1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

December 2010


P1010531

写真はフィレンツェ・アルノ河沿い、ポンテ・ヴェッキオ近く、早朝に撮影したものです。(2009.12月)
先頃、イタリアへ行かれた方がいて、フィレンツェの雪景色の写真を頂きました。国立図書館、ジョットの鐘楼、デル・フィオーレ聖堂が一望できる写真で、なんとも懐かしい気持ちになりました。

今年一年ありがとうございました。
今年は同じ分野の研究をしている方、類似した勉強をしている方とも何名か知り合いになることができました。やはり論文執筆中の方(修士論文の方も...)もいて。
以前、はたして自分の論文書きと子の受験が重なっている人がいるのかどうか、と書いていましたが、私だけではないようです。皆それぞれ時間をやりくりし、限界がある中でやり遂げるしかないですし、形にするしかない、そして正しく理解しなければならないのですよね。
そして何よりも求めるものを理解したいのです。

しばしば行き詰りますが、そして自分の義務とともに、やるべきことを成さなければと思います。内的な困難さは、常に過去の記憶との比較によって、怒りや恐れなどの感情になります。(パテーマ)そうではなく、事実を認識すること。現在と自己を認識すること。・・・分ってはいるのですが、克服するのみですね...

P1010765

ヴェッキオ宮・五百人広間にある「勝利」(Michelangero ミケランジェロ・ブォナローティ)

ヴェッキオ宮内はフラッシュをたかなければ撮影可能です。(下はミケランジェロ自身といわれる。)

ミケランジェロは大理石から「余分なものを切り捨てただけだ」と答えていた。この余分なもの以外がパルメニデスのいう「有」なのではないか。この造形は「作り上げていく」ものとは異なる。そして私が個人的に確かめた限りでは、素材に人間の力が加えられ完全に完成されたベルニーニの彫刻とは異なる「何か」がある。(人間を含め)物質と精神との間にはいかなる関係があるのか。潜勢力をみるためには、視覚だけでは見えない。

DSCN0053

ローマ・ヴァチカンのピエタはガラス越しに遠くからしかみえないが、デル・フィオーレ大聖堂付属美術館の未完成のピエタは周囲を回ってみることができる。

考えを言語にするということは、自分が理解しえたと「思う」レベルではまだ十分には書けない。そしてそれが、思われから離れ、吟味され、正しく理解されなければならない。それを正しく表記することがどこまでできるだろうか。

とにかく、自分のなすべきことと、家、仕事といった中での義務を果たすこと、それをなんとか両立しなくてはという一年でしたし、春、秋はにこさんの看病もありました。・・・寒くなったので、油断しないようにしたいと感じます

プロティノスはほとんど失明してから、著作を口述筆記で一気に書かせたといわれている。

「他人との関係で苦しみが生じる時には、どうなのだろうか。他人のことで苦しむには、われわれの魂が弱いからである。われわれは、他人の苦しみなどには気づかないほうが身のためだ、と考えていたり、他人の苦しみを観るよりは、いっそのこと自分が先に死んでしまったほうがよいと、それも他人のことを考えるのではなくて、ただもう自分が苦しまなくてもいいように、と自分のことだけを考えていうことがあるが、これがとりもなおさずわれわれの弱さである以上、そのその弱さを取り除いてしまわなければならないのであって、これをそのままにしておいて、他人に不幸が起こりはしないかと恐れるようなことがあってはならない」

それはその通りのなのだが、他のために自分が救われればよいとは私は思われないし、それは義務を果たしていないという自責が起こる。また帰責社会と貨幣経済の現代では、生命が代償に置き換えられる、さらにたとえば家長(日本はそれほど個人に権利があるわけではない)が自らのこと、快さと義務の放棄によって、なおかつ他の家族も死と苦痛も問題ではないとするような立場をとる場合、またそれをひとかけらも顧みない場合、さらに外においてはそうした態度を示しておきたいという場合、・・・
そうした状況では、「他の何物をも考慮しない」ということがどこまで可能だろうか。

・・・・

P1010566

アルノ河。真っ直ぐいくとサン・スピリト、デル・カルミネ聖堂へと出る。
この橋の上でよく本を読んでいる人をみかける。
人が一人で考える場所があり、広場があり、市外には自然が広がっている。・・・


ミケランジェロ (岩波 世界の美術)ミケランジェロ (岩波 世界の美術)
著者:アンソニー ヒューズ
岩波書店(2001-09-27)









ピレボス (西洋古典叢書)ピレボス (西洋古典叢書)
著者:プラトン
京都大学学術出版会(2005-06)


世界の名著 15 プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス (15)(中公バックス)

著者:プロティノス
中央公論新社(1980-08)

5






新年の愉しみといえばニューイヤー・コンサートのバレエで誰が踊るかというくらいなのですが、昨年はオペラ座のニコラ・ルリッシュとエレオノーラ・アバニャートがウィーン美術史美術館で踊りました。このバレエは実にすばらしいですね。同じ曲で過去にマラーホフとポリーナが踊っています。
あらためてみると・・・ウィーン美術史美術館での古代彫刻はどこか聖遺物的な目線で扱われているような気もしますが、2011年は誰が踊るのでしょうか。2月にはベルリン国立バレエ(マラーホフ、ポリーナ、私が好きなダンサーでもあるナディア・サイダコーワ、ライナー・クレンシュテッター、マリアン・ワルター)の来日公演があります、ブルッフの<ヴァイオリン協奏曲>(ガラの演目予定)と<チャイコフスキー>が観たいのですが、試験があるのでいけません。ブルッフのヴァイオリン協奏曲はABTのガラ公演DVD(ただしリージョンが1なのでパソコンでなら再生できます。このDVDはマカロワも登場したり、コレーラのドン・キ、マラーホフのレマンソもありリージョン・フリーで観られるとよいのですけれども・・・)にも収録されています。


Image1137

マルシリオ・フィチーノ書簡集1を洋書古書にて注文...1週間もしないうちに届きました。ジョバンニ・カヴァルカンディやジュリアーノ・メディチ、ロレンツォ・イル・マニフィコ、ポリツィアーノへの書簡。初期の書簡(1457年)が含まれている。
今年はじめに新刊で出版されたVOL.8は予約して入手済でしたが初期のものが気になっていました。

晩年になり、自分の書簡を収集したフィチーノだが、なかなかそれを最終的なものとするのはしかなったらしい、常になにか問いをめぐっている場合は、こういう不安をもつものなのかもしれません。しかしこの夥しい書簡と翻訳、コメンタリー、膨大な仕事量をあらためて思うのだが、それも彼らが親和を感じていた過去のひとびとはやはり45歳前後でなくなっていたのであり、この時代ほど自分自身ができる仕事量と知らなくてはならない知識量が増え、なおかつそれに比較して自分がはたしてどこまでできるのか?という有限さへの意識も現代の比ではない。しかも言論において「超えてはいけない壁」があったのであり...



