がします。逆にいえば、栄養面とその類、精神的なフォローばかりしていたような気もします。しかし私とてかなり迷いはあるわけであり・・・

現在の中入試では、他の習い事を一切やめることを大手塾側が強制してくるので、たとえば、英語学習や芸術的なこと、数学といった後にも繋がることを一切、10-12歳の子たちがやめてしまうことが問題だと私は思っています。または10歳までに養うべき、感性や経験、身体などをおろそかに考えている親が多いことではないでしょうか。強制でやる勉強の息抜きが「ゲーム」というのも本末転倒だと思っています。また塾の行き帰りにファストフードをたべたり、公衆マナーをまったく守らないようなこともあまり芳しいものではない。

とにかく、むしろ受験勉強のために本来継続していたことを中断していた部分があるので、むしろ、入試が終わって、やっと数学と英語を学べる、バレエも回数をふやせてるのでやっと本来的になれたという感じのほうが強いようです。


数日前の新聞記事で電子書籍の売り上げが紙の書籍を抜いたという内容のものを読んだ。私はといえば、時代潮流にはあまり身を任せないほうなので、この何年かといえば紙の書籍を購入していたし、今もそうなのであまり実感はない。

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安藤孝行氏によるジルソンの「存在と本質」.
この本は安藤氏が訳し、自費で出版されたもので、私の家にあるのも、著者に直接手紙を送って、入手したもの。
訳者序文にはこうあるので引用させていただきたい。

「もし20世紀における哲学、哲学史の最良の書を1冊だけあげよ、と言われたら、私はほとんど躊躇することなく本書、エティエンヌ・ジルソン 存在と本質 をあげるであろう。それがこの同じ世紀に生まれあわせて、約半世紀の哲学研究を重ねて来た訳者の、何の誇張もない真情である。」

いつも利用している図書館にももちろん在架している。
私は自分の家にあるものを読んでいる・・・
安藤氏の言と真情という言い方が実によくわかるので、これを翻訳し出版されたことに敬意の念がおこる。

賢明であろうとすること、また有されるべき知というものが、2100年代になったら何も残っていないのでは、などという気持ちにもなってしまう。
現に有史以来、そういうことは何度もあったし、どのように書物が保管されたり、翻訳されたり、読みつがれてきたのか、命脈をたもってきたのか、または散逸したのかということをいつも考えてしまうからかもしれない。



現在では、「ブログから書籍化されました」とか「自分のブログを書籍化する」とかいうビジネスもあるようだが、・・・どうぞ気の済むように・・・、とは思う反面、実のところそれはただの自己満足であろう。
「自分」「オリジナリティ」とかいうものがそれほど価値があるとは私には思えない・・・自己表出がこれほど重視されるのは、社会的あるいは日常では「自分」が見えずらく、確認することが困難になっているせいかもしれない。私には自己表出と思われているものこそが、「引き篭もり」のように感じるものがあるのだが。

だが自己出版というのは私は、商業ベースにのることを目的として著述や創作をするという立場よりは価値があるとは思う。
(ただし無条件ではない。また趣味的なものは含まない)
それは、書くことが、頼まれて「書く」というものが著述ではあるまい、と思うからで、私の周りには自分から家や都市、経験といったものを出版する人は割に多かったからであるかもしれない。

換言すれば、依頼によってのみ書くことを生業にする人たちは、「頼まれること」「依頼される限りのこと」しか書こうとはしない面がある、という面がいまなお強いのではないか。
それで、メディアに書かれなかったことがら、頼まれなかったがゆえに、書かれなかったことがらや価値は? 
おそらく、失われ顧みられる機会は多くはないだろう。
そうして残るものだけが「時代の価値」になっていくことはどこか抵抗がある。・・・

時や場所を越えて読まれるものというのは、時代の潮流に迎合していたものでない場合が多い。逆にいえば、今売れているものの大半はそのときだけのものだ。その時代にどういうものが好まれたのかというものを示す資料にはいいのかもしれないが。
一例を挙げるならば、シェイクスピアですら18世紀前半ではまだ異端扱いされていた。
ランボーは自分の詩がパリで出版されていたことを生前知る事はなかったし、宮沢賢治の作品は当時まったく出版社から理解されなかった。
マラルメの詩集は自費出版で初版は47部しか印刷されていない。
ゴッホの絵画は生前1枚も売れてはいない。


