1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

October 2010

Se a ciascun l'interno affanno
si leggesse in fronte scritto,
molti che in vividia gia ci fanno
ci farebbero pieta.

もし各人の内なる悩みが
額に書かれているのを読めたなら
われらに羨ましく思う多くの人が
われらに哀れみを催させるであろう


前にも書いたことがあるのだが「自分は苦悩している」と書いたり、言ったり表面化することはそれ自体、快さを持っている証拠なのだ。(プラトンがいうところの苦しみながら喜ぶという快さ/悲劇やときおり「泣ける映画」などのふれこみ宣伝などもこの手の自己陶酔を感じるが、苦しみながらそれ以上の快さを自己正当化するのではないか。
更に他人の犠牲を「美化」してそれに共感したり感動するような人もいるが、こうしたような心性に無自覚な人が家(オイコス)の中にいる場合、その人の快い生きかた、感慨を保つために、なかば自己犠牲が要請される・・・ 


私見では、実際に自律し余裕を保っているように振る舞い、他者を励ましたり協力をおしまなかったり、自ら何かを実践したり、忙しくても身なりなどには気をつけたりしている人、内なる輝きを持つ人ほど・・・・かなり実際的には余裕がなかったり、苦悩するものだ。

他者といるときには、私は苦悩していますといったところで何になろう。共有するならばよろこびや対話自体を大切にしたほうがいいだろうと思う・・・ このことは以前にBさんとも話したことがあるのですが、忙しいしこれ以上どう時間をやりくればよいのか?という事態になっても、あの人は仕事をしているから、とか、あの人は子どもがいるから、とかそういったように思われてもいいことはないように思う。ので、やはり結果的には無理するのが普通!ということになる。換言すればせざるをえない。
その事自体には全く悲観的にはならないですが、しかし自分の努力や行動、言動すべても、無駄になるようなことも多々あるわけです。

私はロレンツォ・イル・マニフィコのように良かったと思える時期もなかったのだが(大抵の人は子ども時代から若いときに愉しいことがおおく、楽しみ自体も多かったという経験があるからのようですが)
この4行の詩は的を得ている。かといってあわれみ、ピエタ・・・を自由意志の下にあるひとがもとめてはならないようにも思う。

にこさんの散歩に1日数回(多いときは4時間おきなど)看護をかねていきますが、端からみると優雅にみえるといわれたが、内心ではとんでもない。「時間がない」といういいわけも・・・あまりしたくない。
(この手の言い訳はしたくない...)

時間は作り出すものですから・・・

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デザイナーのRさんから中川七政商店の文香をいただきました。

桜の香り。奈良へいき若草山をみたいです、奈良の鹿たちはならまちと共存していてすばらしい。
行ったことはないがアテネでもいぬたちはきっと町と共存してることだろう。犬儒学者・キュニコス派というものがいた時代とあまりかわらないよさをもっているのだろうか。バリもいぬたちは自由に暮らしています。
レメディはビオリーブスのローズ。P1080766


Kさんからジョット展の図録をいただきました。この展示、行ったのですが図録は買わなかったんですよね...それからヒッポクラテス医療を取り入れた、ギリシアの化粧品も。ありがとう御座います。

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ヒッポクラテス的医療はすべてが肯定できるものではないが、19世紀まではまだ機能していた。人間は機械ではないから、もっと有機的な視野でとらえないと健康というものには近づけない。現代医療はすくなくとも、人間機械論に因っている。だがそれですべてが解決できるわけではない。
解決できるはずである、治るはずだという前提が確保されることで、どうにかこうにかやっていけるレベルを保つことよりも、「治す」という目的論が優先されることは人びとにとってよいことなのか?

陸上競技大会に選手で出た娘は30校中高飛びは2位で、リレーは1位でした。重要なのは順位ではなく・・・、自己目標を会場で達成できたことではないでしょうか。アリストテレスがいうところの「潜勢力」について、最善なのは「自らそれを成そうとするもの」ヘシオドスも書いているように−−私は他人と比べるのも罰や褒美でしつけるのも嫌いなので、自己規範を追及することのみ、他人と協力するように、傲慢にならないようにとそのくらいのアドヴァイスをしていました。逆に今の家はとにかく名誉、順位付け、他とくらべる価値観でして・・・大抵の人はそうなのでしょうし。

とにかく怪我がなくよかったです。朝7時には練習に行き、帰りは17:30ごろになることも多く、そのあとは英語や数学をやっていますので帰りは23:00すぎです。10月は私も娘もテストが2つあり−−
しかし自問してしまうのですが、かつて子の受験と自分の論文書きが重なっているということがあった人がいるのでしょうか。(いやない)
いやいるのはわかっているのですが、自分の能力の低さを思いますね。やればやるほど、人は先人たちに対して畏敬の念を抱くものです。逆に無知な人は、嫉妬や羨望でそれを解決しようとするようですが、無知というのは・・・量の問題ではなく、自己認識の問題です。

時間軸というものが自覚的にあるときに、すでに認識は4次元のところにある。それゆえに、そういった意味で辛いのだ。現在を楽しむことができない。これは私の場合は幼少時から続いていることで、10年に一度ずつ?現在だけを考えていられるような時期と、時間軸の中で右往左往している時期がある。もちろん理由はそれだけではなく、そのときは自分で努力しても無かマイナスに状況が悪化することがある、それゆえに私は基本的に家父長制度を絶対化するのは認められない...。世の中には、自分だけがよければ、他がどうなってもかまわないという種の人間がいるのであり、そういった人びとはそもそも権利だけを手にしてはいけないのではないかと思う。権利と責任と義務は一体のものだから意味があるのだが・・・
それゆえに、カテゴリーの問題にして、それ自体は何も問題はないとする考えが、様ざまな問題の根源でもある。
ただし私は、感情的、復讐心、嫉妬心の強いいわゆる一般的女性・母親という立場も肯定できない。ちなみにこの問題もカテゴリーの問題ではない。ルチャーノが言うところによれば、このカテゴリーには嫉妬深い男性、古いタイプの企業家なども入る。

寒くなりました。秋がとても短く感じます。夏か冬しかない、と映画「The Age of Stupid」でも言っていましたが、その通り。

そしていつから楽をすること、何も悩まないこと、何も考えないこと、できるだけなにもしないこと、が人の生になったのか.....
現実には、そういう人が増えれば逆に労力がまったく報われないことも出てくる。バランスの問題であって、ものや時間は決まっているのだから、どこかがゆがむしかないのである。そのゆがみを少なくしていくことしかできない。こう書くとペシミスティックだが、しかしその際に善さに根ざしてとらえることが重要ではないだろうか。

