1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

September 2010



このブログのタイトルはマニックスのA Design for Lifeからと、1日の日常と非日常(生活、ワークと思索、内省的時間との両立、不可分さ)という意味から付けています。

ジェイムズ・ディーン・ブラッドフィールドによるアコースティックバージョンのA Deesign for Life.

MANICSの新譜(POSTCARD FROM A YOUNG MAN)にはT.S.エリオットの詩が付されている...

GREAT SIMPLICITY IS ONLY WON
BY AN INTENSE MOMENT OR BY
YEARS OF INTELLIGENT EFFORT

T.S. ELIOT

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書斎の一部。ドナテッロのダビデは、フィレンツェ・バルジェッロ国立博物館のブックショップにて。ランプはスタイル・フランスのものです。
フレームは、巌谷國士さんが松涛美術館で行った個展のときに購入した「ラコストの城。」写真の裏側に手書きのキャプションが入っています。


私的なことは書かないようにしているのですが、3時前に起床し、下書きやアウトラインのファイルを作り(迷うことが多い・・・・)、朝食の準備をし、英語の朝学習をやり、3時半と5時半に愛犬の散歩へいき、その間に洗濯・・・・弁当作りなどの日々です。9月は7月8月までの疲れも溜まっているので、あまり効率よくすすみませんし、迷うことも多く。
夜中の散歩は変わってもらえることもあるのですが、(控えめにいっても)不調時や常備薬の副作用などで2時や3時半、5時代の散歩は色々な面で辛いときも多いのですが、でもにこさんが元気に歩いてくれることはかけがえのないこと.何より18歳と半年をすぎてトイレ+散歩の必要をちゃんと教えて/訴えてくれるのでそれにはちゃんと応答したいのです。
(散歩の途中で私が具合がわるくなってしまうことも多いのですが・・・正直なところ私の具合もよくはありません・・・外で倒れないようにしなければ、という気持ちがとても強い・・・)
面倒という感情は一切ないのですが、体調的につらいことは多々あります。

1日という時間も自分の稼動領域も時間も有限です、時間、ワークとしての時間、生活のための時間、すべてをやれるときにやれるだけ行う、できないと落ち込むことも多いです。

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にこさんは随分と元気になりました。
散歩も食事もできるようになり、投薬もうまくいくときは抗生物質ものめています。ただやはり投薬はうまくいかないときはとても心配になります。
散歩も1日数回、私の仕事や作業の合間は一時間くらいはにこさんもじっとまっていてくれるので、私はできるときにできるだけのことをするしかない、しかし本当に快方に向かっているのでこれ以上嬉しいことはありません、とてもかけがえのない存在なのです。
来週もう一度注射にいき、抗生物質の治療を続けます。

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にこさん。因みにPC作業部屋兼私の資料・文献置き場のカーテンはローラのダックエッグとレースのレディメイドカーテン。ローラのレディメイドカーテンはフルオーダーよりも安価ですし、ペンシル・プリーツを選べるのでおすすめです。娘の部屋とこの部屋はレディメイドを選びました。
写真は直近のNICOさんのもの。


nico

5月頃に散歩中に撮影したにこさん。
回復してこのときよりももっと元気になっていると思います。


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にこさんが若いとき。3歳くらいのときの写真でしょうか。PCの奥底から発見。

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回復に向かっているときのにこさん。このときよりも随分と元気になり食欲も戻ってきました。散歩にいきたいとせがむようになりました。
なかなか仕事や草稿、レジュメの制作は断続的になりますが、その中でもなんとか取り組みたいと思っています。できない、とか困難とか大変というのは、どこまでもいいわけに過ぎないのではないかと自分を戒めるためにも。自分にいい聞かせる意味をこめて。

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リビングは書斎と兼用なので、最近は私は片付けに入ることがほとんど・・・仕事している夫がいるときは立ち入れない部分が・・・・この部屋と玄関ホールが片付いていないと精神衛生上よくないです。
片付けるというよりも、あるべきものがあるべき状態にないと落ち着かない気持ちになります。こうして気分に影響されやすいところが、自分の至らなさでもあります・・・・

カテゴリー、範疇に分類すること、ヒエラルキー的な価値判断と基準にそった言動、どれも苦手です。しかし現代では分業化があたりまえである世の中でもあり・・・・色々迷うことが多く、問いは生まれては、対話できないまま沈殿する。料理の記事もかいてはいますが、日常的な料理でも作って必要な分だけ頂くほうがよいいう価値感に対して、私以外の家族はやはり買ってきたものを食べたいという価値感もあり、矛盾した気持ちになることも・・・すべての自分の言動、価値感、価値基準と言動が、まったくの徒労なのではという思いも尽きません。私が存在することで、価値感が異なる人にとってはマイナスの面しかないようにも思えることも多く。不在化することがもっとも、深層においては望まれていること、望ましいことのように思えるのです。

存在していなければならなのだとしたら、なるべく他の領域を侵犯しないことで在りたい。それさえも自我による傲慢と不寛容によるものなのかもしれない。・・・自分が好きなときに好きなことをするということがどうしても、よい行動なのだ、と思えないからでもありますが・・・
ただ行動の原因は、ある種の欲から派生することも確かなので、・・・それが志向という意味ではよいのだとは思うのですけれども。
正しいということを厳密に考えなければならない課題もあり、色々とテキストと向き合っては考えることが多く....

プラトン全集「ミノス/法律」を古書にて購入。
追記としては、娘の誕生日もありました。
それから木々があるところへ元気になったにこさんをつれていって散歩させたいと思っていたのですが、悪天候のため実現できず....
今年は寒くなるのが早いように思います。断続的に熱がでたり、疲労がなかなか回復できないというのも関係するのかもしれませんけれども。

9月末、10月から冬ー春にかけては公私共に色々と時間と行動の有限さの中で、できることをできるだけできればよい、しなければと思いのみ、です・・・ やりたいとかやりたくないとかそういう気持ちはありません。
移動時間や図書館で下書きしたりメモしてまとめた手書きの草稿をなかかな入力しおえず、入力しながら、本当にこの考えと方向性でよいのか、と自問自答することの繰り返し。

あえて言うならば、できるはずのことができないことが、恐ろしい。
結局は自分でなんとかしなければならないですし、少しずつでも一つの答えに近づけるように、したいのですが・・・

「マルシリオ・フィチーノは1433年にフィグリーネで高名な医者ディエティフェチ(dietifeci)と夫人アレッサンドラの間に長男として生まれた。「まだ幼少であった」フィチーノを、のちのプラトン・アカデミーの主宰者として選んだのはコジモ・デ・メディチであった。コジモのはゲミストス・プレトンを「あたかももう1人のプラトンであるかのように」崇め、そのプラトン主義に傾倒していた。フィチーノはフィレンツェ大学でアリストテレスの「ニコマコス倫理学」および「霊魂論」の注釈書を著したニッコロ・ディニョージにアリストテレス哲学の手ほどきをうけ、アリストテレスの中世的伝統に接し、アヴィセンナ(イブン・シーナ)とアヴェロス(イブン・ルシュド)を始めとするアラブ語圏の註解にも触れることになる。フィチーノは学生時代からキケロ、マクロビウス、アプレイウス、アウグスティヌスおよびカルキディウスなどのラテン著作を手がかりに集中的にプラトンの思想的遺産に取り組んだが、その際にプラトンとアリストテレスに対立させて理解するようなことはしなかった。」

中世における理性と霊性 (上智大学中世思想研究所中世研究叢書)中世における理性と霊性 (上智大学中世思想研究所中世研究叢書)
著者:K. リーゼンフーバー
知泉書館(2008-03)
販売元:Amazon.co.jp



「フィチーノは憂鬱な気質の持ち主であり、その健康状態は常に虚弱であったが、それを補ってあまりあるほどの知的関心の広がりによって、その文学的・音楽的才能ー彼は竪琴を弾いたーおよび芸術理解を統合し、その愛すべき人柄と聡明な判断力によって、それぞれに活動する卓越した思想家たちを結集し、当時のフィレンツェの精神生活全体に決定的な影響を及ぼした。その中にはロレンツォ・デ・メディチ、レオン・バッティスタ・アルベルティ、アンジェロ・ポリツィアーノ、クリストフォロ・ランディーノ、ピコ・デッラ・ミランドラらが数えられる。フィチーノの容貌および人柄については、さまざまな言い伝えを通じて以下のように報告されている。この痩せ型で小柄な男は、話しぶりはいくらか遠慮がちであり、風変わりで禁欲的で質素な生活を送り、節度ある日々の日課と菜食を貫いたが、ただワインだけは厳選されたものを好んだ、と。政治的主題にはほとんど関心を示さず、人付き合いにおいては柔和で、さらに若者たちとの親しい会話では熱中して多弁になったが、1人になると深い孤独に襲われたと言われる。」

(「中世における理性と霊性」 第12章 マルシリオ・フィチーノのプラトン主義)
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(写真は2009年にデル・フィオーレ聖堂内で撮影:高嶺)


「饗宴註解」もまた孤独と憂鬱から解放されるのでは、という友人たちからのすすめで書かれた。(De amore)この版は版を重ねて広く読まれた(日本語訳もある/国文社刊)・・・

「美とは人間の魂を自己のほうへ引き寄せる輝きである」(De amore)

