1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

August 2010

きのこのマリネは白ワインにもスパークリングワインにも合う料理です。もちろんペリエにも。

kinoko

三種類以上のきのこ+乾燥ボルチーニを使います。
マッシュルーム、ぶなしめじ、エリンギでもいいですし、和食にあわせるならしめじ、しいたけ、エリンギでもよいですし、まいたけ、ぶなシメジ、しいたけでもいいですね。一口大かつかみごたえも考慮してやや大きめに切るとよいと思います。ただし乾燥ボルチーニは水で戻して細かく切ります。
少量でも味が深まり、白ワインにはあう味わいに。
お好みで鷹のつめをいれてもよいです。オリーブオイルで炒め、たまねぎのスライスを入れて(好みでたまねぎ半分程度を薄切りにしたもの)、あとは天然塩をふります。私はゲランドの塩を使っています。

簡単にできて美味しい一品です。グリーンサラダをあわせて美味しいライ麦パンとチーズなどで適量のワインを飲める一品ではないでしょうか。
ビールやハイボールでも美味しいかもしれません。ドライいちじくとチーズなどもあると赤ワインもでも合いそうです。
きのこすきなのでパスタソース、シチュー、炊き込み御飯、ピラフ、カレーなどにも必ずといっていいほどきのこを使いますが、きのこだけのマリネは簡単にできるのでおすすめです。


ずっとPCや文献にむかっていると一品理料理的、オードブル的な料理をつくりたくなります。白ワインはパルシステムの勝沼の白ワイン(ドライ)や酸化防止剤無添加のスパークリングワイン、ドライのロゼスパークリングワインが合うとおもいます。

都市と農村という言葉があったといる。そのとき多くの人が繋がりをもつものとして「都市」を選ぶはずだ。しかしそれはどこかねじれている認識である。

都市と農村はそもそもの役割が異なる。だから都市のような農村がふえてしまことは、都市にとっても農村によってもよくない。
農村としう言葉がどこかアンニュイなイメージがあるならば、それは「田園」である。都市は交換の空間、田園はそういったものから距離をおき、田園ならではの豊かさをもっていたのである。

こうした観点が日本の強制からは脱落している。
プロイセンドイツを見本にしたところで、プロイセンは農作物や生産がなりたたたない土壌だったのだ。農業が可能な土地というものは計り知れない価値がある。だからもっとも危惧すべきなのはスプロール開発である。
無計画に利便性とニーズにこたえる。
都市の類似周辺部をいくら拡大してもよさは保持できない。
人は生産力を内側に有してるべきである。

農業・生産が自然環境によってある程度達成できるのはとても重要なことである。この根本邸な意味を多数の人が認識すべきであろうと思う。
もはやあらゆる購買動機にはそういった副次的、あるいは本来的な選択をせざるをえない。企業は履歴中心から、意味と価値との浸透、価値の多様化、人々の臆見に拠り過ぎない判断が求められていると感じるのである。

忘れられていること。
それは、よさ(good)とは、十分自足的であること。
原料を買い付け、商品を売り、食料を買う。
このシステムが、すべて肯定できるほど持続可能なシステムではないだろうことはすでに多くの人が知っているか気がついている。

フランスの自給率は80%を超えている。
工業化とは、資源と耕作による収穫の見込みがひくい場合のみちのことであって、あらゆる国が「アメリカ」のようにテイクオフしなければならいわけではない。

日本は住み替え文化が定着していないため、住居も「消費物」的です。(住居に消費税が課されるのもそのせいでしょう)。住宅関連で「お客様の要望にあわせた自由設計」を商品として打ち出す会社も多いですが、果たしてそうした要望にあわせることが、住宅・住まい・建築としてよいことなのかどうか、といえば私の結論は否でした。私が住んだ家はどれも施主の自由設計に基づいた家でした。在来建築の自由設計、そして某大手建築会社の自由設計の家。どちらにもいえることは、建築主の「要望」を満たす家というのは、結局のところ、時間や家族構成が変化したときにはまったく「不便」かつ「不満」が残る一時的な形なのです。
様式は確かにそれに生活をある程度あわせる必要がありますが、それは何百年か残っているものなのです。それは、どの時代でもどのような人にも対応できるという意味を表します。ある程度人のほうが様式に合わせたほうが、ある生活の秩序にもとづいて暮らしたほうが結局のところ、不満がないのです。私が重視したのは、「飽きがこないデザイン、構造、空間」でした。そうしていくうちに、古典様式に近づいていったのだと想います。シンメトリー構造とプライベートとパブリックの空間を分けることは、つきつめて考えていけば、あるモデル・規範をもとにして、収納やキッチンなどを多少アレンジすることに落ちつきました。

家を計画しているときに、よく聞かれたのが、「何DLK」とか「何坪」といったような数に基づく価値判断でしたが、これはまったく住まいに関しては意味のない概念です。在来の建築会社などではモデルプランを聞く際に最初から上のようなことを聞いてくる営業の方がいます。結局のところこれらの数字上の意味は、空間をどのくらい区分けるかしか意味しません。大切なのは部屋数ではないです。ライフスタイル自体を考慮して、しかもある様式に基づくほうが失敗がありません。

便利さ、利便性などを基準にしても、設備はつねに新しくなるものですし、いずれは壊れます。ですから機能性だけを追い求めたり、流行の設備をいれてもすぐに「古く」なるのです。
新品のときだけ「よく」みえるものは、寿命が短い。
時間が経過したときのことを考慮して、表面的なことに重点をおかないことです。

輸入住宅と輸入風住宅の違いも大切です。
仕上げだけを輸入品にしているのは意味がありません。
在来と最も違うところは空間の概念だと思います。廊下やドアの基準が在来だと狭くなります。廊下ばかりだったり小さい空間の連続もあとから後悔します。

カント哲学などで、自然法という考えがありますが、この場合の様式と自然法は類似性を持っています。つまり、人為的なものはそれ以前にある秩序に従うほうがよい、ということです。一見それは不自由を連想させるかもしれません、しかし、一過性の利便性ほどすぐに価値がなくなるものはないように思います。具体的にいえば、「この部屋はお父さんの隠居したあとの部屋で書斎に使う、とか、この部屋はお母さんの趣味の部屋」とかそういう利便性です。特定の人の特定の行動を想定した家は、住みにくい、ということです。極端な例では、設計している段階と、家が完成した段階ではもうニーズが食い違っていることもあるのです。よかれと思ったことは、あくまでも臆見であって、そのときだけのことが多い。
自由設計をうたうメーカーが多いですが、こうした逆に変化に対応できないものは慎重に検討するほうがよいですし、モデルにそって多少変更するくらいのほうが費用の安く済みます。
結果的にジョージアン様式になりましたが、最初から古典様式を意図していたわけではなく、色々考慮していった結果ですが、今特に古典様式の建築物に惹かれることから顧みると、選択していったことの理由は最初からあったのだと思います。