ピコとポリツィアーノが相次いで1494年に死んだときに、残ったフィチーノのことを考える。彼は99年になくなる。
やはり1400年代というのは近代の転換のスピードの中にあり、だが依然として人びとの意識や都市の在り方は中世的なものがあり...しかも力とは支配と軍事力という諸国が周辺にあった。この環境で平衡という概念を保つのは心身ともにどのような状態になるのか。最善とは何か、をかんがえるときに、配慮しなくてはならない諸々のものと何が正しいのかということが同時に認識される場合、・・・実際にどのような選択をすべきなのか。

一箇所の場所から自分の意志だけでは動けない状況にあるとき、本当の意味で、自由意志というものを考えるのかもしれない。現代的な感覚ではおそらくこの意味は考えられない。・・・ 状況において、人はどのレベルで思考においても自由に行えたのか。しかし、身体の自由が叶えば、自由に(自立と自律のもと)思考し、論述することを人間はするわけではないように思われる。例えば広告媒体によって成り立つメディア、放送など、また言論自体もそうであることも多い。


彼は竪琴を弾いた。
デル・フィオーレ聖堂の胸像は写本とリュラ(竪琴)をあわせたような形になっている。それにあわせてピコやポリツィアーノはよく唱和した、という記述があるが、そうした場を想像するのはなかなか愉しいものである。またしばしば、より深刻をよそおったもののほうが苦労が多いと思いがちだが、外にむけては優雅さをたもっておくほうが労力を要するものだ。12月は体調が。控えめにいってもあまりよくありませんでした...しかも、もう月末なのですね。

月末30日まで仕事なのですが、1月末までいろいろと重なっています。

時間を「作れる」ときには図書館へ通うようにしています。

正しく理解するということ、真なるものをいかに文章としてあらわすことができるのか、自己を完全に客観的に眺めるのは限界がある、しかしどこまでそれが可能なのか...

因みに絶版本以外の書籍やDVD、CDなどは(私はデータをDLするのはどうも苦手です。私はジャケット含めたアルバム/作品としてCDを買います、ジャンル問わず) どうも自分だけが「安く」もしくは「対価を払わずに」ほしいものを所有したい、という風潮がさらに強くなっていますし、そのこと自体なんとも思わない風潮も強くなっているように思います。
しかしそれは本当はすべてにとって悪循環を引き起こしてしまうのでは。

皆がそうだから、「当たりまえ」「普通のこと」ということにほとんど歯止めがきかなくなっているように思う。そしてどこまで「周囲にあわせること」が「当然」という価値観が拡がるのだろうか?


Image1144
Image1141






恩師がトマトを送ってくださいました。そのままでもとても美味しい。チェリータイプのモッツァレラチーズ、ルッコラとあわせてサラダにもしました。
小山で作られているトマトだそうです。
味も美味しいですが、色艶がまた違う。

写真をとるためにサラダにかけてはいないのですが、シークヮーサー・ビネガー(オルビス)+エキストラバージン・オリーブオイル、塩、ペッパーのみのドレッシングを作ってあわせました。

SBSH01081

レタスをシンプルにビネガー(白ワインビネガー)とエキストラオリーブオイル、塩、ペッパーだけであえたサラダ+キッシュ、えびとブロッコリー・・・は、FLOで買ったものです。
あまり普段はかわないのですが・・・今月は3回も買ってしまいました。

パルシステムのルッコラは鮮度がよく美味しいので、毎週頼むことが多く、サラダにもよく使います。

上記の記事に関連させると、私はPC作業や文書作成に行き詰ると、突然料理を始めることが多く。
何か実際に完成するものがないと、不安になるのかどうか?
ブロッコリーのスープ、きのこのマリネ、トマトソース(パスタ用)などを作ることが多いです。
ローラ・アシュレイのキャンドルは去年買ったものですが、おだやかな火で食卓でも邪魔になりません。

P1080901













Kさんから頂いたクリスマスカード。
(秋にはハワイ島のお土産も贈って頂きました。)

P1080916

みなみさんからクリスマスその日に届いたカード。
透かし彫りのようになっています。

メッセイジありがとう御座います。
私もユニセフでクリスマスカードを買って書こう、と思っていたらあっというまに12月23日になってしまいました...やろうと思ったこと、というよりもそのほうがよい、と考えたことに関しては言葉にしたりアクションにしなければ、とおもうのですが今年はなかなかそれさえもできていません。

SBSH00911

にこさんも元気です。
ただ白内障はすこしずつ悪化してるかもしれない、と思うことも。
いぬにとって、生きるということは、栄養をとるとか散歩をするということと同時に、認知すること、自分を確認することの相互の中にあるのだと思います。そしてそれは人間も同じであって、生きるとはただ生命の維持にあるのではなく、世界と出遭うことと知ること、そして言葉によるものなのでは、と感じます。19歳のにこさんをみていると、もちろん元気なのですけれども、この生命は身体の機能の丈夫さだけにあるのではなく、探究心や認知されることのよろこび、知りたいという能動的な行為、そういったものに支えられているように思う。そして私も支えられていると思うのです。知性とは何か、感情とは何か、おそらく限界をこえて生きているのもそのせいだと思うのです... そうでなければ、言葉を失ってしまうし、発する相手もなくなり、自分も消えてしまうのだと思うのです。

生きるとはそういったことすべてに関わるのだと思う。

P1080899

デザイナーのリョウコさんがデザインしたパーカーとTシャツをプレゼントして下さいました。>娘に それからチェブラーシカのシール数種もデザインしたということでこれも頂いてしまいました。

P1080912

Tシャツのほうは秋のものよりも厚地です。
バックプリントはこんな感じです。下のほうがよく映っていなくて申し訳ない...のですがプリントだけでなく、いろんな素材感がデザインとマッチしています。

チェブラーシカはよいですよね。翻訳の本も持ってますが(数年前の夏にジブリ美術館に併設されている図書室で購入した記憶が)
チェブラーシカは「ばったり倒れやさん」というほどの意味だそうですが、これは今の私に当てはまる言葉のよう...

image003













Season’s Greetings and Best Wishes for The New Year







駐日英国大使館よりグリーティングカードを頂きましたので、このブログのご挨拶とともに。

ところで私はカテゴリー・範疇というものを考えるのがあまり得意ではなく、記事にするまえに標題やカテゴリーを考える時点がもっとも迷う部分があります。UK-JAPAN2008-9のときは主に、舞台芸術関連と美術関係、文化関係のことを書いていたので、このカテゴリーにしました。
今年もいくつかのイベントに参加する機会がありましたが個人的には、映画「The Age of Stupid」の試写とレセプションに参加できたこと、自然と人間のかかわり、持続可能性などに改めて考えた機会でした。

書きかけの記事もあるので、時間がかかってしまうかもしれませんが、いずれ掲載できればと思っています。

23日午前中はTS.ERIOTの英語詩とともにCATSインターナショナル版を紹介。近頃は小学校などでも日本語版のスキンブルシャンクスなどは歌われるようです。それならばやはり原典であるエリオットの詩とそれを活かす形でつくられた英語版を知ってもらいたいと思ったからです。
私は10-14歳くらいまで、トリニティ・カレッジの英語テストを受けていたせいか、その時分までにそうした愉しみと異なる言語体験のような新鮮さ、大変さを中学へ行く前に知ってもらいたいという気持ちがあります。

24日は仕事の締め切りと重なり、年内は30日午前中まで休みではないですが、これはいつものことなので・・・
ただ寒さがとてもつらく感じます。毎年寒くなる気がするのです。
地球全体が氷河期に向かっているという指摘を思い出すほど、です。

