1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

November 2010

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ニュー・ドーンは初めて植えたばらで、その後、フェンスに這わせるために追加し、2株植えています。新しい夜明け、を意味するばらですが、実際、クラシックローズとモダンローズの中間種でもあるようです。香りもよく、やわらかい色で開きかけたときがもっとも美しい、と思うばら。葉も綺麗です。2株ともバラクラ(蓼科)で買いました。2つつぼみがつき、晴れていた数日前の朝に撮影。

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しばしば「何の木ですか」ときかれることもあるゴールデン・アカシア、その奥のやまぼうし、ハゼも紅葉。

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風邪と目の痛みがずっと続いており、月末の仕事の締め切り、書き物の整理(やらねばという気持ちが募り、わかりかけては迷うという繰り返し・・・・・)などが多い状況が続きます.....年末という意識もほとんどないですね...仕事上でも生活上でももっとも忙しい時期に入っていく、という緊張感と義務感のみが増していきます...

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YOU LOVE US で始まり、A DESING FOR LIFEの余韻で終わる約2時間近いライブ、素晴らしかった。途中ジェイムスのアコースティックによるSTAY BEAUTIFULでも観客のほとんどは歌詞を覚えており、デザイン・フォー・ライフ、IF YOU TOLERATE THIS YOUR CHILDREN WILL BE NEXTでもそうだがコーラスがおきたほどだった。それくらいに、初期からのリスナーはもちろん、単独ライブを切望していたマニックスの来日公演だった。ジェイムスは、日本に帰ってきたと話し、今夜は本当に素晴らしいステージができたとステージ上でコメントしたけれども、実際この日のステージに集まった人にとっては特別だった。ニッキーは初来日でクラブチッタ川崎で演奏したときのことを口にし、リッチーをジーニアスな人とコメントしたときに特別な感慨をそこに感じた。
初来日したとき、次の渋谷でのステージのときも私は観に行っているが、そのライブのとき以来、彼らが感じている「日本のリスナーは歌詞を覚えて意味を考えて聴いてくれている」という気持ちを再度彼らも感じただろうし、私も実感したステージだった。
マニックスは詩が先行しているバンドなのであって、彼らがロック・ミュージックに対して特別な距離をもっているのも意味がある。「売れること」「有名になること」、英国で1位をとり、ベストライブアクトに何度も輝きながらも持続するのは彼らがもっている「生の意味」「言葉の意味」の「実践」でもある。言葉から生まれ、行動し、そこへ還っていくことの意味を見る重いがする。EVERY THING MUST GO ...この言葉でどれだけの人がそれでも前に進まなくてはならない(キルケゴールの言葉を思い出す)と思い実行できていることか。彼らの演奏する姿をみて、言葉と音楽と活動自体が一体化したものをみる想いだった。そして観客もまた「聴く」という受身の行為ななはずなのに、そこから意志を分有したり、思い返したりできるのだ...
私は前から4列目くらい、ニッキー・ワイア側で見ていたのだが、本当に素晴らしかった。
デザイン・フォー・ライフでライブが終るのは・・・それは「終わり」ではないからなのだ、と私は思っている。この曲はただ聴くとか歌うとか演奏するというものではない。彼らは演奏という実践(プラクシス)を通じて、観客は聞くという(観照)から明日以降・・ステージが終った後は「我々」がそれぞれの実践を行う番なのだ、という意志の直接の伝達を彼らが投げかけているのだ、と感じる。夥しいライトの光と残響の余韻の中で彼らが立ち去り、私たちもその余韻の中で立ち去る、それは「終わり」ではない・・・日々とアーティスト、観客との連帯はそこに在るもの、なのだと私は感じる。

そして彼らの言葉や音楽を共有できた空間がすばらしかっただけに、それぞれが切り離されている社会というものがどこか残念に思う。同位、類似するもののつながりと自分だけがよければ他はどうでもいい、変わる必要などどこにもないと思うこととは無縁なスタンスをもつ人がWEという人称をもつようになるときから少しずつ何かが良くなるものなのだから・・・

個人的に本当に多忙な状況で日常をやりくりするのも大変なときだったが、無理して脚を運んで本当によかったと思う。横浜公演は行けていません。

正確なセットリストはわかりませんが...新譜からは3曲程で、1ST SND 3RD 4TH 5TH 6THアルバムから、長く聴いている私としてはとても充実したセットリストだった。覚えているものを挙げておきたいと思います。

YOU LOVE US 
post card from young man
Motorcycle Emptiness
If you tolerate this your children will be next
la tristesse durera
You stole the sun from my heart
TSUNAMI
Faster
Sucide is painless
Stay beautifull
roses in the hospital
everything must go
motown junk
ocean spray
A DESIEN FOR LIFE

some kind of nothingess ?

確実に覚えているのだけでも15曲、ですから計18曲は演奏。
ニッキーの笑顔が印象的だったし、We WELL BE HAPPY というEVRYTHING MUST GOの一節は60年代後半から70年代後半に生まれたであろうほとんどのリスナー、世代間格差というものが実際にあり、だからといって悲観的な気分に浸ったり羨んだりすることで解決することを由としない立場、帝国主義的な経済、ネイション、構造、および非生産的な力のあり方、不正へ対して迎合できない立場からのすべての想いだと私は思っている。
STAY BEAUTIFULLとDON'T BE EVILは対になっている言葉なのだと私は考えている。それは常に問われるべき在り方の問題なのだ。

♪ la tristesse durera のVP視聴

なぜかNHKを含め・・・どうも三菱賛美的なながれになっていないだろうか? 私の思い違いならよいのだが、不景気(実態のない言葉だ)を解消するためには、国防=重工業あるいは武器売買で利益をえるしかない、とある層は考えているのではないか・・・ということである。一般に高度成長といわれる時期も、実際には朝鮮戦争と同時期なのであるし、経済危機を解消するためには戦争をもちだすというのはすでにアメリカの常套的手段だからである。また容易に国益などと口にする人も多いが、私有財産(家も含め)は戦争状態なれば個人の所有権というのはほとんど無に近くなる可能性が大きいということだ。要するに何が重要かといえば、自分と自分の周囲に不満(とくに物質的不満)があっても容易にナショナリスティックな気分に巻き込まれないようにしないと、最低限のものも失う可能性のほうが高いということです。

(この放送局はますます広告的な番組を流しているのが気になるが。テレビは朝時間を確認するためくらいにしかみないのだが、それでもなぜ「役立つ生活グッズ・トレンド」を放送するのかわからない、というよりも、紹介する場面で登場する「東京都の主婦○○さん」がどういう過程で選ばれているのかのほうが不思議なのだが・・・それに紹介されるものもどこも便利でないと思う・・・「面倒」「手間の回避」が私の場合はあまり重要ではないからかもしれないが。手、脚、頭を使わなくなったら人間は退化する・・・。)NHK教育テレビの非教育的内容もさらに悪化しているように思われる。例としてピタゴラスイッチなど・・・。しかも多くの人はあまり疑問に思わないらしい。子どもや教育を重視するということは、子どもを無条件にあまやかしたりあるべき秩序を無視して好き勝手するということとは全くことなるということです。私は個人を尊重する立場は大切だとおもうが、だからといって、基本的な秩序は守られるべきで、これは基本的なことです。どうでもいいことかもしれないが、「お父さんスイッチ」にも違和感を覚えたものだが、何年かぶりにちらりとこの番組を見ると「おじいさんスイッチ」まで無害なそぶりで番組であつかわれていた。こういう無秩序を自由と誤解すると、学ぶべきものも学べず、大切なこともまったく聞き逃し理解できない子どもが増えるだろう。理解すべきこと、という意味を理解しなければその先の学習はほぼ望めないからだ)