・・・・・

私は例えば現代人的な視点の「高み」という立場から、ルネサンス期のひとびとについて、「疲れを知らぬ」とか「単なる混淆主義である」とか(フランスの思想家に多い見解)みなすことはできない。何が優れていて何が劣っているというような主張、二者択一にはほとんど意味がない。むしろ意味はそぎ落とされていくからである。しかし一方で近代的人間中心主義や一般的なヒューマニズム、英語化されたヒューマニズム(イタリアの初期人文主義ともルネサンス思想とも異なる)の立場から一切の批判なく賛美することもできない。ただルネサンスといえば、例えば盛期ルネサンス(レオナルドやラファエッロ)やコペルニクスだけが「優れている」わけではない。そして何よりもルネサンスが急に起きたわけではない。精神的支柱やその起源というものは意図されなければ隠蔽される。そして何か現時点で都合のよい部分だけを見ようとする。それは結果主義的すぎるのではないだろうか。
「差異」というものと「共通点」というものをどう価値判断するのか。
それは結局、立場の問題なのだろうか。・・・・・
それすらも、根本的な動機は「自己保存」の領域なのだろうか、他の言葉で表すことはできないのか。

そして忘れてならないように感じるのは、どのようにある時期に生きた人々が文化的社会的、創造物などを進歩あるいは深化させようとも、短期間のうちにそのほとんどが継承されずに失われるということは繰り返し起こるということである。


「なるほど、ルネサンスには強烈な生きる喜びを示す数多の証拠がある。けれども、これと全く同じ程度に郷愁と憂愁が見出されるであろう。ロレンツォ・デ・メディチの幾つかの詩、ミケランジェロの幾つかの彫刻、無数の哲学的著作は、ある種の悲哀がユマニスムに浸透していることと、永遠の美と真実に対するある種の郷愁がそこにあらわれていることこを証拠だてている。15世紀には、呑気で思慮のない喜びは問題外である。それどころか、各人が自らの限界を感じていた。というのは、人間の可能性を極度にまで発展させねばならないということを意識していたからである。」
(「ルネサンス精神史」 イタリアのユマニスム p.100)

まさに有限さを認識することは、可能性の模索と終わりのない実践(決して完成や完全に至ることはない)の繰り返しであると私自身が日々の中で思う。時間はただ「経過」するものではない。日々も一年も「過ぎ去る」ことをただ眺めるという態度はできない。外見には、そのような日常にあわせていると「ふるまう」「あわせる」ことはかろうじてできるが、それ自体が無理でもある。つまり、度し難いことに、おそらく「普通の人が「楽」とか「無理しないで」という状態で日々を過ごすことが、もはや有限さを意識する中では、「無理に表装することでしかとれない態度」なのである。無理しないでくださいといわれて、どうにもならないと感じてしまう。時間は25時間のサイクルでめぐり、その中で自分のやりたいかやりたくないかという傾向性・好みの気分に関わらず、為すかだけである。
平均的、ということが常に規範とされるような現代では、時間も行動も思いや思考もすべて、多と平均的なことがらにあわすことがまるで絶対化されているかのようである。・・・・



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同フィレンツェ デル・フィオーレ聖堂(ドゥオーモ)内。

右手側奥にフィチーノ像がある。
ブルネレスキ、ジォットなどが関わり、フィチーノ像、ウッチェロなどの騎馬像画などがあるこの聖堂に近年落書きをしたという日本人大学生などはとうてい赦せない。無知とは恐ろしいものである。そしてそれに対して、心から謝ってくれることを教会側は求めた。こころから反省してくれるならば、修復料金は請求しないということだった。この言葉を多くのメディア・新聞は「費用はいらない」というようなニュアンスで伝えたことは非常に残念である。金銭で形だけで償うようなことがもっとも恥ずべき行為だからなのだが、金銭的な価値観しかない人々には理解できないのだろうか...


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早朝のデル・フィオーレ聖堂前から。
花の女神フローラとマリアの名前を付したこの建築は都市の力とブルネスキの偉大さをそのまま感じることができる。ドームの先尖が完成したのはブルネレスキの死後だったが、ここからの眺望は後の人々に世界に対する広い視野をもたらした、この地平の開拓もまたこの建築のもつ一つの特徴であるように思う。
初期ルネサンスと盛期ルネサンスのそれぞれの特徴をおさえた上でフィレンツェを訪れることが望ましい。最近のアルベルティ研究からは、古典古代の様式がどのように展開したかを知ることができる。

また同時に、こうした建築、美術がコインの「表」であり「裏」の部分も認識するべきである。

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フィチーノ、ミケランジェロ、ギルランダイオ、マザッチォ、そしてドナテッロ、ブルネレスキらの仕事の足跡を求めて、フィレンツェ旧市街に滞在したときの写真。真冬なのに花のたえないこの町の空中庭園・テラスが大変に印象深い。ここからアルベルティが設計したサンタ・マリア・ノヴェッラのファサードもみえる。(フィレンツェにて:著者)

私が関心があるのはこの文化を支えた原動力としての思想である...

ルネサンス精神史 (1983年)
著者:S.ドレスデン
平凡社(1983-09)
販売元:Amazon.co.jp

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アーティスト:Rene Aubry
Bel Air Classiques(2007-05-08)
おすすめ度:5.0
販売元:Amazon.co.jp


シーニュのレヴューもかつて書きましたが、ベラルビの動きはまったくぶれがなく、静止しているときの存在感が特別である。思慮というものがそのまま静止の中にある。ヌース(精神・知)そのものを体現しているようである。「シーニュ」は絵画的なバレエ作品であると感じる。演劇的なバレエ、彫刻的なバレエ、思想言語的なバレエの中でとても絵画的である。音楽も好きなのですが、最後の2セクションが特に好きです。
オペラ・バスティーユの広い舞台でいくつかの空間に別れて、異時同図法的に展開される舞台を映像でみるのには限界がある。その都度カメラが切り替わるから仕方がないのだが(これは「ル・パルク」などでも同様。もちろん、映像化されていること自体が貴重であるし、音楽画質ともに良質。輸入版だがリージョンがフリーなので問題なく再生できる点もよい。
ただいつも思うのはamazonの作品データのアバウトさはどうにかならないものでしょうか。付け加えておくとただしくはRune AUBRYは音楽担当でありコリオグラファーがCARLSON、主演はMarie-Agnes GILLOTとKader BELARBIです。2004年の収録。

木曜日のバレエの特別クラスレッスンに娘が行っている間、私はパリ・オペラ座の「シーニュ」(ベラルビ/アニエス・ジロー)を久々に観ました。

カロリン・カールソンの演目は[エトワールガラ2010]でもプログラムに入っていましたが、マクレガーやカールソン、アンジュラン・プレルジョカージュの作品はガラ公演などでも上演されるとよいです。「ル・パルク」が全幕日本で公演されたことは画期的でしたが(私はルグリとレティシア・プジョルの回に行きました)もう一度、<シーニュ>やベジャールの「第九」も公演があればよい、と思います。そしていつも思うことだが、こうした演目は表面的なストーリーや演技の問題ではなく、そして文学的回解釈でもなく、現象学的に捉えなければならない。なぜならば、フランスの文学、思想、哲学など芸術表現はある意味、現象学と切り離せない関係にあるからでる。

フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)
著者:斎藤 慶典
講談社(2002-05-10)
おすすめ度:5.0
販売元:Amazon.co.jp




Le Parc: A Ballet By Angelin Preljocaj (Ws Ac3) [DVD] [Import]Le Parc: A Ballet By Angelin Preljocaj (Ws Ac3) [DVD] [Import]
アーティスト:Paris Nat'l Opera Orchestra
出演:Isabelle GUERIN
Bel Air Classiques(2008-07-08)
おすすめ度:4.0
販売元:Amazon.co.jp

後日記入です。9.22発売だったMANICSの新譜をタワーレコードのオンラインで購入しました。
A Billion Balconies Facing The Sunが色々とやらねば感の強い私にはフィットする曲です。1996年のJG.BALLARDの小説からとられれている曲のようですね。曲の感じがEVERYTHING MUST GOのような。実は前作も買いそびれており(本当にデビュー前からのリスナーなのかという感もしますが、ここ数年は1年が1年と思えないくらいめまぐるしい日常なのです・・・)一緒に注文したのですが、今作のほうが好きですね。私は耳に快いだけの(というか実際POPミュージックはあまり必要ではないので・・・ 進むべき道を指し示すような問題提起を含むような、あり方を問うような実践的なミュージシャンには流行などまったく関わりなく魅力がありますが)音楽はいらないのです。



もうすっかりCDショップに買いに行く時間はないのですが(年に1-2度渋谷のチャコットにいくときに寄れればよいくらいです/タワーレコード本店)それでも、これ、と決まったCDを買うときにはタワーレコードを利用することにしています。



このディアナとアクティオンのヴァリアシオン/リハーサル映像も繰り返し見てしまうもの。

音楽と音楽の間にあるプレパラシオンがとても重要だと感じる。それは多くのコンクールや舞台上のヴァアシオンを視る際にもいえることのように思う。



オーロラは、難しい役である。「sleeping Beauty」は一見単純な御伽噺のように思われがちだし、実際そういう解釈で演じられたり演出さえたりすることもある。だがこの19世紀クラシックの演目の役はすべてが「概念」でもある。その中で1幕のオーロラは、純粋さ、優雅さ、生成されたばかりのというような若々しさ、機智をあらわす意味での俊敏さ、などが形を通した表現として求められている。ダンサーはこれを完璧さとそれを超えようとする伸びやかさ、および目に見えない美を音楽性を通して表現することが求められる。芸術作品としてのバレエは、多くの絵画や彫刻がもつように、実際には存在できないかもしれない美を視覚を通して知覚したい、目にしたいということが、パの正確さやテクニック以上に求められる。

