1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

January 2011

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Bunkamuraで2月17日まで開催されているモネとジヴェルニーの画家たち 副題は、The Beginning of American Impressionism アメリカ印象主義の始まり・・ということで、最初のセクションではアメリカからフランスに向かった画家たちの作品が多い。
第一章 周辺の風景 緑と盆地、水の流れを描いている作品が多い。水の透明感をどのように色彩で表わしているのかというところが興味深かった。とはいえ、作品を眺めていくうちに思ったのは、むしろ第一印象は、「山梨県の甲府周辺と類似する風景」
・・・山梨側から見える山のある光景や空の色、光は、どこかセザンヌ的でもあると思うことがよくあります。
ということは、自然を規範にして、人為的なもの(町並み、家、田園)なども作ればなにもヨーロッパやフランスだけが特別な景観をもつということでもないであろう、ということです。長野県の安曇野などは、トスカーナからローマへ向かうときにみられる美しい風景が多くのこっていると思うけれども。

個人的にもっとも興味深かった画家は、ジョン・レスリー・ブリックの<<積みわらの習作 秋の日1-12>>でした。第三章のにまとめて展示がある。印象主義は、光学理論を芸術で行うことを目的としていた。観察し、画家がみた「印象」インプレッションを精緻なタッチで描いている。光が多色分解され、緑は緑、空は青といった先入観による色彩ではなく、再構成された画面。筆の筆跡がほとんどなく、印象派にありがちな感性主義のような荒さもみあたらない。デッサンもしっかりしている。
<<秋(新月)、ジヴェルニー>>も良かった。
しいていえば、あくまで客観的に自然をとらえつつ、その美しさを主観がとらえた印象として、描いている。そこに時間や画家の目線を感じる作品だった。例えは正しいかわからないが、風景画におけるハンマースホイ作品のような静謐さがある。

丁度、ドイツ語圏のナチュラリズム(自然主義)や新即主義などの文化をやらねばならないときに、心身ともに日光不足になり、図書館にいく途中に立ち寄りました。

しかし気になったのは、会場で「やっとモネね」と言っている人の多いこと。絵画作品そのものよりも「名前」のほうが重要なのでしょうか。

「有名だから見る価値がある」とか「有名だから観に行く」ということを否定はしませんが、それでは作品に出遭うことも、その作品から心動かされるということもないのでは・・・ それは鑑賞というよりも見物に近いのでは、と思うことがあります。
自分で価値を見出すことが、作品に対する敬意なのではないかと思うのです。ところで、モネに関して言えば私はモネの睡蓮を眺めるのが極度にすき、という人が家族にいるので、正直そこまでのめりこめません...。
睡蓮をながめているうちに、自分の精神状態と対話しはじめているのか、前をさえぎるのもこわいくらい・・・ に感じることがある。

フランス文学を学んでいた際のテーマが印象主義と象徴主義だったからかもしれませんし、ベルクソン思想がすきなのもありますが・・・

とはいえ、オルセーの睡蓮の連作がある部屋はすばらしいそうですね。
モネ展は、ramaramaのyukiさん、Heyselさん(UK-JAPAN2008以来の美術関係)と都合があえばご一緒したいですねといっていたものの。
みなさんそれぞれが忙しくそれはかないませんでしたが、昨年秋から気になっていた展示なので、急ぎ足ながら行くことができて良かったと思います。後日記入ですが、感想としてUPします。

私が現在購読しているのは東京新聞です。理由は主に、いわゆる「大手」新聞では掲載されないような記事があるため。例えば、大手新聞では動物愛護的な記事は掲載されないが東京新聞はとりあげている。
(大手の態度はスポンサー・企業への配慮であって読者のためではない面がある。多くの生活用品を扱う大企業では動物実験を(欧州では法規制があるのに)行っており、あまり代替実験もしていない)
記事として読み応えのあるものが多いこと。公告が少ないこと。
(私は以前、読売新聞の広告を計算したことがある(あるレポートのためにそうする必要があったからなのだが)実に6割が公告だった。それに読売新聞の見出しの短絡さに驚く。)

先日、佐々木毅氏が現在の政治についての記事をかいており、"目先のことにあまりとらわれないこと"を挙げていた。
この点に関しては私も同感なので記事にする次第。
というよりも、政治家のかたがたは目先のことばかり気にするのだ。実際に、ought(当為)の話を意見として口にすると、「この人は個人的な文句や不満を言っているのだ」との見方でしか受取らないことが多い。(市町村、はては国会議員の区別なく。だいたい奇妙なことに政治家にも内部的ヒエラルキアがあるのだ。例えば市町村議員を数年経験した人が、次は県議、そして国政、さらにその経験の年数に応じて閣僚という具合に。こういう構造はあまり政党差もないようにみえる。あくまで個人的な経験による私見ですが。さらに行政・公務員や学校関係者の「議員」に対する平伏の態度には驚かせられる。本当にそうしているのだとしたら、代議制の意味を取り違えているし、ふりなのだとしたら、代議制自体が成り立っていないのでは。)
ということは、政治家のまわりにはそういった利害関係の話でしか近づかない人がよほど多いのだろう。そしてそういった個人的あるいは団体の利益を解決することが政治なのだと勘違いしているのではと思う場合が多い...