4
ベジャールの 『M』に関しては、モーリス・ベジャール振付 『M』と今回の東京バレエによる『M』の上演について、記事を分けて書いておきたい。
なぜなら、舞台作品としての『M』の解釈と、上演された『M』とを分けて書いたほうが、作品にたいしても、上演に関しても、観客にとっても意味があると思われるからである。

私見では場面について、バレエ作品としてもっともよかったのは、実のところ鹿鳴館の部分である。私は19日の舞台にいったのだが、前日は高橋竜太さん、宮本祐宣さんだったので見られずに残念。しかし松下さん、小笠原さん、梅澤さん、氷室さんもよかった。後で実際にバレエをやっている娘に聞いたところ氷室友さんがよかった、と言っていた。
重力からの解放、跳躍やしなやかさなどどれもよかった。女性のロンドでも高村順子さん、乾友子さん、佐伯知香さんもよかった。
バレエの表現、見ていて観客が純粋に「良い」と思える部分がバレエの重要な要素だと思うからである。こうした感慨を抱くのは、ベジャール・バレエ・ローザンヌで『80分間世界一周』を繰り返し見ているからかもしれない。

配役に関して、シ(死)は自己(少年三島)のなかの他者(祖母であり文学であり死(タナトス)である。だが、イチ(一)、ニ(二)、サン(三)は、同一的としたほうがよいと思う。つまり「顔」(レヴィナスの言う個)を明確にしないほうが役柄を体現することになるのではないか。なぜならばこれら四つは一つの精神の分有であるのだから。
つまり、それぞれを「四人の王子」的にならべる役柄ではないからなのだが。
今回のMに関して、東京バレエはこうした役柄と作品の性質、特質よりも、認知度であるとか、これまでの名声などで配役してる感がある。重要なのは、今この役に適切なのは誰か、ということであり、それが行われなければ、バレエ団としても芸術表現と作品としても価値が衰退するからである。高岸さんは演技とバレエ自体とも特に不満はなかったのだが、後藤さんと木村さんが本当にこの役柄に相応しかったのか、という疑問が残った。
すくなくとも配役をダブルキャストにするべきだった。木村さんは『火の鳥』公演のときは素晴らしかったのだが、前回の『カブキ』ではやや身体が重いように感じた。それは長瀬さんのセバスティアヌスも同様で、ノイマイヤーの『月に寄せる七つの俳句』ではとてもしなやかだったので、それと対比してそう思われるのかもしれない。殉教とは生死の表裏一体である。肉体は死に、精神は永遠に生きて記憶されるべきものである。(だからベジャールの狂言回し的な役柄はそのように作られている)
聖セバスティアヌスは特に重力を感じないほどの身体表現と生死を乗り越える丁寧で繊細な演技が求められる。私見では、質料がそれほどないのにもかかわらず、あらわらされるものが非常に重く感じる。そう思われたのは、個人的な感慨というよりも、「他に踊れる人がいるのでは」、という考えが興ったからだ。こうした感慨を、観客が思うようではどうなのか。
私は東京バレエのベジャール作品をいくつか観ているからそう感じるのかもしれないが、何の説明もなく観た人は、そこに価値を見出せただろうか。

そしてこれはダンサーの問題ではなく、カンパニーの問題なのではないか。ベジャールのバレエではスター性を求めない。だからこの場合に、三統一の法則のように配役をあてはめるのは適切ではない。クラシックの高い技術を用いながら、古典・クラシックの構成による表現方法では表現できないものをベジャール作品は作っているためである。

観客ができごとを「見物する」役割ではない。感動は、感情を超えて思考と判断を求められる。一、二、三は少年三島の魂の分有なのだから踊ることに専念する役なのである。「死」は演技とバレエの両方が求められる。
渡辺理恵さんの「海上の月」も丁寧な演技だが人称がありすぎる。群舞の女性ダンサー、吉川留衣さん、奈良春香さん、田中裕子さんのローズ、ヴァイオレット、オレンジも象徴性を感じられず、バレエとしてもあまり魅力はなかった。
この日の上野水香さんは、ときどき目につく雑さがなくよかったと思う。

それから東京バレエの女性ダンサー全般に思うのは、作品の中での役割を考えず、まるでオーディション選考にきた人のようなメイクで舞台にでていること、動きとパの意味や「あらわれ」を考えずな、表面的なものが多いことが目につく。役柄を考え、なにを表現すべきなのかに打ち込むほど、その人自体のよさ、特性、輝き、魅力も増し、そこに人は目をとめるのであって、その逆はない。
ただオープニングと終幕でのシーンは良かった。こうした部分がおろそかになると、全部の舞台がなりたたないことが多いためである。

バレエ公演として、見てよかったという気持ちになったのは最初に述べた鹿鳴館のシーンであり、そのほかは舞台演出や、ベジャールの三島、自己、セバスティアン解釈であり、舞台から得た感動はほぼ演劇的な要素からだった。
しかもそれは配役が適切ではなかったことが原因に思われる。私の知人は18日の舞台にも行っているので、そんな感想を持ったか聞いてみたいと思った。

ベジャールは表現主義演劇をバレエと融合することで、すべてを語らずとも観客が真なるものと永久不変なものを感得し、考え始めること、在り方を問うことが可能なものとしている。それも憎悪によってではなく。

それから、さまざまな「死」と「再生」がテーマなのだから、その意味のためにも、カーテンコールは2回くらいまでにすべきでは、と思った。

三島がなぜ切腹するのか、ここを曖昧にするとかえって「単なる肥大した自我、国粋主義者」のような解釈になってしまう。しかし重要なのは、そういう解釈のもとに作られている作品ではない。個人の孤立を作り出すのは、ある意味でその社会の閉鎖性、全体性が拘っているのであり、容易に単なる国粋主義者のように解釈することが危険なのではないか。なぜならば、本質的な問題を個人の死を騒ぐことで封じこめるからだ。
べジャールが『M』であらためて明るみだした問いはこうした問題意識ゆえだと思う。

一人の死が何を照らし出すのか。

私たちはただ、拍手をしたり、他者の成功で自己満足を得たり、個人の死を単なる事件や不運のように受け止めてしまうことは現在もかわらない。というよりも、現在はさらにその傾向が強い。

要するに創作者は自己満足のレベルに留まっては、観客には何も伝わらないか、伝わってもそれを気づかないうちに壊してしまうこともある、ということである。だからドラマをみてそこに同化し、涙を流すことがカタルシスになるというタイプの人からはベジャールはあまり理解されない。自分本位な立場や自分が変わらないもの、もう完成されているという視点をもつ人にはその視点がわからないのかもしれない。どのように解釈しても自由である、となればそれは、無意味なものになってしまうことを危惧しているのです。逆にいえば、舞台が作り出す意味を客観的に捉えられていなければ、そうした空間を作り出すことは難しい。
こうした感想を書くのは、もっとよい舞台ができる可能性のほうが強いのでは、と思うためである。適切な世代交代ができることが重要なのではないだろうか。こうしたことは観客にも求められることだとは思う。
しかしカンパニーが打算的になっては、舞台芸術は虚しい。舞台芸術は、「絵画」や「オブジェ」といった物質的な芸術ではない。生きた人間が、自らの生命と存在の意味を求めて創っているものなのだから、打算的なものの中では本当に価値も生まれず、才能も活かされないのでは、と私が思うからである。