究極目的論者はすべてを破壊する。破壊者は、生成すること創造すること構築することの意味も意義も価値もわからないのだろうか。

グリーン・ボックスが届いたので、かぶ、男爵いも、人参、たまねぎでクリームシチューを作りました。


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お弁当も・・・毎日作っています。かき菜の胡麻和え、水菜としめじ、うすあげのお浸しなど。寒いのでカリス成城でうっているリーフハーブティ、コールド・シーズンなどをいれました。ハーブなどをうまく活用したいものです。カリスはギリシア語の優美。


プラトンは後継者スペウシッポスが優雅さがないのをみて、カリスの女神に捧げ者をするように、と忠告したとのこと...
フィレンツェ市民文化における古典世界(ヴァールブルク著作集2)
著者:アビ・ヴァールブルグ
ありな書房(2004-06)
販売元:Amazon.co.jp

異教的ルネサンス (ちくま学芸文庫)異教的ルネサンス (ちくま学芸文庫)
著者:アビ・ヴァールブルグ
筑摩書房(2004-08-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る



ヴァーブルグに全文引用があるフィチーノからルッチェライへの手紙を読んでいます。ルッチェライ家はアルベルティの設計による。

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玄関ホールは吹き抜けです。Post to post法の階段手すり。
フランダースの光展はramaramaのyukiさんのおかげで見ることができ、素晴らしい展示だった。光溢れる風景画は、ホフマンスタールが「魂のある自然」と呼んだものをみるようだった。ブログ記事掲載は断続休止中ですが、わすれないうちに感想をかきたい展示でした。後半のドイツ表現主義との対比が衝撃...
身内が入院してしまったり、仕事上時間もきわめて慌ただしい状態です。
にこさんを撮影するついでにとった写真とともに。

私は土曜日が休みではないのですが、5週目土曜だけは休みに設定しています。丁度台風が重なりましたが、疲労が溜まっていたので...休息したかったのですが、月末の諸々の期日が重なっています。
違う部分の脳を使うものばかりなのが...

 

現在西新宿にて行われているウフィツィ美術館自画像画コレクション展。
(Autoritratti dalla Collezione della Galleria degli Uffizi.)

ウフィッツィ美術館は、オフィスの意する。ウフィツィからピッティまでをつなぐ回廊で、ポンテヴェキオの上を通過してる。
ジョルジオ・ヴァザーリが設計し(彼は画家、建築家、そして美術史家として「芸術家列伝」などを書く)美術館として公開された。ちなみにウフィツィは世界中の美術館の規範となった美術館である。図書館の規範はミケランジェロ・ヴォーナローティが設計したラウレンツィアーナ図書館である。この図書館にはサセッティの蔵書も収められ護られた。収蔵している本を公開するためにつくられた。当時フィレンツェではラテン語やギリシア語を市民たちが学んでいた。

プラトンの翻訳をすべてラテン語にしたのはマルシリオ・フィチーノである。医者の息子だったが、医学と学んだあと哲学を学び、プラトン、プロティノス、プロクロス、ヘルメス文書、イアンブリコスなどをすべてラテン語に翻訳した。最初から翻訳するためにギリシア語を学んだ。またレオン・バッティスタアルベルティ(「絵画論」を書いた)ら文人を結集した。

ヴァザーリの回廊には画家の自画像が納められている。
この回廊は特別な予約がなければ通常は入れない。ウフィッツィからポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋/古い橋)の上を通り、ピッティ宮にまで繋がっている回廊ギャラリーである。

今回の展示にはジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、マニエリスムの画家などの自画像が並んでいる。プリマティッチョ、アンニーバレ・カラッチ、レンブラントもある。ウォルター・クレイン、エミール・クラウスらの作品もある。すばらしいのはフランスの女流画家マリ=ルイーズ・エリザッベート・ヴィジェ・ル・ブラン。油彩の絵の具を薄く重ね、デッサン・色彩とも素晴らしく精緻である。
この展示は、小佐野重利氏のはたらきによって可能になった展示であるとのこと。小佐野氏は古代とルネサンスについての大著を書かれていて、おそらく図書館などで閲覧できると思うが、大変読み応えがある本です。

ルネサンスの人びとは、自覚的に活動を起こしていた。
古代から自然とその法則ー秩序を発見し、合理的な造形、建築を造る。
またウフィッツィの収蔵品は、海外から買い集めたものではない。メディチ家最後の当主だったアンナは、その収蔵品を寄贈した。彼女はすべての市民のものにしてほしいということが願い、今もその作品はある。もしそうしたことがなければこの美術館はないし、作品の多くはオーストリアであるとかほかのヨーロッパ諸国によって買い集められただろう。

美術史では、歴史、画法、様式、社会史もともに学ぶ。哲学や数学が必要な場合がある。ルネサンス期は遠近法を発明した時代でもある。線遠近法、空気遠近法などがある。画家たちは幾何学を用いた秩序づけられた空間、合理的で調和のある美を求めたし、時間の経過によらずに自立できる建造物を美的なものと実用的なものと両方をもとめている。この背景には、それまでに長く続いた周辺都市(自治都市としてのコムーネ)の戦争、ペストなどの災厄があった。
その後、ローディの和の40数年の間におきたのがルネサンス(リナシタ)である。

時間と物質の有限さの自覚のもと、自分の目的を持ってそれを達成することが求められた。私たちも含めて、すべての形があるもの物質は次第に形をなくしていく。こうしたことに気がついたときに、受動的になるのか能動的になるのか、人間は行動を自分で決めることができる。
欠乏を知ること、自分の欠乏を知り、それを自らもとめようとする力が個人の力を伸ばす。こうしたことは今日の教育において重要なモチーフを持っている。
自己認識から、自然科学であれ、人文科学であれ、その対象への認識も可能になる。

私自身も西洋美術史をイタリア・ルネサンス(リナシメント)からフランス古典主義、新古典主義まで学んだ。ルネサンスは古典古代を規範として参照しつつそれをのりこえようとする動きである。フマニスタスとヒューマニズムは異なるし、どのように合理主義が入ってきたかという問題もある。合理的思考と、合理主義を超えたものはあるが、後者は不合理ではいけないし、そうした了解を意味してもいない。

絵画は当時は「趣味」ではない。そしてまた芸術家という名前が生まれたのもこの時期移行である。
様々な価値と学問、人びとの希求によって作られており、完成度が高い。そして作品は皆、個人が所有するものというよりも、公開された場所に設置されていた。通常私たちが絵と読んでいる「タブロー」が普及するのは、もっと後の時代である。

今日日では、絵画や芸術、文学などはすべて趣味的、好み的(傾向性)によっているとおもわれがちだが、そういうことではない。価値観の変遷によって人びとが何を美として何を求めていたのかも分ることがある。人間の創造性や技術の細やかさを知ることも大切ではないだろうか。