この点に関しては教育についてもある大手新聞M社の教育担当者と議論をしたことがある。しかしその人は当為などはさっぱり関係がない、という考えで、「そんなものは時代にあわせて変わっていくし、場所によっても違う」と言ったのだ>義務教育レベルの話。そしてそれ以上人の意見を聞こうとはしなかった。こうした態度自体が、間違いに気がつかないままなのではないかと思うことがある。しかも他人の話を聴いて自分の考えを疑ってみる、見直してみるということがまるでないのが気になったことがある。無論私自身が正しいとは思ってはいない...しかし現実にその権限についている人の言動に疑問が起こることがある。それゆえあれこれ考えたり読んだりせざるをえない。逆らうことが許されない、質問もできないという環境が助長されて萎縮したり生きられなくなってしまう人を沢山みているからかもしれない。


東京新聞に関して話を戻すと、もう一点は軽いコラムの話でこちらはフラメンコ舞踏家の小松原氏が書いていたもの(連載中)。

「我が家のしつけは厳しかった」といいながら、その例が「集団行動は病気がうつる、ぶどうやバナナを食べない、たべなれないものをたべると中毒になる」・・・などというもので、これを読んだ人がこうしたことを「しつけ」だと思わないことを願いたくなる気持ちになった。
こうしたものは迷信・盲信であって、しつけとはなんの関わりもない。
何か悪いものが「他人から、集団からもたらされるのだ」という考えはしらずしらずに因習的な排他性を正当化するのではないだろうか。>心性として。
この方は舞踏の大家でコラム中では、生家は大勢の弟子がいる、正月はご祝儀でいっぱいになるetc・・・とか書かれており、こうした正当さを疑う部分がないのだが、伝統と因習を取り違えるのはやめたほうがいい。
さらにこの連載では、「日々麻雀、ゴルフ、夏は海、冬はスキーなどばかりしていた&バレエをやっていた自分にはまるで社会的な問題は関心がなく別世界のことのようだった」と60年代を振り返っている。・・・こういう現実感覚とよりましな社会感覚の希薄さが、おそらく日本における芸術面の後進性を際立たせている要因のように感じてしまった。
私の思い違いならよいのだが?つまり、それぞれの「流派」が「自分こそが一番正しい」と勢力争いをするだけで、決して一つにまとまろうという気持ちがないので人材が育たない、そうした「場」を創設することもない。

先日ローザンヌを創設した方が亡くなったが、近代の芸術というのは、市民精神と不可分なところがあるのだが、日本の場合はこうした点があまり見受けられない。自ら価値をつくり、育て共有していこうという気持ちがあまりないように思われる。

とはいえ、この方(小松原氏)も劇団を経験したときにようやくはじめて社会のことを考えるようになったという。そして「それが何か違うのではないかと漠然感じた」とつづっている。この感覚はある意味で正しい。
演劇を通じて社会改良をしようということの限界は、たしかにある。アンガージュマンの芸術・文学というのはスタンスが難しいのだ。「気づかせる」「ほのめかしとしての表現」と、と観客や読者の考え自体を変えようと意図したり、恣意的にそれを目的とすることは異なるからだ。

(もう一つの「文化」の問題はより根源的な問題で、「文化」として国や地方の予算が投入されるものは基本的に「男性だけの機関」であることだ。私には、江戸末期の大衆娯楽であったはずの歌舞伎や相撲「だけ」を「伝統文化」とかんがえるのはナンセンスのように思われるのだが。また日本では曖昧だが「文化」というのは権力と結びついているもの(税によってまかなわれているもの)をさすのであって、TVや国会議員が「漫画は日本の文化」というのは間違っている。
サブカルチャー、というべきであり、「文化」に反抗する概念の文化はカウンターカルチャーとなる。要するにメディアの「ことば」に対する自意識が乏しいのではないだろうか。

いまだに新国立劇場には専属のオーケストラもないのである。よりましな市民意識(シチズンシップ)がある都市では毎日オペラかバレエを上演しているというのに、である。チューリッヒ、メトロポリタン(NY)、コヴェントガーデンなどこういう劇場は5つある。私が音楽史を学んだときからこうした状況は何らか変化しているのかどうか?)

教育は「他人の生で二度生き、必然の死を二度以上にすること、二度の甦り」・・・つまり自分の生が他人の生であるという気持ちのもとにあるものでは。クロード・ベッシー(パリ・オペラ座前校長)は卒業生たちが私の子どもたち、といっているし、エリザベット・プラテルもまた「教師は守護天使のようなもの」でありこのことは「よりよきもの」への誘引者であることを示している。日本の場合、こういう本質が、基本的に欠如していることが多くみうけられる(ように見える)のは残念に思う。

ヴェッラヴィスタ氏の言葉を引用しておく。
「サルヴァトー、ブルジョアたちとは一体何者なのかい?働かない人びとか?」
「平たくいえば、ブルジョワとは保守派であり、現状に満足し、貯金した僅かなお金を守ることだけ考えている人のことさ。ブルジョアだって働いているが、それでも社会の最低の連中さ。だって、物事を改善するための努力を一切しないんだからな。」

誤解する人々がいるので付け加えておくと、ヨーロッパ、フランスやイタリアではむしろ貴族たちのほうが、改革派であった例がいくらでもある。むしろ資産が少ない人びとこそが、それを後生大事にすることだけを考えていることが多いものだ。(また、私としては自立することに専念することを最低の連中とまではいわないようにしたい、が、それにしても、「自分は一切悪くない」と思うが故に、「悪いのは他人であって、より劣っている人たちだ」(何を基準にするのか、また自分がそのような立場にいないのは本当に、自分の努力や能力だけのせいなのか。自分がそうした立場になったら、ということを一切考慮しないという「多数」が、現状よりもより劣った再生産を行うのではないか、と思ってしまうのだ。また他方、やはり自分は悪くないという立場から動かず、寄生的な状況に甘んじて自立する意思もないという場合は、より最低である)

・・・現在の諸問題も実のところ15年前にはその根があるのであって、現在だけ考えていても何もみえてはこない。結局、僅かな努力で自分の欲望だけを追ってきた人たちが、所詮労働者・被雇用者であるという立場をかえりみず、「中流」意識をもちはじめたために、消費行動だけに終始し、現在のような雇用不安定が生まれた一面があるのでは。

因習と伝統をとりちがえるような、小松原氏のようなこうした記事を「よかれ」と思って載せているところに、新聞メディアの他者性がみえてこないだろうか。悪いことは全部「他」 「他人」のせい、こうした心理が集団化したところに、集団ヒステリーもおこるのではないかと思うのは杞憂だろうか。まだこうした記事は記名だからよいのだが、ネット上で配信されるニュース記事やダイジェストなどは、すべて責任所在のない匿名なのである。しらずしらずに戦前的な盲目的状況が拡大していないかどうか?
差別や独裁、ジェノサイドはつねに集団的な心理がそれを要求するのではないだろうか。多数者の安心と満足のために、そうした事態がおこるのではないか。

メディア・新聞が「何を言っているのか、情報として何を知らせているのか」ということは理解すべきである。しかしそれをすべて「信じる」ことはやめたほうがいい。ところが、それがものごとのすべてであって、情報とはこうしてもたらされるのだ、とほとんどの場合は鵜呑みにしているかのようにみえる。さらに問題なのは、ニュースが自動的に携帯メディアに配信されていることである。あたかも「能動的に」情報を得ていると思いがちだが、それは新聞よりもTVよりもより限られた情報で、一方的で限定されたものだということがどれほど意識されているだろうか?