ダンサーはそれを伝える継起、直接の生きた言葉、詩の流れのように踊ることが必要となる。日本ではしばしば芸術は感覚的なもの、表面的なものと思われているが、そうした表面的なものは独立した価値を持つことは難しいだろう。
要するにグリゴロービッチ時代のような面があるのではないか、ということであり、こうした力が作品とダンサーに作用するのは、あまり良い結果を生まないのでは、と思うためです。

今回の『M』では小林十市さんの復帰引退公演として、5年ぶりに上演された。またベジャールの死後初めての上演ということもある。こうしたことがらによる上演広報にはいささか疑問を感じる。復帰引退公演が2日両日で完了するというのも奇妙ではないだろうか。5年ぶりに、そしてある意味で最初と最後であり、そして三島とベジャールとセバスティアヌスの殉教・死という、他者の死をみたい心性が重なっているように思われるからだ。

以前初演のMについても掲載したが、『M』のシンボルは聖セバスティアヌスである。初演ポスターに用いられ、パンフレットにもグイド・レーニの絵画がシンボルに用いられている。
セバスティアヌスはペストからの庇護者である。逆にいえば、多くの人はぺストが自分の身に厄災としてふりかからぬことを祈って、この矢に射られたセバスティアヌスが描かれたのである。つまり、三島が選んだのは、多くの人が記憶するために、セバスティアヌウスになるということだった。
・・・重要なことは、私たちすべてが、知らぬうちにペストをセバスティアヌス崇拝に転嫁するように、自分だけの幸福を望んでいないか?他者の犠牲を自らのアイデンティティのために、平穏無事なことのためだけに一切を問わずに看過していないだろうか。

そうした意味を含めて、今回五年ぶりに上演されたのはよいことだろうと思う。だが、それだからこそ、常に芸術に携わるものならば、最善の舞台をつくりあげることしてほしい。それがバレエが芸術でありコミュニケートのためのツールであり劇場空間としての意味を保つためには不可欠である。べジャールが作品を全映像化しないことの意味もそこにある。

ベジャールMと表現主義。表現主義では中心人物は作者自身と同質である。日常的環境を戦って高い次元で自分の生を充実させようとする。主人公は社会の現実と対置され、この場合、個人以外はすべてが社会となる、家庭、権力、戦争など。原動力は超自然的なものとなる。
「M」の場合、少年三島はベジャールが見出したもう一人の自我でもあり、超自然的力は、聖セバスティアヌスである。死(シ)は狂言回しであって、この存在によって、観客はドラマと対置され、出来事を同化せずに眺める視点を獲得する。逆にいえば、この存在は、ベジャール作品においてもっとも重要な役となる。こうしたベジャールにとっての傍観者として、ローゲ(ニーベルングの指輪)、伴内(カブキ)、旅人(80分間世界一周)などがある。近親者の死によって幼少の自己に分離をつくるもの、生の渇望と共鳴者への同化願望による死)が表れる。

聖セバスティアヌスは三島とベジャールを結びつけるアイコンとなる。時間、場所をこえて、同質、類似するものとしてこの聖人が共有されるイマージュとなる。
個人の確立の過程で三島がとった選択は、自我への反発であり、自己実現とはならなかった。だからベジャールはそのことを見抜き、三島の精神が孤立化しないようすべての主人公たちと聖人の存在に結びつける。
ベジャールの作品は激しさをもちながら、最終的には愛に満ちているのもそのためではないだろうか。それが赤いリボンで象徴されていたのではないだろうか。水脈、血脈としてのエッセンスの継承なのではないだろうか。

悲劇を憎悪や応報で表現するのは簡単なことだし、観客が一つのドラマに自分を重ねて感動する(自己陶酔)に誘うのも簡単なことだ。しかしそれは忘却であってなにも変わらない。ベジャールの舞台が小説よりも詩の構造をとっているのもそのためであり、観ているものが、自分のあり方を問うことを呼び寄せるのである。
こうした言葉とイメージによる呼び寄せを創造するのは容易ではない。

一方でこの作品ほど舞台装置によって支えられているものもない。
ミラーは、観客にとって上方、違う次元の視点を提供する。舞台上に、異なる視点をもつということは、作っている側と見ている側は、舞台を正面からみる以外に、より次元・ディメンションのことなる見方があることを意味する。またセバスティアヌヌ(聖セバスティアン)が海へ向かう場面、「豊穣の海」と合わせた場面は、完全に非日常の空間を作り出していた。

ベジャールは、ノイマイヤーなどのドラマティック・バレエとは異質のコンテンポラリーである。なぜならば、「劇的演劇」とは対立する舞台のありかたをもとめるからである。映像化しないという理由もそのためだと私は思っている。観客はそれを目撃しなければならないーそうでなければ「本当の」意味で作品をみることにはならないからである。
「叙事的演劇」は舞台は継起を物語るものであり、観客は傍観者になるが観客自身のエネルギーはよびさまされる。
感動は洞察力になり、人間は探求の対象となり、人間は変わるもの、として描かれる。


そしてベジャールの作品が単純に悲劇として扱えないよさを持っているのも、必ず再生としての力、憎悪による分離の力ではなく結合するものとして、地中海的な生成力をそこにもっているからである。

スピノザは言っている

重要なことは
「笑うな、泣くな、嫌うな、そうではなく、理解すべきことを理解せよ」

”nec ridere nec lugere, neque detestari, sed intelligere.”

困難は多く、すぐには理解できないことのほうが実際多いものだ、と想う
スピノザは、ある時代、ある期間忘れ去られてきた。シェリングが再評価するまではむしろ傍流におかれてきた、という一面もある。
(近現代後期における人間の在り方、そして自然というものの有機的なつながり、十全ということについて一時期スピノザを研究しようと想ったこともある・・・ ただ最近、新プラトン主義の受容において、プロクロスからルネサンスをへてスピノザまで幾何学に関連して真なるものの探求を行ってきたという一説を読んで、今のテーマとの関連とも無関係ではないのかもしれない、とおもう面もある。)

この言葉は、かくいう私たち自身すべてに向けられている、と感じる。

成すべきことを成し、理解すべきことを理解すること、それにどこまでできるだろうか。そしてそれを他(例えば家族、仕事)といかに両立できるのか、双方での「由」とされる部分が食い違う場合、あるいは相反する場合、人はどちらを優先し最善とするべきなのか。
人は身体、精神その双方としても有限であり、そのことを痛感する。
しかし、いずれにしてもやらねばならない、と想う。できるか否かは私自身の問題であり、他にその理由やいかなる言い訳もできない、のかもしれない。

P1080130















写真はスヴニール・ドゥ・ラ・マルメゾン。2株を鉢で育てています。私自身はマルメゾンにいったことはないのですが、このばらはクラシックローズの特徴をよく持っています。

ベジャールの「M」について記事を書くかもしれませんが、いろいろとやらねばならないことも多いため、しばし休載します、というとまた逆に内心プレッシャーになるのかもしれませんけれども。