付言しておくと、受信料は払っています。払うのがルールというのなら、私はルールは守るべきだと思っています。(朝の連続ドラマや相撲中継をかかさず見るという人のほうが「見てないから払わない」という行動をとっているケースも多いように思います、周囲をみると・・・・)
どうでもいいことかもしれませんが、地デジ対策はしていません。そもそもテレビを観る時間などほぼ皆無なのです。時間的拘束と連続性、受動的な情報取得、繰り返される映像、乏しい情報量、あまり参考にならず専門的でもない「専門家のコメント」・・・どれもあまりあてにならないし、その時間を費やすのは無駄という実感がある。
そもそもなぜ、テレビがありそれを観ることが生活全般の前提になっているのだろうか。(1960年以降の現象にもかかわらず)
観たい人はみればよいが、かならずしも観なければならないものではないだろう。

また、常識のウソ、ということにもうすこし気が付くべきではないだろうか。




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テラクオーレ(旧アグロナチュラ?)のオーガニックコットンのタオルを頂きました。>娘から 私の10月の誕生日プレゼント用に。前から何をあげればよいのか?と聞かれていまして。
綺麗に包装していただいたようなので掲載します。

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えだまめ、パプリカ、オリーブでゼリー寄せを作ってみました。
何の野菜でも美味しくできます。簡単です。おすすめです。
野菜と野菜ブイヨン(顆粒・生協かパルシステムのもの)ゼラチン、洋酒(香り付け)でできます。

私にとって料理はほぼ勘で作るものなので、疲れていてもいきおいできることも多いのですが、そのほかの作業・・論理を必要とするような・・・はやはり具合がわるいときや疲労が強いときには進行しません・・・
しかし時は過ぎていく。というよりも、つねに過ぎてゆく。すべてが厳密な意味で、取りこぼせないと感じる・・・・・

私の仕事の区切りは3月末なので12月などはまったく年末年始という感じはせず、・・・特に休みがあるわけでもないので、料理を何品かつくって家で過ごす、DVD(バレエやロイヤル・オペラのこうもりなど)をみる、・・・など。あとは夫の教え子の大学生や社会人の人を招いたり・・・ect・・
しかし普通のことを普通にやるだけでも、気力と体力をものすごく消耗するような昨今。今年は忙しくお会いできてない人も多いですね....。

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にこさんは、いつも光のほうを見つめています。。。

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 書斎にて著者近影...


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カポナータはよく作る料理です。何かをしながらル・クルーゼの鍋でオリーブオイルとたまねぎ、なす、パプリカやピーマンとトマトホールで作れますから温野菜として重宝。つけあわせや朝食などに使えます。冬になったので、なす、たまねぎのほかは冷凍のカリフラワーやカラーピーマンなどを加えても手軽にできます。オリーブオイルはたっぷり使うことがポイントではないでしょうか。それから塩は天然塩がおすすめです。私はゲラントの塩を使っています。
アイスプラントは近頃メジャーになっている野菜ですね・・・パルシステムでも扱うようになりました。
久々に、リクエストもあってロースト・ビーフを作りました。粗塩と胡椒をまぶして、ローズマリーと一緒にフライパンで焼くという簡単な作り方です。焼きあがったらラップにつつみ、しばし味と温度を安定させ、なじませます。ブルーベリーをホールのまま使ったジャムにワインビネガー、赤ワイン、醤油少々を足して同じフライパンで熱してソースに。少しだけ甘みのあるソースが簡単にできます。イギリスのジャムだと、よくこうしたソースにジャムを用いますよね。信州産のぶどうやラズベリー、こけももなどのジャム、糖度の低いものでも合うと思います。

外食は・・・日曜の昼くらいしか行きません。もっとも行きたいお店もなくなったせいもあります。特に夜外食をすることはめったになく、上のような料理を作って自宅で食べることが多いです。夜はあまり食べない習慣もあり・・・ 表参道のスピローズ、お台場のエノテーカ・ピンキオーリなど行きたいお店、要するに自宅ではなかなか楽しむことができないようなギリシア料理やトスカーナ料理を出す店も減りました。
自宅で作ってみたい+応用してみたい料理を出すお店が好きです。
つまり素材が生きていて、創造性があふれており、味の組み合わせなどが豊かな料理がいいですね。原美術館併設のカフェの料理も大変美味しいです。料理は素材+調理によって1+1=2以上の価値がでることが美味しいといえる理由では。味、香り、見た目、盛り付けなどの総和が料理(文化)といえるのではないでしょうか。反対に、素材のもつ力以下になってしまう料理は・・・素材(もともと生命があるものなのであって、ただの物質ではないのです・・・)がかわいそうになりますし、暗澹たる気持ちになります...。
お皿はF.O.B.COOP.,の大皿を使いました。


ちなみにロースとビーフの塩味がしみてないところは、にこさんがよく食べてくれるので...そういう理由もあって作りました。美味しそうに食べてくれます。

アウグスティヌスとトマス・アクィナスアウグスティヌスとトマス・アクィナス
著者:エティエンヌ・ジルソン
みすず書房(1998-06-02)
販売元:Amazon.co.jp



物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで
物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房(2003-11)
販売元:Amazon.co.jp






『物語中世哲学史』で興味深い項目は以前書いたフランチェスコも入るのだが、ほかにもアルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクイナスの項が面白い、というよりもこのあたりの時代の理解が乏しい(と自覚している)私にとっては参考になる・・・多少なりとも、当時どういうありようだったか、ということ抜きにはその思想を理解する(プラトンのいう[心とともに行く])ことは難しいのである・・・つまりどういう状況のもとに生じてきたのか、またそれがどう受容されたのか、またその人から派生した「ことば」自体がどういうことであるのか−−。

ルチャーはこう記している。
「アルベルトゥスとトマスの連結は、13世紀哲学の目印となった。実際当時より以前には、弟子のために地ならししたこれほど有能な師匠はかつてなかったのである。バレーボールの表現を持ちいれたければ、アルベルトゥスが球を投げたのは、トマスがこれをスパイクするためだった、といえるかもしれない。」(p.171)

アルベルトゥスとトマスの連携をこうした表現におきかえてしまうのがルチャーの持ち味なのだが、−−−ことはディオゲネスの列伝やヴァザーリの列伝にも同じような味わいがあるし、こうした逸話は興味深い。なお、トマスは「だんまり牛」という呼び名で呼ばれていたそうであり・・・アルベルトゥスはいつかトマスが大声で何か言うだろうとしたのだが、これも当ったのだった。スコラ哲学の代名詞のようにだけ説明されている文を読むだけでは顧みられないものがある。