もう一つの他者性。
朝日新聞の見出しにはこうある。
「日本に貢献する在日」・・・このひどく無自覚な言葉によって「何を言いたい」のか? あるいはここにこめられているほのめかしは何か?
そもそもすでに在住4世にもなる世代すらも排他的に眺める感情とはどこからくるのか?
「日本人」という概念は何か? そこで生まれ、育ち、働き、税を納めてもなおかつ、「異質」「差別感情」を有する感情はどこからくるのか?
民族意識やナショナリズムは、それしかよりどころがない人の、他人への優越感にすぎない。私がぞっとするのは「アーリア人優越」や「ゲルマン民族」や「大和民族」という漠然としたものが、「個人」を排斥するときの感情的なものである。ナショナリティは、国外から「個人」として出たときにはじめてつきまとうものであると自覚する。おそらく、無条件な差別感情をもちだすひとほど、「外」に出たことがなく、「個人」である自分を自覚したこともないのではないだろうか。ファッショな状況を多数者の要望が作り出すときの、無自覚な「力」は忘却されているだけで、「日常」と「平穏さ」の中につねにあるのではないか。

無自覚さが新たな過ちと忘却を生み出すのではないだろうか。
新聞ですらほとんど無自覚なまま記事を書いており、新聞やテレビが発表するものが「世論」「輿論」であると蓋然的になっていてよいのだろうか。


よみがえる古代思想 「哲学と政治」講義(1) (「哲学と政治」講義 (1))よみがえる古代思想 「哲学と政治」講義(1) (「哲学と政治」講義 (1))
著者:佐々木 毅
講談社(2003-02-13)
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公共性 (思考のフロンティア)
公共性 (思考のフロンティア)
著者:齋藤 純一
岩波書店(2000-05-19)
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公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究
著者:ユルゲン ハーバーマス
未来社(1994-06)
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コミュニティ―公共性・コモンズ・コミュニタリアニズム (双書 持続可能な福祉社会へ:公共性の視座から1)コミュニティ―公共性・コモンズ・コミュニタリアニズム (双書 持続可能な福祉社会へ:公共性の視座から1)
著者:広井 良典
勁草書房(2010-01-25)
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物語中世哲学史 アウグスティヌスからオッカムまで
ルチャーノ・デ・クレシェンツォ
而立書房
2003-11-25


261 私たちはひどく思いあがっているため、みんなから認められたがるし、もし誰かが私たちを認めなければ、立腹するのである。

299 人間は概してひどく狂っているから、狂っていないということは、別の種類の狂気にかかっていることを意味するだろう。

134 多くの人びとは迷信から信じており、多くのひとびとは放蕩から信じないし、最後に少数の人はそれらの中間で待っている。

・・・

姉ジルベルト・ペリエによればパスカルは12歳のときに最初の論文をかいた。彼の教育はすべて父から得たものだったが、父親は才能に気がつくと、ラテン語や語学といった職業のための学問より数学に熱中することをおそれて数学と幾何学の学習を禁じたほどだった。しかし、パスカルは一人で(父には内緒で)ユークリッド幾何学の命題32まで解き明かしてしまったといわれる。19才のときに最初のコンピューターを考案した。考案するのは容易だったが、これ(パスカリーヌ)を作るさいに職人たちに理解させるために2年が費やされ、健康をますます害してしまったといわれる。
(思考することや考案することよりも、理解を得ること、<かたち>にすることのほうが困難であることが多いが)

彼は名声や金銭を得ることには関心はなかった。「真空論」は断片しか残っていない。 

「パンセ」はブレーズ・パスカルの死後に、友人たちがまとめて出版したもの。たいてい、「人間は考える葦である」というかなり切り取られた文によって説明されている。だが、これではルソーが「自然に帰れ」といったと誤読・曲解され、内容を理解せずに、あたかもキャッチフレーズ化するように聞き流すようなものだ。

377 「人間は1本の葦である。自然界に存在するうちでもっとも脆弱な生き物である。しかしそれは考える葦である。宇宙が彼を押しつぶすためには、そう骨折るには及ぶまい。水滴だけで十分だ。けれども、たとえ彼を殺しても、最良のものでありつづけるだろう。それというのも、これは死ぬべきことを知っている葦であるが、他の葦はそのことを知らないからである。」

40歳に満たないときに、亡くなった。

パンセ〈1〉 (中公クラシックス)パンセ〈1〉 (中公クラシックス)
著者:パスカル
中央公論新社(2001-09)









・・・今日では、「死の必然性」についてどれほどの人が自覚するだろうか。余命宣告されたらその意味を問いはじめるとか、あるいは逆に叶えられないであろう欲望についてさらに思いを募らせ問うこともないこともあるように思える。

生涯の軌跡 (メナール版 パスカル全集)
著者:B. パスカル
白水社(1994-06)

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物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで
ルチャーノ デ・クレシェンツォ
而立書房
2004-0

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集中して取り組むべきこと、また取り組みたい、解明したいと思うテーマと平行してドイツ語圏関連の再復習をしており。
類似したテーマの部分もあるはずなのに、「自然」、あるいは「人間性(人間的)」といったものに関してあまりにも両者の違いは大きく(みえる)。
これは原点である古典期ギリシアの悲劇、アイスキュロス、ソフォクレスら、およびレッシングのアリストテレス受容が整理できなければ、理解・整理したことにはならない、あまつさえ暗誦はできない、と思い、幾度となく時間を捻出しては図書館の地下書庫へ。(しかしテキスト・原文はあまりない・・・・)