最終的に階段という二階と一階の空間を繋ぐものをどこに置くかで迷ったのですが、空間の分離と調和、長く飽きずにいられ、他者にとっても落ち着く構造はどうかと考えていった結果部屋と階段は分離するということに落ち着きました。

様式は流行には左右されません。自宅に対しても客観視することが重要だと個人的な経験から思います。

本当の「自由」というのが個人の傾向性、好みによるものではない、ということを考えることが多いので、家と建築物についても記事にしてみました。
要望にこたえるということが最善ではない、ということは色々な面で重要だと想います。設計の段階で数値上の打ち合わせの前に、空間的なことをアドバイス頂きましたがそれはとても役立ちました。サービスというのは判断が充分できない人の要望をとりあえず満たすことではないのです。

日本のメーカー、会社が充分でないのは、そうした曖昧さ、いい加減さが、所詮「客」という他人事の意識に基づいていることが多いのだと思うことが多いのです。おそらくそれは施主のほうも、アドバイスを色々に受け入れる聞く耳がなければ提案しようがありません、自分の求めているもののイメージがあれば、専門家から的確なアドバイスが得られます。逆にそれがなければ、「何でもよい」「どうでもよい」のなら「どうでもよい」ものしかできないのです。

付け足しておくと、日本では家は資産として扱われますが、例えば重要な建築が多く今も古い住居がそのまま使われているイタリアでは、家は資産として計算されず、税の対象にもなりませんでした。ですから、建築にあれだけ費やすことができたのです。ストロッツィ宮、メディチ=リッカルディ宮など今も遺されている個人(有力者ですがこれらの家は封建領主ではなく、中産階級上層部です)の邸宅は本当に素晴らしいものです。
日本の住宅政策は戦後ずっとひどいものがありますし、日本の住居の酷さは英語コラムなどでも頻繁に登場するほどです。こうした構造のもとは何なのか。家を「立て替える」ということが産業の中心になっていること、つまり耐久性の低い家をたてること、家は20-30年で立て替えるのだという先入観を保ち続けることでしょう。そしてこれらでもっとも利益をえるのは、住宅ローンを扱う銀行と住宅メーカーではないでしょうか?
つまり、銀行と住宅の双方に会社をもっている大手資本がこのような構造を維持してきた一つの理由ではないでしょうか。

住むということは「食」よりも「衣」よりも重要なことで、そこの負担が重過ぎたり、課税の対象になっていることは、はたして「当たり前」のことなのでしょうか。

私が思うのは、選択する幅があるときに適当な選択をすることが「自由」の行使なのではないでしょうか。単なる「数値」の比較ではなく、「質」と照らし合わせる選択が重要なのではないでしょうか。



映画 パリ・オペラ座のすべて(原題 La Danse,le ballet de l’Opera de Paris)でも一部舞台映像が観られるジェニュス。
マチアス・エイマンが本当に素晴らしい。ル・パルクは奇跡的に日本で全幕上演ができた演目だが、ジェニュス、シーニュも上演されるとよい。だんだんとバレエ、舞台芸術、言語表現を隔てていた空間が以前よりは密接になってきている気がする。
日本は有と無の二つの極限を理解する客層がいないわけではない、どちらかといえば多いほうだろうと思う。言語を解さないバレエは実はもっとも言語的でもある。言語的であるということは、記号論を超えている。精神というものが物質を離れても存するということを説明なく直知できることは実は重要なのだと感じる。



同ジェニュスからドロテ・ジルベール

ダーウィン進化論をテーマにした(といわれる)ジェニュスだが、しかしそれは生成そのものにまで踏み込んでいる。実のところそのことを表現しようとしていること自体が、人間が進化論の枠内にとどまるものではないことを示しているのだ。そのことを一言の言葉も用いずにオペラ座のダンサーたちは表現する。この演目が上演される機会と映像作品としても残ることを期待している。

音楽や舞踏を記録するかいなか。
それはすで20世紀初頭から問われている問題だが、価値は遺されるべきだと私自身は思う。瞬間ごとに消えていくから永遠に根ざしているという美学を超えることが課されているように思う。

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裏磐梯へいったときの風景写真と料理の写真を。珍しく快晴となり散策もできました。

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五色沼。コバルトブルーの水の色が美しい。

なぜか福島へいくときはドイツ近現代のテーマを締め切りに抱えていて、歩きながらドイツの自然概念はどこから変容したのか、などと思いながら歩いてしまいます。私は都市では歩くのが速いですが、風景のある場所へいくと歩くのが遅い..ようです。眺めたり考えたりが多くなります。



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山の中でも33度程度ありました。でもこのくらいで丁度よく感じます。
夏は座って作業することが多いので、歩くことはかなり気分転換になります。排気ガスがないところで歩くのが好きです。
ただし長時間座っていることが多い日常のあとですから、膝の負担はかなり・・・。夏のトレッキングには、数年間にイシカワさんから誕生日に貰った靴をもっていきます。素足で履けるのでよいです。


何度かおとづれるたびに定休日に重なってしまっていた芳本茶寮さんで昼食。

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猪苗代名産のお蕎麦と会津郷土料理のわっぱ飯、精進揚げ、冷やし茶碗蒸しのセット。どれもできたてで美味しかったです。盛り付けも美しい。
わっぱ飯は鮭と山菜をよく混ぜてたべるようにというメモがついています。
色々なセットがありますが、これはお薦めできる組み合わせです。
わっぱ飯の山菜も美味しい。

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蕎麦好きを自称する娘が頼んだのはざる蕎麦と会津の郷土料理の祝言そばとてんぷらのセット。祝言蕎麦も美味しいです。だしが上品な味わい。

会津の料理はどれも味が濃くなく、素材の味を引き出しているので美味しいとおもうものが多いです。お値段も手ごろ。量も適量。(私は小食なほうではないのです、ただし仕事や日常の物事と密着している日常では、時間的余裕がないためにあまり食べられなくなります・・・。)

だからというわけではないですが、奈良や福島、沖縄など料理が美味しく、消費主義的でないところは好きです。やはり食というのは文化と密接なものですね。ただ食べればよいというものではなく、素材や盛り付け、味の調和などが重要だと感じます。

アッシジは生きているうちに行きたいと思う場所のひとつなのだが、ゲーテが「イタリア紀行」でフィレンツェやアッシジにはまったく惹かれない、むしろ敵対心すら抱いているのを読んだときには妙に納得してしまった。
おそらくトスカーナ以北と以南では「自然」の捉え方が異なるのだろう。