もう随分と日がたってしまったが、<フランダースの光>展はすばらしい展示でした。
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特に最初のセクションの風景画が素晴らしい。
光に充ちた森林とその奥には、画家の目が捉えた自然の調和、光によって感得されるもの、が無言のうちに表現されている。
絵画や創造物というのは、自然物質にしてしまえば、顔料でありキャンパスや板絵である、しかしそれは当然、物質としての価値ではない。
絵画芸術は、平面なキャンバスにおいて、自然そのもの、光といったものがあらわされるからである。動画のように時間的制約ももたない。


アルベイン・ヴァン・デン・アベール<春の緑>がすばらしい。光にみちていて、自然主義と神秘主義がどちらも自然に描かれており、なおかつ生きた風景として描かれている。
ホフマンスタールがいう「魂ある自然」とよんだもの・・・それと画家の心象が重なる風景が多かった。ベルギーのある川の流域をめぐる様々な視点。エミール・クラウス<ピクニック風景>
アンナ・ド・ウェールト<6月のわたしのアトリエ>
も印象にのこる作品。大きさも想像していたよりもずっと大作で、丁寧に仕上げられている。ベルギー王室コレクション、ゲント美術館からの作品が多かったが、個人蔵も多かった。

田園の人、都市から訪れた人、こうした表現のなかにも、産業革命に対する、ジレンマ・・・が静かに描かれている絵もある。

後半にしたがい、色彩と光はすがたを潜める。
ドイツ表現主義の影響のもとに、同じ川をめぐる人々、風景、主題も変化する。同じ画家ですら、その変化は顕著である。

図録を最後まで買うかどうか迷ったのですが、ロシア風景画展以来、見応えのある展示だった。ramaramaのyukiさんありがとうございました

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アイスバーグの花が咲きました。
2階のヴァニティに活けたところ。
水周りのカーテンはローラのロールスクリーンにしています。家の中では3箇所あり、オーダーでつくったもの。この花瓶は横浜のハンドドメイドのガラスだったような。一つのものを長く使うことが多いです。


ギリシャ美術史―芸術と経験ギリシャ美術史―芸術と経験
著者:J.J. ポリット
ブリュッケ(2003-10)
おすすめ度:4.0
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


歴史のなかの自由―ホメロスとホッブズのあいだ (中公新書)

著者:仲手川 良雄
中央公論社(1986-04)
販売元:Amazon.co.jp


「あらゆるギリシア人はデルフォイの警句、「汝みずからを知れ」(あるいは自らの限度をわきまえよ)、と「何事も過ぐるなかれ」に敬意を払っていた。」

このことは単なる中間(メノン)を意味しない。静観主義でもない。
意味は問われることで意味を失わないのであり、基準や尺度もまた問われることで適切なものに近づく。



雨で延期になった市の体育祭に娘がリレーで出ました。私はどうしても受けなくてはならない試験があったので観られてません。ですが、怪我もなく、優勝できたようです。第2走は直線なので指導にあたった先生も一番向いている直線コースに、と考慮してくれたようです。また他の大会もあり。前日は英語試験もあり。
私は自分の文章の下書きと、お弁当づくり(1日二つつくったりもする....)、にこさんのお世話、仕事...と急いでいろいろとこなしていても、時間がまったく足りません...あまり余裕なさそうにみえるのもよくないので表には出さないようにしていますが...
花もちらほらと咲いているのですが(ミント、モダンローズ、ほか)切花にするのも久しぶりという具合です。

毎年秋から冬ー春にかけては眠れない日が続くほど落ち着かない日々なのですが、今年はさらにそうなりそうです。

一つだけ世の中の風潮に対して気になることを書いておくとすれば、どこか深層心理的に、戦前的風潮がみらえるところです。なぜ都営地下鉄に軍国主義邸なものが大々的に描かれているのか。また隣国の後継者についての問題と同時に三菱賛美的な記事が一斉にネット上で流れているのか。仔細はかきませんけれども、つねに「アテネではなくスパルタ」を目指すべき、共同体>個人の風潮が高まるときは、得てして「憎悪」の感情がすべての根拠に転嫁されていくところがあります。・・・・

あれこれと定まらない文章を書くのも気になってしまうので(書くという行為に無意識でいられない)しばらくの期間、記事の掲載はありません。
春ごろから思っていたことなのですけれども。
どのようなときであっても、時は「過ぎ去る」ような性質のものでもありませんし、人は人である限り成すべきことがあり、人を超えるものの中にあることを問わねばならない。いかにも即物的なもののみが価値あるかのような世界は表象されているけれども、それが全てではない、そう思います。

ブログネタ
この3連休、どう過ごしていますか? に参加中!


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普段忙しなくリビングの照明をつけたところを撮影..11日(月・祝)はテスト後、在宅してたので...土曜日休みではありませんし、日曜日もテスト引率や仕事もあることも多いので...
ブイヤベースを作りました。

不調をわざわざ表出するのも適当ではないと思うのですがやはり夏前後から不調です。とはいえ、もはやどの状態を「普通の体調」と思ってよいかもわからず...

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自分の諸感覚が(丁度現象学/フッサール)を学んでいたときのように、またカントの純粋理性を読解していたときのような・・・・
どこか事物とのつながりに乖離を感じる。

「埋め込まれた「正しさ」」・・・主観と客観が厳密な意味では区別されないという認識のもと、デカルトが保存したところの「吾思う」という根拠さえが、根拠とはいえないとき、・・・自己認識もまた、解体に向かうのだろうか。

夏にかかりきりになっていたフランス語は一段落。
正直なところ疲労からか、断続的不調になっています。熱もあってか持病のヘルニアがいつのまにかまた悪くなっているのか、二日ほど寝込んでしまいました。(といっても食事づくりや弁当作り、家事全般と事務仕事はやっていますが...にこさんの夜中と早朝の散歩を代わってもらいました)

しかし全く日帰りの出張以外はほどんど外出していないのがまるわかりなダイアリーですね...。

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みなみさんからプレゼントとメッセイジカードを頂きました。
10/13の花言葉つきのカードと奈良・中川政七商店の麻のポーチ。
つくりがとても丁寧で配色も美しい、裏面は丁度このカードにある花のような深みのあるピンク・フューシャ色。
13日が誕生日なのです。
14日がみなみさんのお誕生日なので、1日違い。
天秤座は生まれた日とおなじ星図のときに還るのが理想?との話もありますが(プラトンが誕生日の祝いの席で亡くなったのは逸話としても)今年の13日は大変に具合がわるかったのです...そんな中でしたのでお手紙、にこさんへのメッセイジ、私へのはげましなどとても嬉しかったのです.

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*ramaramaのyukiさんから先日記事に書いた美術展の招待券を頂きました。ありがとうございます。いぬたちの看病、お世話、自分の風邪などお互いに気をつけましょう。お心遣いがありがたく身にしみました

まったく知らなかったのですが横須賀のほうではラファエル前派の展示もあるとか...私はこの展示にはいくことはできないとは思いますけれども...