・・・イタリア中世−近世-近代における解釈と正反対の定義がそこにあるのが確認できた(ように思う)。
はたして、やるべきことを成せるのか、・・・ 自分のことで他に負担をかけたくない、罪悪感・・・ということもあり、・・・何が時宜を得た行動か、
とにかく後悔のないようにしたいものです。

ところで以前「メディア伝説」、つまりパリ・オペラ座作品 アンジュラン・プレルジョカージュの「メディアの夢」についても記事を書いたが、原典であるギリシア悲劇は、グリルパルツァーのビーダーマイヤー的な感覚とはまったく別の側面と意味がある。
これは単なる復讐劇ではない。メディアがなぜ子殺しをするのか。それは彼女が母から大地の神つまり生命を与え、そして奪うものとして移行するからであり、それは「マンタノー」つまり「私にだってどんなにひどいことをしようとしているかは解っている」 この自覚している、知っているという一言が決定的に、グリルパルツァーの「夢想」に帰してしまう自己完結、あくまで日常的、遇有的事件の世界とは異なっている。
・・・ 実際のところ、こうした問題は現代でも深層として残っているのではないか、と思うこともある。
(当然だが、「わかっていされすれば」からこの行為が「正当」であるというつもりはありません。)
オペラ座作品に関して戻れば、マリ・アニエス・ジローのメディアは、母から地母神的な性質を演じている、それにたいして、エミリー・コゼットのメディアは、あくまで「事件性」の面にとどまっている。


自然や人間性というものに関して。ルソーは「もはや自然に帰れない。また自然のままにしておくと人間の場合さらにひどくなるといったのだ。しかしこれを「自然に帰れ」と「自分たちが「快いように、気分が和らぐように、努力せずともいいのだ」、と「おのおの思いたいように」受容したのがロマン主義のドイツと日本なのではないか。ようするにアミニズム的な感情のままなのではないか(年末に古代彫刻がまるで聖遺物化していると書いたが)「自然に生きたい」とか「自由に生きたい」という人の言い分は、単なる利己主義と強欲の追求でしかないことが多い。ルソーの場合はパスカルやスピノザとは事情が異なる。彼は懸賞論文に応募しているのであって、どういう立場からでも評価が得られるような書き方をした面があるのでは、という疑念が残る点がある。以前にも書いたが自分の仕事に専念できないから子どもを5人とも孤児院送りにしている。語の受容としては、スピノザの実体も、存在、本質という言葉も、どこか翻訳語はずれている。何かしら物質的なものを連想させる語が使われているから、なのだが。実体の「体」、存在の「在」、本質の「質」など、訳語が適切でないように思われる...)


ドイツ語圏に関しては、(そうはいっても)取り組んでいた点もある。
特に戦後歴史問題に関しては、石田勇治著作や、戦後グループの作品を解釈していたこともあるし、舞台作品でもドレスデン、シュツットガルド、ベルリンなども何度も直接みて、それなりに考えてきた。
こうした記事としてだけではなく、専門分野として文章を作成し、研究している方にも見てもらっていた。


私はあまり要領のよいタイプではありません。
また機械的に暗記するといったことも苦手で、そのテクストを読み、何があらわされているのか、「筋」「概略」ではなく、そこに何がこめられているのか、それを理解しなければ、脳内に刻み込まれないという性質があり・・・・
語学もその語や表現(文法なもの)の差異や、言語ごとに音声化した差異、ニュアンス(翻訳語と原語が異なっている場合も多いように感じるからか)が理解できないと、どこか覚えられない、・・・・
表面的に扱えない。


いかに切り替え、いかに集中するか・・・
こうした時間を他と関わりながら、いかに捻出するか、集中するかが問題です。
義務や時間的制約をおろそかにするのもできない。
やれることをやれるだけ、そのときに行うしかないと感じます。

庭園美術館フォトギャラリーに撮影した2点ほど写真が掲載されました。

P1080836


この写真は応募する際に迷ったもの。
光に溢れた日だったので、太陽の光、その線分を感じられる写真をとりたくて。
一枚は決まっていたのですが、もう一枚は迷いました。
11月にベジャール・バレエの前に目黒に立ち寄ったときに撮影したものです。次回のピックアップは1/20とのことです。

写真といえばいちいち撮影してはいないのですが、文献を読み、文章化してみて、うまく文章化できないと料理をするという年始でした。
(といっても体調があまりよくないのであまり手の込んだものは作れないのですが。ゼリー寄せ、ハヤシラス、マリネ各種、グラタン、煮込み料理などなど。)


nico2011

にこさんは元気です。食事量も夏よりも食べてくれるほど。タイミングをみはからい、食べそうなときにできるだけ食べられそうなものを口元までもっていってあげるということは第一条件ですけれども。
(だから離乳食時の育児と類似するものが) 目と脚は少し弱っている気もしますが...
でもだからといって、「もう歳だから」(現在19歳と1ヶ月)と「必然性」の問題にしたくない。「生きていたい」と思ううちは、「自分自身であろう」という価値を見出せる限りは、個は生きられるのだと思っています。逆にそうした気持ちが閉じてしまえば、生命も終わってしまう。
自分自身にもそう思うからかもしれません。
ストレスに弱いところがあるので私の不調などが響かないようにしなくては、と強く思います。

Image1162

写真は響の詩。
焼き野菜のかぶ、ごぼう、れんこん、ごぼうのサラダなど。

料理について および潜勢力について

私にとっての「美味しい料理」とは・・・素材が生かされている、味は素材のもつ力を引き立てるものである、見た目の彩りなど美的なものが含まれている、それぞれのよさを生かしながら統一感が感じられる、食べたときにくどくない、噛んでいるうちに味がわかると、といった具合。


勉強に煮詰まると、実際的になにか「かたち」「実質」のあるものを確かめないと不安になり、今でもよく料理をします。
「何か」をしていないと逆に落ち着かない。
(ばらを育てるのも、必須なことを必要なことをすれば植物はほぼ確実にその通り「有」を現してくれますが、人間はそうはいかない...)