アッシジの聖フランチェスコは二つの意味で象徴的である。
一つ目には、彼の家が富裕な商人の家であり、彼はいうなれば稼業と父兄制度に抵抗した者であり、善き商人とキリスト教(カトリック)が相容れない時代であったことを意味する。
着ていたものを脱いで帰し、「親でもなければ子でもない」という場面は絵画でも描かれているが、およそ子どもが親の価値観を受継げないということはままあるのではないだろうか。修道院文化とはおそらく・・・戦士と騎士文化と、父兄制度に支えられた体制そのもの対する抵抗の諸形態であったのではないだろうか。などと考えてしまうのである。
こうしたことは私の無知によっていることは承知している。
だが、血縁と地縁を超えた価値観がローマのキケロから発して人文主義に受継がれるとき、価値の共有は場所と利害をこえてうけつがれるのである。

都内の歴史ある寺に菩提寺を持つのだから余計なことを考えてはいけないのかもしれない。しかし私はフランチェスと同様に実父に対しては同調できない。また、単なる先祖崇拝と体制維持だけを目的とする価値観もまた・・・違和感以上のものを感じるのである。
こうしたことを「思う」ことすら相応ではないのかもしれない。
だが、私はおそらく、もし存在し生存する価値があるとすれば単に「墓」を守ることだけを求められているのである。だが私としては、一者に帰還することを望んでいる。・・・幼少時の教育というのはやはり張り付いてはなれるものではない。私の周りにはやはり、家は仏教なのに教育はキリスト教のものを10年近く受けていた人が何人かいて、一様にギャップを感じている。

ルイス・ネイミアは晩年に改宗してようやく心の平安をえたと書いているがこうした経緯はよくわかる。逆にほとんどの場合は、内面の問題や理性の問題というものが「悩み」「苦悩」「葛藤」にはならない人が多い環境では口にはおよそだせない。
おそらくほとんどの日本人にとって理性と内面の問題はあまり問題にならないに違いない。だが、あきらかにそこにはギャップがある。・・・・・

なぜか生きているにもかかわらず、単に死に直面しているような心持に常に置かれるのである。もしくは、マニックスのジェイムスやニッキーが方っていたような「自分たちはすでに過去の遺骨ように感じる」という思われにとりつかれている。
しかも、納得いく死もまた容易には選択できない。
おそらく、古代自然哲学者がしたように、死を受け入れ、餓死による自然死を選ぶことしか遺されてはいないのだ、と感じるのである。

そもそも墓石の保存とその状態維持のために生きているのであれば、私はもう人ではない。人間性が残りつつも人格としてはほぼ無視される家庭環境というものにつねに置かれている。私は墓石よりも存在意味をもたない、単なる石以下のもののである。または、「やりたくないこと」を単に無償で引き受けるための存在である。
石でも生命はあることを考えると、私はもういないも同然である。モノを観る石のように、何か観たことを記録するのみである。・・・・・

マニックスの面々が、自分たちが過去の遺骨のように感じるというのには同調できる、常にするくらいである。がそれ以上に私にはイデオロギーと無関係なところで、まるで遺骨にしか感じられないことが多い。

ヨーロッパは常に戦い(戦士・騎士)の文化とそれと対立する教会(古典的哲学も一部は保存されてきた・絵画もまたそうである)との並存であった。現代の前者の文化はなにか。おそらくそれは産業化、商業化、市場の力とそれに疑問を持たず妄信し、所有消費し、他者の領域を支配する経済の力である。もはやこれと共存する文化の道はないようにも思われるのである。・・・こうした思いもまた思い過ごし、なのだろうか。

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諸橋近代美術館は裏磐梯・五色沼入り口近くにあるダリ作品を多く収蔵している美術館です。10年ほど前に一度行ったことがあるのですが来訪しました。10年前と変わらなく落ち着いて作品を観られ、10年前よりも収蔵作品も増え、とても見応えのある展示内容でした。
大型のダリ彫刻が広く明るい自然光に満ちた館内に飾られている。
展示室には絵画作品が並ぶ。
現在二つの企画展がありダリと印象派、ダリと偉人たちという展示がある。印象派のほうでは、ユトリロのモンパルナスとモンマルトルの二つの絵画、白の時代と色彩の時代の二つが並べられていた。ピサロの作品もある。

偉人たちのほうでは、ミケランジェロ・ブォナーローティの「奴隷」(ルーブル所蔵)を模した彫刻、マルシリオ・フィチーノが「肉体は魂の牢獄である」とした思想から影響を受けたミケランジェロ作品は製作途中の4体がアカデミア美術館(フィレンツェ)、完成形がルーブルにあるが、現代人はテクノロジーから呪縛されているという解釈のもと、彫像にはタイヤがはめ込まれている。ドナテッロのダヴィデ(バルジェッロ国立博物館・フィレンツェ)からインスパイアされたものもある。他にカノーヴァ作品からインスパイされたものもある。ダリは盛期ルネサンス期から影響を受けたがそのことがよく顕れている。模倣というよりもオマージュ的、しかもユーモアに満ちている。ダリは画家に独自に採点をしており、レオナルド、ラファエッロ、フェルメールなどに高い評価を与えている。逆に低いのはモネなど。こうした観点もまた面白いというか、納得できる。
いつも思うのだが、技術が不十分なことを「感性」「個性」という言葉ではぐらかす傾向は19世紀から顕著となる。
なんとなくわかる、という曖昧な感覚で他を捉えようとし、自己を表現しようとすることは・・・・実は誤解を深めるだけなのではないか、と思うことがある。感性を重視してマニエラな気質を軽んじるようなものは、結局のところ「形」をとどめることもできない。
印象派の絵画をじっと眺めるのが好きな人というのは、結局のところその作品に自分を見たいのだ。自己の感覚を循環するものは、認識もまた循環するだけである。しかし、精密に描かないはずの印象派絵画が、デジャヴに似た錯覚を与えることは詩的である。ほぼ一瞬だけ認知の中に捉えられるような色彩と光を描いている稀な作品もいくつかはある。写実表現よりもこれらが鮮烈な印象を持つとき、印象派というそもそもは揶揄をこえた呼称が、絵画と文化史の中で独自の価値が見出されるときである。


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彫刻が置かれている展示室には、窓が多い。
そこから見えるのは風景画のようでそれがこの美術館のほかにはない特徴でもある。

ミュージアム・ショップとカフェも併設。ニルギリ・ストレートティはポットで提供され、ブラッド・オレンジゼリーとのセットにもできる。コーヒーはトラジャコーヒーにこだわっていて、カフェだけの利用も可能。

スタッフの対応や館内外の環境もよいので、よくある地方の美術館というレベルを超えてお薦めできる美術館だと思う。
地方のこうした施設が行政管轄な故に役所的だったりして作品がかわいそうになることがあるのだが、ここの作品は幸せだなと感じる稀な美術館である。


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バラは八重のハマナス(写真)とアイスバーグ、ワイルドイブ(写真一番下)は返り咲いています。連日暑いにも関わらず咲いてくれています。


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ハマナスには大きめの赤いローズヒップもついてきています。


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イングリッシュ・ローズのワイルドイブ。
イングリッシュローズはティージングジョージアが枝を伸ばしています。ピエール・ド・ロンサールもシュートがでてきました。
6月から断続的に多忙で、消毒などはできていません。がそれほど虫や病気の被害もなく。ただ、バロン・ジロー・ド・ランは元気があまりありません...