記事に関しては、輸入住宅とオールドローズ関連以外では、今年はマニックスに関すること、村上春樹と村上龍に関すること、あとはイタリア関係、パリ・オペラ座関係に関する記事をみていただいたようです。村上春樹に関して付言するならば、丁度ノーベル賞云々とマスコミが騒いでいたころに、実は地元のある住宅街で見かけました。私はあまり私的な時間に割り込むのは好きではないし避けるべきだとおもっているので話しかけたりはしませんでしたが、あとである雑誌記事で「よく読者のかたからお会いできて光栄ですといわれるが、本人は毎日自分を鏡でみてはうんざりしているのに、なぜ光栄なのかわからない心境になる」と書いていたので、やはり声をかけなくて正解でしたね!と思ったものです。
(勝手ながら)



気管支の傷みは多少回復してきました、ただやはり乾燥(特に暖房の・・・)すると悪化します。
あっというまに12月になり、毎年のことですが個人的に7月から秋の終わり、年末・・・まで正直全く切れ目がありません!年の移り変わりというもものもほとんどなく、正直なところ、個人的感慨としては98年または2000年あたりから円環的な時間の流れに入っており、もっというならば93年-96年あたりの時間のまま「停止」または「保留」状態になっているのです。いまだに独身だとみられるのもそのせいかもしれません・・・自分の中で解消できない問題があるせいかもしれません。
私はものごとやできごとに対してあまり不安を感じたり動揺したりするほうではないのですが、それ以前のあり方(自他)については常に問題を感じているところがあり・・・。

(ただし「家」という」ものの内の一部と単にみなされ、個としての性質もすべて無関係にされる場合(日常において大抵はそういう場合のほうが多い)は別ですが・・・。個人の人権というものが近代化したシステムの中では基本的なことがらに対して、実際のところは「何も問わず、なにも言うなかれ、そうでなければ、居場所はない」という二者択一的な前提が「家」というものにはあるのはないか。そうではない、といえる人がいるならば、その場合はその家の家長や世帯主含め構成するひとびとのうちより「上」とみなされる人が開明的な場合だからでしょう。)

また行動において何が最善なのか?ということは常に迷いますが・・・ 時間的制約もあるからかもしれません。

ノーベル賞に関しては、なぜ個人の受賞が国民全体や民族的栄誉のようにはやし立てるのか(すくなくともメディアでは)疑問ですね・・・社会学で私にブルデューを読んだらよいのでは?とすすめてくださった岡原先生いわく、そうした賞をなぜ自分たちで創設しようという動きにはならないのか、ということに私も同感なのです。
個人を尊重するという原則が失われたり忘却されること・・・世の中に対する基本的かつ原則的な問題だと私は思っている。なぜか、個人の欲望レベルで不満が募ると、突然全体レベルの目的にすべての問題意識が集中してしまうこと、世論どころか民衆裁判的感情論が席巻するようなことがままあるからである。しかも義務教育レベルの社会の授業ではそういった言説にのっとって「時事問題」として扱われる感があるからである。
事実について考える際に、もともとの枠組みに照らして考えないと、誤ることはままあり、大声で唱えられていることがらが、正しいとはかならずしもいえない、からである。

もしもメディアが役割を果たすならば、むしろ、受賞する前に、さまざまな研究や活動について見逃されている価値があると紹介すればよいのに、と感じる。



古代ギリシア人―自己と他者の肖像古代ギリシア人―自己と他者の肖像
著者:ポール カートリッジ
白水社(2001-08)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

大英博物館より古代ギリシア展が2011年7月(神戸では3月から)開催されます。アテネに行きたい(いきたいというよりも、行って確かめたい、という切実な感慨ですが・・・・)と思う私にとっては大変に気になる展示です。大抵大英博物館からの展示というのは、都美術の狭い展示室でおこなわれてきており、混雑+作品自体が大きいのでろくに観られないというフラストレーションがありますが、今回は国立西洋ですのですこしはゆったりとみられるのでは、と思っています。
展示タイトルの THE BODYというのは少々、古代ギリシア彫刻や美術を語るさいにニュアンスがことなるのでは、という気もしますが。
なぜならば、それは身体を造形しながらも、それと同時に精神のあらわれ、あり方などを表しているから、ではないでしょうか・・・。2世紀のエロース像も展示されるようです。ローマ時代の摸刻もさることながら、前2600年ごろの後期スペドス型女性像なども出品されるようです。

古代ギリシア、という一般的イメージ、古典期の美術、ペリクレス時代のギリシア、もっといえばギリシアとは何なのか。いくつかの書籍に目をとおしてから観るとより充実した機会になるのではないでしょうか。
ギリシア美術 (岩波 世界の美術)ギリシア美術 (岩波 世界の美術)
著者:ナイジェル スパイヴィ
岩波書店(2000-12-22)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
ギリシャ美術史―芸術と経験
ギリシャ美術史―芸術と経験
著者:J.J. ポリット
ブリュッケ(2003-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
ギリシア悲劇―人間の深奥を見る (中公新書)
ギリシア悲劇―人間の深奥を見る (中公新書)
著者:丹下 和彦
中央公論新社(2008-02)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る



ギリシア悲劇―神々と人間、愛と死 (講談社学術文庫)
ギリシア悲劇―神々と人間、愛と死 (講談社学術文庫)
著者:川島 重成
講談社(1999-09)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

今年は参加したい、行きたい、と思った講演、展示、公演にもあまり脚をはこべませんでした。以前講義をうけた長谷部先生、神崎先生のお話がきける機会だった11月の史学関係の講演もいけませんでしたし、バレエや美術、考古関係のものもあまり参加できず心残りもあります。
古代ギリシア展には脚を運びたいと思います。
そしていつか、機会をつくりアテネとデルフォイへ行きたいものです。
なぜかその場所へ立つと、息づいている何かを感じられるものです。
(と個人的には思うことが多い)
ローマの石とロスアンジェルスの石をどうして交換することができましょう、ということばがありますが、その都市、場所で生き、考え、活動しそこで死んでいった人の魂(sprit)の断片は、身体の生死とはまた別の意味でいき続けていると思うのです。

P1080399

7月にロンドンオリンピック開催2年前記念として半蔵門・英国大使館で開かれたイベントに出席した際に記事としは掲載しなかった写真です。

ランチレセプションがあり、オードヴルやアントレの意趣がよかったので撮影したものです。色合いが綺麗ですが、味も美味しかったです。ケーキはフルーツを使ったもの。このほかにもミートパイや紅茶、などなどあったのですが、話をしているほうが多いですからあまり写真はとれていないのですが・・・自分の趣味の一つが料理でもあり・・・オードブルや会話のために必要な小さな料理はメインの料理よりも気を使うこともあり、参考のために撮影。写真はとれてませんが、ミートパイやフィッシュ&チップスといった手軽につまめるものもありました。

P1080380



P1080383


P1080381



4
書いておきたい(書き残しておくべき)と思う事柄はいくつかあるのですが、そういうときに限ってなかなか時間はなく、体調も芳しくないということもあります...