ともかく、私見ではこのスパイクは、成功したようにもみえながら、その後多数の判定、意見を巻き起こしたのではないだろうか。
ちなみに、アルベルトゥスの思想はたとえば、フラ・アンジェリコなどの絵画などにも影響を与えているといわれている。

すぐれた弟子、すぐれた師、すぐれた同胞、すぐれた敵(アルベルトゥスの場合はタンピエ)があることは充実の微表、条件なのかもしれない。


そして著述家が読者であり、読者が著述家であるような状態がベターなのであって、著述する人と読者が断絶しているような状況ではなにもうまれない。今日では著述した人の死後にようやく、読者が生まれてくるという状況もあり、・・・FOREVER DELAYED という言葉を思い出してしまう。

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写真は奈良 東大寺 三月堂ちかくから。

今日では美術愛好ということは所有や鑑賞の意味で語られるが、ロレンツォ・イル・マニフィコの時代までは、造形とは有機的な繋がりだった。売買する対象でも、商品でもなかった。フィレンツェでも一部はいまも教会を訪れるだけで見ることができる作品は多い。オンニサンティのサンドロ・ボッティチエリのフレスコや、サンタトリニタ教会のフレスコなど。このことは所有とは異なる価値観である。自らのありかたを自覚的にとらえたときに、芸術一般が望まれるし、要請される。ローマでカラバッジオを観られるのも同様である。だからこそ、敬意を払う必要がある。寄進とは本当の心のありようが示すものだからではないだろうか。

もともと誰もがアクセス可能な場所にあるからこそ、造形する意味があったのだ。だから今日、仏教美術も博物館で展示され、全国を巡回することを考えると、「モノ」化されている現代ということが理解できるだろう。
興福寺、薬師寺に続いて東大寺の展覧会も行われているけれども・・・奈良のよさは、実際にその場所に赴いて、堂内の空間とともに「知る」こと存ることについて考えること、立ち返ることが重要なのではないだろうか。

もちろん、展示においては、どう見せるか?ということも重要な問題ではあるのだけれども、場から切り離されたものは、やはり部分でしかない。対等な目線で「観る」こと自体、作られた当時はありえないことだった。なぜなら「物・物質・造形物」として見ることは目的ではなかったからである。博物館と展示室に作品が入れば、もちろん保存状況はよくなる、だろう。しかし、そうしたことがなくとも、多くは大切に安置されていた。法隆寺にいくと釈迦三尊が堂内に入りこむ風と接して安置されている。三月堂へ入ると、日光・月光(実際の様式としては梵天であるといわれるが)や不空牽静とともに堂内の空気を感じることができる。みうらじゅんが、日本ではここが一番落ち着く、と言っているが、私もまったく類似した想いになる。かつてやはり11月に朝一番の新幹線にのって奈良・斑鳩の秘仏公開と唐招提寺にいったことがあるけれども、その場所でしか知ることができないことも実際多い。そしてそこに住む人、見守ってきた人々と会話することでどれほど大切にされているか知ることができる。
価値、とはそういったものではないだろうか。

人びとが求め探求・活動し、生き、死んだあとにも遺されてきたものは、その場所に行くことでよくわかるもので、簡単に手早く、すべてを知ることはできないものである。

木曜は特別(選抜)クラスのレッスン、辰巳先生(元東京バレエ)のレッスンでした。帰ってきて感想をきくと、「楽しかった!」と娘から聞きます。レッスン時も辰巳先生はいつもi-podからセレクトした曲を使っていらっしゃるようです。この日は私も送迎でスタジオにいったので挨拶はできたものの、、いつも楽しいと聞いています、と伝えわすれてしまいました...

先生方には大変感謝です。
丁寧にいろいろなパのポイントを指導してくださるので、娘にはしっかり学んでもらいたいものです。この時期練習日を1日減らしてしまっているのですが、本人は(私が知らないところで)ストレッチなどはやっているそう・・・11月初旬に修学旅行(鎌倉)へいったときも、ゴムベルトをもっていって、お風呂上りの自由時間にはストレッチなどしていたようです。。。(確かに私の知らないところではやっているようです....)

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有(ある)と非有(ない)これらについて一つの例を。というのは、意味や価値というものが酷く一面的になっている、と思われるため。

以下、「中世哲学史物語」聖アンセルムスの項の説明ページから引用。

−−私は思い出す、オーディションのためにチネチッタ映画撮影所にやってきた美しい少女に、有と非有との違いを説明しなければならなくなった日のことを。

「で、きみは何をしたいの?」
「女優か、ヴェリーナ(テレビ・アシスタント)の仕事をしたいです」
「じゃ、君が女優になりたいのは、有のためなの、それとも非有のためなの?」
「有のためです、女優になるためです」
「オーケー。じゃ、女優の有がどういうことで、女優の非有がどういうことか説明してあげるよ。きみが女優をやり、有名となり、雑誌の表紙にきみの写真が載り、サインをしたり、テレヴィに客として出演したり、たくさんお金を稼いだりしたいのなら、いいかい、こういうことはすべて、女優のノンエッセレ、つまり見せかけなのだよ。」

今日ではエッセレのように仕掛けることで、背後にいるさまざまな人びとが(実践にはかかわらない)利益を得るシステムになっている、とでもいうべき、かもしれない。
今日では、見せ掛けが本当のように思われている。

現に見せ掛けで得るものが、いかほどのことか。
だがこの見せかけですら、容易には動いてはいかない。ノンエッセレなしの生き死にがむしろないかのように思えることが・・・問題なのではないだろうか、と思うことがある。

ともあれ、上の対話は以下のように続く。

「じゃ、有とはなんですか」
「君の目の前にいる人が笑ったり、感動したりするのに気づくとき、君が内心に感じるもののことさ。だってね、そういうときにきみは”ほんとうに”女優になったこと、つまり、きみのものではなくて作家のものだった感情を、観衆という他人に伝達したことを悟るのだからね。しかもこの気持ちは世のあらゆる職業にも役立つだろうし、ひょっとして、無職の人びとにも役立つだろうよ。」


あらゆる生には有がある、召命とはこうした意味のもとにあるのだと私には思われるのだが、基本的な構造が近代に基づいているにもかかわらず、中身は不合理であることがままある。要するにシステムだけが近代化しているように「見せかけて」あることが問題なのではないだろうか。

そして仮に、「エッセレ」を実現している人がいたとしても、それを無視するか理解できずに、見せ掛けを追ってしまうのではないだろうか。

ルチャーの意見や、サン・デグジュペリが書いたことは正鵠を得ているのだが、「生きなければならない」と絶対化された人間は果たしてこの矛盾をどう位置づければよいのか。
ことは楽観的とか悲観的といった問題ではない。

しかも有をに近づくほど・・・、ノン・エッセレの立場にはもはや戻れない。
これが多くの人がもつジレンマなのではないだろうか。

(もはや、気晴らし程度では済まされない問題となってくる。そして、それほど気に病むことでもないとか、大したことではないとか、楽しみが足りないとか言われることのほうが・・・ダメージが大きいのではないだろうか)

実践とテオリア、探求は本来は切れていないはずである。切り離されたときに、それらはまた有機的な繋がりを失い、「ことば」自体も・・・「物質」もなくなるのではないだろうか...つまりより「有(ある)」をもとめるべき立場の人が実のところ「非有(ノン・エッセレ)」を目的としていることに無自覚になりそれが「あたりまえ」となるとき、「得ていた」と思われたことが「失われて」いるということがおきているのではないか。


http://love.blogmura.com/tment_tbe/10931/wcnslwc2tfh5







manicsの来日が近づいておりこのblogの過去の記事をみていただいている方も多く。ライフ・ブロッド(life blood)まではレビューも書いていました。しかし今日マニックスの初来日からステージをみているという人もほとんどみかけなくなりました...