価値とは何か。
私にとっては、ものが安ければ安いほどよいとは思えない。

日本のような出版事情では、
絶版になるほうが恐ろしい!
(よって、私にとっての最後の砦的なものはちくま学芸文庫であるとかちくま新書のようなもの、平凡社ライブラリーであるとか、みすず書房の復刊シリーズなどである。)
価値ある文献をじっくり読みたいと思っても、もうない本もある。

(それだからこそ、中世やルネサンス期などでは書物とは所有するものというよりも頭の中に蓄えるべきもの、あるいは書き写すものであっただろう。)

それに市など公立図書館では、「あまり借り手がいないから」というレベルの判断で、貴重本がリサイクルブックとして放出されている惨状なのだから。こういう憂慮は私が90年代の末に書籍や出版に携わっていたせいもあるだろう。2000年代に入ってももちろん関わってはいたが、情報や本というものが随分と変容したと感じる。感じるというより、何が残るのか?という疑問は常に在る。

電子化といえども電源という限定をともなう+故障などのリスクを考えるとあまり便利ともいえない・・・いつもかばんには数冊本が入っている。
(もう手に入らないか、電子化かといわれたら電子化だが、だが電子化されるゆえに紙の書籍が役目を終えたと判断されるのも危険では。ハードという前提がなければ誰にも読むことができないという場合がおこりえない、とはいいきれないからだ。)

言葉を書くという行為は、無意識(この言葉も都合のよい言葉だ)に行われてよいものではない。私としてもそれを自覚するがゆえに、何も言わないほうがよいのでは、と思うことのほうが多い。

書くことによって、生じる効果や影響というのは
 公共的に、知を共有できる(かもしれない)

ということに多分に寄っているし、それはある種の危機を感じるがゆえに、価値保存(私としてはこれを自己保存欲とは区別したいのだが)のための意識が働く。
だからつねに緊張をはらむ行為となる(ならないならば認識が足りていないのだ)
有害なものは、人を真からさらに遠ざけるような誤りの言葉はないほうがよい。
古代エジプトでは書記は最高権力者でもあり、神官たちの道具だった。
別に意味では中世のイタリア自治都市では、ほとんどの市民が読み書きや算術といった合理的で基本的な技術を持っていたのも、それが「力」だったからだ.

今日では、意図的に何もしらないようでいることに全力をあげているかのよう(にみえる)。情報やデータは持っていればそれで価値があるというものではない。それを適切に用いる必要がある。

あるいは言葉によって他者が生きることも可能となることもある。
誰もが意図しさえすれば、真でないものも書くー流布される時代だから、書く行為が権力や誤れば暴力になることをもう少し自覚しなければならないだろう。



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昨年の春に撮影したときのにこさん。

にこさんがやや不調でした。
2月1日で19歳と2ヶ月になりました。
食事はよく食べてくれるのですが、心配なところが...非ステロイド剤を用いた炎症治療について、獣医の先生から助言をえているので注意深く見守ろうと思います。
白内障がすこしずつ悪くなっていると思いますし、目が見えにくくなっているということは、短時間の留守番なども不安なはずであり・・・
寒さと私の不調が影響したのか、お腹の具合もわるく、以前処方してもらった薬を1日2回のませ、少し回復してきましたが。

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よくよく観察して、必要なことはなにか、身体に負担がかからないようにしなければと思います。

私にとって動物はペットとはいいきれない。飼われた時点で、それは飼い主にすべてが握られている。おそらく、犬やねこを家に向かいいれたとき、何かしらその人にとっての危機があったのだ。現に私が自覚するかぎりでは、にこさんはそうした求め(要請)によって私が生きることを引き受けたのだ。それをやはり真っ当する義務があろう。・・・・昔は3.5キロくらいあった体重も2.3キロくらいになっています。
とはいえ、元気なときはとても元気ですし、実家に私が通って世話していたときよりはずっとのびのびと暮らしています。
私が我慢ならなかったのは、実家の人々が「もう歳なのだから長くいきるはずはない」と蓋然的になって、必要なケアもしようとはしなかったことです。なぜ自分がやりたくないからやらない、ということを正当化できるのか、仕方がない、といえるのか、しかもケアの仕方も迷信的でまったく個体のためにはなっていない・・・自分の主張しかしない、原因やどうすれば状況が改善されるかということを一切考慮していないので、それまでも私にはほとんど余暇というものはないので大変といったら大変なのですが、看過できない状況になったのでした。