すばらしい先生たちについて記事に書いたが、堤林先生の古典期から近代、19世紀フランスまでの政治思想論を文化的史観も含めて学ぶ機会があり、その中でキケロについても扱ったのであわせて記事にしておきたい。キケロはその著作のほぼすべてが翻訳されており、主要な作品は岩波の文庫でも読める。結論を先に言ってしまうが、現代人はキケロの「老年について」および「友情について」をまず読むべきである。そしてキケロが一体どういった生死を迎え何を重視していたかは「歴史の中のキケロ」を合わせて読むべきである。
キケロは言っている。
老年になって若者の時代の力や若さをとりもどしたいと考えるのは愚かなことであり、なぜならばそれは若者のときに象やライオンの力をほしいと思う人間はいないことを考えればあたりまえなのである。
(ローマは経験による知恵を重視した、それは共和制ローマの理想である。フィレンツェの大聖堂付属美術館へいけば、ドナテッロの共和制ローマ時代の賢人を理想とした数々の彫刻・塑像にであえる。重要なことと私が思っているのは、こうした理想的賢者が短期間のうちに福音書者からローマの元老院議員へと代わっている。(のちのこの理想像はさらに転換する。私のテーマもこうした変化に関係するのだが・・・)


以前、十字軍本についてなぜいつまでもローマ=塩野氏解釈なのか、と書いたことがあり、賛同のコメントも頂きましたけれど、舞台化、人物評価ともにつねに日本ではカエサル(シーザー)が中心。反対にキケロほど正当に読まれていない著述家もいまい、と思う。

今日、マスメディアが政治家を失脚させようとするときの理由は、未だに、権力乱用、金銭、女性の三つのいずれか、である。こうしたニュースと話題をみるたびに、またかという思いがする、当然マスメディアの問題提起の浅薄さについてである。私は同様に「失言」という見出しや論調も恣意的だと思っている。メディアの受容者はひたすら受身なのであって、実際にその発言や演説、講演をきいたわけではなく、「きりとられた」ある発言が初めから「失言」として流布されるのである。
もっとも権利あるものたちが近年なんにもで「遺憾」という表現でかたづけているのも、奇妙なことだが・・・要するに初めから思考停止状態なのだ。
しかしそうした三つのことがらが、実際に失脚、辞任、敗北などに繋がるのは、多くの人びとの欲やもとめるものもこの三つの欲望だから、なのではないか、と思う。

キケロは、権力、金銭、女性のどれにも縁遠かった。というか固執しなかったのであり、権力についてもそれは独占物ではなく、分権されているべきものとして誰にも譲らなかったのである。そのために、そしてその言論の揺るがなさのゆえに、実際に多くの権力者、権力追求者から生命を狙われ、最後は暗殺される。しかもその死体は見せしめにされた。
だが彼が残したラテン語の文章は生きており、日本語にも翻訳されている。また彼ののこした書簡は最初から公開するために書かれたものではない。(書簡が文学作品として公開目的で書かれるようになるのはセネカからである)老年について、も息子にあてて書かれたものである。

反暴君の歴史、支配的権力者の羅列ではない日本史というものはあまり数が少ないように思われる。それは歴史が「問われる」ものではなく、「覚えられるべきもの」とされている限り続くのかもしれない。しかし歴史ほど変わるものもない。



コンスタンの思想世界―アンビヴァレンスのなかの自由・政治・完成可能性コンスタンの思想世界―アンビヴァレンスのなかの自由・政治・完成可能性
著者:堤林 剣
創文社(2009-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
キケロー弁論集 (岩波文庫)
キケロー弁論集 (岩波文庫)
著者:キケロー
岩波書店(2005-08-19)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
老年について (岩波文庫)老年について (岩波文庫)
著者:キケロ
岩波書店(2004-01-16)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
キケロ―もうひとつのローマ史キケロ―もうひとつのローマ史
著者:アントニー エヴァリット
白水社(2006-12)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
老年の豊かさについて老年の豊かさについて
著者:キケロ
法蔵館(1999-05)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
友情について (岩波文庫)友情について (岩波文庫)
著者:キケロー
岩波書店(2004-04-16)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
キケロー選集〈9〉哲学II―大カトー・老年について ラエリウス友情について 義務についてキケロー選集〈9〉哲学II―大カトー・老年について ラエリウス友情について 義務について
著者:キケロー
岩波書店(1999-12-21)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

堤林先生には色々と質問をしてしまったのだが、そのほとんどすべてに丁寧に答えてくださり、すばらしい先生の多くが言動のすべてから学ぶところがあるとと改めて思った。自己改善能力こそが、おそらく正しさ、あるべき善さや美、秩序といったものに導くのであろうし、それは言葉と実践によって表れでるものであり、私たちはそうして学ぶ基礎を得られるのだと思う。「完成可能性」というものに惹かれるゆえんであるし、それはおそらくは原動力であり、不断の力、エネルゲイアなのだろうと、私には思われる。納富先生と同じ時期にケンブリッジ大学で博士論文を書いていらしたと聞いている。(納富先生の博士論文は、先生自らが英語から日本語に訳し、英文はケンブリッジ・コンパニオンから、日本語訳も出版されている)。
ソフィストと哲学者の間―プラトン『ソフィスト』を読むソフィストと哲学者の間―プラトン『ソフィスト』を読む
著者:納富 信留
名古屋大学出版会(2002-02)
販売元:Amazon.co.jp

バンジャマン・コンスタン―民主主義への情熱 (叢書・ウニベルシタス)
バンジャマン・コンスタン―民主主義への情熱 (叢書・ウニベルシタス)
著者:ツヴェタン トドロフ
法政大学出版局(2003-12)
販売元:Amazon.co.jp







キケロに関しては、『友情について』では地縁、血縁など中心になっていた人間関係を超えて、価値観の共有、志向の一致などを説いている。私はこうしたキケロの思想は、イタリア初期人文主義から盛期ルネサンスを貫く一つの人間観と価値観のあらわれであり継承されてるものだと思っているし、それは今日のような一見、すべてが繋がっているように見える世界において、非人称的なマスの出現のもと、個人が分断孤立する中において、一つの活力でありうると思っている。

私はどこまで自分なりに問題に沿って、問いに応えるべく読解し、それを文章化できるのだろうか。不安のほうが大きい。しかし、言葉によって支えられる力、対話の中で得られる希望は確かにあり、それに救い上げられる想いがする、ということを記しておきたい。



夜宅後(22時前後・・・)「あしたはお弁当」といわれると焦ります。国会議事堂、北の丸公園ほかに社会科見学だと急にいわれ、朝3時30分に作ったお弁当。おにぎりといなり寿司どちらがいいか聞いたところ、「稲荷寿司」といわれたので。昆布、人参、しいたけ、うすあげの煮物、とらまき茸とカラーピーマンのいためもの。トマト、たけのことしいたけのシュウマイ、ほか。


Image1136

Image1135













頂きもの洋菓子。ジョット。気管支炎と熱で寝込んでいるときひさびさに石鍋真澄先生の「ありがとう、ジョット」を読んでいましたし、感慨深い。マカロン、クロワゼと名前がつけられた焼き菓子も。美味。
Image1133














広島のNさんが送ってくれたキャロル(ルピシア)ほかお茶のアソート。

Image1132
グーテ・デ・ロワのガトー・ラスク。
美味しいです。ホワイトチョコレートのものも美味しいですね。私はあまりデパートなどにいかないので、頂いてから知るものも近年は多いです・・・