最近はなかなか音楽だけを聞くということがないのですが(読むことが多いと音楽は聴けなくなる・・・)radioheadの初期アルバムを移動中に久々に聴いたのでStreet Spititを。

悪の原因をどうとらえるか? それは善がかけているからなのか、悪の原因があるととらえるのか?このことは実のところ大きな問題であって・・・しかしいずれにも共通するのは人間の感覚および知性によって変わることができるという考えと現状の周囲と自己認識から始まることに根ざしている。必然の定める力に対してどう働きかけられるのか、という問いがそこには関わっている。

人間の性質(これは時と場合によっていくらか動くものであり大抵の人は愛と自由の座標軸に収まる、という説明がある)で、おそらく詩人から女性の範疇にいるのだとすれば、惹かれる対象が聖人、賢者、および反対側にある反逆者(しかし自由のほうにより近い)に賛同することもある。イギリスのジャーナリズムがマニックスやレディオヘッドの聞き手を分類できないと耳にするがそれはこうした構造によっているのではないか。
あるコアなものがあり、それの拡散によって、求めようとする力によって”趣味”(傾向性)は動くものなのかもしれない。



このライブは私も会場にいました。映像があるんですね...どこか奇妙な気持ちにもなります。ともあれ、レディオヘッドが初来日したときのことはよく覚えています。忘れられないものがあります。
ライブのあとに川崎駅へ向かっていると、なんとメンバーがいたのです。トム・e・ヨークとジョン・グリーンウッドがいて、短いながら感想などを伝え、サインしてもらいました。・・・とその当時はそのくらい近いアーティストだったし、実に物静かで思慮ぶかい人たちで、英語で会話しなくてはならないときの緊張のようなものがまったく必要ないようなところが印象深いものがありました。

その次の来日公演のときには東京国際フォーラムになってしまい、客席とステージが「売れる」ことによって随分と離れていくものだな、と実感したものです。こういう実感はアーティスト側はより感じるのかもしれません・・

キラー・カーズはアコースティック・バージョンも好きな曲です。
当時トム・e・ヨークがノーム・チョムスキーの本と多読していていつもインタビューでそのことを口にしていた。そして当時はよく新宿の紀伊国屋へ行ったりもしたのだが、くまなくチョムスキーの本を探してみても、言語学関係本であって、一体彼は何の著作を読んでいるのか、と疑問だった、という記憶がある。最近になってもチョムスキーの本で社会問題的なものに関してはは和訳はなく、9.11なども英語版で読んだ記憶があるのだが、・・・日本ではなぜかこうした作品は出版されないことが多いように思う。それは知もまた管理されているからなのだろうか?
そして私がプロティノスを読んでいたころに、またトム・ヨークはグノーシス思想などについて語りだし、さらにこの影響のもとに作られたKID-Aやピラミッドソングなどに関しては、ほとんどの音楽ライターにはもう何も語れなかったのを覚えている。
おそらく、多くのひとにとって音楽は快に属しているのだが、実際上、サブカルチャー、カウンターカルチャーの音楽はそういう性質ではないのであって・・・もっと構造的なものに根ざしている。

私にとっての多くのアーティストはテキストー文章における契機でもあったことが何度もあり、美術がまたそのきっかけになることもあり、また言葉が絵画や建築および舞踏などのインスピレーションになることがある。より分断化された現代であっても、在り方は共通するものがある。



EPも含めMANICSのCDはほとんど買っていたし、今も手元にある。
MANICSの曲には、B面どころかEPにしか収録されていない曲でもよい曲は多い。
Hibernationもその一つ。
スリープ・フラワー前後にはジャケットデザインも凝ったものが多いように思う。ROSES IN THE HOSPITAL(EP)もその一つ。

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写真はミッチ池田氏による英国版フォトブックから...当時11£だったように思います。ミッチ池田氏は、オーシャン・スプレイの冒頭にある日本語による言葉 「とてもきれいな目をしています」 の声の主でもあります。
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再びアイスバーグ。このほかにニュー・ドーンがちらほらとつぼみをつけていますが・・・夏から秋にかけて多忙が極に達していたため、スーヴニル・ド・マルメゾンや、いつもだったら多少咲くイングリッシュローズも咲いていません・・・やはり植物には必要なものが不足すると覿面です。
朝倉文夫はその庭にかならず四季をつうじて白い花が咲くようにしていたのですが(よって朝倉彫塑館ではいつも白い花がある/そして屋上庭園にはオリーブの木とばらの花がある。)それを思い出しました。また花といえば、ニコライ堂の百合の花を思い出しますね・・・
バルザックのセラフィータも・・・
とめどないことを書いているのは、風邪?眼精疲労?その他疲労全般が断続的で悪循環になっているから・・・しかし体調にあわせて義務や期日ややるべきことが動かせるわけではありません!(当たり前ですが・・・)自宅には、気圧計があるのですが、ここのところ1000hPa以下から1000付近だと、やはり体調に影響します。

かなり久々に、Radioheadのベンズとクラウディオ・モンテヴェルディを聞きました>移動中・・・関連がなさそうであるような、ないような・・・音楽に関してはまたいずれまとめて。どの時代であれ、音楽と思想、音楽とART、テキストと造形が関わっているものに惹かれるようです。逆にいえば、本来こうしたものは分離したものではなかったのだし、例えば、象徴主義運動やアーツ&クラフツ運動のように。

乾燥が苦手なので、PUKKAの3ベリーハーブティと、クランベリー・ハイビスカスのコーディアル(ソーンクロフト)を飲んでいます。Rさんからもらったリバイタライズも。

にこさんも、この天気で今日は眠っている時間が長いです...。

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アルブレヒト・デューラーは北方ルネサンスの画家・版画家。今回は「キリストの受難」の版画および銅版画が多く展示されている。メルボルン国立美術館からの連作作品が充実している。
<三日月上の聖母><マギの礼拝(三王礼拝)>など今まであまり展示されなかった作品が目を引く。遠近法の完全な空間。奥行き、モノクロームであるのに、明暗と中間色の緻密な表現。・・・繊細というよりも緻密な作品といったほうがよいだろう。図録もあるがこの細かさはまったく印刷では再現できない。特に銅版画は目にしなければわかならない。
<聖ヒエロニムス><メレンコリアⅠ>など国立西洋が所蔵している作品も展示さえている。聖ヒエロニムスの窓ガラスとその光が差し込むさま、陰影がすばらしい。