今、特に肉体と精神とは何か、理性や知性とは何か、そして「生きること」とは何を示しているのか−・・・ルネサンス人たちが、アヴェロエスやイヴンシーナのアリストテレス註解を読んでそれを解釈したとき、また人間の感覚や知性といったものについて13世紀でさまざまに解釈されたことを観ながら文章を書くとき、そのことを思ってしまう。

やっと先週仕事や期日が決まっている手続きなどが一段落したので、(その間も13世紀のアリストテレス受容(トマスーおよびラテン・アヴェロエス主義など。マレンボン著作とジルソンほかとプラトン受容について、読んでいたのですが)午前中から夕方まで図書館へ行くことができました。(同じく論文を書いている方ともお会いすることができました)

書く、読むという作業をおこなっているときと、それが「正しいのか」と客観視するときになると、まったく確信が持てなくなる。何か見当違いなことを関連付けてはいないか? とはいえ図書館で集中していられるときは一番よい・・・こうした時間がもっと取れるといいのですが、そうもいかない・・


そしてルネサンス時代というのはそれ特有のことがらもあるのだが、多分に中世に拠っており、かつアリストテレスとプラトンが神学から距離をおいて世俗でも読まれ始めた時期でもある。だがこのテーマも1500年に入ると、否同時代でさえもかなりばらつきがあり、影響力があったものほど、あまり正しくは読まれていなかったし、ことそれがヴェネツィアや北イタリアなどでは、受容され拡大するにつれ大きく意味がそぎ落とされているということだ。

受容には、それを受取る側が多分に意味をゆがめてしまうものだ・・・

最近、芸術関係のフライヤーや公演概略を読んでも、どこか見当違いな説明がされてるように思えてならない・・・ 即物的にしかとらえようとしかしないからなのでしょうか?

From feudal self to spender.

他のことはともかく自分の間違いに気がつけるようにしたいものです。

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写真はイタリアのクラシックローズ、ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ。
昨年春に撮影したもの。
このばらが咲いてくれると嬉しい(リジョイス、あるいは歓びとでもいいますか)。
一季咲きのばらは、一年に一度の生命。それも人の手で必須で必要なものを与えられたかによって左右するゆえに。
でもあまり今年は手入れができてません・・・夏が暑すぎるためか、夏が忙しいと(今年はフランス語とその試験および公的機関紙に掲載するための文章を校正など重なっていました...)を手入れがどうしてもできず
...




ここのところ文章作成中に、「正しさ」とは何か、ということに煮詰まったときに、マリインスキーの「海賊」(アルティナイ.M)と「ライモンダ」(セメニャーカ)を観ることがあります。本来そうであるべきもの、という意味が、中心(軸・点)の一点から円周上に動きとしてあらわれる、かたちとしての美と、音楽にある美が調和したとき、それは想起を助ける美としてあらわれるように感じます。

私は「われ思うゆえに(ergo)われあり」という立場は無条件に立てない..
je pense, donc je suis.
デカルトの最初の足跡は今なお、問われている。

(社会科学の立場では主観を排除できない、しかし自然科学でも観察者と実験者はおのおの主観の中から対象をみている、という限定をともなう。このことは村上陽一郎氏も言っており、私は数年前に高校生向けの講演でこの主題について聞いた)

ところでこのデカルトの立場はすでにヴィーコから批判されていた。
もしそのことを言うならば、「私は思う、ゆえに私は生きている」ということになろう。しかし人間はすでに有限な存在である。(肉体、感覚器官、および、死の必然性の中にいる。)