Image1129
気管支炎で通院していたときにお昼に食べたぎおん、の昼のお弁当。・・・しかしなぜかここの料理はまったく見せかけのような、食べた気がまったくしないという。素材、調理のどちらもなにかが欠けている。盛り付けやぱっと見はいいのですけれどね・・・
いつも気のせいだろうか、と想うのですが、毎回、なにかが違う・・・・と思うのです。こういうものが有と非有の差異というものでしょうか。短く言えば、エッセンスの問題なのでしょうか。

P1080844

ベジャール・バレエ・ローザンヌ 「80分間世界一周」公演の記事を書きましたが、その際の未掲載写真、および庭園美術館(目黒)の中庭より。


東京都庭園美術館に関しては、庭園美術館のフォトギャラリーに、私(高嶺)が撮影した写真が2011年1月から2点ほど掲載される予定です。


P1080862P1080861

今年はベジャールの「そしてバレエは続く」(映画) 「カブキ(KABUKI)」(東京バレエ/Bunkamura)、ベジャール・バレエ・ローザンヌの公演、そして「M」(東京バレエ/東京文化会館)・・・ベジャールとパリ・オペラ座公演の1年のようでもありました。

後日記入が続きます。
未掲載写真その3。友人のリョウコさんがデザインした新作のパーカーが発売されています。ワールドのサイトでも注文可能。
リョウコさんが娘にプレゼントしてくれたパーカー、以前も記事にかきましたが愛用しています。昔からリョウコさんのデザインを知っている私としては細かいディティールに彼女らしさを感じます。

item31915085_019p3L

item31915086L












一番近い店舗で川口のキャラなのですが、三郷ららぽーとやレイクタウン、美園などにできればいいのに、と思います。以外と好きな店ほど近隣にはありません。ローラと生活の木が市内にできてくれたのはいいのですが、私の生活時間がなかなかそういった場所にいける時間がつくりだせないという。

P1080120








デザイナーのリョウコさんとリョウコさん宅のパル、と娘....5月頃。
電車で自宅をたずねてくれたときのもの。
(私はにこさんを連れて後ろから撮影)

通わせていただいているバレエスタジオではレッスン参観日が設けられています。土曜日のレッスン(19:00〜)を見学させていただきました。

バーレッスンでもこの時期はクリスマスソングのピアノ曲が使われていています。バーレッスンのときに先生が規範的な動きをしてくださるのでとても充実していると思います。懸命に誠実にそれを学ぼうとする人なら、どうあるべきかということが本当に学べると思います。娘にもそうあってもらいたいものですが、とにかく自覚的にそれを行う必要がありますから...
アームスの動きはここ1年で良くなった、と思います。

自分の問題としては何かを読み取る際に「何が正しいのか」ということを常に問いながら文書を作成しているのですが、クラシック・バレエの基礎、それも美しい動きをみていると、「正しさ」とは客観的にあるものだ、と思えます。バーレッスンだけ録画したので、時間があるときは家で観ています。

参観の機会を設けてくださる藤沼先生には感謝です。土曜日のレッスンには小林先生もいらしているので毎週こうした機会で学べるのはとても充実していると思います。この時期やむをえずレッスンを1回減らしているのですが、小林先生のクラスにも出られるようになれれば、と思います。
来週から「ライモンダ」のグラン・パと「眠り」の二幕を練習するということです。

ブログネタ
おじいちゃん、おばあちゃんとの思い出を教えて に参加中!
一昨年なくなった祖父は様々な意味で影響を与えられた気がします、もちろんよい意味でも悪い意味でも、しかし影響とはその両面を持つものだからゆえに、影響と呼べるものかもしれない。
しかしよくあるように、それは「生前祖父・祖母が大好きだった」というようこととは異なる。
好むと好まざることとは別に、価値観、生き方などを影響を受けたと思う。


祖父は某私鉄の組合副委員長をしていましたが、組合活動だけでなく絵画、文学、建築などもに興味があり私が引きついでいる仏教・日本美術史・建築の文献全集は祖父のものでもあります。
小学生の頃から東北・甲信越を中心に寺社建築などをめぐりました。こうしたたびは、祖父母、いとこ、叔父叔母と一緒でした。日本における長女というのは在る意味、ダブルバインドである。第一子・長子としての教育を家や両親からうける。義務も同じである。だが権利は「半分」もない。これは、女子相続権の問題でもある。じつは少子高齢化のうち、教育費、住宅費の負担と同様にこのことが基礎的な問題となっているだろう。
祖父から特別視されたわけでもかわいがられたわけでもないと想います。ただし、自分が大人になって、さまざまな土地に赴いたことは財産だと思う。
同時に祖父が家に持ち帰っていた文化的なもの、批評的態度などは影響をうけているのだと思います。
まだ海外旅行などが一般的でないころ、ヨーロッパやロシアなどに旅行し、そのおみやげを随分貰いました。
隔世遺伝による子供の資質という問題は、核家族の中でより問題化するかもしれません。多くの場合、子供は親よりも祖父祖母世代から影響を得ることもある、のかもしれません。また祖父祖母というものは自分の子供には直接には伝えるのをはばかったような、本音のような部分で接する部分があるようにも思えます。

祖父の影響のもと、閣僚、国会議員や地方議員になった人に合うたびに、「おじいさんには似ていませんね」と私はいわれます。
しかしながら、自分の利益に関わらず、よいかわるいか、という本質的な問題に対する判断の立場に関しては、私は今はなくなった祖父から受けついたものが多いのではという思いも感じる。私は実の[家]では常に優遇されたこともないし存在自体を肯定されたこともない。だがおそらく、どのような公権力であろうとも、善悪の基準には自分の利益に準じて動かされることはないだろうと思う。権威主義が何ももたらさないことを知っているし、対話と理解以上になにも進展させる力はないからである。

祖父は関東大震災を経験し、硫黄島への出陣をしている。その際に受けた日本陸軍からの不合理極まりない鍛錬もよく耳にしている。また関東大震災のときにおきた東京都内での差別的な暴力事件もよく耳にした。硫黄島から内地戦闘になるまえに肺病で本土へ帰国している。私はこの話を生きてから後、10代のころからずっと・・・・私たち、敗戦を経験しながらも、生き延びたものたちには何か、死者たちが果たせなかったことをわずかでもなさねばならないのだ、と。
私は隔世遺伝世代に当たる。
オーラル・ヒストリー学会へも一度出席させていただいたことがあるのだが、私の中では生命や時間というものは、単独での存在が肯定されることはない。かといってそれは、単なる「家」(オイコス)の保存のためであるとう問題ではない。

反対に、前の世代から受けたこと、親世代も含みますが、自分は繰り返したくない行動・言動などがあります。繰り返されるのが必然なのだとしたら、しかし変化しなければならない点が「伝統」にも必ずあるのです。
よいものはそのままに、そうでないもはそうでないように、このことを有限である人間が行うのでは難しい。その判断が誤ることもある。

ディケーというギリシア語には、古くから復讐も含まれていた。
応報的なものは好ましくない。円環的思考のなかで、悪いものの円環は望ましいものではないだろう。
私たちが立つ足元の基盤を確認し、どのようなものであるか、そしてそれを確かめながら、のみ、前進はあるのだろう。・・・と思う。これに拘ることに人の一生はいかに短く、しかも長いものか。・・・・・