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10/15はBlog Action Dayとして世界で共通のテーマについてディスカッションする日。今回のテーマは「水」。
(駐日英国大使館からお知らせがとどきましたのでこのblogにも記載しておきます。)


生命、人間に関わる水は、様々なテーマを共有する。
ソクラテス以前の自然哲学者たちはタレス、ヘラクレイトス、エンペドクレスなど様々に水について問題を提起した。一方でこうした水についての解釈、考察は、メソポタミアやエジプトなど水崇拝文化をもつような地域から発祥し、観察ー法則化されてきた部分もある。

日本人の「水」に対する想いや価値観も多様である。
農耕文化の中では水は重視され、浄化のイメージも持つ。
一方で、「水に流す」であるような、眼前からなくなればもう問題にせずともよいというような因習もある。自分の周囲から煩わしいものがなくなれば、眼につかなければ「問題ない」というような深層心理は、いまだにどこかにあるのではないだろうか。農業から工業へと転換した際に多くの公害を引き起こしたのはこうした「事なかれ」的な態度がもとなのではないだろうか、と思うことがある。

空気がそうであるように、水もまた、十分にあるときにはそれほどには価値を感じないのかもしれない。だが、実のところ、ありふれているようにみえる「水」もまた資源なのである。かつては、木材もまた再生資源と考えられていた。だが相次ぐ伐採によってそれは再生資源としてとらえられないほどになっている。
同様に水もまたそういう段階にきているという。

水のある風景、水を起源にもつ文化、生産、言葉と身近なものだけに、その価値をもう少し考えてみることも大切だろう。

以下は私が撮影した水のある風景


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blog Action Dayについては以下に詳細を記載します。<b>
10月15日は、世界中のブロガーがひとつの同じテーマについてブログして、ディスカッションを行うBlog Action Dayです。  

 

今年のテーマは...「水」 

 

131か国4356名のブロガーが「水」についてブログしており、33,277,785名の方がブログ記事をチェックしています。

日本からもたくさんのブロガーが参加しています。
 
BLOG ACTION DAY 2010 WATER (参加方法)    http://blogactionday.change.org/

 

 
駐日英国大使館もこのイベントに参加し、環境エネルギー部   印藤聖子がペットボトル飲料について、

ブログをアップしていますので是非チェックしてみてください。

 

http://blogs.fco.gov.uk/roller/indo/entry/sui_do_for_tap_water?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+BloggerSeikoIndo+%28FCO+Blogger+Seiko+Indo%29

 

こちらのブログでも紹介していますが、Friends of the Earth Japanでは、水をめぐる問題をより理解するためのイベント 

「水Do!カフェ」 を行っています。
11月14日に開催する第2回は「紅茶編 〜ティーカップに香る英国の紅茶文化」と題して、紅茶とお菓子を囲みながら、
英国政府の気候変動への取り組みや水道水の利用促進に向けた動きを取り上げます。

10月15日は、世界中のブロガーがひとつの同じテーマについてブログして、ディスカッションを行うBlog Action Dayです。  
 

今年のテーマは...「水」 

131か国4356名のブロガーが「水」についてブログしており、33,277,785名の方がブログ記事をチェックしています。

日本からもたくさんのブロガーが参加しています。
 
BLOG ACTION DAY 2010 WATER (参加方法)    http://blogactionday.change.org/
 
駐日英国大使館もこのイベントに参加し、環境エネルギー部   印藤聖子がペットボトル飲料について、ブログをアップしていますので是非チェックしてみてください。

 ttp://blogs.fco.gov.uk/roller/indo/entry/sui_do_for_tap_water?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+BloggerSeikoIndo+%28FCO+Blogger+Seiko+Indo%29  </b>

八重のハマナスのつぼみとローズマリーの花。

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「美しいものを観る時、われわれは世界の根源が善であることを覚り、その光に打たれる。(略)この世界に常住つきまとう遇有性の不安、日常生起する凡ゆる災厄や不幸、さらに人間の悪意や闘争にも拘らず、この世界が根本的には善いものであると覚るためには、われわれは美体験による他にはないのかもしれない。
なぜこの花が私に美しいのか?
花粉を媒介すべき蜂に対して、花が何らか好ましい信号を発するのは自然であろう。しかし花の生命と何ら関わりのない私の魂と、この花の照応はいかなる理由によるのか。」
(プロクロスの思想 熊田陽一郎)


おそらく、私たちが花の顔貌をみたとき、そこに<自然>をみるとき、根源的な秩序が善に根ざしていることを感覚によって知りえる。それが「美」である。そしてその美も善によって超えられていく。美は契機としての善である。感覚のうち光と美によって、正しさ、秩序が認知されるのであり、その一性を有した造形、言語、音楽、舞踏などが人間によって創造されるものとしての意味を有している。
そしてそれは、事物の認識、観察、思考、作業と手順によって可能になるのではないだろうか。
プロタゴラスのいうような「万物の尺度は人間である」というような、今日のどこまでも個人利己主義のような価値観とは別の視座は水脈として保たれている。問題はどこでそれに気がつくかということであり、これは強制はできない。個々が思うところに分断される価値とは異なる基準はここにある。


***

追記しますと、ウフィッツィではやはりサンドロ・ボッティチェリ(アレッサンドロ・フィリペピ)の作品がある部屋が素晴らしいですね。「プリマヴェーラ」と「石榴の聖母」が(というよりもサンドロが描きたかったのは周りの天使たちなのでしょうが)見事です。
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何度みても感嘆します。それと行ってここまで描けるとは、・・・と絶句するのはフィリッポ・リッピです。

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上の記事(10/7)の追記分として。

フィリッポ・リッピの作品も見逃せない。というよりも目を奪われる。
もし自分で絵画をかいたことがあるならば、どうすればこう描けるのか?筆のあとを残さずに描くとはどういう技術なのか?という心持になる。
すでに空気遠近法が使われているような背景。

リッピ、ボッティチェリ、フィリピーノ・リッピ、レオナルド・・・とこのあたりはやはり天使の描き方に師弟関係を感じます。)近代になると「自己表現としての芸術」となりますが果たしてそうなったときに、自己表現ではない絵画とは結局、個々に分断された「感慨」なのか?その技術はどうなったのか?と思ってしまいます。
(テンペラ画や国際ゴシック的な絵画は、その一部が19世紀イギリスのラファエル前派が復興させたものの、現代は・・・?)