存在esse(有)はこういう仕方で述語できまい。

花や芸術表現としてのバレエを通してみる「美」は類似するものがある。
それは呼び醒ましとしての美といえるのではないか。

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2月になりレッスンを本格的に再開できそうです。
といっても試験期間中も休会にはしませんでした。勉強はある程度は必須なものですし、しかしバレエは本質的なことを含むため、必須なことのために、1年とか半年であるとか休会して一切レッスンしないということはよくないのでは?と思えたためです。
無理しないように、オーバーワークにならないようにとのお気遣いを先生から頂きました。1/27は辰巳先生のレッスンでした。第一アラベスクの正しいありかたについて説明して実践してもらったと聞いています。この日は朝5時に起きて午前の試験をうけてきましたが(娘)夜7時からのレッスンに参加。楽しかったといってました。
3日はリハーサル(ライモンダ)に参加しました。藤沼先生からねぎらいの言葉を頂きました。また小林先生からも平日夕方は眠りの「幻影の場」のリハーサルをしている旨を教えて頂き。とにかくレッスンを減らしていたので、再開できてよかったです。
試験後は12月はじめにあったレッスン参観日のビデオをみて、娘は小林先生と藤沼先生の説明をみては、自分のできていない点を考察していました。「パンシェがまだ全然できていない、自分もちゃんと練習しよう」などなど。先生方の指導を受けられるのは幸せなことなのですから、自覚的に、自省し、そこから学んでもらいたいと思います。人は自らこう在りたい、と思うことが契機としてもらいたいです。また同じスタジオでレッスンしていている先輩からメモやペンをお祝いに貰ってよろこんでいました。

翌日のクラスレッスンでは、カブリオールなどを練習したようです。
土曜日のレッスンでは藤沼先生がライモンダのヴァリエーションを踊られたと聞きました。ともかくとして、私がルネサンス期(この時代区分もまたヴァザーリが中世から区分するために行ったものなのだが。ゆえにルネ(再)サンス(生きる)はむしろフランスードイツにおいて考察されてきたアイデンティティの起源であり、厳密な意味でのルネサンス期はやや複雑なのだ(と思っている)

・・・ところが思っていることが果たして本当かといえばそうでもないことが多いものだ。

(時には自分の知っているものを、または時には自分のしらないものを、自分の知っているものであると思うことによって、「誤ること」という可能性がある(ということを自覚すべきである)『テアイトス』(191E)

こうしたことを考えていられる時間があるときはよい、

むしろそれが本来的だと感じる。

・・・「正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にはほんとうの意味で書き込まれる言葉、
ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがあると考える人、そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟ともいえるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂の中に生まれた場合、こういう言葉をこそ、自分の生み出した正嫡の子とよぶべきであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのを止める人、このような人こそは、おそらく、パイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであろうような人なのだ。」 (『パイドロス』278A)

何度も読むと本来の意味でようやく「読めてくる」ということの繰り返しでもります。本当に人間の目はただ視覚というだけではなにも見えていないことが多い、認識しようとしなければ、それには近づくことも発見することもないものだ(と自覚する)

私自身も文章を書いてはいますが、自問は尽きない。

(だから更新できないときはそれなりに困難でもあるのですが、書いているときは大丈夫かといえばそうでもないという....
更新していないときは、ご想像にお任せするしかない!
なすべきことを成すしかない。・・・
すぐにお返事できないことも多く、それは個人的に日程がどう変化するのか読めないということもあり・・・周囲の状況によって、自分で決められる時間が制限される状態なのです。)

追記:
「観に行きますか?」と数名の方から聞かれ+私自身も観にいきたかった「ダンス・インザ・ミラー」(東京文化会館)ですが唯一観にいけるかもしれなかった6日も行くことができず。しかし6日に行ったというRさんから感想を聞かせてもらいました。ジルの振付と高橋竜太さんの踊りのよさがあっていて、無理してでも観に行ってよかった、と聞きました。やはり観たかったです...


We are not allowed to spend
And we are told that this is the end.