よく来客した方などに、料理はどこで習ったのですかと聞かれるのですが、習ったことはなく。
私は中学生ぐらいから弟の食事を作らなければならず。
必須の作業を含んでほぼ毎日作っていましたね...

(両親にはほとんど何も頼れませんでしたし、頼るなということを小学生くらいのときから言われていたのであり。家の中にいる大人は口は出すが手は出さないという人たちの集まりであって、結果論だけを口に出すのです。自分の行動はすべて「しかたがない」といい、顧みることがない。現在もそれはかわらない。やらない理由を正当化するだけなのです。どういう因果か内部の癒着かしりませんが、ほぼ職業が公務員ということ、制度を濫用していることなども私には理解に苦しむ。私が母親というアイデンティティを何の疑いももたずに持っている人たちに対して不信を抱いているのは、自分の責任を自覚せず、それを責任転嫁することをよしとするからです。私は過ちは「繰り返したくない。)

今もどこかで美味しいものを食べたら、食べながら材料と調味を分析し、再現できそうなものならばつくってみるーレパートリーに加えるということの繰り返しです。もっとも最近は美味しいものを食べられる場所も減りましたが。

どこかで食べた料理(各国料理など)を再現することが多いです。
あとでプロ用の教本をみて、確認したり。

素材を見て、その可能性を引きだそうとする手続きをしている。
最近思うのは、プラトン思想に惹かれるのは自分が実はアリストテレス的だからではないか、と思うことが...

実際に何かを経験したことがきっかけになることが多いからでもありますが、自分はカテゴリー化できないと思うのに、他に関してはどこかカテゴライズしようとしている心理があるとおもい。

・・・自己認識というのは、そう努めていても難しいのでしょう...

晩年のトマス・アクィナスも言っている。
「私が書いたものを私に読み返すようなことをはしないでほしい。不確実なことばかり言ったような気がするし、すべてを火にくべてしまいたくなるだろうから」

逆にこういう心境にならない人は、初めから終わりまで何も変わらなく、何も問うこともせずに主張だけするのでは、と思うことが。

1月は日曜も図書館が開館しているので9日は午後から閉館まで図書館にいました。
帰宅後、チーズ・フォンデュを作りました。ほぼ2年ぶりくらいに。
朝食用の野菜スープは毎日夜か夜中に作ります。
体調によっては家族のタイミングにあわせられないので、煮込み料理が多くなります。野菜と豆とツナのカレーを作りました。

・・・年があけたら隣市の医者にいこうと思っていたものの、まだ行けていません。自分のことはどうしても後まわしにならざるをえない。

それとて、自己責任といわれればそれまでなのですが...

駐日英国大使館よりお知らせを頂きましたのでこちらにも掲載いたします。
昨年2月、試写会+レセプションに招待+参加したドキュメンタリー映画「The Age of stupid」についてです。
(試写会とレセプションの内容については過去log記事にも掲載しています)

以下はお知らせと上映会の詳細です。

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新年明けましておめでとうございます。
駐日英国大使館は本年も様々なコンテンツを発信していきます。
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NPO法人 Friends of the Earth Japan presents
◆映画「THE AGE OF STUPID」上映会+トークライブのご案内◆ 
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駐日英国大使館はFoE Japanが主催する本イベントを後援しています。
 
映画「THE AGE OF STUPID」公式サイト(英語)
      <a href="http://www.spannerfilms.net/films/ageofstupid">http://www.spannerfilms.net/films/ageofstupid</a>(本映画で主役を務める、名脇役で有名な英俳優Pete Postlethwaiteさんは今年1月2日に
64歳でお亡くなりになりました。)
 
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【日時】 2011年1月22日(土) 14:00〜17:00(13:30開場)
 
【会場】 YMCAアジア青少年センター 地下スペースY
     (東京都千代田区猿楽町2−5−5)
      JR水道橋駅、地下鉄神保町駅から徒歩10分
      <a href="http://www.ymcajapan.org/ayc/jp/map1.htm">http://www.ymcajapan.org/ayc/jp/map1.htm</a>
【プログラム】
(1)ドキュメンタリー映画「THE AGE OF STUPID」上映
   (日本語字幕付き)
(2)トーク「愚かな時代」にしないために
  ゲスト:
  飯田哲也さん(環境エネルギー政策研究所所長)
  江守正多さん(国立環境研究所 温暖化リスク評価研究室長)
  藤岡亜美さん(ナマケモノ倶楽部共同代表)。        

【特別協力】10:10日本
【協力】 環境エネルギー政策研究所、グリーンピース・ジャパン、
     MAKE the RULEキャンペーン、ナマケモノ倶楽部、
     10・10英国
【後援】 駐日英国大使館
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以上、お知らせを掲載します。

環境問題、グローバルという事柄に関係する問題は複雑なものがありますが、こうした問題は一人一人の日常、在り方が関わる問題です。
「誰か」にまかせておけばやがて解決するというものではないだけに、観て知ることから、問いをもつことから初めていくことが大切ではないでしょうか。

http://family.blogmura.com/tment_tbe/9603/wcnslwc2tfh5

c

チューリップとスイトピーの花を頂きました。
(お花屋さんを経営されている方から)
チューリップは育てていないのでとても新鮮に感じます。
寒さのなか、ちらほらと咲いている四季咲きのばら、常緑樹の葉、ハーブの花などを摘んでいましたが、こうした花をみると、もう冬至をすぎて、新たな再生的季節に入っているのだなと感じました。

しばらくは忙しない状態が続きます。
といいますか、試練です。(あまり大げさにはいいたくないものですが)

昨年からほとんど気分転換に自分の時間を費やすということが皆無になっており、うまくバランスをとらなければ、と感じます。
血圧が52程度しかない状態が続いており...
(つまり、うまくバランスをとれていないのですが)

しかしそれも結局は自分の問題なのです。
「しかたがない」とも口に出したくはないですし、
つきつめれば、何も言い訳はできない。
また気管を悪くし、ほぼ声がでなくなっています。


・・・大抵の場合、気分がよいことを幸福だと思う傾向があるが、HAPPYNESSは、心情的なものを含まない。
あれもしたい、これもしたい、あれもコレもほしい、というのは、次から次へ、限度ない方向に向いているもの(欲)であって、実のところ幸福とは無関係である。
(消費社会ではそれ自体忘れられているかもしれないのだが。)