私もタイトな日程+早起き続き、締め切りがあるものをこなしたりする日常です。寝込むほどの体調の悪さは3日くらいで済みましたが>先週
バラたちは暑さ日差しの強さの割には元気なのが救いかもしれません。


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おまけの写真。
日曜の昼に作ったボルチーニ茸とアスパラガス、ミディトマトのリゾット。
お米はパルシステムの予約米(庄内はえぬき・胚芽米)を使っています。麦をいれたりもします。ワイングラスはリーデル。ジノリのアンティコチェリーに盛り付けました。ジノリのお皿は好きです。

ドライトマトや乾燥ボルチーニがあるとリゾットはすぐに作れてよいですね。



猛暑ですがあえてこの話題を。クリスマスツリーを飾るのが好きな人は消費主義的、プレゼピオが好きな人は創造するのが好き(うまいヘタの程度はともかく)という記述がクレシェンツォの本にあり私もずっとそう思っていたので頷いてしまった。

私の知人・友人にはプレゼピオ派が多いように想います。そして大抵家族の中で、プレゼピオ派は少数孤立するようです。一般のラテン家庭では、娘や奥さんがツリー派で旦那さんがプレゼピオ派が多いらしい。私の知人友人では、奥さん・女性のほうがプレゼピオ派で、男の人のほうが消費主義的なようです。私もプレゼピオ派です。テレビも好きではありませんしね・・・・

私は食事も簡単なものでもよいから作って食べる、できあいの惣菜は買わない(買いたくない)、お菓子もあまり買わない・・・のですが、明らかに家族とは対立していたりします。添加物なども気にしているのは私が主ですし・・・健康状態(心身)はコントロールできる部分が大半ですし食事や水など少しのことを気をつけることが重要だと思っているのですが、・・・
私が多忙時でも「いざとなったら全部やるから大丈夫」といわれるのですが、やや微妙な心情になります。「いざ」という非常時が何をさしているのでしょう。

「お分かりのように、人類はプレゼーピオ派とクリスマスツリー派に分かれます。それというのも、世界は愛の世界と自由の世界に分かれるからです。(略)プレゼピーオ派とクリスマスツリー派への人類の区分ははななだ重要だから、私見では、それは身分証の上に、性別と血液型と一緒に併記すべきじゃなかろうか(略)クリスマスツリー派とプレゼピーオ派とでは価値基準がすっかり異なる。前者はスタイル、お金、パワーを重視するが、後者は愛と詩に優位を置いているのです。(略)二つのグループ同士の溝はとても深いから、お互いに意思疎通もできない。妻は夫がプレゼピーオを組み立てるのを見て、<どうしてウーピム(スーパー)へちゃんとした既製品を買いにいかないの?>と尋ねる。プレゼピーオの美しさは準備しているときとか、それを考えているときにもある。クリスマスツリー愛好者は消費主義者だが、逆にプレゼピーオ派は上手でも下手でも創造者になる」(「P.49) と続きます。

12月のフィレンツェに行ったときにプレゼピオの小さいものを買ってこようと思ったのに、同行者の賛同を得られずに買えなかったのが今も悔やまれます。どうも私は「形」を残したいのですが、私以外の人は「感覚的に満たされたい/費やしたい」のでしょう。節制して満ちたりるということが・・・・常に意思疎通できない部分があります。節度は充足させてくれるものだと私は思うのですが・・・こういう感覚を持つ私のほうが「いけない/煩わしい」のでしょうね。しかもこうしたことが対話できない。・・・・


私はプラトン主義ですが、やはり周囲にはヒエラルキー、カテゴリーを「無意識に」(この言葉は濫用しないほうがよいのですが)価値基準にしている人も多く。

どのように対話したらよいのか、迷うことが多々在ります。
しかも何か前提として、社会的立場が張り付いており、個人と個人の対話ということが成り立たない場合が多かったり、意見が非難と受取られたりすることも。そしてなにより「思い」を重視するために「気分」を損ねるような真実の情報をどう伝達すればよいのか、迷うのです。
理性は、おそらく人がおのずから意識しているほどには身についていないものなのでしょう。私たちの主観と客観はかならずしも平行線を保てていないのではないでしょうか。

私はおそらく1人だけで考える時間が足りていないのです。1人だけというよりも、言葉と文献とそれを共有するための対話を含んだ時間が。
一方で消費や気晴らし、気分の問題などを優先したい人にとっては私は「いざ」とならなくても、存すること自体が望ましくないのではないか、と思うことが多いのです。なぜなら「充足」が「気分」に大きく左右される人の場合、真実や事実、義務や節制というようなこと、私が言動する際にどうしても顧みるもの、それがおそらく、大多数の人にとっては「不要」なものなのです。

感情の多くは、記憶と混ざり合うことで極端なものになる。
事実だけならばおそらく、人間はとりみだすことはない。
だが過去の記憶との比較、他人との比較、状況の比較などによって、本来ならばそれほど心の中を占めはしないものごとにすら、怒りや恐怖を抱くものなのでしょう。

多くの人は他者は自己を利するもの、としか捉えていないのでしょうか
自己の気分よく(不快を感じないですむような?)過ごせる時間のために他者や交流を求めるのでしょうか。一方通行的なそれらの思惑による行動原理があまり理解できません・・・・
いざとなったらということは、今そうなっても問題ないんだろうな、と仕事、調べ物などで外出中、駅なのでよく思います。利便性が理由で、また自分がやりたくないことをやる人を求めるという必要性(まさにアリストテレス的他者の必要性。”知者”が知者であるために実践者を必要とするという構造・・・)のみが根拠のように思います。
悲観的になっているわけではなく。私は誰でもない。目立つとか、存在感があるといわれることも多いですが、実際のところ、「影の薄さ」は相当だとは想います。

いうまでもなく他者とは家族も含みます。
家族間の価値観のギャップ、行動規範のギャップ、善悪のそもそものギャップなど・・・

(これがもっとも厄介なのかもしれませんが)



9月は忙しくなりそうです、今よりも・・・
どのくらい余裕がないかといえば、ケーブルテレビの月1の番組雑誌が送られてくるのに、6月、7月、8月、9月と一度も開封していません...