忙しいということはそれほど苦にならないのですが(幼少のときから半端なプロテスタント教育を受けた人なら、むしろ働いていない、あるいは社会の役にたっていないということのほうが苦痛である。召命がルターからはビリーフ(職業)に直結しているからである。こうしたことが、法の平等のもとに成り立っていない、奇妙に近代化した社会では二重の悩みになるのでは、と考えられるのだが)

困るのは、社会全般がある「前提」にのっとっていることで、
たとえば「標準世帯」というものや、「新卒採用」などもその類の固定観念である。
さらには、すべての人は同じく「暇をもてあましているだろう」と思う全体的なムードである・・・
個人的な事情などはほとんど考慮されない。
自社経営だと、一般的な暦や週休2日ということも関係がない・・・

たまに「いつ電話してもいない」といわれることがあるのですが、
それは「仕事は9時ー17時である」⇒「17時か18時には帰宅していてあたりまえ」だとか、母親は「午前中は家にいるものだろう、そして暇なのだろう」という前提から何も考慮せずに結論ずけるからであろう。
果たして、9時-17時が勤務時間であるという想定された「日常」は実際にはどのくらいの人が当てはまるのだろうか?土曜日仕事の人もいれば、シフトで動いている人もいるだろうし、正月やお盆といったものもとくに関係がない、という場合もあるだろう。

私の家では夕食を家族そろって食べるということは月に1-2度しかない。その代わり、ほぼ朝、昼は夫と一緒である。毎日三食+夜食もつくらねばならないことも多い!日常なので、それは困難ではないが・・・

だが私がやらなければならない仕事あるいは勉強は、家族がいる間はできない。よって明けがたに起きるとか、日曜に図書館にいくとかするしかないのだが・・・ 日常生活自体があまり見当たらない、・・・

たまに、夏休みなどに入り学校がなくなって、毎日お昼をつくらねばならない、と文句をいっている人をみると・・・または夕食のメニューで悩むとか面倒といっている人をみると、そんなことで悩むという感覚がわからないのだ。自分でやれることをやれることを幸福と思わず、何をしても不満な人は次から次へと不満を他人のせいにするだろう。

先日、参議院議事録の資料をみたのだけれども、これがまた未熟な三段論法のようなもので、やはり日本の社会や一般的な感覚というのはこうしたものなのだなと思った次第。なぜ前提を問わないのだろうか・・・。
実際にはこの時期から年度末には24時ちかくまで仕事になることもあるし、土曜は休みにはならない。まぁこうしたことをいちいち言うこともないと思うので(何せ私の両親すら、自分たちと同じように余暇があると思いこんでいる。何でも自分が基準なので、もはや説明する気力もない・・・感情的に受取るだけなので・・・)・・・

何がいいたいかというと、3連休というものはほとんどないし、2日休みということもあまりない。

なかなか思うように必須のこともできていないという焦りがある、が、こうしたときほど落ち着いて取り組まなければならないのだろうと思う。


家が前提になっており、個人はその部品である。
会社が前提になっており、個人はそのシステムの一部であり人称的なものよりも、システム全体に、分業されたものを担う。
個人の存在が、それ自体としてみなされるのは、あと300年くらいかかりそうであるし、間違った個人主義はそれには一切近づかないようにも思える、のだが。

A Design for Life.



dead can dance の”CANTARA”

初めて聞いたときはおそらく10代半ばくらいのときなのだが、今改めて見るとLisa Gerrardが語る場面とCantaraを歌うときの対比もとても興味深い。
CD(Toward the Within)は10年以上前から持っています。なかなか最近は家の中で音楽を聴くという時間もなく...しかし移動時に聴くという類のものでもなく、移動時は大抵資料を読んでいるので、久々に耳にしました。

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写真はカルミネ聖堂中庭。
マザッチオ/マゾリーノのフレスコがあるサンタ・マリア・デル・カルミネ教会でのフレスコ画解説の映像でも、このDEAD CAN DANCEが「再生」した14世紀の音楽(サルタレロ)は用いられていました。数ヶ国語のイヤホンを貸してもらえるので英語で解説を聞けます。


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カルミネの中庭に面したブックショップで購入したガイドブック。

マザッチオが活躍した時代は1401-1428年。27歳でなくなる。
私が昨年カルミネ聖堂のブランカッチ礼拝堂にいったときは、他に誰もおらず、そのフレスコ画の鮮やかさに驚いた。フレスコは7-8時間で書き上げなければならない。何度も絵の具を塗り重ねられる油彩とはまったく異なる。
(彼がローマへ行った際に毒殺されたともいわれており27歳で亡くなった。才能に嫉妬され、ライバルに毒殺されたともいわれている。現にこの時代、ヨーロッパの歴史は毒殺と暗殺が華やかにみえる文化の裏には多い。しかもそれは方法が変わっただけで、いまだに現代でもあるのではないか。(ヨーロッパ内ということではなく)と思うことも多い...遇有性や運命といった名前のもとに、実は人為的な毒殺や暗殺が多かったのではないか。)