WHERE WE GO NOW? という問いは、いかにWeという主語が機能するかによる。そしてそのために生命と身体と知性のすべてを捧げてきたにも拘らず、あたかも神の道化あるように処されている人のなんとおいいことか。私たちの理性や知性といったものは、身体があるうちにしかその顕現を許さない。


悲観的にならず、いかにそのことを忘れずに、しかも成すべきことを成せるのか否か。有限さの自覚とともに、限界も見えてくるように思えてならない.こうした事柄がすこしずつ実践されていくには、まだまだ時間がかかるのだろうか。ある権限を手中にすると、大抵の場合は保持するためだけに労力や正当性えるためにその人は奔走する。ある権限を外からみられているうちはそれを批判的にとらえられるのだろうか。

自らが内部の一部になったときから、次第に私性・私利というものに対して、無自覚なままにとらわれ始め、抜け出せなくなるのだろうか。それを正しく忠告してくれることがどれほど大切か、大抵の場合にそのときには気がつかないものなのだろう。

P1080877

庭にはハゼ、みずなら、山帽子など紅葉する樹木をうえています。ばらの世話はこの時期(とくに今年は)あまりできていないのですが、ふとニュードーンの花にめがとまりました。(先日掲載した株とはちがうあとから植えたほうのばらです。どちらも、蓼科のバラクラ・ナーセリーで購入したばらです。


温度差に弱いので気管支にダメージが出てしまい、普段はあまりいかない医者(隣町)にいき気管支の薬を出してもらいましたが、やはり乾燥が日に日にひどくなっていくのでややよわりぎみです。喘息の発作にも効くという薬をだしてもらいましたがやはりあまり芳しくありません。

特別クラスの参観日があり、見学させていただきました。
今日は元東京バレエの辰巳先生のレッスンでした。以前一度見学させていただいたときに、普段は23時まで語学や数学・物理を教えている家人もぜひ見る機会があったらよいのに、と思っていた。運よく、仕事を2時間半ほど途中引き受けてくれる教え子の大学生がおり、レッスン風景をみることができました。とても充実した時間でした。年2回こうした参観を設けてくださる藤沼先生にも本当に感謝です。小林先生もいらしてご挨拶させていただきました。
気管支を壊しており、声が潰れている状況で、口頭では伝えらなかったので・・・(私は大抵、この時期に気温差と乾燥で気管支を壊します・・・仕事や質問回答などでもまったく声がでず、参ります...。

バレエのパ一つ一つは、一つには言葉、動きとしては幾何学モデルであり、音楽と文芸(ムーサイ)によって裏付けられていると思います。プロムナードのレッスンやグラン・バットマンのレッスンのとき、どのパについても、力学と人体構造に則った説明をしてくださいますし、動きも一人一人修正してくださいます。つまり定義にどれだけ実際の動き(あらわれ)が近づけるのか。この地上に有限な形でいる人間にとって、どれだけの困難さに近づけられるのか、それは困難さを克服できるのは、さらに自らに所有せんとするのは対象そのものに対する憧れ、それが引き起こす原動力なのです。先生方には本当に感謝いたします。

私が学問探求の中で影響をうけてきた先生方も同様に、現在を認識し、さらにそこから上昇するべく、知識と方法と方向を指し示してくれた先生がたがいらっしゃったからです。自らの生のあり方が、他の生と存在論にも影響をあたえる、その契機であること。ギリシア的な外に開かれた精神、それを表象すること、身体化したロゴスであること。それゆえに、クラシックバレエの基本は外側に開かれたもの、なのです。

この日は元チャイコフスキー記念 東京バレエの辰巳先生のレッスンでした。辰巳先生のレッスンをみるのは2回目です。参観という機会を創ってくださる先生にも感謝です。

私はルネサンス・リナシメントから現代へ通じる水脈をいかに説明できるのか、ということをフィレンツェ(1439-1496年まで)から考えてみようと試みているのですが、アカデミア・プラトニカを主宰し、その思想がフランスのモンテーニュ、ジャン・ボダン、ロッテルダムのエラスムスまで通じていると思われるマルシリオ・フィチーノ(パドヴァのマルシリウスとは異なる)、およびピコ・デッラ・ミランドラ、ポリッツィアーノ、とりわけフィチーノ、・・ーその影響は17世紀までに及んでいるーーの言葉を借りて引用しておきたいと思う。

" 『ピレボス』においてプラトンは、幸せなのは欠けたことのない人だと考えていた。「欠けたところのない」ということはどこの部分も完全であるということである。ところで、完全といっても内的な完全さと外的な完全さとがある。この内的な完全さが善であり、外的な完全さが美なのである。そこで、善くて美しいものは、どの点から見ても完全であり、最も幸せなのである。さて、完全さに外と内という違いがあるのはどんなものの場合でも考えられることである。(略)植物の場合も、根や髄の内部にもともと備わっていた豊かさが、草や木を彩る花や葉の、変化に富んだ優雅さとして表れるのである。” (マリシリオ・フィチーノ ”De Amore”)


バレエもオペラも世俗における発祥の地はフィレンツェであり、その後、フランス・アカデミーの時代において、現在のクラシック・バレエの基礎は構築された。その後、フランスからデンマーク、ロシアへと「古典」の中心地は移っていく。(ロシア以降の流れは、バレエ・リュスの映画ドキュメンタリーにもみられるー一つにはバランシン、マシーン、そしてキューバもその一つであって変容を遂げている。もう一方はやはりフランス中心のものではないだろうか。その中には「人間を超えるものの中にあって、常に人間であること」(森有正)が求められる。つまり現状を認識し、それを超えるものに憧れ自らそれを所有しようと思い実践することが求められる。このように説明することは容易い。だから私はやはり実践する人のほうが、その理論の下におかれることは正しくないと思う。そしてもし批評が実践と同等の価値があるとするならば、表れては消えていくが、イマージュとしては永遠の美を刻む芸術表現としてのバレエに、費えない言葉での表象を付け加えれ荒れるかどうか、ではないだろうか。
言うは行うより易し、であり、しかし行いをより善く、説明がいらないほどの美にちかづけるには、それが説明的でなければならないと思う。そして、その美を理解するには、見る側が・・・つまり観客がその在り方を含めて問われるということだと思う。正しいものは美を引き起こし、美は観るものの魂(精神)を向けかえ、しかも演じる人のもつ美は損なわれることがない。今は娘はレッスン時間が十分にとれないのですが。教えてくださる先生がたや一緒に学んでいるお友達も素晴らしい人が多いので、善さにあこがれ、それを求めてレッスンできること、自分の欠乏を認識できること、そして美とは何か、それは表面的なものなのか、それ以上のものなのか、私は素晴らしいものを見たときには、絶えずとのことを内申問い直すことが多い。

私も金曜は三田からの帰宅が遅いので、ややまとまりがない記事ですが、記録させていただこうとおもいUPします。
しかし今年から従来は使えていた日曜の図書館が土曜のみになったので土曜が休みではない身としては、内心とても参っています...
自分の能力が迷う時間が多い傾向があるのが問題なのでしょうが・・・
欠乏だけを口にしていても仕方がない、文献に向かい合ったり・・・そのような日々です。

このページのトップヘ