もちろん開封した月とて、番組を見ることはないのですが。
朝から夜中まで「やらねば」という義務命題に沿ったことしかする時間はありません。現代は余暇が出現した時代といわれますが、私の場合はそういうわけでもないのです。だから中世ー近代の間、または消費主義が蔓延していなかった古代の価値観のほうが理解できるのでしょうか。

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第9回プラトン・シンポジウム市民公開講座
アジア圏で初めて行われたプラトン・シンポジウムの後、公開講座が開かれました。
基調報告は首都大学東京・加藤信朗名誉教授、国際プラトン学会会長
報告1:納富信富・慶応義塾大学教授『ポリティア』の現代的意義

報告2:リヴィオ・ロセッティ・イタリア・ペルージア大学教授
「プラトンの『国家』論文ではない」

報告3:岩田靖夫・東北大学名誉教授「アリストテレスの政治思想の現代的意義ープラトンの『国家』の思想との対比において」

報告4:リュック・ブリッソン・フランス国立中央学術研究センター研究主任「プラトン『ポリティア』における女性」

報告5:佐々木毅・学習院大学教授(元東京大学総長)「20世紀政治の中のプラトンと『ポリティア』」

司会は三島輝夫・青山学院教授。総括の発言も行なわれた。

基調報告は加藤信朗氏。
8月2日から5日間行われたシンポジウムをもとに、「ポリティア(国家篇)」についてお話があった。プラトンの「ポリティア」は「ノモイ(法律)」と共にプラトンの圧倒的著書である。アリストテレス「政治学」の序論でもある。
現在の国際政治にどのような意義があるか。
日本にはどのような意味があるのか、我々と共有することは何か。
近現代ではプラトンの「ポリティア」はカール・ポパーからの批判に長い間さらされてきた。
日本では「国家篇」と訳されているのだが、ヨーロッパではレプブリカ(共和国)と訳されている。ラテン語訳が”De re Pubulica”に由来しているのに対して、日本の「国家篇」というタイトルはドイツ語版からもたらされたものをもとにしていることが指摘される。レジュメによればこのresについて「人間に関わること」を意味する。

レジュメで加藤教授がポリティアの価値についてこう記している。
「『ポリティア』(Politeia)は「人間の(人間としての)共同体」(he anthropine koinonia : human communiti)の「あり方」が「何であるか」、またさらに「何であるべきか」を論じた書物である。そして「人間の(人間としての)共同体」を結ぶ絆は特定の個人、または特定のグループの「利益」ではありえず、それは人間の(人間としての)正しさ(dikaion)であり、この人間の人間としての「正しさ」が「何であるか」を全10巻を通じてさまざまな角度から追求した「哲学探究の書物」であるところに本書の不朽の価値がある。」(加藤信朗 P.3)


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納富先生はプラトン哲学もまたあたらしい段階にあることを指摘された。
ギリシア語テキストが校訂されシーム・スリングスの新校訂版が2003年に出版された。2007年にはあたらしい訳注がマリオ・ヴェジェッティによってイタリア語で出された。(La Repbulica, traduzione e commento,)

まずポリティアには、「よきポリス」について、「人間が共に生きること、政治とは何か、正面から挑戦している」書物であり、次に倫理学の問題、「一人一人が正しく生きること」「節制、勇気、知を持って生きること」が論じられている。そして一人一人の魂に、視座を与え、理性が魂の三つの側面、気概、知、欲に関わることが示されている。
そして、魂の在り方をつくるのは教育であるゆえに、教育学の成立もポリティアには含まれている。
初等教育では、心と身体。(正しい物語を聞く、身体を正しく鍛える)その後の高等教育では数学と哲学が理性を働かせて生きることを支える。ぷラトンのアカデメディアではこのような教育プランを実践していた。
また文芸の復興も重要である。言葉と使うこと、どう語ればよいか、正しい言葉を用いることである。
知ること(思い込み)が知識に到達できるのかという学問論(知識論)の成立、また存在論、形而上学の成立、これらすべてを包括して提示する「対話篇」であることをあらためて納富先生がお話された。
哲学が成立することは対話が成立することである。この対話と自己と他者の問題については、「ギリシア・ローマ世界における他者」でも納富先生が「ロゴスと他者ー哲学成立の緊張」というタイトルで書かれています。

「ソクラテスが実践する「対話(ディアロゴス)は、基本的に二人がロゴスをやりとりする営みです。一問一答という形式は、主題についてそれが「何か?」を一歩一歩探求していくのに適しています。ゴルギアスのなす演説が、語り手の思いによって恣意的に進められ「思い」を強めていくのとは対照的に、ソクラテスの対話は「思い」を吟味しつつ事柄そのものに迫ります。
対話とは、独立した1人と1人が交わす言論であり、語り手が相手にするのは顔をもった特定の個人です。そこで問われ吟味されるのは、その人が何を考え、どのように生きているかなのです。」(『ギリシア・ローマ世界における他者』 p.190)

知識論については、「私たちは本当に知っているのか」というタイトルで、岩波の哲学講座で書かれています。

プラトンのポリティアは「対話篇である」「開かれている」、このことは報告2の「プラトンの『国家』は論文ではない(Plato's Republic is not a treatise)」(リヴィオ・ロセッティ教授 イタリア・ペルージャ大)でもテーマになりました。

おそらく、受容史の問題として、受容したときに「理解する限りにおいて理解する、そして実践される」という問題があるのだと私自身は感じます。歩パーは対話篇をおそらく論文であるかのように、またはマニュアルのように受取ったのではないでしょうか。ポパーが批判した人々もまた処方箋のように受容し、それは彼らにとって「良いこと」だと思われた。私たちはしたほうがよい、と単に思う(思い込んで)行動することが多々ある。しかしそれが正しいかどうか、良心からの行動=善でないことのほうが多いくらいである。

誤解はおそらく一と全が一致するような錯覚を多くの人が抱くからなのではないだろうか。自由主義批判に対する全体性はこのように常に反動的なところがある。全体性は倫理的に正しくはない。それは共存不可能な論理に到るからであり、極論を容易に導くことに繋がるからではないだろうか。数量的、機械的根拠であり、個の顔貌は無視され、美や調和、質的なものは無視される。合理性とは効率的という意味ではない....
多様性、個人が保たれて、一のほうへ向かう必要がある。そして人間のすることは完全ではない。より善い方向へ進むしかないのである。