音楽も同様・・・建築も同様・・・・
音楽は個人的に一部をDEAD CAN DANCEなどが復興させた感もありますけれども。

あとはアカデミアにあるシエナ派の絵画も国際ゴシックから次第に移り変わっていく過渡期がみられて面白い。
私観だがルネサンスもある時期までは、実は東方古代憧憬も強い。
マギの礼拝が多い時代まで、とでもいえるでしょうか。

この秋のウフィッツィ自画像画展は小佐野重利先生の企画のようです。

記憶の中の古代―ルネサンス美術にみられる古代の受容
著者:小佐野 重利
中央公論美術出版(1992-03)
販売元:Amazon.co.jp

フィリッポ・リッピの作品はメディチ・リッカルディ宮の中にも一点展示されています。

ブログネタ
この3連休、どう過ごしていますか? に参加中!
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世の中では三連休だったようですが、まったくそんな感慨はありませんでした...とにかく忙しないです。ただ多忙時でも料理はあまり手を抜けません・・・(お弁当作りも同様に・・・)持病の腰痛もやや悪化しており、痛み止めなどを利用しつつ。秋は仕事でも重い資料を運ぶことが多いのがたたってるのかもしれません。多いときには書籍も6-7冊携帯していますし・・・

ブイヤベースを作りました。時間がたりなくてもアリオリソースは作れませんでしたが・・・。

日曜は市のスポーツ/運動競技イベントがあったようですが大雨で延期。
延期になってから体育の日との関連を思い出す始末です。翌日テストがあったので延期のほうが娘にとってはよかったと思うのですが、私の試験が重なっているので観にはいけません。自分も仕事の範疇である試験監督をするのが重なっており、手どころか身体も足りない・・・と途方にくれることもしばしば。でも大変とかはあまり口に出したくないという...
「自らの苦悩をさらけ出すことは、苦悩よりもそれ以上の自己陶酔に根ざしている」という19世紀フランス文学者にみられるスタンス、私にはそれが本当なのだと思います。何事も口でいうのは容易ですから....


娘がリレー選手になり、前の日から準備をしていましたが。
今月は陸上の大会があり朝も夕方もその練習もしているので大概疲れ果てていますが、テスト前でもあり。湿布を張りながら勉強しているようです。私もあれこれと期日やら下書きなどで時間のやりくりにおわれます・・・

写真はラファエッロの「ヒワの聖母」
ウフィッツィにありますが、前回行ったときには修復が終わっていました。横はサンタ・マリア・ノヴェッラの10月のカレンダー。

ここ数年は夏から秋〜冬の季節の移り変わりはほぼ寒暖の差のみ...
7月から1週間ようやく終えるとすでに夏が過ぎ秋も過ぎ、・・・期日にそって動いているのみなので、個人的には(社会的には増大しているという)余暇というものを実感することはほぼ皆無です...。
しかしながら余暇の余剰+栄養の向上+体力と医療の向上=痴呆や成人病の増加、という現象があるのではないでしょうか。

シナプスは記憶に使われる分しか伸びないのですし、それは成人してからの脳と神経系の使い方による。文字も読まず書かず、どれも機械任せで、本来はむしろ身体を育成する時期に、詰め込み型知育偏重をよしとするのはよくないのでは?と思います。
古代ギリシアでは身体→知育・徳育の順番なのであって、現代ではこれとまったく逆の状態になっているような気もします。福澤諭吉も「本を読んでほめたことは(子に対して)ない」と言ってますし、7歳-8歳までは文字などは覚えさせないというくらいです。
私観では直知的なものはむしろ幼少時に養われるのではないでしょうか。それは様々な了解の最初の源泉になるのではないでしょうか。

土曜はバレエ・レッスンがありました。
秋に進級があり、初めてレッスンでイタリアン・フェッテをやったと娘が話してくれました。ボリショイ留学後、K-BALLETにも出演されている仲俣さんがレッスンに参加されていたとのことです。進級したレッスンには小林先生もいらっしゃるのでおおいに刺激を受けられるのではないでしょうか。藤沼先生はじめ先生方には感謝ですが、アドバイスや美しい動きを学んでほしいと思います。

改めて、納富先生の「哲学者の誕生」(ちくま新書)を読んでいます。


哲学者の誕生 ソクラテスをめぐる人々 ちくま新書 549哲学者の誕生 ソクラテスをめぐる人々 ちくま新書 549
著者:納富 信留
筑摩書房(2005-08-08)
おすすめ度:4.0
販売元:Amazon.co.jp




秋からの展示で私が期待しているものを3つほど。

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『ウフィッツィ美術館収蔵 自画像画展』(損保ジャパン東郷青児美術館)

フィレンツェ・ウフィッツィ美術館・ヴァザーリの回廊に展示してある作品からの展示。ヴァザーリの回廊はピッティ宮(パラッツォ・ピッティ)とウフィッツィ美術館を繋いだ回廊。私は最初にフィレンツェを訪れた際、このヴァザーリの回廊に隣接した場所に滞在しました。写真はウフィツィから撮影したときのもの。西新宿はサントリーホールと同様陸の孤島なのでなかなか脚を運べていませんが、観に行きたい展示の一つ。見世物興行的な美術展も多いですが、ここの企画は美術好きにはゆっくりと見られる企画が多く展示内容も良いものが多いです。

『デユーラー展』(国立西洋美術館)

A・デューラーの版画、メランコリアなどは知られているが、まとまった展示になりそうなので夏から期待しています。

『フランダースの光』
こちらはBunkamuraでの展示。光にみちた風景画。リーフレットにのっている作品だけでも良作が多そう。9月4日からすでに公開されています。

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これは上の写真と同時期に撮影したときのトスカーナの空。
おそらく3月末ごろ。
マニエリスムの空は雲が不自然とフランスの画家やアカデミーでは言われていましたが、実のところ本当に絵画のような雲がよく見られるのです。
晴れたフィレンツェは本当に美しいです。
都市と自然が区別されてそれぞれのよさを保っているのがよい。

見たい展示が多いのですが、休日、平日ともにほとんど時間がなく、まだどれにも行けていません・・・私は作品に向かい合っているときがもっとも充実した気持ちになれるので、人の創造力がつくりだすパワーに触れて気力をもらえるという面があり。
展覧会や舞台芸術など、そういった機会がないと気力も保てない部分が・・・。1-2時間でも時間がつくれたらよいのですが・・・
疲労が蓄積したまま仕事が忙しくなったり、試験や期日などに追われる日常です。要は自分の能力とのバランスの問題なのでしょうが。


分刻みに行動しても(といっても時間は絶対的なものではなく、5分でもなにかはできますし、何年も無為にすることもできる・・・)なかなか充分な時間がとれない状態です。

にこさんは血液検査もし、回復しました。本当に9月はもうだめかと思いましたが(出張にいく前の夜中に具合がわるいからと、実家からつれれこられて以来、丁度立て続けに用件が重なるという状況で)通院、投薬を繰り返し、元気になりました。生命が生きる望みをもとうとする力はおそらく・・・合理的に説明できないとしても、単に物質的なものだけではないのです・・・・

動物にも個があります。散歩にいけばその動物のもっている知覚で構成され、認知される世界は人間とは異なるのです。
だから散歩というのはいぬたちにとっては、認知の場であり、自分の存在をマークすることなのです(縄張り意識とかそういう段階よりもももっと自己と世界を繋ぐもの)毎日散歩にいく必要があります。