アリーナ・コジョカルのオーロラにはそれらがすべて含まれているので、DVDで観るたびに感嘆する。
テクニックとは表現のためにあるので逆はない。
技術はだが絶え間ないリハーサルとレッスンによって支えられて、その中からインプレッションを生み出すのだろう。バレエは形をとおして私たちの視覚と精神に影響を与える。振付家や芸術監督は、絵画や演劇よりもむしろ、文学と哲学から相互に影響を受け、ダンサーは絵画や造形作品、活字などから表出すべき表現や概念を抽出する。そして、それがテクニックと合致できるかどうかを目指す。
私がレッスン風景やリハーサルを見るのが好きなのはこうした一つのものを創り上げるためには、多くの要素とダンサーたち、指導者たちの取組みが「生成」されていくための「多層」をもつためである。

言語を持たないバレエが言語以上に語るのはそのためである。だからそれが成り立ってないか、芸術監督がそのことを理解していない劇場の場合、舞台全体が表面的にみえる。

「眠りの森の美女」とドイツ風に訳されているが、こうして改めてみたときこのタイトルは本当は「眠れる美」というような意味で解釈したほうがよいのではないだろうか、と思う。日本ではイコノロジーがあまり定着していないから未だに「自由の女神像」などと呼ぶが、マンハッタン、リュクサンブールにあるのは「自由」そのものを擬人化したものなのだ。だから女神ではない。そういったとき、このタイトルは美は多層にあってどの役にもそれが振り分けられていることになる。それぞれが表現するべき美があり、それが演じ分けられるので、クラシック作品として誰がどう踊るか、ということがとても重要になって、長く親しまれる理由にもなっているだろう。

要するに、演劇的ドラマ性やストーリー、感情表現を追う様なクラシック作品ではない。
単に愉しむこともできるが、パリ・オペラ座や英国ロイヤルといった劇場ごとの解釈が違うことも含めて奥の深い作品だと思う。(どの王朝時代の様式なのか、この二つの劇場では、100年後の3幕にはちゃんと100年後の様式として舞台美術も衣装も転換されている!)
逆に表面的に形をつくることだけに専念されていたり、再現だけが目的のようだったり、時代設定と美術があまりにも様式を欠いたものだったりすると全く面白くない作品になってしまう。

”GOLD AGAINST THE SOUL”の中で一番好きなPVはFrom despair to where
 だが、このビデオと比べてみてもRevolやFasterでのリッチーの状態はあまりにも「ありのまま」に見えて痛々しくなる。だがそれ以上に彼が措かれている状況と苦痛がそのまま見えてくるようでもある。
肉体を通して見えるほど透明である。

なぜ、リリース当初、ホーリーバイブルは失敗作だとこきおろされ、今となっては「名盤」と音楽メディアは書くのか。
なぜなら、「ホーリー・バイブル」では、現代的価値を支えているほとんどのプチ・ブルジョア趣味を、比喩を使わず、否さらに強烈に現実を批判するための比喩を用いて人間存在と世界構造を批判したからである。
ヨーロッパでは商業的にも成功したマニックスだがそのきっかけが「個人を殉教者にするような悲劇性」(好む群衆心理)に基づいていることは否めない。これは彼ら自身が感じている矛盾だと思う。
そして矛盾の中に放り込まれるとは、かれらがどうあるかを問う際につきまとう本質的な問題でもある。


http://www.dailymotion.com/video/x2on11_manic-street-preachers-revol_music

revol=lover


1994 P.C.P




私にとってのマニックスはやはりリッチーがいる「ホーリー・バイブル」までのMANIS STREET PREACHERSです。




REVOLは、ライブで一番聴きたい曲だがーー、リッチー失踪後キャンセルされた来日公演と3人で再スタートしたときのライブは行っていない−−それ以外の公演は来日の都度必ず脚を運んでいるが一度もライブでは聴いていない。だが、リッチー不在でこの曲をライブで聴くことは辛すぎる。

このRevolのPVをあらためて見てみると、男性型ヘゲモニーと家父長制否定、無自覚にそれ自体になっている典型的白人男性およびそれを補完する役目を負う女性という構造を描いている。

子どもはやがて父親になる。
ほとんどの場合、それを何も問わずに。そして同じことが繰り返される。
この構造を批判し、抵抗して生きようとした人は近現代以降すべてが社会的な「死」に遇っている。そして個人もまた死同然か死そのものを選ばざるをえなくなるのだ。




以前、リッチーとアルチュール・ランボーについて書いたことがある。私はリッチーが直接的に不在になったのは、マニックスにとって自分がいないほうがよい、ということを感じ取ってそれをどう周りが否定しょうとも覆せないほどのギャップができていたのではないかと考えることがある。同じ理念と方法をもつと思われてその中でのみ生きていけると思っていたことが覆され、本当は必要ではない、足手まといなだけなのだと、感じてしまったとき、それは外部に対して自己をたもっておけるアイデンティティを保てないほどになってしまうだろう。ニッキー・ワイアが「Noboby loved you」と書いたのはアイロニーでもなんでもない。おそらく真実なのだ。ニッキー・ワイア、ニコラス・・・の立場もわかるが、リッチーの心境はもっとわかるように思う。そしてもっとも皮肉なのは、リッチーの不在によって、死によってマニックスは本当に「国民的バンド」になったのだから・・・私はリッチーがいなくなったあとの、マニックスの方向性が正しいと思ってはいる。だが、リッチーがいたときの純粋さとは完璧さは他のどのようなミュージシャンも持たなかった価値を持っていた。
マニックスがリッチー亡き後に、EVERYTHING MUST GO とIF YOU TORELATE・・・ そしてMASSES AGENST THE CLASSESを作ったことは時代遅れでもなんでもなく、もっともリアルで即時的であり、常に問われる問題を曲にしているからだ。

だがやはりそれでも、リッチーがいたマニックスは”特別”である。特別というのは、他に類がないという意味で、である。
彼がFROM DISPERE TO WHEREで「葉書を送る人は俺の気分がよくなることを願っている」(がそんなことでは何も解決しない)と書いた気持ちがわかるし、居場所がない、いなくなったほうが結果的によいのだ、と感じることも避けられないのだ。
知人のリスナーが、「リッチーは今もどこか南のほうの島で生きていると信じている」といっていたのだが、私はホーリー・バイブル前後のリッチーの言動からそんな程度だったら失踪なんてしなかっただろう、と思う。
マニックスは音楽的動機から生まれたバンドやユニットではない。文学的価値感、政治思想的価値感と死生観が先行していて音楽的なことはジェイムスがほとんど1人で担っていたのだから、ジェイムスの名声が高くなるにつれ、CDを聞き、歌詞をよむリスナーよりライブをよりこなすようになれば、詩人としてのリッチーはそこにはいないことになる。言葉を発するのもリードギターを弾いているのもジェイムスであり、RO誌などを含めてリッチーは純粋というよりも策士だ、何もしない(「ギターも弾けず、かといって練習もせず」)などと書いていたのだから。
存在するだけで抵抗として在ることが赦された前の世代にとって、存在してもしなくてもどちらでも何も変わらないとか、役にたつといえばシステムの一部になることであり、抵抗そのものも管理された複雑さなのなかでは無力であるという絶望はおそらく解るまい。
単純に主張していられるほど、「ユーズレス・ジェネレーション」の世代に置かれた人々(私も含む)は初めから条件付の権利と存在権しか与えられていない。そして努力すればしたで、階層間の価値間のギャップと批判にさらされることが多い。

何事も精神的支柱があり、それを起動にのせるためにはその精神がバックボーンになっているが、行動そのものがあらわになるにつれ、精神的な力というものは覆われてみえなくなる。
もともと作詞とマネージャー的な役割をしていた彼(リッチー)が、メンバーの脱退をきっかけに、ギグ上はサイド・ギターという役割を負っただけで、平均的なバンドと基準にする「ロック好き」「音楽ライター」たちは、何もしていないと批判するのである。そういう記事は飽きるほど見てきた。マニックスの擁護者たちはそれこそが信者のようだったから、その信条である「一枚だけだして解散する」ということが撤回されたときに何もいえなくなってしまった。本当にマニックス賛同者は(私も含めて)マニックスが体現していたことを「信じたかった」のである。ここにこのバンドが持っている特有の意味、「音楽よりも言葉が先にある」という事実がある。

今でも、曲はいいけど詞が・・・というようなまさに、「ジェネレーションテロリスト」がアメリカでは内容警告シールが張られていたときの躊躇いのように、もらす人たちがいる。そうした人は一度も自分の足元も世界構造も存在や事柄自体というもの、非物質的な価値を考えたこともない人だろう。

とにかく音楽ライターはその後はひたすら「一枚だけCDをリリースして終わる」という発言を繰り返してきたリッチーを糾弾していた。言っていることとやっていることが矛盾があると。リスナーへの裏切りだといっていた。
イノセントさを装うダーティさだと書き立てていた。そして彼らは自分たちの強欲さを根拠としてリッチーの無欲さ、禁欲的態度をあざ笑うのである。現代では何も考えないことが価値があるように思われているから、(わかってやっているならともかく)HAPPINESSというメッセージを発するのだろう。
すべてを忘却できるようなものが好まれる。
「クール(cool)」という言葉が最高という表現にあてがわれるならば、マニックスのように宣言をしたり撤回したりすることが揶揄のもととされるのだろう。彼らは、常に「個人の悲劇」を「見たい」のである。このこともリッチーは詞にしている。ケヴィン・カーターはまさにその矛盾を突きつけられた。何も行動しない「良心」は、何か言動をした人にむけて「非難」を容易にする。