カルミネ聖堂の絵画はマザッチオとマゾリーノ、フィリピーノ・リッピによって描かれたとされる。東方からやってきたビザンツ・ギリシア人が描かれていてそれは衣服でわかる。ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵画にもこうした東方から来た人々が描かれている。東方的なものが多く含まれているのがこの時代の一つの特色。DEAD CAN DANCEの音楽も中世-近世初期の音楽と環地中海的なものが含まれている。




1439年が東西教会統一の年であって、しかしそこからこの都市(フィレンツェ)は都市の指導者のいわば「スローガン」のようなものが数度にわたって極度に変遷する...(その変化と展開、他の地域での受容に関心があるという理由もある)先日も4ADについて書いたが、DEAD CAN DANCEは15歳くらいのときから聴いており、去年フィレンツェでこの音楽を聴いてやはり何かが共通している。欠乏を意識するのもそのためかもしれない。ルネサンス期は星は「生き物」として考えられていたらしいのだが、こうした音楽にもそういった世界観は反映しているようにも思う。

ともあれ今は、この前後からどのように「古代ギリシア」が受容されたのかということを問題にしているところもあります。

ドイツ語圏とドイツ語による作品、基本的なドイツ語を復習していたときは系統づけたり、年号を暗記したり苦労したものだが、イタリアーフランス関連に関してはあまり苦労しない、というか苦なく記憶しているのが不思議... そして疑問に思ったのは、多神教か一神教かとうことよりも、宗教や因習として問題なのは「排他的な多神教」なのではないだろうか。何か悪いことがあると「他」に転嫁する心性なのではないか。
反対によいことがあったとき「他」=「恩寵」だと感じる心性と異なるのはこの点ではないだろうか、と思うことがある。
そしてこうした心性は実のところ今日でもあまり変化していないのではなだろうか、と感じることもある。


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ユニセフのレターセット、ブルー・フロレンテイン。
フィレンツェ伝統の柄を用いたユニセフのレターセットは以前も購入して使っていました。函入り。カードもついています。
フィレンツェは<花>からその命名がとられています。
ユニセフの製品は半分が活動資金として寄付されますので、お礼状、カード、グリーティングなどにもよく使っています。


あまり個人的なことを書くblogではないのですが、乾燥と冷えのせいか、免疫力が低下していたせいなのか、(控えめにいっても)あまり調子は芳しくありませんでした。
といいますか、自分の試験および娘の試験の前後は不調で参りました。そして大抵、仕事上の期日も重なっている(!)

常に問いがよぎる。現在何をもっとも優先すべきなのか? 
質と速さ、これを複数追求し、しかもそれについての「よさ(good thing)」とみなされるものがそれぞれ異なるところが...。
そうはいっても、具合が悪いなどということは言い訳にはならない。
常に調子がいい人などいまい。
こういうとき「DO IT AGAIN!(AGEIN)」とコーネリアスのフレーズが頭をよぎる、ことが多い。のだが、
・・・それほど切り替えができないときもある。
日常的には、物事の切り替えを常に行わなければ1日も終るべくして終えることもかなわない。今日できることを明日にまわすなかれ、とは思うものの...

そして、日本の社会はいまだに母親というものは二次的あるいはもし「取替え可能なもの」という位置づけなのだ(要するに「物質的役割」として考えられている、と感じることが多い。(時々思うのだが、相談相手がいないことが現代社会の育児問題ではないく、「個人」の側面がなくなり、いっしょくたにされることが問題なのではと思うことがある。)

話を「日常」ということに戻すと、20時間くらいは活動していてあたりまえなので、これはなかなか容易なことではない。
あまりいいたくはないが・・・
(普通に生活していれば、ゴミ当番というものやら、地区の掃除なども周ってくるし、今年はまた自治会の役員なども担当することになりそうですし)
何日の何時までにおこなうという事務的作業はともかく。