獣医さんにいくと、話や説明もしやすいとおもいます。
動物と接するときには、動物の振る舞い、行動などを観察して、検査をし、飼い主とのコミュニケーションで治療をすすめますよね。
人間の医者にはどうもコミュニケーションによって治療をすすめるということがないので、自分がかなりの不調でも診察をうけようという気持ちになれません・・・結果的にいつも治ったことがないからでもありますが・・・
(要するに日本の医者にある、ある種の傲慢さ)

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(写真は9月末ごろに撮影したにこさん。元気になりました)

動物=癒し というような、単に人間の快さ、気分を紛らわすための道具になることには反対です。役に立つものが善いという、テロス(目的)至上主義者ならばそれはよいと判断されるのかもしれません・・・・
しかし、楽観的に動物=いやしと判断されて、もし、面倒だとか思うとおりにいかないとか、思ったようにいかないと思うとき、あまりにも安易に「飼えない」と捨てる、殺すのは肯定できません・・・・
大型ショッピングモールでブームによって繁殖させられたいぬやねこたちが、安易な可愛い、癒されるというような理由のもと売買され所有される。
イオンなどの施設が拡大して消費がすすむ一方、その傾向は拡大している気がします。


実際、食が細いにこさんの食事をカバーするのは、私観では、離乳食期のこどもを育てていたときとおなじ労力を要しますし、でも食べてくれれば本当に安心ですし、嬉しい。問題はわたしの時間のなさ、いつまでにどこまで終わらせられるかということを、実践しなければという、配分の問題なのでしょう・・・体調がやはり多雨で気温が低い、日曜や土曜も多忙である、締め切りが重なるといったような理由からなのですが。
自足できるようにしたいものです。
イギリスのことわざを思い起こします。足るを知るということが重要なのでしょうが、一方で自己肯定できなさが横たわっている。

私には「良心」という言葉がもつある種の一方的な響きを疑わざるをえないところがあります。

私もまたやるべきことが期限・期日ある状態で続いており・・
なすべきことをすることの繰り返しです。
しかし家族を含めて他の人に負担をかけたくない、と思うのです。

一方で、やはりなるべく自分はなにもしたくないという人も多いわけで...

口先で、言葉だけで「無理しないでください」というのは簡単です。
自分の生き方自体が他者とのかかわりにもよっている、ということに気がつかない人には、自己の利益を言動の根拠にし、正しさを疑わないのでしょうか。

感情的に、しかも威圧的なことで同意を取り付けることを当たり前だと思うとその方法論が正しいと思ってしまうのかもしれません。
また想いのつよさで相手を一方的にひきつけておきたいというのは、
暴君的なのです。
しかし暴君的な人にもしそのことを指摘したら、その人を除いて誰も生きてはいられないでしょう・・・
何かを指摘しても、それを感情的にしかきかない人には何もいえないのです・・・。

書かれたものはすでに何かの表れになっているわけですが
何も書いておかなければ何も残らないわけです。
それでよいという態度も、何も書かないという選択もできるのですが、
そもそもやはり、ローマ初期において、「記述によって遺しておくべき価値があるものを文学とよび、そこには歴史も含まれていた」ことを思うと、何か書いておくべきなのかとおもいます。

問題は対話によってなりたつような、共有するべきものが、実のところ、最初はテレビによって、そして今は「動画・絵文字」化された情報となってしまい、一方的な情報とイメージの流布は考える力を奪い、思惑によって感情的同意をとりつけるような輿論構成になっていることです。
インターネット上でも恣意的なものは沢山あるのです。

ブログネタ
「これは良い!」と思ったエコ商品・活動を教えて に参加中!
少し前ですが、パルシステムの「電子レンジに強いラップ」を購入した人に「やっぱりせっけん シリーズ」のクレンザーや食器洗い洗剤をプレゼントするという企画があり、当選。やっぱりせっけんシリーズは、石鹸成分でつくられたクレンザーや食器あらい洗剤のシリーズで、パルシステムの定番品です。おなじように水を汚さない、生物多様性に配慮している「水ばしょう」も以前から使っています。

ダイオキシンをふくむクレラップやサランラップの類は使いません。
加熱している最中もこれらは食品に影響します。燃やしたときだけが問題ではなく・・・・
こうした取組みに大企業はとても鋭敏とは思えません。ペットボトルも回収再利用のサイクルまで取り組む必要があると思いますね...

別にパルシステムから何かの利害があるわけではありませんし、(まあそういったプログを書いて自分のポイント稼ぎにしか使っていない方も多いようですが)私は自分がよいと思ったものしか書きませんし、アフェリエイトなどもあまり興味がありませんので...。

「環境」 「エコ」という言葉のイメージに便乗した、商戦や政策も安易には支持できません。単に「よいことをしたい」という普通の人の気持ちを利用してるだけのような企業も見受けられます。環境ということを考えたら、エコカーと名乗っているハイブリッドカーはバッテリー寿命が車の寿命にもなり、広い意味では環境に配慮されていないのです。このことは、電気自動車との歴史でイギリスの歴史家が述べています。
大半の人は「よいこと、正しいこと」としようとしているのですが、それを利用して利益を囲い込んだりする企業はどちらかといえば偽善を感じます。
良かれと思わせる「力」・・・私たちは、そういった意味でも商品を吟味する必要があります。利便性や機能を高めた製品はどこか他の基本動作が脆弱だったりすることもしばしば・・・・
見た目の安さや見せ掛けの機能に騙されないことです。

一時期過剰ともいえる、ファッション・消費全般におけるリアルファー使いも少しは落ち着いてきたと思っていましたが、個人的な意見をあえてかくとすれば、今年の秋dinosのファッションカタログでの扱いが看過できないほどのひどささです。
これは私がユーザーであるから書いているのですが、いくつか展開しているファッションカタログでのとくにカーラ、ドマーニなどどのページをめくってもリアルファー遣いのものが目に付く。

しかも雑貨や装飾部分にファーをつけるのは単なる虚飾にすぎない。
もっとも虚飾と虚栄が好きだといい張るならば返す言葉もありませんが、正直なところ、イタリアなどの寒さは呼吸できないくらいですが、日本の冬は乾燥がひどいだけでさほど寒くはないでしょう。それでも例えば皮手袋のお洒落くらいで毛皮を着ている人はあまり見かけません。
毛織物などで充分なはずです。

東京バレエの「ジゼル」は以前アリーナ・コジョカルとマニュエル・ルグリが同東京バレエで客演。NHKでも放映されました。今年の公演では東京での公演のほか、各地でも公演がありました。
私は生憎仕事だったので、最寄の劇場での公演はいけなかったのですが、娘は10月3日の公演に行ってきました。通わせていただいているバレエスタジオを通してチケットを購入。開演前には指揮者とコンサートマスターのかたのトークイベントや8月7日には上野水香さんのトークイベントもあったようです。(こちらも事前に教えていただたのですが、夏は毎年多忙で参加できず・・・)