商業ベースと共存できるためにはニッキーのような比喩的アイロニーが必要だったかもしれない。だが、RevolやPCP、YESなどが、「快さ」を聴衆にもたらさないかもしれないかわりにそこには「真実」がある。
FASTERが階層的な問題、むしろボーダーとなり透明になった境界線ーブルーカラーとホワイトカラーというものがあるにも関わらず、それが解消されたとされすべて自己責任となった世代以降(つまりリッチーが言うところのユーズレス・ジェネレーション・・・である)を問題にした。
1960年代までは文学が担っていたこうした社会描写と批判の役割を「ホーリー・バイブル」が負っている。

歴史的に、ヘゲモニーとそれを補完する受動的なことを主導力とする女性は家父長制と国家(オイコノミア/エコノミーの起源)支配の基盤である。
それに抵抗する女性たちと男性−肉体の性差よりも本来性を問題にする人間たちというべきだろうか、−歴史からその存在を抹殺されてきた。
それは多数者のアイデンティティを揺るがすために、真実を語るがゆえに消されてきたのである。このPVにはその意味が象徴的に、そしてリアルに描かれている。この構造は2010年を超えても、世紀末から新世紀になっても変わらず、むしろ忘却されている。ある意味で私の時間も、15年前から変化してない部分がある。

経年とともに変わるものもあるのかもしれないが、私の場合はリッチーの不在とその存在場所を与えなかった世界という事実、「いなくなるしかない」ということを否応なく突きつけられる地上の存在だということを忘れることはない。

音楽ジャーナリズムが得意とするカテゴリーについても、Manic Street Preachersだけはそのリスナー層が特定できないのだという。英国の音楽ジャーナリストはカテゴリー分けが得意らしいが(範疇を問題とするところにスコラ的な影響を感じる)マニックスだけはと一体どこにどういった聴衆がいるか特定するのは難しいいう。それは本当のことだろう。本来的な問いは常に、中間的にところに位置する。場所や地位の問題としての在り方という意味での中間である。マニックス自体が、歴史とロックの中間、文化とカウンターカルチャーの中間、文学と宗教と批判という中間点にいつもいた。極端ではないからいつも問いが突きつけられるのは彼らの要素が単純ではないからだ。だがそれはおそらくリスナーもである。彼らほど、三島由紀夫や太宰治や谷崎潤一郎を正面から読んだ英国人もいないだろうし、今となっては日本の若年層でもこれほどの読解を持つこともないだろう。
リッチーを肥大したエゴと断ずるのは簡単なことである。
しかし構造と透明化した支配、繰り返される歴史をみた者ならば、彼の立場を否定することは出来ないはずである。・・・そこに異を唱えたものがことごとく共同体から消し去られて殉教者か聖人か英雄かに祀り上げられて「われわれ」がその犠牲のもとに生きていることを自覚することはあっても。
だからマニックスのリスナーはコアな層はおそらくロックミュージックというものに対しても『』(カッコ)つきで接しているのだと思う。
問題はカテゴリーと範疇の問題でもなければ、階層とか階級の問題でもない。構造と顔のみえない支配体制と権威と人々の心性、そしてなによりも本来的か否かという存在論に根ざしているからではないか。

ホーリー・バイブルというタイトルのこのアルバムのジャケット写真は、
白人で短髪の以上に肥満体の女の姿である。
マリアでもアンナでもソフィアでもアテナでもない、もはやイアソンの妻メディアでも大地母神でもなく再生をつかさどるイシスでもない、そこに描かれた欧米社会の病理的日常はこの白人の肥満した醜さに収斂される。
歌詞で用いられる痩身な女性が原因である消費社会を暴くのに対して、カバージャケットが示すのは、結果としての現在の欧米社会の病理のように思える。まったくありかたは別だが帝国主義ヨーロッパの罪悪の告発の仕方は、どこかジョルジュ・ルオーのようでもある。

リッチーが不在の瞬間からマニックスは、感性による表現よりももっと人為的混沌を暴こうとしているのところがある。だから実のところ、YOU LOVE USやモータウン・ジャンクなどの曲が「素晴らしくうまい演奏で」ライブで聞くことはリッチーを知っているものならば辛い。
三人のマニックスには、三人しかいないのだという自覚の中で活動してほしい。最新のアルバムには、リッチーの詞が使われたという。それは重要な刻印だが、正きているものの奢り、死者の美化にならないことを願う。





Manic Street Preachers - P.C.P  Glastonbury
2014









9月18日の記事と関連して.

FASTERは階層間移動、文化遺産、再生産といった事柄とも関わる.
問題に気がついてしまえば、そのままではいられないが、そのことと同時に自らが属するカテゴリーも批判せざるをえなくなる。
・・・・

徹底したリアリストであるがゆえの問題点は、そうでない人から見れば単なる空想だとみなされることはままある。自己肯定不可能な問題意識を抱えているというのに、ナルシズムだと断言する。そういった無理解に対してどのように説明すればよいのだろうか。自分に無責任なものたちは他人の責任について攻撃するときは容赦ないように思われる。

現実を認識するが故に、それを本来的な方向へ戻すための困難さは常に張り付いている。

EVERYTHIG MUST GOについて書いたが、リッチー失踪以降の方向性は端的に表されている。escape from history 
歴史から目を離すことは、死者たちの記憶と記録からの忘却である
マニックスはもちろん無責任ではないが、リッチーなきあとのマニックスは、死者たちか一歩引くことで、悲痛さの体現から距離をおき、POPとの共存を果たした・・・ように思えることがある。

それだけにFasterのpvに残されている、リッチーの横顔と遠くを視る目は忘れることができない。
法的にも死者として宣告され、歌詞が遣われた新譜が出ても、「今ここにはいないリッチー・エドワーズ」には永遠に届かない。身体と精神がもっとも力を失っているときに、決まって突きつけられる言葉は「尊大とか傲慢」というものであることが多いのだから・・・

誰からも理解されないであろうし、誰とも対話できないであろうという思いは、現実に存在する。思いだけでなく、それはリアルなものとして存在する。

再生産―教育・社会・文化 (ブルデューライブラリー)再生産―教育・社会・文化 (ブルデューライブラリー)
著者:ピエール ブルデュー
藤原書店(1991-04)
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身辺が忙しない状態です。仕事でも学校訪問をすることが多いのですが、私的にも訪問をする機会が今年は多く。
私学は建学の精神という理念が(どれぐらい実践されているかどうか、また子どもだけでなく教師・大人側がそれを理解し実行しているかどうかはさておき。大抵はそういったものは繕うことはできず、日頃からの顕れとして目にみえるわけですが・・・・)あるのでそれに合う・合わないという問題はありますが、今回はそういう傾向性の話はしません。
本来は教育というもの自体に傾向性は関わらないのですが、日本のように価値が錯綜している社会ではそれすら一貫した価値はない。
そのことが、更に、公立のアイデンティティを曖昧にしているため、その教育の場を視ると、様々な疑問が浮かぶ。
学校がイニシアチブをもっていない公立が増えた。

近年思うことは、「教師は家庭以外に子どもが日常的にしかも長時間影響与える大人であり社会規範の一つの例である」ということを忘れているのかそもそも理解していないのかのどちらかなのではないか、ということである。
実際に現場に関わる人の意見を聞くと50代の教員はほとんど担任をもつ意欲もない、60才で定年だがそれでは年金支給まで生活できないので、給与を減らしてその職にあり続ける人が増えたため、結果的に新しい教員採用というのは減っている、というのである。図書館勤務なども、数年で退職だから問題なくその年月を「過ごしたい」という職員が多い。学校がそういった単なる「過ごすだけの場所」「創造のための時間と空間ではなく、消費されるための時間」ならば・・・・大抵は時間の無駄、拘束時間が長いだけの空間になる。50分のうち、教科書に基づいて行われる授業が行われるのはほんの10分-15分程度にすぎないのではないか?