運気や運勢なども同様。それよりも、注意深く観察すること、人の話を聞くこと、理解する際に自分の立場都合のよいようにに引き寄せないこと。

HAPPYNESSは「そうしていれば、もうそれでよい」という最上級であり、こうしたものは何か他人とか物質によって満たされるものではない。
そして、物質的、身体的なものからも遠ざかっている。
私自身はそのような状況なのですが、これとても自分の問題なのでしょう。

「魂の不安」これは生死の自覚とともに恐らく何らかの役割を認識したときにおこるものではないのか。実存ということだけだったら、問題はそれほど面倒ではない。(昨年ベストセラーだったらしい「悩む力」(大学の入試問題にも出ているようだ)では、他者と自己の問題が実存レベルで書かれており、正直なところそれは「悩む」という問題でもないように思える。著者は、今頑張るのは「将来バイク(しかもハーレー)で旅をするためであり、そのためには60歳、ようするに退官までにやらねばならないことをしておく、と言っており、それは結局は自己中心的な範疇の話ではないかと思ったものだ。これは単なる快楽主義(実際的な意味での)の延長上の問題なのではないか。
悩む力 (集英社新書 444C)悩む力 (集英社新書 444C)
著者:姜 尚中








さらにこの本の記述だと、肥大したエゴが「うつ状態」になるといったような説明をしているのだが、それはあまり正鵠を得ていないように思われる。)

死の観念にぶつかると日常のあらゆることが再評価の対象になる、というよりもならざるをえない。

マルシリオ・フィチーノおよび魂の不安について、というコラムで、ルチャーはこう述べている。

「むしろ、うつ状態こそが魂の不安の一形態ではないかどうかを自問してみよう。私はそうだと思うし、その理由をのべてみたい。
人の魂は船外モーターに似ている。うまく機能するためには、一定数の回転をしなければならず、それを超えてはいけない。アウトボードエンジンのスクリューは、水中で3000回転する。より多く回転するほど、船は速く進む。だが水上で回転させ、3000回を超えるとすぐに焼けてしまう。なぜか? スクリューは水の抵抗に打ち勝つだけに作られているからだ。この抵抗がないと、スクリューは故障するのである。
さて、私たちの魂は生の困難さを克服するためにできているのだ。この困難さがなくなる日には、私たちの魂も回転を超えてしまうことに、つまりうつ状態に入ってしまうのである。反対の現象はストレスと呼ばれる。」

自分自身と不調和でいることか、または周囲とあわせることか、この両者の「正」が正反対を向いている場合、おそらくどちらを選択しても不調和が起きる。こうした価値観は、日常的なことばづかいにも表れているように思う。「正直」という言葉が揶揄されるときのような。当たり前という価値のずれが、因習としてしかたがない、とされている限りそれは続くように思われる。(因習と伝統は同じではない。)

・・・面倒なのは、同調的でないことをただちに「敵対心・悪意」と受取られること、つまり、何を言っているのかを聞き、それを理解したあとで、反論するというような手続きを行わない人たちが大多数である場合。
感情から感情へ、または雰囲気から雰囲気へ(雰囲気とは物質主義が生み出すモードである)単にうつろうことが「当然」であるとする場合。
(ロマン主義の「感動」は「嘆息」に終始し、その強調だけに留まり、世の中のあり方にも自己のあり方にも洞察力を向けない・・・この時点に留まっているようにみえる。歴史的にみると、人間の精神状態というのは、突然進展したり、停滞したりするが、一方的受動状態が日常になると、停滞どころか逆行しはじめるように思われる。ブルデューがメディア批判(とりわけTVのそれ)を問題にするのも、ルチャーが無知の助長と無知の懐柔をTVが可能にしてしまうといっているのも同じ理由によると思われる。さらに携帯電話とWEBのTV化・公告化は、あたかも人が「情報や知識をもっている、十分であって不足はない」という仮の感覚を助長させるようにみえる。)

物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで
著者:ルチャーノ デ・クレシェンツォ
而立書房(2004-02)






(ルチャーノのフィチーノやピコの思想内容の要約はそれほどは適切ではないのだが。しかし、単にリーダーズ・ダイジェストのように専門用語を並べただけの解説書より間違いは少ないように思われる。というよりも、そぎ落とされてしまっている部分(余談)や人物について、背景についても含めてイタリア旧制高校での哲学授業内容が垣間見えて私にとっては興味深い。思想史が現に活用できるものだし、そうした考えのさまざまな形は、自分自身のあり方や選択といったものを考える際に、現在とて重要な問題だということを示してくれる内容のものも多い。)

知は本来、改善する力をもつはずである。だが、環境や状況によっては改善するということ自体を求めないこともある。(私には理解できなのだが)その立場を享受できることの自覚がなければ、なにをすべきかということも見えないものなのだろうか。自己と周囲が問題がなければ、何も問題はない、とするような... 困るのは自己と周囲が少しでも脅かされていると感じると途端に攻撃的になるか悲嘆に暮れ始めることだ... そして日常は自己忘却できるほどに「満ち足りている」と蓋然的になることではないだろうか。だから何か問題がおきたときに、権限があるにもかかわらず、「想定できなかった」と言うのだろう。

そして「しかたがない」「しょうがない」という言葉だけで、「何も問わないことをよしとする」立場が優勢な場合(あるいは”環境”)

役割の自覚というのは、いかに生きるか(在るべきか)と切り離せないように思う。それは、意志や目的の実現というものが、身体があるうちにしかできないものだからではないか。


左サイドバーにあるブリティッシュ・カウンシルからの情報で、4ADのイベントが行われるようです。4ADは15-20歳くらいのときによく聴いたアーティストが多いです。コクトー・ツインズやDEAD CAN DANCEなど。
AIONにも収録されている曲は、昨年フィレンツェのカルミネ聖堂(マザッチォ、マゾリーノのフレスコ画あり、解説のDVDもそこでみられる。そのBGMがDEAD CAN DANCEが演奏しなおしている曲でもあった)で再会したのを思い出した。