終演後、ダンサーの方にプログラムにサインを頂いたようで、喜んでいました。毎月レッスンしていただいてる宮本先生にはクラスのみんなでプレゼントを渡したといっていました。
その日の主役だった高岸さん、上野さん、ヒラリオンを踊った木村さん、長瀬さん、西村さん、高木さん、奈良さん、田中さん、小笠原さん、梅澤さん、高橋さんにもサインをいただいてよろこんでいました。

長瀬さんはノイマイヤーの「月に寄せる七つの俳句」をよく覚えています。
高木さんはリラの精、奈良さんは東京バレエ版のカラボスが印象深かったですし、高橋さんはやはりベジャールのKABUKIが印象深いです。

ところで文化は人びとが主体になってつくるものだと考えています。
西洋美術史の石鍋先生の話をきいたときに、「日本は名人の国」といっていましたが、つまり、価値とは、その時代とそこに生きていたひとびとが自覚的に作り上げるもの、保つものなのであって、例えば、外国で好評を得たからとか、評論家から絶賛されたとかそういうものだけで決まるものではないのです。観客は主体的に、作品を捉え、評価し、支援すべきなのです。どうも、有名とか、メディアによく出るとかそういったもの、外的な評価に頼りすぎている気がします。ルネサンス美術・建築なども自覚的に価値を創出しようとしたものなのです。19世紀のジゼルもまた、テオフル・ゴーティエがホフマンの影響のもと、芸術至上主義という立場から自覚的に創設したものです。それがロマンティック・バレエの起源といえるでしょう。

才能は発見され、価値を見出すことが重要であって、ただ「有名」だという理由でしか人びとが見ないのならば、それは受動的すぎるといつも感じています。常に観客がその価値を発見することも大切なのではないでしょうか。19世紀のフランスの芸術、20世紀初めのパリの状況などを思い返すとき、それを感じます。

数検協会発行、言語力育成会議第1回提出資料が手元にあるのだが、この冒頭では ルネ・デカルトの言葉として「人間は考える葦である」という引用文がある。・・・冒頭からパスカルの言葉を誤ってデカルトの言葉であると引用するこの資料は、その後イマニュエル・カントの言葉を出している。そしてこの二人の「先哲」はといいながら考えることの教育論を言うのだが、「先哲」というニュアンスにはどこか権威従属的なものがある。

教育において教師が権威的なものをちらつかせるのはよくあることであって、それは、繰り返されるイメージによって想起させられ、正しいのではないかとう想いによって、正しさとして植えつけられているのではないか。

正直いって、教育に関わるひとの多くが、生徒という個人よりも、親であるとか地方議員であるとか、役所であるとかなにかしらの権威(的ではかならずしもないが、そう思わせる力があるもの)に対して従属的な態度をとることが多い。本来の理解は批判を対話的に行うことで近づけるのだが、どうも日本とドイツの場合は、はじめから権威に従属的なのだ。

そういう場にいくとき、大抵そのことを指摘しても、その人たちは感情的に非難や否定だと思い込むため、そして私の性別や年齢というものを「見て」判断するからなのか、(要するに年功序列的志向)相手から敵意をもたれるだけなので、そういった人には何を言えばよいのか、どう接すればよいのかと思うことがある。わたしは無意味に感情的な対立を望まないので、何をもとめているか、それにあわせることはできる。だがそれされも、接し方としては正しくはないだろう。
日本は基本的に感情の対立をさけることがよいことだと思っているし、迎合的、従属的なことが「正しい」という、個人より体制・システム保存を優先するので、あまりよりよい状態を望むということはしないようである・・・

そうした志向と態度にもとづく行動と選択の繰り返しによって、皆が不合理だと感じる社会ができているのにもかかわらず。


問題は能力主義を標榜しながら、本来は自分たちの利害をまもっておきたい、得をしたいという想い、傾向性によってほとんどの教師という職業についているひとが無自覚であることが多いことだ。

問題なのは、この資料が、新指導要綱のための資料であることだ...
H22年5月版だが、H18年に提出したものらしい。このような問題が、ほとんど教育や逆に知識を専門とする領域の人びとから吟味されないままに、国の教育システムとして、文部省がかかわって作られていることが問題ではないのか。


最近は、ヒエラルキー的なものを何の検討もせず受容する傾向があるが、科学信仰の次には「理系信仰」のようなものも顕著である。
何かを絶対化することは思考停止状態を引き起こす。
数学は誰にでも説明可能かつ、実際には存在しえないような三角形のようなものを定義することはできる。・・・・そういった意味で、算術と数学の区別も曖昧なまま、何か一つだけを絶対化することは危険であるし、たとえそれが数で表されようとも盲信的になるべきではない。

他者性とは、相手がどうなってもかまわないという排他的感情であり、特定のひとをターゲットにはしていない。集団が集団に対して、このまったく曖昧なものが、曖昧なターゲットについて、過剰な感情を抱くとき、特に注意が必要である。相手に対してというよりもむしろ、自分がその感情にまきこまれていないかどうか、という点においてである。悪意、もしくは、仕方がないと暗黙のうちに思うことも含まれる。

このことはナショナリズムとかかわるとき、そしてそれが多数が支持しやすいような形で流布されるときに、共存不可能な状態、全体性へと繋がっていく。アイデンテティは、肯定的なものだけとは限らない。自らのマイナス感情を修正するためにはたらいていることもある。または集団のマイナス感情がそれを要請する−−−大抵の場合、不況時にこの感情が興りやすいといわれている。(今回もそうである)私は「景気」という言葉があまりにも曖昧かつ、具体性を欠いていて、因果関係が不明なまま成り立つ感覚的なものを含んでいるため、もっとも信用ならないものは、「景気対策」である。ニュースの街頭インタビューなどで景気対策と口にするひとほど、やすやすと口にするし、それが何を指しているのかもおそらくあまり考えないだろう。
(そもそもが政治は政治なのであって、経済のために政治があるのではない。政治と経済の分野が異なるのに、一緒のものと思われている。理学部と工学部が異なるものなのに、一緒に考えているところも奇妙だが。経済はもともとはエコノミー(家政)である。これは家(核家族ではない。拡大家族である。経営する家の単位)の運営であった。国をどう運営するかということに、市場経済の影響が強すぎるのであり、輸出でものを売り、食料を買うという構造、消費過多で、廃棄過多でもある問題は、個人にまで還元されるものだろう。