そうでなくても、文字を読まず、書かないということがとても増えている。
言語による知識と情報の獲得、聞く、読むという能力とそれを言語化して理解すること、言語化してノートをとることといった作業がほとんど行われていない。教科書はほとんど絵で解説してあり、文章による記述はほとんどない。こうしたテキストは自主学習をも妨げる。おそらく、文科省自体に深く関わる人たちとその子どもたちは義務教育(強制教育)には関わりない学校、カリキュラムを選択するから、それを自分たちで選ばない人たち(階層)のこどもたちなどどうでもよいのだろう。そう思えてくるような教科書である。教科書をより視覚化したデジタル教科書という案もでているようだが、これは単にいわゆる「教育産業」が「ビジネス」のために発案しているだけのように思える。私は公立私立の小中学校でいまや調べ学習と称してほぼ何かを調べる際にウィキベディアを利用してるような事態を憂慮する。だいたい、大学では「いかにネットの情報が信頼性に欠けるか」ということが重視されているのにもかかわらず、おそらくこうした現状を理解できていない小中高の現場では、安易にネットの情報で「調べ学習・総合学習」を行っているし、モニターを使って説明と雑談の中間のような授業を行っているために教員も生徒もほぼ文字を書いたり読んだりしない学習が行われている。

さらにいうならば小学校時代の授業で「同じです」と全員が口をそろえて「答え」に同調するのも隠れたカリキュラムである。規律を重んじることと、じっとして何も能動的に行動しないことを強いることは別の問題である。

自らが時間の浪費的な授業しか受けたことがない教員にとっては50分や3年といった時間がどのくらいの量と情報量と思考のきっかけとしての知的関心の機会を提供できるかどうかなどわからないのだろうか。

さらに顕著なのは差別的発言、隠れたカリキュラムであるはずの(それ自体も問題だが)ジェンダーとヘゲモニー構造そのものといった授業内でのやりとり、社会と個人との接点、そういったものが多くの教師から欠落している。そういった場面を見ると疲弊する。学校による差異は大きい、同じ市内であっても、かなりの差がある。・・・モラルの問題に本来は敏感なはずの10代前半の機関、多数の中心を平均とする「協調性」というものがもし大切にされた場合、広い意味では良くないことや規範が、ローカルルールのような価値感となり、さらには今の子供特有の同調プレッシャーを生み出すとき、集団性がとくに強調される義務教育はどういった空間になるかはほとんど構成員次第といった面がある・・・
家庭と学校の境界が曖昧になることは必ずしもよい結果を生まない。
子育てと教育は異なる、という大前提すら理解していない人が多い。

・・・・

高等学校無償化に意義を唱えるひとが多いが、高校まで義務教育でないのは日本くらいのものである。義務教育が中学までである現状で果たしてその修了後にでは自立していけるのか?それが困難であるとすれば、制度として欠陥があることを意味する。
(公立高校無償化に対して私立高校は反発しているがその理由は理解できる。だが各家庭にではなく学校に支給するという制度も問題がある。現行の制度も、「学校を通じて」補助を申請する必要があったために、学校によってはほとんどそのことを家庭・生徒に通達していないところも多かった。またこうした制度の変更が、移行期間を設けずに、突然廃止したりすることは、各家庭の教育資金の計画、進学とライフプランの計画にも悪影響を及ぼす。おそらく制度自体を決めている人たち(行政と地方議員、校長会)などにとっては他人事の意識が無意識に強いのだろう。権限を持つ人たちが基本的にこうした意識を持っていたり配慮するのは自分たちよりも「上」に属する組織の顔色だったりすることをよく目にする。・・・

本来、教育(education)は「家(私人)」権利として確立することが目指されてきたのだが、最近では、それすらも自分たちでは背負いたい、責任をとりたくない、他人(学校)にまかせたいという他者依存的な態度に移行している。・・・・

多くのギャップの一つは、学歴という社会身分があるにもかかわらず、そしてその学校ごとの本当の能力を示すような資格はない(旧制の試験では、フランスのように高校卒業資格は国家試験であり、大学入学資格でもあった。)ことだろう。偏差値を持ち出すのは物事を単純化するのであまり好ましいことではないが、例えば高校中退といっても偏差値が75の人と40未満の人では一概にはいえないだろう。(高校受験の偏差値を口出す人もいるが、母体によって異なるので大抵首都圏レベルの偏差と県レベルでは15-20の開きがある)こうした一概にはいえないことを、なんでも一口で片付けたがる傾向はとても合理的とはいえない。新卒しか採用しないといったような問題も本質は同じである。この問題の本質はどこにあるかといえば、日本企業の体質・体制そのものである。就職試験の再に再び中学受験で問うような問題が課されるのも、同様の問題があるだろうし、それを率先して導入している、というよりも「試験を作る会社」が介入しているからである。

時折、一貫校などの校長が「最近では就職の際の人事の人は、一貫生であるかどうかを重視していることが多いように想います」なとど、あまり詳細な根拠も用いずに、保護者に講演することがある。こうした態度をあまり問題意識もなく表明することに疑問を持つことがある。なぜなら、自校の教育内容よりも将来に対する漠然とした不安を増長することに安易に繋げて語るからだ。

質的な問題と物質還元できない価値を、所有・売買(金銭の問題)に還元してしまうことが不合理のもとを生んでいる。私はロールズ的公正の立場に賛同するが、多くの人は「自らも同じ体験をしなくては何も理解できない。自らがうまくやれた場合には何も問題がないように思い、問題意識も抱かない」ということが教育関係者の中にも随分いることだ。

自分が関わった問題すらも、自分たちの問題とは捉えられないのが社会問題のほとんどすべてに共通する問題なのだが、多くの人が他者(自分のこどもであっても)報復的心理(自分がした苦労はそのまま誰もがするべきである)に基づいていることが多い。経験が活かされないとはこういうことの連鎖に拠っていると思わざるをえない。

優れた教育というものが常に私性と客観性を持ちながらも、他人事の意識を持たず、「私たち/自分たち」の問題、つまり「私」「家」「個人」の問題から複数人称を持つことが必要条件である・・・

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雰囲気というものがこれほどもてはやされること事態、消費社会と記号化、マスメディアによる影響であるとボードリヤールはかつて書いたが、現代ではあらゆる「雰囲気」によって真偽が定まっていくという「雰囲気」があるように思われる。

脳死は初めから「ヒトの死」ではなかった。アメリカでは臓器移植は合法的なものとされてきた。何かあらかじめ「イメージ」として良いもの、として浸透していくとき新たな間違いが進展していることが多い。

最初に認識しておくべきなのは、人間が生命を維持する装置は莫大な経費を必要とする。そこでそうした装置の経費を支える人間の負担が、生命維持装置の経費を支えられなくなる事態がしばしば生じてきた。この問題と平行して臓器移植の技術が進み、「合理化」するために「脳死判定」をめぐる議論は生じた。初めから「脳死」という概念は「費用」という金銭的な問題と絡んでいるのである。

唯脳論などが読まれている日本ではもう人間=脳とでもいいたげな風潮が浸透している。しかし脳はたしかに人間の肉体的・精神的な部分においてもっとも関連している部分ではあるが、一つの器官である。生命と生物は、物質だけで構成されているのではない。

高額な費用を提示され、世間的な風潮と医者という「権威」が[臓器移殖]を提案したとき、それを拒否できるような選択がのこされなくなるのではなか。たとえ脳死を認めても、臓器移植を死体損壊ではないという根拠はなにか。他利がある、という理由はいくらでもできるだろう。医者が善さに基づいているとどういう基準で考えられるだろうか。むしろ目的論的ではないのか。誰に優先権が与えられるかという問題もある。

また長寿は、心身ともに自律自立できる状態でないのに用いるべきではない。単に生きる年数を増やすことにどれだけの意味があるのか。
高齢化社会とは、逆にいえば、若年層の生活場面を奪っていくことを意味する。親の面倒をみていては自分の自由が奪われることを望まないひとびとが介護を行政に(限度なく)求めるだろう。何でも自分の思うとおりにならなければ気がすまない世代というのが存在するのだ。何でも背負い込むのは問題である。だからといって、何でも他人を頼りにするというのはどうなのか。

ところで日本は低所得でも税負担が他国にくらべて多く、高所得層ほど負担が軽いのである。これは統計上現れている問題である。中間層はどの国に比べても負担が高い。だから産経(ネットや携帯のニュースはほとんど産経が占めているので、ネットと携帯のニュースを情報源にしている人ほど操られやすいのだが・・・・)などがいうように、社会保障は財政を圧迫しているとか、低所得者は税金を払っていないというような話はあまり信憑性がない。ネットを使っていると「情報」で満たされているような錯覚を覚えるが、実際には「利用されやすい」情報ばかりで満たされていると思ったほうがよい。ポータルサイトの「主要」ニュースがどれほど「雑記事」で埋め尽くされていることか。




少子高齢化、と何でもひとくくりにして単純化するのはマスメディアの手法だが(なぜかといえば常に次数が限られているから、でもある。TVの場合は秒単位で作られるし、つねにヒトの興味をひいていなければならない。)
この問題は様々な世代とカテゴリーに当てはまる問題として考える必要がある。最も愚かしい「解決策」は自民党政権で優勢だった「女子の高等教育をやめろ」というもの。イギリスがなぜ近代国家として成功したかみてみればよい、イギリスは女子相続権を認めたからーたとえそれが家(オイコノミア)の保存の合理性が理由であってもー女子高等教育が実質的に成功している。これに対して、最悪なのは「男性ヘゲモニー」を支える「良妻賢母」を単に育てて体制保存だけを目的とするような考えである。知よりも対立を避け、考えることよりも情緒を重視する。しかしなにも情緒が大切なのは性別に関わるわけではない。知も人ならば必要なものなのである。知を得られない時、概してそれはうまれながらのもの、に還元されていく。性別、身分、人種、民族、肌の色、目の色、などなど・・・

近隣諸国でナショナリズム的な動きがもしあっても、別にそれにあわせて歩調をあわせて嫌悪感を強めることは、結局相手側のメディアに報道のネタを提供するだけである。自分がどうしたいか、よりも、相手にどうみえるか、どう理解されるか(誤解されないか)をもう少し気にかけるべきである。