また「プラトン『ポリティア』における女性」についてフランス Luc Brisson教授からの報告があった。
シンポシオン(饗宴)では、三性について語られ、ポリティアでは、女性も同等に教育され市民政治に加わるほうがよいとプラトンは対話篇の中でソクラテスのことばとして明確に語っている。こうした言説は伝統的ギリシアとヨーロッパ市民社会からすれば、受容しがたいものだと思う。この意味では現代社会でも実践だけではなく議論としても充分にはされていない。プラトンのテキストの上に、男性ヘゲモニー構造について議論されるべきだと感じた。

14:00から18:00公開講座は開催され、西校舎ホールは多数の来場者があった。全員から質問票を受付、報告者の先生方がそれぞれに回答をされた。国際プラトン学会の発表者と題目も付されたレジュメも充実しており、報告者の先生方のテキストも付されている。大変貴重な機会だった。

現在「饗宴」を(コメンタリーとともに)読んでいるが「ポリティア」を再読し、「ノモイ」も読みたいと思った。 


法律〈下〉 (岩波文庫)法律〈下〉 (岩波文庫)
著者:プラトン
岩波書店(1993-04)
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法律〈上〉 (岩波文庫)法律〈上〉 (岩波文庫)
著者:プラトン
岩波書店(1993-02)
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プラトン―哲学者とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)
プラトン―哲学者とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)
著者:納富 信留
日本放送出版協会(2002-11)
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ギリシア哲学史ギリシア哲学史
著者:加藤 信朗
東京大学出版会(1996-02)
おすすめ度:4.0
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プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)
著者:佐々木 毅
講談社(2000-12-08)
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ギリシア・ローマ世界における他者
ギリシア・ローマ世界における他者
彩流社(2003-09)
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土佐の夏小夏をいただきました。初めていただいたのですが美味しい。
おおぐし農園さんで作っている小夏という果物です。

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冷やして食べるとおいしいというので、さっそく試したところ、グレープフルーツのようなジューシーさ、えぐみがなく、さっぱりとしいて甘みもあり疲労が溜まった夏にぴったりな果物です。
小夏通信というニュースレターもあり、愛情こめて作られたのがよくわかります。

実は光沢がある檸檬色で、とても美しいです。おすすめ。

恩師から贈っていただきました。
本当にいつもよいものを紹介していただいています。




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nikoさんは元気です。昼間は暑いので昼ねをしていることが多いです。
暑いとベッドから出て床に横になっています。

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7月末からの疲れが出ていて、体調を断続的に崩しています....

やや改善されると締め切り間近のものを仕上げたり、家事をしたりと、それでも6月よりはよいのですが。やはり雨や低気圧よりは晴れて暑いほうが体調管理はしやすいですし冬よりはあらゆる面でましなのですけれが...

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ジェニュスの映像と一緒に見つけた青い鳥のVA.(マチアス・エイマン)このときまだコリフェなのですね....家にはルグリのスーパーバレエレッスンの本はあるので確認。

跳躍が、とかアントルシャが、ということよりも丁寧さ、正確さ、音楽を生み出すようです。音楽に合わせる、わけではないのです芸術表現としてのバレエは、音楽と言語(ロマンティックバレエの場合は詩を、コンテンポラリーの場合は言表とロゴスを)を生成するものなのです、おそらく。
優れた文学と詩は絵画と舞踏と音楽を生み出す。
思想は建築、彫刻を生み出し、機能性を追及するようになった現代ではそれらを最も引き受けて新しい地平を生み出すのはバレエと舞踏である。それを受容し、展開できるのかは観客や読者であって、物質の消費者とは違い、私たちもまた何かしらの生成へと向かうことになるのだと思う。

娘のバレエもはじまりました。特別クラスレッスンも参加しています。休み明けなので念入りにストレッチとバーをやり、センターレッスン含めて1時間40分以上レッスンしたあとはとても晴れ晴れとして帰ってきます。
充実したレッスンを行っていただいてるので感謝です。

必要に迫られてブレヒトやホフマンスタール、ディレンマットに関するものを読んでいるが...ベルリン国立バレエの演目に関して、マラーホフがドイツの観客はモダンを求める。しかしクラシックも踊らなければダンサーが踊れなくなってしまうと書いていて、この状況はかならずしもよいことではないように思った。ドイツの現代舞台においてはテキストの破壊、パロディ化、実験性、意外性などが求められる。それはやはり演劇というジャンルならばよいのだろうが、それをバレエにまで求めるとバレエの表現はむしろ狭められてしまう。非本来性になることは退行を意味するからである。






「ラ・シルフィード」(全2幕) [DVD]
パリ・オペラ座バレエ団
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ラ・シルフィード 全2幕 [DVD]
デンマーク・ロイヤル・バレエ
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写真データを整理していたら見つかりました。
7月の記事に書いた石心亭へいったときのもの。冷酒を頼むとこんなたくさんのなかから杯を選ばせてくれます。

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お昼のお弁当の御膳。
夏は本当に多忙なので、ゆっくり食事をしたのもいつのことやら...という気がします。しかし私は単に休むのも好きではないのでよいのですが...

朝はやいので熱冷まし、目覚まし代わりにアイスコーヒーを飲みたくて自宅で作っています。パルシステムでハリオの水出しコーヒーサーバーというのを880円で購入。豆は本当はアイス用がよいらしいのですが、以前IKEAでもらったエスプレッソコーヒーがあったので試しに作ってみたところ、けっこう美味しかったです。アイス・カフェ・オ・レにしています。紅茶好き・お茶好きですが、夏だけは別でアイスコーヒーが飲みたくなります。
しかしおそらく本来のコーヒーとしては邪道なのでしょうね!
ルチャーの本では、「コーヒーは調合物であって、飲みものではない。バールへ行かずオフィスにミラノ発祥の自動エスプレッソマシーンを置いてすませるのは人権侵害にあたる」のだそうです。
つまり気体と液体の中間物であって、のみものではない。
(クレシェンツォの著書、ベッラヴィスタ氏かく語りきを参照)

気体と液体の調合物といわれると合点がいく気がします。
私はスターバックスは苦手ですし缶コーヒー、インスタントコーヒーも苦手です...(ティーバックの紅茶やハーブティは飲みます)
水出しミントティ、水出し緑茶、水出しコーヒーは自宅で作って移動時も持ち歩くことが多いです。