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デューラーに関しては、数年前の東京大学公開講座での講座も印象にのこっている。絵画にはっきりと、帰属、要するに自分の作品であると明記しはじめたことはデューラー作品の特徴。どの作品もマークが入っている(ときとして、邪魔に感じるものもあるが・・・・)
他方、絵画の三巨匠ら、ジォット、マザッチョなどは、作品の価値は内在されておりあえてサインなどしないというスタンスをとっていたことをも忘れてはなるまい・・・と思う。ドナテッロも自らの作品に「ドナテッロ作」と刻んだのは一つだけである。
そして北方ルネサンスに対して、はたして”ルネサンス”とつけてよいものか?・・・作品のいくつかは写実性が強すぎるので、池上俊一氏が「ルネサンス再考」で述べているあのコメント、「あんな北方の・・・」という言葉が何度も頭をよぎってしまった・・・つまりイデアールを含むかいなか、自然が善に根ざしているのか、否かという問題がそこにある。ナチュラリズムとはイデアールを含むものである。
こうしたことは、何にでも「ルネサンス」とつけたがる日本ではあまり気にしなくてもよいのかもしれないが。例えば、「医療ルネッサンス」などという言葉はもはや何を指しているのかまったく不明であるのに用いられている。ルネサンスはフランス語であり、リナシタは「再生」(古典古代・ローマおよびギリシア古典期)を意味する。ただ、実際のところ、ある時点までは古代ペルシアまでを含んでいた、と思われるのだが。
地階にはロッテルダムのエラスムスの肖像画も展示されている。またマクシミリアン一世の凱旋門の大型版画も展示されている。当時フランスなどでも凱旋は版画で広く知らせる意味があった。マクシミリアンの凱旋は実際には行われなかったために、ここまで大規模な作品を必要としたのだろうか?神聖ローマ帝国に興味がある方には特にお薦めしたいです。
ただ私はどうも神聖ローマ帝国がローマの後裔であるとはみなせないのですけれども・・・名前と中身が違いすぎるようにいつも思ってしまうのです。(余計なことかもしれませんが。)

フォルトゥナ(小)も小さい作品ながら良かった。それからイタリア絵画では持物の車輪で現されることの多い<聖カタリナの殉教>が良かった。カタリナの逸話の衝撃的な面がよく現されている。

聖母像がこうしてみると、北と南ではそれぞれの宗教との融合がみられる。南では、イシスが原型であり、デューラーでは、クレッセントが融合している。ひとことで宗教画といっても、じつのところ図像や多様であるし、主題がどのように展開されているか、というのは見比べていくと実に興味深い。ここのところ、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品について知る機会があるせいか、<キリストの鞭打ち>という主題がピエロとデューラーではどれほど異なって表現・展開されているか!

図録では「メレンコリア」の解説に「医師フィチーノ」とあったけれども、マルシリオ・フィチーノははじめ医学をフィレンツェ大学で学んだあと哲学、プラトン主義としてカレッジでアカデミア・プラトニカを主宰するのだから、このあたりは少々説明不足の観があった。あくまで私の立場では、ということですが・・・私観では、メランコリアは四大気質、幾何学、時間の有限さ、土星の象徴などが図像化されている。有翼の女性像と解釈があるけれども実際「女性」かどうかも断定できない。実のところこうしたテーマはフィレンツェ絵画よりもデューラーのほうが図像として現されているのかもしれない。・・・・

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この展示についてははやくから知っていて、期待していた展示のひとつ。小倉に赴任中のHさんにもチラシをお送りしたところ、都内へ戻る機会があったときに行かれ、実に良かった、とお便りをいただきまして、私も都合をつけて身にいかねば、と脚をはこびました。この展示は、巡回展のない国立西洋単独の企画展です。観に行ってから感想を書くまで日にちが経過してしまいました。

上野は乗り換え駅としても使うことがあるので、立ち寄るのは他の地区よりは容易なのですが、いかんせん、時間がなく。しかし観にいけてよかったです。大規模な展示作品もあるので、ぜひ脚を運んでもらいたい充実した展示です。もう一度行きたいくらい、でもあります。今回図録以外はつくられておらず、しかしブックショップには絵葉書セットのみ販売されています。本当は一筆線や版画複製画などがほしかったのですが・・・。

ゼフュロス(国立西洋)の表紙に用いられている作品でチラシを作ったほうがよかったのでは・・・と思い掲載しました。
*図録には<マクシミリアン1世凱旋門>のポスターが入っています。

(ゴシック絵画では絵画は文字を読めない人のために描かれたものだったが、ルネサンスでは文字がよめる人たちが求めた主題であることが多い。対してデユーラーはルネサンスの技法が前者の役割をもって描かれ、聖書に忠実な表現として用いられているところが・・・宗教改革との直接の結びつきに関わるのかもしれない。宗教改革ではもはや普遍や存在論は問題にならない面がある・・・。この問題がむしろ復興するのは、カントのプロテスタンティズムとストア派思想の融合まで待たねばならない・・・のではないか、と思うことがある。)

市民文化祭は年に1度行われている市の文化祭。コミュニティセンター内の大小ホール、展示ホール、ホワイエなど使って行われている催しです。
通わせていただいているバレエスタジオも毎年ステージがあり、今年は観に行くことができました。シルヴィア、チャイコフスキー・パ・ド・ドゥなどのヴァリエーションから始まって、小林先生と藤沼先生はそれぞれドルシネアのヴァリエーション、海賊から2幕のヴァリエーション、K-BALLETにも出演されている仲俣さんはエスメラルダのヴァリーションを踊られました。コーダも素晴らしかったです。
アリシア・アロンソが「素晴らしいバレエを見る度に、よろこびで一杯になる」といっていますが、そのことばを思い出しました。観にいけて本当によかったです。ステージ後に同じスタジオのかたともお会いして、凄かったね、と話しましたが、バレエはある意味で「永遠のかたち」を描く芸術です。観る人、テオリアを通じて像を現すものであり、良かったと感じることが残り続けるものだと思います。

埼玉は全国コンクールがある県ですがもっとこうした価値が広がることが重要だと感じます。

先週の特別クラスレッスンでは、シソンヌ-ウーベルト(Sisoonne Ouverte)を練習したとのこと。娘は3歳からバレエを学んでいますが、パの正確さ、丁寧なバーレッスンでの基礎などは今のスタジオで本当によく教えていただいたと思っています。動きがひとつひとつの意味と音との繋がりをもてるように、娘にはレッスンで学んでもらいたいものです。

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写真はコンソールにエンジェルのデコールを置いたところです。
バレエ関連ではRineさん好意でピナバウシュ作品を録画したDVDを見たら、と声をかけてもらったのですが、リビング側に設置している再生機が不調でみられてません。といっても実は私はピナバウシュを観に行ったことがないという...。感想を聞く機会は割とあるのですが・・・コンテンポラリーは愛知で多く上演されているようだ、と聞いたのですが、個人的にはナチョ・ドゥアト作品が新国立で上演されたときにいけなかったのがやや後悔です。

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写真はミントの花、八重のばらのつぼみ、トネリコの葉をいけたところです。器は油壺で、数年前に奈良にいったときに買ったもの。

11月に入ってからも多忙で、移動も多く、あらためて文献を読むと自分の了解が十分ではなかったり、さらに考えなければ、と思うことも多く。
多忙時ほど、不調になりがちですし、どうしても義務としてやらなければならないこともありますから・・・しかし、こういう傾向の人は、性質的に外的には疲れていない、と見られることを望むらしく、・・・