なぜ問題視しているかというと、日本では高等教育においてすら倫理学が問題にされることが場合によっては全くないという状況が生まれているからである。最近は医師が訴訟を避けたいという理由から法医学・法学を学びなおすというような例は増えているようだが、倫理学に関心を寄せることはあまり聞かない。(逆に今まで知り合った人の中で、生死に接する機会が医師と同等であると思われる看護師の方は、生命倫理から死の問題、尊厳の問題などといったことから哲学や倫理学へ関心を寄せる人にはであうことがあるが) 更に問題だと思われるのは、医学が絶対視されたり、学術の最高位であるような錯覚を多数の人が抱くことは望ましくない。8月の読売新聞には「子供は親を選んで生まれてくる」といった、全く根拠のないない本が広告に掲載されていた。意図は明白である。こうした人の主張は、「奴隷が奴隷なのは、前世でそれが当然となるような行為をしたから/親の行いによってそれ相当の子が生まれる」といったうような根拠ない主張、因果応報といったような、自己肯定の補完にすらならならないような、意識のもとに展開されているからである。私が出版業界から離れたのはハウツー本や、ブームといったものを第一におき、真実かどうか、読者に事実の情報量を与えるよりも、売れるもの、部数を増やしたいという思惑が出版会全体を覆っているからでもあった。更にいえば、著者ですら、実際の著者ではないことが多いからである。編集者は、mail添付で原稿をやりとりするために、単に分業の斡旋をするだけであり、誰も原稿を読まないこともままある。大規模書店の店頭に並ぶのがそういった本である。


余談だが、手塚治虫の「火の鳥」(初読したのは小学生の頃で黎明編と未来編だった)で「脳髄だけ生きていて他の身体すべてが機械」という「おばあさん」がでてくる。美味しいスープだとそのサイボーグ化されたおばあさんは目が赤く光ってジュネに教える。死をおそれ、「死にたくない死にたくない」というこのおばあさんが望んだことは「脳髄」だけの生である

死とはなにか。肉体と精神とをめぐるこの問いは有史以来問われてきた。
ゼノンは哲学が「死に対する軽蔑」を教えてくれるという。この態度には共感するが、多くの人にとって、やはり生命を延ばすことに腐心することが命題となるのだろうか・・・・・

私は今でも、いわゆる機能主義者的な立場の人やその著作についての書き物をするとき、現代版の「異端審問」にかけられている気持ちになる。
「ロボットの心」の著者ははっきりと言っている。
次の著書あたりでサール的な何か物質と関与しない部分がある、精神という物質に還元できないものがあるという立場の人を一掃してしまいたいと。こうした言説が言論の立場から提示されることに戦慄する。
しかもこの著者の元所属していた国立大学とその学部の教職は私が子供を妊娠中に夫が依頼を断った大学と学部そのものであるのだから・・・
私は結果的に、何も・・・・役割を果たせなかったということのような気がしてくる。知と技術をどのほうこうに用いるべきかということが、この10年でさらに忘却され、目先の利潤に利用されそこなっただけなのだろうか。

絶望的に気持ちになるのはこの意味であり、なんか直接ものを言う機会でもまるで異端審問のような心持になるのはいまも変わらない。
わたしたちはプラトンが提示した問題をパラフレーズするだけではなく、自らの問題として引き受けなければならない。・・・・・・
死と生命、身体のその後についてはベルクソンが詳しく論じている。


P1080577


葉つき人参を8月に福島にいったときに道の駅(桧原湖ちかく)で購入し、そのときに作った料理の写真。
私はあまり(ほとんど)肉類をたべませんが、夫と娘の要望でつくったチキンソテーに添えたもの。
皮をむいてよつわりくらいにした人参をかぶくるらいに水、バター少量、さとう(私はてんさい糖をつかっています)、塩で水がすくなくなるまで煮るだけです。葉つき人参だと小さいので形がわかるのでよいですね。

P1080471

裏磐梯高原にいったときに8月にとったもの、夏休みがとれたとしても大抵はもうすすきがあるという。

すっかり体感温度が寒くなり、私にとっては肌寒いを超えて寒い状態です・・・
気温が30度を過ぎるとむしろ寒く感じます。風邪+不調のせいもあるのでしょうが。昨日は出張でした。
にこさんが心配で長時間でないにしろ留守番させるのはとても心配だったのですが、なにごともなく、容態も安定してきました。

8月の写真ばかりのせているのが、どこにも出かけていない証拠ですね・・・
ご飯もすこしずつ、数回にわけて食べています。悪化しないことを祈るばかりです。


P1080674

△週4日以上つくるお弁当。
(ペスクタリアンのカテゴリーにしているため...
なるべく野菜+魚のおかずもいれようとしていますが・・・ほっけ焼き(バターとオリーブオイルでソテー)と青梗菜とささげ菜、うすあげのお浸し。わかめご飯。>娘と夫用。
小風呂敷は濱文様の「すいかごろん」。綿シャンタン生地でお弁当を包むのに重宝です。数年前は歌舞伎座で季節ごとに買い揃えてましたが、近頃はときどきパルスステム(kinari)で扱ってます

三省堂でウフィッツィ美術館(ヴァザーリの回廊展)自画像画コレクションの割引券を配布しているようですね。私もこの展示は春から行きたいと思っていたのですが・・・デューラー展(国立西洋美術館)と同様・・・ー果たしていけるかどうか....? 

最近ライブドアのblogはデータが飛んでしまうことがしばしば。この記事もそのひとつです。

引き続き看病中です。木曜夜に具合が悪くなってから毎日点滴と注射に行っています>愛犬
炎症は治まってきたものの腫瘍そのものの大きさは変わらないので(超音波検査をしてみてもらっています)もう何日かしたら再度血液検査をする予定です。
内服の抗生物質はまだのめないのですが、ようやく少量ですがご飯(ウェットフード)も食べられ、何かとにかく食べられることが私としては一番嬉しいです。2週間持続する抗生物質の注射もしてもらいました。
血液検査の結果は炎症のほかはどれも異常はなくて、今年で19歳になるにこさんはそういう意味では健康なのだと思います。
P1080671
獣医師の先生も「ぱっと見は18歳にみえないですね」と。散歩していてもよくいわれます。どちらかといえば、こどもなのかもしれません。Kさんが家に来てから、子犬に戻っている(気持ちが)のかもしれませんねといってましたが当たっているように思います。

動物の場合の、人間換算した年齢というのもたとえば、の話であって・・・個体差はあると思います、人も同じかと思いますが結局はどうあろうとするかと環境と心身の融和的な事柄の総和が「外見」に顕れるのであって、(だから今商戦になっている「健康」や「アンチエイジング」なども例えば物質や成分を摂取すれば何か結果が得られるというのはあまり意味のない話では、と思いますね...。食べ物や水、行動と思考が選択の幅と結果の差異を生み出すことはあっても、何か成分に頼るというのは、他社依存的すぎる気がします。
結局のところは年齢云々ではないのだと感じます。個体はいつまでも個体であって・・・しかし生命は物質とともにしか在ることはできないのも確かであり、・・・それだけに何かできることはしなければと思いますし、同時に苦痛やリスクをおかしたくはないとも思います...

私自身のやることも溜まっているのですが、2時間まとまった時間もなかなかとるのは難しく、家族の(人間の)ことももちろんありますし、なかなか行動と時間を考えると、心身ともに厳しいものがあります...

夫がいうには「いつもいざとなったら完璧にやりとげるから大丈夫だろう」というのですが、普段から追い詰められた心境になっているので、「いざ」という状況を作り出したくないのです....大体、いざとなったら、とか期限内におわらないというようなことを避けるためになるべく自分では調整しているのであって、否応ない状況や絶対的危機状況をつくりだしたくないのです...。悲観的になってるのではなくて、自分の能力を考えるとどの程度のペースで進めれば適度か、ということが問題なのです。できないことをだれかのせいにしたり仕方ないと思いたくないし、出来ないという結果を事実にしたくないのです...
(それはにこさんにとってもそうです...)

少しずつよくなってきていると思うので、再発や悪化させないように慎重にしている状況です。ちょっとしたタイミングで食べたり食べなかったりする(食べないほうが多いのですが・・・・)のでなるべく目を配るようにしています。。。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2010091401000156.html
不況下なのに凶悪犯罪は減少 アメリカ 専門家は「謎」(東京新聞)

こうした記事の見出しと内容からは、凶悪犯罪は貧困と同時に語られるものとしての先入観のようなものがあり、その主体は「移民」「有色人種」「貧困・失業」といったような「レッテル貼り」的な見解がよく反映している。
もともとアメリカの新聞メディアの発展は、移民と少数コミュニティにニュースと連帯感(合衆国=帝国的に必要な)を保つツールとして発展した部分がある。これはシカゴ学派などで広く知られているものである。
新聞はもともとフランス19世紀に広く普及し言論の場として公共圏を形成した時代があるが、この時代の新聞購読料は今のような安価なー数千円といったようなものではない。(それすらも「高い」というのが現代的な感覚だろうが)こうした購読式の新聞の一部売りをはじめたのはアメリカであってそれこそが1ドル程度で購入できる情報メディアだったのだ。アメリカンポップアートと広告は切り離せないが初めからこうした経緯がある。

犯罪全体は貧困と関わりあうかもしれない。しかし貧困が凶悪犯罪のもとと考えるのはあまりに単純思考すぎる。どちらかといえば凶悪犯罪は、生活そのものには困らない、中産層の白人男性にみられるのであり何らかのフラストレーションがその過剰さのはけ口となることのほうが多いのではないか、こうした見方もまたレッテル貼りの部分があるが、重要なのは、本当に生活に困窮したら犯罪や逸脱というような行動には顕れにくい。だからこそ、ピエール・ブルデューが指摘したように、不況や失業といった問題には、現在何か行動できる余裕がある職にある者たちが他人事という意識を捨てて取り組むべきなのであり、本当に活力を失いつつある人に自力で何か変えてみろというのは、責任転嫁や無責任な物言いなのである。