4ADに関しては、Zさん(もう10年以上もお付き合いいただいているミュージシャン)から薦められたのがきっかけです。
ここのアーティストが映画「ロード・オブ・ザ・リング」のインストメンタルを大分担当しているときは、時代の変遷を感じたものの、うれしかった記憶があります。


ブルーベル・ノール
アーティスト:コクトー・ツインズ
コロムビアミュージックエンタテインメント(1988-09-19)


Aion (Reis) (Spkg)
Aion (Reis) (Spkg)
アーティスト:Dead Can Dance
4ad / Ada(2009-11-02)








Within the Realm of a Dying Sun (Reis) (Spkg)Within the Realm of a Dying Sun (Reis) (Spkg)
アーティスト:Dead Can Dance
4ad / Ada(2009-11-02)







Serpent's Egg (Reis) (Spkg)Serpent's Egg (Reis) (Spkg)
アーティスト:Dead Can Dance
4ad / Ada(2009-11-02)
販売元:Amazon.co.jp
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31日昼まで休みではないので、31日夕方と2日の夕方に掃除(大掃除..とはいえない...)をします。庭の薔薇も多少、切ったり、落ち葉を履いたり..寒さが厳しく感じるのに、櫨の木も、雪柳もまだ葉が残っています。
薔薇の葉もおちていません。本当のところは、暖かいのか、それとも朝晩の寒暖の差がないだけなのか?

リビングが緑ーオレンジーアイボリーを基調にしているのに比べて、ダイニングは赤が多いです。寒色を使うと、無駄にアンニュイな気持ちになることが予想されるため。ル・クルーゼの鍋も赤とオレンジ、ラグ、カーテンも赤です。

ダイニングにはTVがありますが、朝時間を確認するくらいで見る時間はほぼありません。地デジ対策もしていません...。
やるとしたらどの道私が手続きしたり進めるしかないのでしょうが、その余裕がないし必要性も(以下省略)
ケーブルとのセットは、なんと今よりも値段が上がる+今よりもネットの速度がおちるという。正直どこにもメリットは見出せない... 

今も使えるテレビを捨てて買い換えるというのもナンセンスに思えますし。(ポイントがつくからといってエコではない。さらに言えばエコロジーとは本来、生態学のことを指す。この本来の言葉からずれて流布されているとき、大抵、意味が変容している。)

そして2000年以降の家電はすぐに壊れるのであまり信用できません。
しかし90年代製や80年代製(!)の家電は今も問題なく使えます。
引越ししてから購入した家電はほぼすべて不調です。
家電屋に行くのが苦手で、あの蛍光灯、家電チェーンごとにあるテーマソングの騒音(にしか聞こえない)、...
家具店のような家電ショップがあれば、少しは足を運ぶ気にもなれるかもしれませんけれども。

技術を否定したいわけではないのですが、「延長」的機能・要素にまったく惹かれません。
耐久性がなく、必須でない機能がついたものを新しいとは思えないのでした。


曖昧な強調は、不確実な集団的同調を助長させるように思われる。

「世間にあるのは、クエスチョンマークとエクスクラメーションマーク、懐疑の闘士と絶対的確実性の闘士だけなのです。クエスチョンマークにぶつかってみても、怖がるには及びません。たしかに、それは勇敢な男、民主主義者、その者と話あってみて意見を異にする男には違いありません。反対に、エクスクラメーションマークは危険です。それは固い信念の男、早晩”取り返しのつかない決心”をする連中なのです。ところで、今申し上げることをしかとご記憶下さいー信念は一つの暴力なのです。いかなる種類の(宗教的、政治的、ないしスポーツ選手のものであれ)信念も。あらゆる戦いの背後には常に、最初の銃撃をした、固い信念の一人の男がいるものです。それが殺すときには、いつも愛の名の下にそうするのです。私は父親から教えられました、懐疑は寛容と好奇心の父であると。若者は好奇心はあるが、寛容ではあり得ない、ところが老人は寛容だが、もはや好奇心をもちあわせていない。ところが偉人には好奇心もあれば、寛容でもありうるのです。」

ナポリの音楽教師コレーリャ氏の言葉から。

今日では、むしろエクスクラメーション・マークの氾濫ともいえる状況がみえるように私には思われる。誇大広告、「かならず儲かる〜の方法」 「必ず役に立つ〜の方法」「絶対成功する(商品・技術)」。報道もほぼエクスクラメーションの連続であって、CMもほとんどがそうだから、常に「絶対」「確実」「みながそう言う」ということにつられて、どこか落ち着きがない。

表現も適切ではないことが多い。「美しすぎる云々」「旨すぎる」「極上の」「激安」・・・などなど。すぐさま、疑問が生まれる。
何を言っているのか?
具体性のなさと限度のなさがなにを示しているのか。
私見では、何も考えずに手をのばすなかれ、と思うのだが。すべてを疑ってかかれとはいわないが、一時停止するくらいの用心は必要なのでは。概ね、得をしたい、他人よりもいい目にあいたい、などの感情が利用される。何が適正なのか、Realy? Why? How? What?と問うことも必要のように私には思われる。
電車内の広告、新聞広告、ネットにおける広告、報道の見出し、メディア世界ではすべてがまず人目を引くことに向けられる。しかし本当に重要なことは極度から極度へととつぜん移行しないことではないか。

自己認識は、力を持っているときには自分が思っているときほど正しく作用しない、ということも、人間の能力が絶対なものではないといえるだろう。(ただしこれはペシミステイックになることや諦観をすすめているわけではない)

「ロベスピエールだって、学生だったときには、死刑に反対の学位論文を書いたのです。そして、その後はこれらの人びとをみな虐殺してしまった・・・」

吉見俊也氏によれば、アイデンティティは、自らが「快い・心地よい・納得する」ような理由と立場を引き寄せている。そしてその背後には、他人と自分を比べて確証のない優越感をもつ意識が働いている。集団から集団へこうしたアイデンティティの肥大は、集団ヒステリーも生じさせる。