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にこさんは元気で、今年最後のフィラリア薬ももらってきましたが、食事もよくたべてくれて、寒い日はコートを室内でも着せるなどして寒さ対策をしています。
もうすぐ19歳。獣医さんでは、「小型犬で高齢だと心臓に雑音が入るらしいのですが、きれいな心音ですね」といわれました。
寒くなりますが元気ですごしてもらえるように配慮したいです。
お世話は大変なところもありますが、何よりもいてくれることがうれしい。

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最近、専門文献以外ではルチャーの本をよんでしまうのだが、アッシジのフランチェスコについて再度。 

ルチャーいわく「彼の生き方には宗教以上の何かがある」・・・ゆえにカトリックの信者ではない私だが、興味深いものがある。ルチャーはこの本(「物語中世哲学史」)で、フランチェスコの逸話でよく聞く「親でもない子でもない」といわれた当の父親の手記を掲載している。(P.106)ちなみに最初父親は、フランチェスコの命名をジョバンニ(要するに洗礼者ヨハネの名前/イタリアではポピュラーな名前でもある)としていたが、商業が成功したフランスにあやかってフランチェスコとしたそうである。後に「それが間違いだった!」と書いている・・・

彼は富裕な商人の息子だったが24歳から転機がおとづれる。
ともかくも彼にはイエスよりも多くの追随者が出たのであり、グレゴリウスはフランチェスコを聖人に没後2年にはしている、通常2年間はベアート(福者)であるのだが。このことに関してはグレゴリウスも迷ったらしい。
グレゴリウスは「だが、フランチェスコを聖人にするようにと私のところに来た人々の数がどれほど多かったか」と言ったとか。

フランチェスコは農民たちにこういったとか。

「あんたの土地を全部耕さないでおくれ。雑草にも少しのこしてあげなさい。そうすれば花たちも姿を現すだろうから。」


わたしもまったく同じ心境なのである。・・・・
人は果たして「食べる」とか「売る」とか、そういう意味のためだけで満足できるのか。(決してそうではない。)
これは弟子の一人ガスパーレ・ダ・ベトリニャーノ修道士が書き残したフランチェスコのことばだが、今日でも同様のことがいえるだろう。
すべての土地を開発しないで自然と他のために残してあげなさい、と。

わたしはいつも国立公園などにいくと思うのだが、自然(コスモス)も権力または財力があるものにしか貴重なものにしかみえないのだろうか?守ることができないのだろうか?と思うことがある。(イギリスは開発に対する熱も高かったが、同時に田園や自然を守ろうとしたのも資本家層であり、ナショナル・トラストも同様の背景を持つ。)

また逆にフランチェスコを聖人としたのは、富裕層をとりこむためだったのだろうか?ただ仮にそうだとしても、富裕層を取り込もうとする組織は古今東西いたるところにもあるし、現代でも似た事態はある。単なる浪費を豊かさだと思い込める人にとってはどうでもよいことなのかもしれないが。
人間の在り方を、家にもとめるのか、個人のあり方に求めるのか、それとも古代のように共同体に尽くすことが意味があるとみなされるのか?金銭や「成功」(何をもってそう言うのか?)のみを価値とするのか、それ以上あるいは根源的なものがあるのか、という問い・・・「生き方」「在り方」に対する問いが含まれている(と思われる)

物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで 物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房(2003-11)
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すべてを財産・経済に利用しなければ愚かで無駄だとおもうのはおそらくはカルヴァン主義なのではないだろうか?長い間戒められてきたものが、19世紀以降唯一の価値観として拡大しているのではないだろうか。・・・同時に、またルチャーとベッラヴィスタの言葉を思い出す。
「守銭奴は実際、憎悪に対してもけちなのだ。」
彼らやプチブルジョワジーは自分の財産に関することにしか関心がなく、愛憎の基準もすべてが金銭なのだ。こういう人がどのくらい多いかわからないが、マスメディアからみえてくるのは基本的にこの価値観が大多数を占めている。(しかし、価値観は多様なものであるし、多数が正しいとは限らない。そのため議論の余地があるのだが、今日ではそうしたことも簡略化されたりデフォルメされる傾向が強い。多少考えてみれば、思ったことを考えもせず、そのまま口にしたり、主張することがいかに容易で凡庸なことかわかるはずである。)

クレシェンツォのナポリ案内―ベッラヴィスタ氏見聞録 クレシェンツォのナポリ案内―ベッラヴィスタ氏見聞録
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房(2003-09)
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クレシェンツォ言行録―ベッラヴィスタ氏かく語りき
クレシェンツォ言行録―ベッラヴィスタ氏かく語りき
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房(2008-02)
販売元:Amazon.co.jp
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アッシジにぜひいってみたいと思っているけれども、同じものをみてまったく違うことを思う人もいる。それがあたりまえなのかもしれないが・・・
その例はゲーテである。ゲーテはアッシジにいってフランチェスコ聖堂に入り、嫌悪感、吐き気すら感じたという。当然ゲーテはフィレンツェにも興味がないらしく、まったく滞在していない。(「イタリア紀行」)
ただし、彼のローマ紀行文は興味深い。今日にはこの道程に写真もついた解説本もでている。
ゲーテ「イタリア紀行」を旅する  (集英社新書ヴィジュアル版) ゲーテ「イタリア紀行」を旅する (集英社新書ヴィジュアル版)
著者:牧野 宣彦
集英社(2008-02-15)
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イタリア紀行 上 (岩波文庫 赤 405-9)
イタリア紀行 上 (岩波文庫 赤 405-9)
著者:ゲーテ
岩波書店(1960-01)
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しかし、同時に思い出すのは今日の日本人ツーリストもフィレンツェに滞在するときは大体半日もいない。それに対して見るべきものが多すぎて卒倒しそうだといったスタンダールの心境に私はいつも近いのだが、大抵の日本人には価値とは思われないらしい。端的にいってそれは、「普遍」あるいは「罪と救済と義務」のどちらも日本の中間層ツーリスト大半の価値観からは想定できないものだからのようだ。したがって彼らは自由時間にはアウトレットにいってしまうのだ。または単に鐘楼が傾いているという理由で「ピサ」に言ってしまう。正直いって、こういう行動自体が現地で顰蹙をかっていることに無知すぎるように思われる。店に入ってもあいさつもできず、お礼もいわず、言葉を喋らず、モノ以外のことには興味をしめさず、時宜をえた服装や行動をとれず、世界史をしらず、心情的なものを軽んじる・・・いやもうやめよう。すべての人がそうでないにも関わらず、同国人からみてもそう映るのだから、他国からみてそれ以上に評価されることはない。もちろん評価のためにこうした行動をすすめているのではない。また付言するならば、「物質」だけをとってもこの街を散策していても、良いものは沢山ある。むしろ「物」は有機的な意味で捉えられている、というべきだろうか。私からすればアウトレットなどに行くよりもフィレンツエにしか売られていないものを買うほうが価値が高い。店主とやりとりしながら長く使えるものを選ぶことをお薦めしたい。