とどのとまり、現在起こりつつある出来事はおそらく現況は15年前にあるのだ。世代間格差という言葉は、前の世代に準備される。そして運よく、その原因を作り出しながらも、恩恵に預かってきた者たちは、自分たちの生活しか考えようとしない。自分たちの預かった恩恵が前の世代によって準備されていた部分も、自分たちの実力であると勘違いする。

不況ということばの裏腹にある「好景気」という言葉のほうが不気味ですらある。不況はあるとしても同時多発的には興らない、原因は過去にある。

私がいつも奇妙に思うのは「市場」や「景気」といった実際には実体のないものを絶対的な「いきもの」のようにメディアや多くの人たちが語ることである。まるでホッブスのいうリヴァイアサンのような「景気」とはなにを指すのか。市場とは顔のない(みえない)投資家たち(要するに不労所得生活者)の気分によって左右されている。雇用されているひとたちはその顔いろ、数字の上下に一喜一憂する。メディアは、広告主である企業と投資家の気分と機嫌をそこなうようなニュースは報道しない。報道は隠すために、争点ではなく騒点を作り出すのである。
発言や演説がテキストとして全文掲載されるぶん、まだ新聞のほうがテレビよりは意味がある、とはいえる。(実際現在東京新聞を購読しているのだが)だが、こうした見解をそのまま報道してる限りにおいてはあまり差異はない。

中世は「神」が絶対化されていた。
現在それに変わる権威のようにあるのは「市場」と「景気」ではないだろうか、と感じることが多い。権威とは従わざるをえないように促す力である。
本当の支配とは、常に見える形にはないことが多い。
そして本当の支配力は、常に御しえるような、意にそぐわなければひきづりおろすことが可能な(メディアと世論を利用して)代表者を据えるのではないだろうか。

ところでもう一つの他者性とは、アメリカ社会でいうところの「有色人種」「移民」という言葉で語られるものが日本では「外国人参政権」などをめぐる意見で透けて見える。歴史的にいって合理的・多文化的で長く存続できた国家は「出自」を問題にはしない。逆に出自(階層・民族など)だけを価値として扱うようになったときその国家は零落する。すべてがそうだとはもちろんいわないが、何かの独自性を保つために、情緒的、感情的な主張ほど見苦しいものはないように思われる。

我々が認識しないとならなのは、よりやすくてよりよく、より多くを所有したい、買いたいという消費者の行動がすべての雇用を狭くしている部分があるということだ。効率化とは多くの場合に人件費の節約になることを考えてみればよい。本当に人の手が必要なところに携わっている仕事の賃金がどれほど低いかを考えてみればよい。私が非アリストテレス主義なのは、自らは動かずに他を動かす最高存在をモデルとするヒエラルキー的な社会構造が善いとは思えないからでもある。大企業ー下請けという構造も、設計と製造は別という考え方もまたそういう理論に基づいている。こうした構造から利益だけを多くの人が求めようとすれば、おのずと切り捨てられる層が増えるだろう。しかし重要ななのはその層もまた自らはなにもせずに何か利益だけ得られればよいとう考えと行動にある限りはなにもかわらないだろうということなのだ。ペシミスティックになってはいけないのだろうが、楽観的にもなれない。

自分の足元(状況)をよく確認することが重要だが、それと同時にその逆の方向へも「振り向かなければ」ならないのではないだろうか。

「常識」とは何かそのままで誰かにとって「利点」があるから利用されている部分がある。だから常識は「保存」される。なぜか日本ではそれは「慣習」とはいわない。コモンセンスではなく、「世間の常識」などと語られる。
「政治と金」などとトピックがたつが、私はその問題点は本当は「行政と金」の問題のすり替えなのではないかと思うことがある。
なぜかというならば、官僚制とは形と時代を変えた「貴族制」の面があるからだ。特に上述したような「自らはなるべく動かずに他を動かすような」構造の場合は。日本ではフランス革命時の第三身分は「平民」だと教科書的には書いてある。だが実際には、第三身分は「平民=一般市民」ではない。王の役人の層である。こうして歴史を「考える」科目でなく、記憶させ意味自体を問わない科目にしているカリキュラム自体が、恣意的ですらある。

P1080659

暑さが落ち着いてきてからモダンローズとイングリッシュローズは夏に伸びるような新芽が盛んにのびているように思います。暑すぎるとむしろ植物も成長しないのでしょう。屋久島の杉も枯れているとか、水ならなどの木も暑さが原因でダメージを受けているようですね...
写真は最近はよくつぼみがついている黄色いモダンローズ、名前はわかりません(なぜなら鉢ごと「要らない」といって実父から渡されたものだからです。枯れかけていたバラですがいまではかなり大きくなりました。)

P1080673

ヴァニティ(1階)のフレームの絵も変えました。ポンペイ展で買ったの古代フレスコ画の一部。ヴァニティの壁紙はモリスです。浦和美術館でモリス展があるとか・・・heysel様から招待券を頂き知りました。

先週からずっとにこさんの看病中です。連日点滴と注射に朝いちで行っています。日曜日も午前中診察してくれる動物病院なのです。今日も朝行ってきました。(夫に車を出してもらっています)点滴と抗生物質、ビタミン剤の注射を続けています。木曜は前足の麻痺(昨年夏もおなじような症状になり、そのときはステロイドを使いましたが今回は炎症があるのでステロイドは使えず、それも心配でした)でも麻痺はよくなり、とてもゆっくりですが散歩にもいけるようになりました。途中で抱っこして帰ってくることも多いですが....
食べ物も少しですが食べられようになってきたのですが、やはり吐いてしまうこともあり、しかもまだ普通のドックフード(ウェット)は食べられず。獣医さんが何度もためしてもやはりだめなので、内服薬を飲ませるのをどうしようと困り果てています。もう食べられるものなら何でも少量でもたべないと抗生物質の抵抗にもよわくなると自分自身の身体を攻撃してしまうようになり血液が凝固してしまうような危険があるということで・・・・獣医師の先生も私もかなり必死です.....あれこれ試案してはためしにやってみることの繰り返し。
少しずつよくなってくれることを願うばかりです。しかし日々も経過しているのでだんだんやるべきことも日数も追い込まれていく状態になっています。しかし時間的、行動などすべてに余裕を感じたことがない・・・のですがあまり外に出すのも嫌なので内に溜めてしまうのですね....

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にこさん、歩ける+水がのめるようになりました。

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三省堂にはアガンベンの棚があり「言葉と死」も店頭にあったそうです。
私の代わりに日曜に都内に出た夫が古書のプラトン書簡集を買ってきたようです..

私自身も読まなければならない資料や作るファイルも山積しているのですが何もできていない。家事的な雑事やら娘の弁当作り、義理父に届ける料理などしかできていない。
常日頃から何をやっても「何も終わってない、何もできていない」という焦燥感に包まれるのですが・・・義務的な最低限のことしかできなくても1日の時間が足りません。もっと有限さ、に自らが納得できればよいのでしょうが...

看病が主な内容なのですがふらりとこのページに来てしまった方には意味がない内容でしょうから、タイトルと写真は薔薇と美術関係にしてみました...一言でいうと、色々な意味で消耗中です。


午前中病院へいき点滴、注射と治療をつづけています...
すこしでも快方に向かっていると、想いたい...
目の力も2日前はほとんど皆無だったのですが今は、ちゃんと周囲を認識してるようです。水も自力で飲めます。食事はまだまだ多難ですが。

9月は忙しい...ので出張のときなどは実家でにこさんを預かってもらう予定だったのですが、具合が悪くなったら面倒みたくないようで...どうもいつもそうなのですが、私は両親とはまったく考えも価値観もあわないというのもあるのですが、実際私が中高生のときに即入院というような具合の悪さのときも(ヘルニア含む)あまり気にしないようなところもありますし、ようするに都合がわるくなると「動物なんだから自然にまかせるしかない」などというわけです。
しかし重要なのことは、ぺット化した動物は、自然状態ではないわけです・・・・
人間、飼い主ができること、判断し、適切な時期に適切な行動をとれるかどうかが鍵だと思うのです。

「自然」=「放置/なにもしないこと」ではない。
自然とは・・・・たとえばホフマンスタールが「魂のない自然」と「神聖な(人為的なものをこえたあるべき秩序としての自然」をわけたような差異が純然としたものとしての秩序として認識されるべきである。

それはよく日本人が好んで用いる意味での「自然」であり、「自分がよかれ」と思い込んで結果的によくない行動を選択していくときの「天にまかせる」ような行動原理なのです。
自分が、私が、そうした行動をとれているかどうか、というのは常に自問(自答できるほどの能力も充分ではない・・・)のレベルなのです。

両親はといえば、娘が乳児のときも一度も預かってくれたり何か手伝ってくれたりということはありませんでしたね...。仕事がどうしても忙しくかったり、私の体調が悪化したときも預かってくれたりおむつがえをしたりするのを全く嫌がらずにやってくれたのは義理の父だけでした。

多くの親や飼い主は、他者である生命を自分の所有物か代替可能なものと考えている。自己愛の裏返しのレベルか、他者と自己の境界も認識していない。そして、何かあったときには最善のことをするまえに「仕方ない」「命あるものはいつか死ぬから仕方がない」というのであり、「死ぬ前に好きなことを好きなだけすることが生きる意味だと思い込む」のである。そして「他人・他者のことなど考えても仕方がない」というのである。