個人がどこの共同体に属しているか、地球というものなのか、宇宙というものなのか、国家というものなのか、地方自治的な共同体なのか、家なのか、それとも自分以外はすべて他者なのか。最大化しても最小化してもそれは適当な解釈ではないだろう。流行というものがつねに、そうした面を反映していることはメディア解釈などを通じて行うことができる。つまり脅威をつねに作り出すこと、外敵をつくりだすこと、それらにたいする恐怖を利用して求心力をつくりだすこと。本当は排除する理由はないにもかかわらず、排除される、つまり断罪された死をうけいれることがしばしば生じる。
・・・・
何か求心力を得たいとき、正当性を得たいとき、顔のわからない敵がつくりだされ、レッテル貼りが行われる。自己保存の欲求は屈折した形で理性を失ったときに、他を排斥することで自己を保とうとする。


ナショナリズムと民族性は、互いに互いの暴力行為を記憶している際に暴走する。だが、奇妙なことに最近のナショナリズム的傾向は、30代未満から10代、40代あたりにも奇妙に多いことである。これはおそらく個人が個人の視野をもたないままに、ほぼサブカルチャー的に受容されたものではないだろうか。または、祖父母にあたる人びとが敗戦時を少年期にむかえたひとたちによる思い込みのつよさによっているのか?
(つまり石原慎太郎の世代である)

家庭内、職場などの日常会話的な話題にさほど吟味がなく民族感情がでてくるというのは、それをしないとアイデンティティが成り立たないほど、自己認識が希薄になっているのではないだろうか。しかも一部の学校では、教師と生徒の雑談にこうしたレッテル貼りが行われている。その内容は朝の民法ニュースや週刊誌の見出しなみにデフォルメされて騒点として繰り返されるものと同じである。



民族感情はその出自によって決定されるような部分があるために、最初から個人というものを識別しようとはしない。仮にするとすれば、「役立つ」とか「名声を高めた」という理由で妙に持ち上げられることはある。その意味で個人が確立したところでは、「英雄」という言葉はほとんど褒め言葉にはならない。相手がそういう言説をしているからといって、それに付き合って感情的な対決をしていても無理はない。力に訴えるべきだという話も極論である。

ところで力には力でしか対抗できないという主張や、法が現実にあわないからといって変えるべきだという理論は正しいのか。

私の思うところでは、例えば、核兵器は抑止力になるかというと、容易にそうだとはいえない。外敵による恐怖には外壁が作られていた。しかしこの外壁を破壊する技術によって都市は外壁で防衛できるというものも崩れた。この理論とおなじように、力の所有(保有)によって解決できるというのは単純すぎるといわざるをえない。古代ペルシアには七重の壁をもつ都市があったが、それも陥落したのである。核兵器はしかも城壁のようなものではない。もはや誰も生存できないほどの力を持っている。その保有や行使が「多数者」の支持をとりつければ、「よい」のか。
感情的に自己の正統さや正当さを主張する際に、単に相手(しかも顔がみえない相手)を敵としてみなすことが、マスメディアによって流布されることに危惧を覚える。さらに、社説などは一切よまなくなり、一日中携帯電話の画面をみていてそのニュースで世界を認識しているような人が増えたり、目にする話題で世の中を捉えようとすることが問題である。

もっといえば、目をひきつけるために、そしてそれを「売る」「切り売りする」ために、極端な見出しをつけることがまた問題にされなくなってきている。

知識とそれを流布する機関・媒体の乖離は甚だしい。
受容する人びとはそれほど大差ないのかもしれないし、個人個人ではそれなりに良識的な行動をしようというレベルは崩壊してはいないのかもしれない。しかし単に良識というものが目指されている限りでは、おそらくその水準は停滞するか低くなるだけであろう。よりましな状態を望むのでなければ、おそらくは何も改善されない。また向上するということもないだろう。
ナショナリズムと民族性は、互いに互いの暴力行為を記憶している際に暴走するが、奇妙なことに最近のナショナリズム的傾向は、30代未満から10代、40代あたりにも奇妙に多いことである。これはおそらく個人が個人の視野をもたないままに、ほぼサブカルチャー的に受容されたものではないだろうか。家庭内、職場などの日常会話的な話題にさほど吟味がなく民族感情がでてくるというのは、それをしないとアイデンティティが成り立たないほど、自己認識が希薄になっているのではないだろうか。しかも一部の学校では、教師と生徒の雑談にこうしたレッテル貼りが行われている。その内容は朝の民法ニュースや週刊誌の見出しなみにデフォルメされて騒点として繰り返されるものと同じである。

最近になって気がついたので遅いのだが、新聞もTVも北朝鮮を単に北朝鮮と書いている。「北朝鮮」=「独裁」という言葉が一行内に書かれているし、それをあたりまえのように思っていたのだが、この国は、建前上は「民主主義」を標榜しており、投票によって選ばれている。彼らにとっては、これが民主主義であって、疑いをもたなければ、それが間違いであるとは思わないのだろう。間違いであると気がついた人のこの場合の悲惨さは想像にかたくない。・・・・・では相手側は日本のことはどう認識しているのだろうか。数字上、軍事費が異常にふえているのをあまり認識していないのは日本人のほうだろう。数字上でも、おそらく日本は軍国化している、というのは簡単なことのように思われる。
では国内ではどうなのだろうか。すべてなにも問題はないのだろうか。
国内の問題といって、政治家、公務員などあるカテゴリーを非難することは簡単だが、主権者それぞれが、主権者であるとどのくらい自覚しているのだろうか。TVなどの国民という言葉の使い方は奇妙である。自分たちがそこに含まれているのかいないのか曖昧である。TVにとっては視聴者であり、企業にとっては消費者でしかなく、民族感情だけにうったえているのは、国民意識でもなんでもない、ということなのだ。
「自分たち」の問題にもそれほどは関心がなく(ヤフーなどのモバイル版ニュースの欄や、ポータルサイト、ブログの主要とかいてあるニュースがどう主要なのか?)

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またこのことは私たちの日常的現代社会にも大きく影響する。
ハーバマスがいうところによれば、平等の原則は浸透するに従い、実際上の不平等を鮮明にする。
たとえば結局のところ、女性は育児負担や出産で2年程度は、それまでと一変した環境と境遇を受容するしかない、ことが多い。
そして子供にとって望ましいのは、という理論。応報型のこうした、繰り返されるシステム。実際の問題の根幹もまたそこにある。
実際上の不平等、たとえば大土地保有者や不遇の事故によるライフプランに対する急激な変化、例をあげれば枚挙にいとまない部分もある。
身体的にも肉体的にも負担を要する。そしてそれは応報的に、むしろ女性育児経験者などから「当然」という認識のもと改善される余地も緩慢である。・・・・


私たちは共通するものと自己認識を同時に問う必要がある。
権利を権利として保つためには、あるがままでは成り立たない。

暴力を放棄するということを名文憲法として持つことを否定してはならない。現実が変化しているからそれにあわせて変化するべきだという意見は様々に見られるが、それが果たして適切かどうか、考える必要がある。

個人という領域がなりたたなくなったときにはもう遅い。