忍耐、慈愛、謙遜、清貧、平静、労働、喜びがフランチェスコ会のえらんだ価値だった。わたしには忍耐、謙遜、労働、喜び、慈愛が重要におもわれるのだが、自然をあるがままに、すきなように、制約がないこと・・・と捉えるふしのあるドイツや日本の慣習ではあまり受けなさそうである。

換言すれば、尊大、放縦、放埓、浪費、消費、華美、虚飾、傲慢などが好まれるのは多数者の性質によるのではないだろうか。無駄をなくすという事柄が、実践レベルにおかれたときに、複式簿記をうみだしたというのもフランチェスコ会の多様さから生じたものではないだろうか。

個人的には多数者も個人によって構成されるのだから、個人が変わることによって、次第にかわることができると・・・思われる。だから、選択ができる限りにおいては、個人ができることは、最善に近い選択を行うことであり、それに対して蓋然的にならないことだ、と私はおもっている。
物質のみによって豊かさが実感できる人とそうでない人がおり、前者は他から奪うことを正当化するものを望んでいる。快さは無限、限りないものに属するのであって、それを追い求めても際限はない。

他方、信じるということは一切の懐疑を捨て去ることを意味する。
ただし神的なものということと、神の存在(現実態)とは異なる。感覚ー知ーから原因を探求する過程でそれ以上説明できないものがこの領域と古来から言われてきた。他方後者のほうは、様々な前提として「在ることを信じる」ことで「救われる(これ以上苦しむ必要はない)」として、または人間が責任を考えなくてもよい原因として、権力が自らを正当化するものとして要請するものではないだろうか。不可解なのは科学が進歩している一方で自分では何も考えない人が増えていることだ。科学信仰はほとんど病理的に拡大しており、機能主義と結びついてすべてを機能で解消できると思い込むふしがある。
私見では、日本ですぐに「神」という表現が用いられることをみると、ほとんどの人は無自覚なままで事足りているか、自分に利益があることでのみ(ご利益など)要請するのではないだろうか。

ルチャーは「正直いって神の存在を絶対的に信じられる人も、絶対的に否定できる人にも自分はなれない。」といっているがこのことも同意する。

またルチャーはマイモニデスの章ではこう説明してる。
「私は、信者も無信仰者も、ある原則を確信していると明言するが、実際には、まぐれで当たる、二人のうぬぼれ屋だ、と考えている。告白するが、そうはいっても前者(信者)が勝ってもらいたいと、願っている。」

この点に関しても同意見なのであって、何がいいたいかというと、エゴイスト、自分だけがよければ他はどうでもよい、快楽と放縦を謳歌するのが人間の生き方なのだとは思わないし、自らも同じ苦痛を味合わなければなにも理解しようとしないことや、また自らと同じ苦痛を復讐しなければ満足せずこれを正義とする人(因果応報)もまた由とはできないからである。多少なりとも建設的な人ならば、自分が味わった労苦・苦痛を他の人が再び味わうのはナンセンスで、自らも納得できるものではないと思うのではないか。賢明でありたいと思えば、因果応報は断ち切りたい、と思うのは当然ではないだろうか。

今日の嫉妬、羨望による浅はかは非難などは明らかに自分のために他を貶めるという方法に訴えていることが多い。暴君、有力者、支配者だけを記憶しようとする歴史が多いし、それについて問うこともしない傾向がある。
またアッシジのフランチェスコに関していえば、・・・個よりも家(オイコス)を重視する、もっといえば話会おうとしないで決め付けと力が過度になれば、第一子は離反することがままあるのであり、なおかつフランチェスコ的な生き方がイタリアでは賛同を得ていること、少なくとも記憶され、「よい」という性質をもっていることは、他人の痛みが自らにも関わるかどうかについてどう認識しているのか、という試金石ではないだろうか、と思うことが多い。

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マリアージュ・フレールのランチ・ティ、オードヴル。
りんご、金柑、くるみ、セロリ、チコリなどを使ったサラダ。

自宅ではこの季節は柿とかぶをつかったサラダなども作ったりもしますが、この取り合わせも参考になります。酸味とフルーツ、香ばしさなどのバランスが丁度よい。
とはいえ、最近は、料理も必要最低限のことで精一杯な部分があります・・・


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エクスポジション・コロニアルはほのかに甘みある紅茶。
ルージュ・プロヴァンスはラベンダーなどが入ったさわやかなルイボスティ。カフェインフリーなので、テ・ルージュ(ルイボス)はいくつかそろえていますが、スラバヤ、ニル・ルージュ、ルージュ・ブルボンなどが美味しい。キンバリーやスラバヤは今はもうないようですね・・・ルージュ・ド・トンヌも美味しいのでおすすめです。最近は脚を運ぶ機会がすくないのですが、お茶の香りと立体的なフレーバーはやはり魅力です。みえないものに質あるいは有(それを条件づけるもの)は宿るのではないでしょうか。それゆえここのお茶の名称には象徴性が用いられている。

加藤信朗教授の『ギリシア哲学史』を読んでいますが、ヌース(知性)は視覚ではなく、嗅覚にどちらかといえば分類されるようなもので「かぎわける」要素が強いという説明があり、成程・・・と改めて考えさせられます。自然(physis)から始まる学は、物質を通してみえるものからは出発していない、と何となく思っていたのだが(逆に英語圏では物質を介する説明となっていることが多い)・・・たった2行の表記でもいままでの認識がクリアになる想いがする。ギリシア語、ラテン語と日本語、英語、ドイツ語の表記が併記されているのでそれぞれの言葉の差異を確認しながら読める・考えられる。・・・というか考えたい。

私の場合、その考えが「正しい」と思える「自己」が正直なところ、定まらない・・・いわゆるフィチーノがいうところの、「推論の進行とともに不安定になる」まさにそういう状態に陥る。しかし概して定まったらそこでもはや考えたり、気がついたりもしないのかもしれないのだが・・・ 同一のものが、ある立場からは肯定され、ある立場から否定(しかも絶対的に)されるとき、判断停止ではなく、「否」とされる場合がある。しかし、「そうともいえないのではないか」ということもままあるわけで、あることを合理的につきつめていくと・・・これ以上説明できないというものがどうしても表れるのだ、だから合理的ということは理解できるのだが、それが完全無欠であるという確信は、もてない、と感じることが多い・・・ 理をつきつめていくと、説明不可能なところが表れるのだ。

加藤先生のあとがきのことばは大変重要なことを言われているので引用しておきたい。

「いまや真実の哲学の理解がわが国において広い範囲の人びとにふたたび求められるべき時が来ている。また、それが可能となるまでに時が熟している。ギリシア哲学の理解が哲学の理解のために根本的であることは言うをまたない。。大学教育において哲学の教育が無用であるという間違った見解が世を覆っているかのように見える昨今、本書が人間としての真実の教養を願望するすべての人々の助けとなることを心から祈念するものである。」(あとがきより)