「この時期は忙しいから大変ですよ、できることからやって必須なことだけをしないと、例えば料理なども作れるときに作っておく、」と聞くが、正直な実感としてはそうしたことは日常的に、もう何年も前から行っていることであって...。
このところ、シチュー、ミネストローネ、ブイヤベース、豆カレー、けんちん汁というように野菜が多くとれる(煮るものばかり...)ものばかりつくっていました。
朝用の野菜スープも欠かさず...。

日々、いくつかの時間軸がかさなりあう中で一巡りする。
ようするに1日は一つの1日ではない。ひとそれぞれの1日(24時間)があり、24時間営業が「あたりまえ」になっているような複数的な世界では、自分の時間にすら「他種」と「他のひと」の時間に関与せざるをえない。
要するに一つの世界、一つの時間軸というわけにはいかない。それぞれを成り立たせる必要がある。
(このblogに1日25時間と書いているのもそうした意味もある)

今もにこさんがやや具合がわるいときもあり...
「面倒なことは放棄する」「できなくてもしかたない」ということが、私には肯定できない...
自分は他を犠牲にしても、目的が達成できればよいとは思えないのだが、しかし自分が目的を達成できないことを他のせいにもしたくない。

継続して読んでいるものはイタリア、ラテン語、翻訳テキストと古典期ギリシアなのに対して(感覚と記憶、知について)試験で暗記していたのはドイツ語とその内容であって、しかも受容が大きく異なっており・・・
特にカント思想の誤解とアリストテレス詩学の受容、人間性というものの受け止め方が、まったく違うことなど...私は自己充足的なものに惹かれ、よりよいほうへ、ライトプレイスのほうへ向かうものに(自然に)惹かれるので、深淵に向かうようなものに抵抗がある...動機はわかるのですが、それによって人は認識をあたためることがあるのだろうか。
(共和制ローマを経由しない古代憧憬に何か理由があるのだろうか、とも思ったのだが、これは憶測にすぎない。)
要するに疑問だらけになりつつ、つづり字を含めて暗記していました。
基本的にすべてを読む、サイレント文字がないというのはイタリア語とも共通するが、G S の発音がとにかく違う。また世界を知るということがらが、悪に結びつけているのか、善に根ざしているのか、が全く異なる。

気管が弱っているからか、皮膚も弱くなるのでしょうか。
文章にするときに自分に対して感情的なことを書くのを好まないのですが、昨年も風邪をながびかせ疲労がたまり、ヘルペスとストレス性のアトピーのようなものが腕などに出て参っていた記憶が。
それとも花粉などのようなものの影響なのかどうか?
1月下旬はそれがあまりにひどくなったので、帯状疱疹なのではないか??と思ったほど。冷えも原因なのかもしれません。

夏は無理多少はできるのですが、冬は無理がきかないように思います。毎年それが高じているような気もします。
やっと病院へいき、まだ風邪・気管の傷みがなおりきらないと話し。
痛み止めを処方してもらいにいきましたら、主治医の先生に心配されました...(私の足腰のダメージは、短距離競技をやった人特有の部分があるのでなおすとかなおらないというものではないのですが。
自分の筋力と自己改善能力で健康維持することが大切というこの先生のもと今に至る。この先生の意見は、古代ギリシアのように医者=陸上競技者というタイプがはまるような方なので、少し遠いのだが、自力で回復できないときに相談。)

看護師の方には、「もう1ヶ月も前のことですよ?!」といわれたのだが、正直なところ「もう」1ヶ月経過したという時間感覚もないのでした。

・・・「まだ」も「もう」もないのです。
そうといっても月末ともなれば作業の締め切りもありますし、それなりに責任もあるわけで、やれるときになすべきことをなすべし、ということなのですけれど...


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2月になろうとしているのに、まだはぜの木には紅葉したままの葉が。
(写真はずいぶん前にとったものです。年始くらいの時期)

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シクラメンは年末に買いました。
ばらはまだ剪定もあまりできてません、寒気があると野外作業は難しい。

ジルソンが引用している箇所を図書館で読み直したり、テアイトスを参照してみたり。自分ではなるべく正確に理解りようと思っていることが、実は見当違いなのではないか?と自問する→調べるとの繰り返しでもあります。進展した部分と捉えていたことが、同語反復的なのではと疑問に思うことも。

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