ルチャーはこう応えている。
「でも、何かを企てようとしたら、ちょっぴり信念が必要です。信念がなかったら、私たちはアメリカもペニシリンも発見してはいなかったでしょうよ。」
「ええ、でも、これとても、懐疑から生まれる一つの信念であるに違いありあません。懐疑こそは、過ちを活用する術を心得ているのです。」

気分の問題になってしまえば、人は過ちをできるだけみないようにする、これが新たな過ちを生じさせる。
短くいうならば、本当にそうなのか、適切とは何かを問わなければ現状ですら維持できない。盲目的に絶対的確信、愛のもとに叫ばれる愛国などもその類である。本当にそういう気持ちがあれば、考え、日常の中で行動することで現されるだろう。自分の役割を果たせば、自足でき、かつ他者や社会といったもののなかでもそれほどの害にはならないが、自分が正しいと思い込み、自分の役割を果たさず、他のことにばかり気がいっていては自らも保つことはできず、責任や義務を放棄すれば他の人がその倍の行動をしなければならない。しかしそうしたことも、欠乏の認識がなければ、何も問題がないと「信じて疑わない」状態のままなのだろうか...

物語ギリシャ哲学史〈2〉ソクラテスからプロティノスまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房(2002-10)

数で示されれば、では確実かといえばそうでもない。
%による説明はとくにそのように感じる。
たとえば、定価の9割引、といった表示がいかほどの正当性を現すのか。
要するに、すぐに飛びつくことなかれ、ということだし、不正をしても得をしたいと思わないことが重要なのでは...

年末から年始のあいだ、やや無理したせいか寝込んでしまいました。

大抵、三が日中に、毎年熱がでたり、何も食べられなくなったりということが多いです。

http://lifestyle.blogmura.com/tment_tbe/9815/wcnslwc2tfh5

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ギルランダイオのフレスコに関して見直しているときに、同じ資料にあるフィリッピーノ・リッピの絵画から。

フィリッポ・リッピの息子で、ボッティチェリの弟子(ボッティチェリはフィリッポ・リッピの弟子)なので天使たちの描き方に共通点を見出せる。マニフィカートの聖母などとの類似。弟子と師匠のつながりがはっきりと見出せ、かつ前の時代にかきあげられなかったものをフィリピーノが継承して描くという仕事のつながり方に憧憬の念を感じる。
ところでルネサンス期の画家たちはほぼ通り名で、ボッティチェリは「ボッティチェロ(小さな樽)、ギルランダイオは(花輪売り)、マザッチョは(きたないトンマーゾ)という意味らしい。マザッチョの名誉のためにいっておくと、画業に専念しており身なりにはあまり気を使わなかった+極めて善良だった。このあたりの画家はまだよいにしても、テレビなどでレオナルドをダビンチというのはやはり抵抗がある。ダ・ヴィンチはヴィンチ村出身のというほどの意味なので、今日的な姓のようにとらえていると?? 

冬の体調維持の困難さ...仕事場でよりも自宅PC作業がここのところ多いので、足元の冷えも一因なのではないかと思い、LL.Beanの室内履き(スリッパ)を購入。12月いっぱいまで送料無料だったので。


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スエードで中がボアなのです。私は踵が細いので7サイズ、イタリアサイズだと37が丁度良く、日本の靴だと踵があまってしまう。暖かく、階段の移動でも脱げないのがよいです。一階はロビンスの床なので1階で家事をするときも少し楽になったかもしれません。しかし寒い。にこさんは元気です。

暮れは結局31日の早朝まで1月3日に配布する文書ファイルを作っていましたし、元日は早朝御節づくり・・・夫の実家へおせちを届け、そのあと身内が入院しているので夕方お見舞いへ。
29日にノートに下書きしていたことを入力し、まとめたいと思っていたのですが...なにか日常の少々の時間の中で進めると間違いが生じていそうな気になってきます。2日はハーブティが切れていたので、カリス成城でハーブティを購入しました。そのくらいでしょうか。あまりゆっくりできるという環境ではないのですが、それでも普段よりはこの二日は時間にせきたてられる状態は多少なかったように思います。しかし毎年のことながら1月から3月まではあらゆる意味でもっとも重圧がかかる。


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ニュー・ドーンが咲いたのでいけました。

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パルシステムで赤たまねぎを注文しマリネに。サーモンとあわせても合います。
焼きニョッキは簡単。オリーブオイルとバター少々で7分ほど焼き(途中3分くらいはふたをして蒸し焼き)塩少々とパルミジャーノチーズをふります。ジェノベーゼソースを合わせても。


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月桂樹の枝が伸びていたので、何本か切り、細い枝は料理用に乾燥させるべくつるし、のこりはインテリア用に、ばらのドライフラワーと一緒に。
ダイニング+キッチンは一体型(L型+アイランドカウンター)で、この設計は実例がまったくなく、大変でした。パーツをみて、自分で考えて配置するしかない!施工例もあまりなく、駒沢の展示場(当時)に2回通ってディティールを把握し、あとは構想するのみ。グラスホルダーは重宝しています。ホライゾンのキッチンを考えてる方の例として掲載しておきます。
(現在の状態)

今年のウィーンフィルのバレエは...あのバレエ学校の生徒たちの基礎は...足の置き方が...とかいまいちでしたね。指揮者メスト氏は良かったと思います。(かつてシノーポリの代役で来日したとか)
ところでベジャール作品関連の記事を書くと、バレエ関係よりもクラシックローズ、輸入住宅関係の方のほうが記事をみてくださることが多く。やはりバレエというと19世紀クラシックのイメージがバレエ愛好家の方ほど強いのかもしれません。私にとっては19世紀は「つい最近」という時代感覚でして、それはウィーンも同様。ウィーン民衆劇、世紀末ウィーンの美術、1948年革命などを思ってみても、ルネサンスというよりもロココを通じたバロックであり...日本における「クラシック」という受容がどのあたりを通じているのか、と思うことがあります。わかっていると思っているものが大抵は仮象のような気にもなります。

毎年正月は体調が悪くなります、年末の疲れが出ている中新年的なことを計画通りこなそうとするからなのでしょうけれど...!