日記としては..にこさんのシャンプーをしました。
といっても今日は娘が昼間在宅していたのでまだ不調な私に代わってシャンプーしてくれたのですが...不調といっても早朝に起床するのはかわらないので回復は遅いです。

脚の部分などはアレッポの月桂樹オイル石鹸も使います。
にこさんは洗われるときもとてもおとなしい。
おふろ好き、散歩好きです。

郵便物も仕事と自宅用のものやっとチェックしおわりました。NBSからのお知らせがありベルリン国立バレエやニコラ・ル・リッシュのプログラムがあるようですね。ルグリは来年7月、ルリッシュは8月とのこと。
ルリッシュは演じる役ごとにカラーが刷新されるところが魅力だと思います。「若者と死」の印象が強いのですが、今年2010年新年に中継されたウィーン美術史美術館でのエレオノラ・アバニャートと踊ったものもすばらしかったので期待。


エトワール・ガラ2010ではエレオノラ・アバニャートの演目がコンテンポラリーのみだったので(それも魅力なのですが)この映像はやはり印象深い。

オペラ座からダンサーが来てくれるならマチルド・フルステーやマチアス・エイマンも出演してほしい。ベルリンのほうはライナー・クレンシュテッター、マリアン・ヴァルターといった「二ーベルングの指輪(RING)」に出ていたダンサーの名前と写真があり懐かしかった。もう6年も経っているとは。しかしあまり時間の経過を感じません。

今も鮮明に覚えているがRINGのサイダ・コーワのブリュンヒルデとマラーホフのローゲは終わりの始まりを体現していた。
ベジャール的俯瞰者、側面からの観照者は人間と同行しつつ知者として生死を照らし出し、自らの死も知者ゆえに軽蔑する。
これはローゲも、伴内も同じである。

ブログネタ
「お盆」どう過ごしましたか? に参加中!
外はとても暑いのですが、今年もまだドライで大丈夫です。設定28度のドライでも暑くない。
やはりペアガラスと高断熱仕様なので夏は家にいる限りでは大変ではないようです。全体的な省エネのためにも、日本の住宅仕様はもっと断熱効果を上げた基準にするべきだと感じます。これから住居を考える際には初期の値段が少々あがったとしてもペアガラスと高断熱、全巻空調は考えてもいいと思います。床暖房をすすめてくるメーカーやオール電化よりもそのほうが優先のような気もします。(オール電化はクリーンというイメージがありますがそれだけ原子力依存を高めますし、IH・電磁波の危険性はまだ日本ではデータ不足です)

8月13日と16日に迎え火と送り火をします。義理父の意向で15日(終戦記念日)も夕食を一緒にするということになっていたのですがここ数年は夏があまりにも多忙でその時間はとれず...
今年は私が13日は試験前で帰宅が間に合わず、16日は前日から体調を崩し、頭痛と吐き気で水や薬をのんでも受け付けない状態で(たまにそうなります)お線香だけあげて私だけ帰宅させてもらい、そのまま寝込んでしまいまいました.....
前日は仕事の原稿の締め切りだったので朝からそれにとりかかりでした。ですからお盆に外出したり旅行はないですね。一回もないと思います。

にこさんは猛暑ですが元気です、特に夜中が元気です....
ずっと7月末から私は朝早かったので、4時半起きで散歩をし、家をでる前の6時にもう一度散歩。夜中の3時と夜の12時は夫が散歩。
7月末に元気すぎて怪我をしてしまい、レントゲンをとったところ椎間板ヘルニアにもなっていました。だからとにかく歩かせないと歩くのがさらに辛くなってしまうようです。自分も同じなのでよくわかります。実家にいるときはあまり散歩をさせていなかったようなので、私なりに必死です.
散歩するときは元気でリードもぐいぐい引っ張るくらいです。
最近は13歳以上用というフードと獣医さんでもらっている低脂肪のドライフードを低脂肪乳でやわらかくしてあげています。パルシステムのトップドックというミックスフードもたべるときはあげています。
食事はタイミングをみて食べるときにたべられるときに。
食べてくれると本当に安心します。
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暑さはドライ空調がきいているので大丈夫のようです。


プラトンシンポジウムに関して、自分なりの覚書も後日書ければと思います。帰りの電車の中では娘が早速、納富先生の「プラトン」を読んでいました。実際に話を聞くというのは本当に貴重な経験かと思います。
私は「古代ギリシア人」 「古代ギリシアローマと他者」ももう一度読んでいます。

まだ頭痛が酷く、水も少しずつ飲める程度です...。
とにかく毎週あれこれと締め切りがあって落ち着けません。文章をどう構成すればよいのか。そもそも理解していると思うことが正しいのか。

コメントお返事
7.23 Kz様
コメントお返事が遅くなりもうしわけありません。
(拍手コメントはお知らせしてくれないのでメンテナンスページをみたときにしか気がつかないことも..謝罪)
塩野さんはローマを専門にするなら古代と中世まで含めて検証したあとに「物語」を書いたほうがいのでは、と常々感じます。
多数派の人は、価値が断定的なもののほうが、読んでいて安心できる・疑問も抱かないから、受け入れられるのでしょうか。

5

力と他者―レヴィナスに力と他者―レヴィナスに
著者:斎藤 慶典
勁草書房(2000-11)
おすすめ度:5.0
販売元:Amazon.co.jp


タイトな日常が続いていますが、帰宅後(普段あまり観ない)TVをつけると広島の慰霊に初めてアメリカ大統領が出席し、イギリス・フランスの代表、国連事務総長も出席したと報道されていた。イギリスからはディビット・フィットン氏が出席しコメントも流されていた。(フィットン氏は「The Age of spupid」の上映会とレセプションにも出席してコメントをしていたのをよく覚えています。

ところで私はこの報道を観ていて、やはり永遠平和とは何を指すのか、それが可能ならばどうすればよいのか(可能性はある、のである)ということを思った。ホロコースト、ナショナリズムが起きるとき、それが力による暴走状態になるとき、それを行使するのはまた人間である。そうせざるをえない状態を作り出すのは力と権力、権威とともに「良いことをしている」という信念でもある。できごとが繰り返さないためには、これらの人間心理や構造、社会的な力というものが何であるか、それが明らかにならない限りは、「繰り返し起こる」--ということだ。保有されてるだけで、地球上の生命をすべて殺戮することが可能な力(核)はすでに「在る」のであって、ある方向性によってはそれはいつどこでも可能なのだ。・・・・あまり意識しないでも生きていられるが、それは起こってしまってからは遅いことだし、現に数十年前にも、それも2度も起きていることだ。このことを「自ら体験しなければ、すべて他人事、悲劇的なできごととしか捉えられないような心情が国内で蔓延していくことはとても危険である。