また重要なのは、哲学はもとは希賢学のことであって、知を求め愛する学問のことである。科学と宗教の間にあるのがフィロソフィアともいえる。不幸にも日本語では希哲学の希が省略されて流布しているので、哲学はもはやそのままでは何の学だからわからないと思われてしまうのもこのあたりが原因になっている。これは不幸なことだ。多くの誤解を生んでいる。一般書店にいくとことは一目瞭然で、自己啓発とかサイコセラピーとかニューサイエンス的な分類におかれていたりする。結果どのようなことがおきるかというと、セラピーのようなものが横行する。さらには自らの悩みを解決してくれるもののように思われているが、そうではなく、あえていうならば、有と非有、見せ掛けのものと本当のものを区別でき、それを言葉で説明し、読むことで理解が深まること、考え方の枠組み、視座をもつことの契機となるのではないだろうか。

前回訪れたのは「マッキアオーリ展」、その前は「バレエ・リュスの世界」展ですから庭園美術館自体にいくのも久々。
娘の学校が平日代休になったので脚を運びました。

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庭園内の秋らしい風景をいくつか。天気がよかったので
静かでよかった。


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わたしはあまり工芸、貴金属造形などの展示には興味がなく、絵画・考古・彫刻を展示する機会がすくない庭園美術館自体にはあまり脚をはこばないのですが、アールデコ様式の建物がすきで、天井やランプ、モールディングなどみてしまいます。この展示ではガレ、ラリックなどの瓶もありよかったですけれど、デザインと瓶が表象する、中身、香りがもっとわかるとさらに楽しめる企画なのではないかと・・・目にみえるものだけでなく、大切なものは「中身」であり、それが見えないからこそ、視覚と技術(テクネー)によって造形されるのですから。

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展示室おくからウッドデッキに抜けられます。


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いつも混雑している併設のカフェも空いていたので利用しました。
カッペリーニと、娘はそぼろご飯と冷抹茶。
わたしはレモン冷酒にしました。

たった数時間ですが、いつもおそるべき時間に追われている日常なので、久しぶりに本当の静寂、時間の速度を感じられたような気がした。

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しかし余暇は拡大する一方の人がいる反面、(無論わたしは余暇などない・・・不幸か幸いかはあまり問題ではない)一体どこまで時間に追い詰められなければ日常もつねに終らない状態になるのだろうか。

本来の静寂、とかいたのは、静けさが快いからだけではない。
実存の認識と世界認識が平衡であること、その瞬間を感じることが、現代の生活時間ではほとんど皆無だからである。

極めて不自然なこの状態が、自明のものであるように、それを「やりくり」することが「有能」であるかのような錯覚が現象している。かつて生活と創造は別の領域で成り立っていた。
先週までの疲れは自分では気がつかないほど蓄積していたようで、なかなか最低限のことも思うようにはすすまず、・・・ 
時間感覚に過敏になるのはあまりよくないので、自制したいところ・・・

19世紀までといったほうがいいかもしれない。(例えば多くの公職者は一方では作家や詩人、画家、書家だった。生活のための時間と、人間であるための活動は別であり、人間=消費するだけの存在とみなされるのはアメリカでは60年代、日本では80年代からである・・・)
今では、二者択一であるようなことが、当時はいずれもかが可能だったのだ。

おそらく、そのことを忘れさせるために、考えさせないように、気がつかせないように、多くのカリキュラムや2000年以降のメディアが、そのことを表象する。病理が流行・スタイルように見せかけられていることが多い。


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おそらくベジャール・バレエの80分間世界一周でわたしたちが見届けるものは、世界の多様性である、音楽と舞踏はつねにその土地と歴史が作り上げて、求めてきたものである。「恋する兵士」や「ブラジル」で私たちが目にするのは、ダンス、舞踏、バレエがもつ生と生き方の美と熱情と、それを超えて発現する死のタナトスである。
(ただしよくあるような死の美化や美学といったような軽薄なものではない)
生そのものが、純粋なエネルゲイアとして身体、舞踏を通してみるもの(観客)、周りにいるダンサーと共有する。
ベジャールは「人間は働くことだ、休むことではない、休息は目的ではない」というがそれは真実だ。ダンサーはバーの前で、10年以上身体と精神を創る。
「人間を超えるものの中にあって、常に人間であろうとすること」

北極のシーンは、・・・わたしは人間を超えるものの中にあって、つねに人間であろうとする者たちの行く末を見る。自らがその大地、大気、有機的コスモスを破壊する人間とたわむれるペンギンたち。
純粋さと完璧さは同等であるというふるい言葉を思い出す思いだった。
私観では、「魔笛」のパパゲーノが、落胆し絶望し自殺しようとする直前(このパパゲーノはモーツァルト自身であると解釈されている)に、銀の鈴を鳴らすと天使があらわれる場面となぜか重なる。モーツアルトの天才さ、ベジャールの才気、最晩年、死の間際につくられたこれらの作品には類似するものがある。
音楽でも物語(レシ)でもないもの。

ベジャールのバレエは、神話的であり現代にも問われる人間性、必然性、遇有性、モイラやフォルトゥーナ(fortuna)について語るのだが、音楽に対してはもっとダンサーは自由であってもいいと思う。振り付けは忠実にまもり、それはテクストとしての継承だが、ダンサー自身は音楽という生きているもう一つの流れにも自由であるべきだ、と思う。音はつねに同じ音は流れていないはずであり、・・・もう一つの形は音楽の中にあるからだ。

身体の言語化による芸術表現としてのバレエが、本来声や言葉を用いないものに徹しているとき、ベジャールにとっての「言葉」「ナレーション」「叫び」は・・・むしろ言語のプリミティヴなものを意図しているのか。このことに無意識になると、コンテンポラリーは、時代だけの意味しか持たなくなってしまう、ように感じることがある。
(もっともこれはわたし自身が、今、言語によって表現しなければならなこと、言語によって分析し、記述し、解釈するとう作業を膨大な古い時代の資料の中で行っているからかもしれない・・・・)
存在、在り方(生き方)、それそのもの、esse...ratio...

ヴェネチア、サハラ、アンデスのパートがすばらしかった。ギリシアの音楽(タラサ)素晴らしい。ギリシアの踊りのみの公演もまた観たいと思い、ミシェル・ガスカールのソロを想起した。


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デイビッド・クピンスキー David Kupinski ガブリエル・アレナスGabriel Arenas Ruiz、 アドリアン・シセロン、Adrian Cicerone, 娘はDaria Ivanova、またジュリアン・ファブローはすばらしかった。 
映画「ベジャールそしてバレエは続く」の「恋する兵士」でも那須野圭右が踊っている。

私の拙いフランス語でも舞台の感想を少しでも伝えられてよかった....
映画「ベジャールそしてバレエは続く」も見ていましたから...

東京公演は11/14(日)まで。西宮11/19(金)兵庫県立芸術文化センター、 岩国11/21(日)シンフォニア岩国コンサートホールでも公演があります。




『80分間世界一周』 ベジャール・バレエ・ローザンヌ 【DVD】
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私たちが生きる世界や意味のすべてが、機械的数量的金銭的価値観に覆われたならば、おそらく私たちが生きた時代もまた忘却されるだけなのではないだろうか、それを必然の手にゆだねてしまうのか否か、それは観客(日常では仕事や役割があるだろう人々)とダンサー、舞台にかかわる人びとすべてを繋いでいるテクストなのだと、わたしには思われる。