人権のないところには動物の権利も確立しない。
アニマルライツ関係の活動をしている人に特有なのは、社会や法、政治、制度などにはまったく関心がないというひとが多い。選挙にもいかない、動物にしか関心がないから、というひともいる。
それは多少なりとも、動物は「人にものをいわないから」 その人が不愉快になるようなことを「発言しないから」 「生命を握っているのが自分である」という深層の驕りなのではないか、・・・と思うことがある。

自分の自由を妨げてくるかもしれない隣人と他者を思いやれるか受容できるかどうか、が問題なのである。自分の「気分」「快さ」がそういう人はやはりもっとも重要なのであって、他利的だと思っているだけで極めて利己的なのではないか・・・
(日本ではまだルソーが高く評価されるような場面があるが、ルソーほど、自分の気分のために何か主張していると思われる”思想家”はいない。彼は自分の子どもすべてを孤児院送りにした。自分の「思索」「思想」する時間を子供たちが邪魔するからという理由だったのだ。それで良心を癒すために自分では育てなかった子の「ために」かかれたのが「エミール」である。この本の冒頭にある「自然」という言葉の誤読はとくにドイツや日本で顕著なように思われる.....。思想というものが存在するなら行動も一致していなければならない。実践の中で問われなければならない・・・)これは私見なのだが、古代ー中世思想をみていると、ストア派−エピクロス派あたりまでの人間理性というのは、ヨーロッパ近代ではようやくエマニュエル・カントくらいでむしろ追いつく−古典古代の復興としての近代を通してーのであり、その後、自由という概念をそれこそ放埓や無秩序、個人の「自由」などという言葉の使い方によくあらわれている、権利の1人歩き、つまり義務と切り離された権利の氾濫が起きている現代では古典期ギリシアよりも人間理性や人間の思慮のレベルでは退行していると思われる部分がある。

今でもよく見られるのは、子どもが自分たち(親)に何か利益をもたらす存在であればその存在をみとめているが、もし少しでもそうでないときに義務を怠るようなことがあれば、それは子どもや他者にとっては条件付の生きる権利しか親から与えられないことになる。条件付けられた生命と存在根拠はおそらく自己肯定意識を真に持つことはできないのではないだろうか。

そういう親は「他人」の評価ばかり気にする。それは想定されているだけで実際にはいない「世間」であったりする。その人にとっての最善であるよりも、自分の評価に関わるかもしれない噂話レベルの価値判断であったりする。(そういう考えはあまりにも浸透していて、他人と比べても意味はない、と促すと驚く子どもや人も多いのです)


日本ではとくに社会と世間の差異も問題にしない。

何かを語るときに「みんなそうだ」 「みんな同じだ」と日本では言うことが多い。
しかしイタリアでは「考えてもみて下さい」という。
考えることと問うこと、それを共有すること、対話すること。

無条件の同意や同感は思考停止と吾関せずの態度しか生まない。


「みんな同じだ」ということが何を意味するのか。それは協調ですらない。
曖昧な共感で繋がる他者排除の感情の澱みにしかならないのではないか。



「自分がしたいだけの手伝いをする」
「自分がしたいだけのボランティアであって、本当に何かの助けになる行動をしたいわけではない」 
「自分の欲求をまず満たすことが一番」という行動原理は私には理解できない。しかしそういう人は「親切で善人」としてみられたい、のでしょう・・・

しかし自分ではなにもせず回りが動くことを期待する人々というのは・・・
周りの人間をあらゆる意味で生き難くする、と思います。
こうしたことを暗黙のうちにとどめていられないのが更に自己嫌悪ですが・・・ 


歴史を見ると権力と支配の記録だが・・・
そのために存在を消されたもののは記録からも記憶からも遠ざかる。

しかしおそらくは、絶やそうとしても、そうしたものが永劫に駆逐されるわけではない・・・ これは願望でも展望でもなく、おそらくは血肉と場所を追われた存在の系譜は、細い水脈のようなものだけで繋がっているのだろう。・・・ 現在ではそれは、「再生産」を疑わずに受けれるものと問い続けるものとの差異となって顕れるのかもしれない。

テーマが好きな海外ドラマ、ということですが、好きなというよりもよくできている海外ドラマということで「ROME」(ローマ)です。
演技がシェイクスピア演劇の方が多いらしく演劇的ドラマが成立している「ドラマ」(ジャンルとしての)だと思います。
キケロや大カトー、元老院内の描写がよかったのと市民、奴隷、解放奴隷というような身分制、ローマ的家父長制、タウロボリウムの儀式などのローマ多宗教状態などがよくあらわされていたように思います。もっとも何度か書いているように実際はもう少しストア派的なものがあったと思うのですが。アウグストゥスの幼少時代にギリシア哲学の影響を受けているのが描写されているのがよかった。
しかしマエケナスなどを出すなら、ウェルギリウスやホーラティウスなどローマ金時代のことも扱ってもよかったかもしれません。それだと視聴者は面白く感じないのかもしれませんが。

ドラマというのは連続性、テレビ・マスメディアの特徴である連続性がもっとも誇張されたジャンルである。
ですから私のように常に切断、分断されている人間にとってはあまり縁や親しみが感じられるものではないのです。
ピエール・ブルデューが指摘するように、テレビ、マスメディア、そして連続ドラマはなによりも連続性をもつ。そしてなによりも人々をそれによってひきつけておくことが求められる。映画との違いはそこだろうと思う。分断された連続性という特徴をもちながら、「あの番組見た?」ということで「話題」を「連帯しておく」こと、それを共有しない、したがらない人に対しては何も話題がないような状態、・・・つまり本当は人が共有するべき話題を阻害しておくこと、・・・・それがおそらく特に日本のテレビドラマの特徴である。

海外ドラマという枠組みも曖昧だが、演劇的ドラマによって成立していたり、日常と非日常の境界の描写、歴史的枠組みという舞台装置が整えられている場合、「海外ドラマ」と呼べるのではないだろうか。
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お返事など滞っております、前回記事をupした翌日からnicoさんの具合が悪く看病中です。私自身も熱があるんですが...ようやく自力で水を飲めるようになった程度。弱っております。
動物病院の先生はいつもよく診てくださいます。
9月-10月末まで仕事、出張、締め切り、試験....(+看病・通院)と重なっていますがなんとかきりぬけられたらよいとおもいます。

写真は新しくついた庭のオリーブの実。

(たしか台風が来る前に撮ったもの)


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「写真は「フィレンツェ・ルネサンス 6 」(NHK出版)より」
フィレンツェ・バルジェッロ国立博物館1階にあるジャンボローニャ(ジョバニ・ダ・ボローニャ)のメルクリウス/ヘルメス/マーキュリー。
知と俊敏の神としてのシンボルはバレエのポーズでもよく用いられます。
ウェア・モアのレッスンウェアについて記事をかいたことがありますが、マーティもお薦めです。レナウンが素材にこだわり、シンプルながら動きを見せやすいデザインではないかと。なにより価格も手ごろ。クロスバックのウェアが着やすい・動きやすいみたいですね。
新しいマーティのカタログにも、モダンキャミソールのレッスンウェアの写真がこのヘルメス・メルクリウスのポージングが使われているのです。
因みに小さい作品ですが、ジャンボローニャの作品は9月末まで上野で開催されている「ナポリ・カポディモンテ美術展」にも展示されています。)


DSCN0307

写真は以前記事にも書いた、バルジェッロ・国立博物館の一階回廊から2階ギャラリーへ向かう途中の階段と壁。この先にドナテッロの間(謁見の間)があります。1階にジャンボローニャ、ミケランジェロ、他にベロッキオのダビデもここに。フィレンツェに行ったら、バルジェッロとサンタ・マリア・ノヴェッラ教会を訪れるべき。

夏は多忙なので服を買う時間もなく・・・MANOの店は日本橋とお台場だけなので、こちらもwebで注文しました。こういうとき、webは便利だと感じます。なかなか、必要なものをそろえるのに店に出向く時間もとれません・・・。マーノ(mano)もマーティ(marty)も同じレナウンなので素材とデザイン(シンプルすぎない)に共通のこだわりがあるように感じました。)

どうもPCが不調で、この記事も一度書いたのにすべて消えてしまい、blogのバックアップの機能しませんでした。


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もようがえ・・・というほどのことではないのですが、玄関ホールの写真を。
ローラのクリフトン(コンソール)、メリーソートのチーキー(リンダマリンズ/チャリティベア)

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おなじくフレームとデコールを変えました。
カレンダーは、ドメニコ・ギルランダイオのフレスコの一部。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会にあるフレスコでたしかルクレツィア・メディチが描かれているもの。香水瓶とカーテン(ロールスクリーン)はローラです。

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玄関にはずっとコッポラさんの写真を飾ってます。

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夏からの多忙状態のまま・・・片付けられていないリビング/書斎とにこさん。ニコはnicoでニコライとかニコラウスとかニコルのにこです。にこちゃんマークのにこが由来ではありませぬ...。(家族も由来はしらないようだ)

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にこさん。写真のために止まってくれることがふえたような。
ラグはローラのバロック。このラグは色調が気に入ってます。

多忙と不調が重なっているので、あまり、というかほとんど展示や企画展などの記事がないですね...9月を過ぎるとさらにその傾向が強くなりそうです....

控えめに表現しても、色々と自分の限度・限界・無知加減を思い知らされます。