他者の死とはなにか。
映像をみながら、私は斎藤先生の「力と他者」を思い出していた。

「私たちがそれに、「死」を認める「個体」は、いったいどこで成立するのか。私たちがそれに死を認める個体が個体として成立するのは、私がそれに「顔」を認めるときだ、と言いたいのである。通常私たちは、血液中のT細胞や腎臓に「顔」を見ることはない。だから、それらは「死ぬ」わけではないのだ。逆に私たちは、友人に「顔」を、犬や猫に「顔」を、場合によっては子供が可愛がって飼っている金魚や虫に対して、あるいは自分が丹精こめて育てた植物に、「顔」を認めることすらあるのではないか。私たちはそれらに向かって「語り」かけはしないか。すなわち、応答しはしないか。だからそれが死んでしまったとき、なんとも遣り切れない気持ちになるのではないか。たとえば「哀しみ」という感情に、あるいは「憤り」という感情に、襲われるのではないか。」

「ユダヤ人のガス室送りを命じたナチの幹部は、彼らひとりひとりの「顔」を見なかったから、見ずに済んだから、いとも簡単にそれの「抹消」を命ずることができた、と考えられないだろうか。あるいは戦争を、忘れないようにしようと−−、私たちは他人に対してすら、いつも「顔」をみているわけではないのだ。逆に私たちは、場合によってはある個体が「顔」をもっているがゆえに−−そこに「顔」を見てしまうがゆえに、その個体に「殺意」を抱くことがありうるのではなかったか。」(p.196-7 終章 他者の/と死)


もしも国内ですら、「被爆者」が「他者」であると都市民が想い始めたり、過去のことであると思うだけの感慨にひたるだけならば、こうしたことはいくらえも興りえる可能性をもっている。私たちは、無意識のままに「加害者」となっている。加害者を「支えている/出現を容易にする」ということかもしれない。奇妙に聞こえるかもしれないが、アメリカや英仏の戦争大儀は「民主化」なのである。暴力はつねに存在するが、「大義」が「正義」として語られるときに、たいていは逆のことが生じている。日本の場合もそうである。
私たちの意識はどこまで変化しているのか、考えられた結果により「繰り返してはならない」という転換になっているのか。人間にはさまざまな形で「他者」性がつきまとう、極端にいえば、「どうなろうが知ったことではない」という感情や、自分の利害に関係することには興味をもつが、利害がかかわらなれば何の興味も示さないという人も多いのだ。相手個人個人のことを知らないのに、「憎悪」「蔑視」が生じるとき、それはその人や集団のアイデンティティと結束に利用される。
こうした構造が今もなくなっているとか改善されているとは思えない。

それではなぜ、今年は西欧から参加したのだろうか。
彼らにとっての他者は明らかに存在するその一方で、矯正すべき「望ましくない」「核保有」が世界に生じており、その排除のためだけに、それが主な原理として、都合のよい、目的達成的なだけの「平和」へコントロールいていくためにならないことを願っている。

感情的なだけでなく(感情は風化する)構造的なレベルで語らねばならないのだが、日本ではあまり・・・というかほとんど見かけない。一方で感情的な民衆裁判的な意識もあまり変化していないように思われる。
だから「一方で核の抑止力は必要だ」というコメントは、曖昧で誰にとってももはや意味を持たないのであり・・・根源的な議論を含んでいないことにある。答えを重視する人が多いが、「問題」を発することがなければ、何も解決にも向かわないと思われるのである。

アメリカ側のおそらく保守的な意見では「そのような必要はない」と応えるだろう。国内でもそうした意見はよく見かける。
おそらく「実存」の倫理にギャップが生じているのだろうが、そのギャップが討議されなければ、形だけ、または時間とともに薄れて忘却されるような感情レベルの問題としてまた放置され(繰り返される)可能性が多いのではないだろうか。現に日々のメディアやありふれた対話の中ですら、曖昧なアイデンティティを支えるための、排除的「他者性」はありふれている。こうしたものが、状況次第で暴発しないためにも、認識自体をも振り返らなければならないのではないだろうか。

レシピではないのですが野菜料理を美味しく、という観点から。
舞浜・イクスピアリの響の詩は野菜料理が充実しているので利用します。
リニューアルした後にお料理に加わった豆腐ナゲットが美味しい。筍の土佐煮、水ナスの刺身など、新鮮なので味付けや油っぽさがない料理なのが嬉しい。

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このビュッフェレストランの料理は油が悪くないのがすぐにわかります。他のビュッフェレストランだと油が悪いのがすぐにわかります。食べ放題レストランが妙に増えていますが、肉中心だったり冷凍食品が多かったり、冷凍デザートが多い店はすぐにわかります。

野菜好き、普通のブッフェはちょっと苦手という方にもお薦めできます。
紅茶を自分でリーフでいれられるので、デザートも楽しめます。
野菜を使ったケーキも。リニューアルするまえにあったケークサレもまたメニューに加わると嬉しいのですが。

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ポンテベッキオを模したTDSの橋。夕方明かりがつき始めるころが好きです。

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カフェ・ポルトフィーノのテラスでワインを飲むのが好きです。
日本ではテラス席がある場所でも都心や首都圏では大抵、車の騒音や排気ガスが気になっておちつきませんから...
前菜サラダとパスタ、ワインを組み合わせます。ここはカフェ・ラテも美味しいです。


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夕方から夜が好きなので夏場は22:30までオープンしてくれると夕方もっとゆっくり過ごせるのですが。9:00開園なのですから夜ももうすこしゆっくり過ごせると嬉しいです。


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テディ・ルーズベルトラウンジ。
マンハッタンやダイキリが美味しい。ジェイムソンなどのウィスキーもよく頼みます。ここのインテリアが割と好みです。席も広いので休憩するのによい場所。ラスティ・ネイルなどもたまに飲みます。

後日記入ですが更新しました。
ほぼ同じ時期にTDLに行かれたというKさんからキャプテンEOのお土産をいただきました。

エトワールガラ2010(bunkamura オーチャードホール)Bプロ(7/30)に行ってきました。

Bプログラムは「バレエ・リュスへのオマージュ」と題された3つの演目があり期待していました。マチアス・エイマンの「薔薇の精」(ル・スペクトル・ローズ)は本当にすばらしかった。ルグリが演じた薔薇の精は映像ではみたことがあるけれども、それに遜色なく、ある意味ではそれを凌駕するようなものだった。跳躍が、とか回転が、というようなものを超えている。要求されるのは、薔薇、そしてスピリチュアルな存在。バレエリュスの演目は、どれも実際には見ることが適わない世界をテーマと演目にしている。だから20世紀のパリの詩人・文学者や画家たちは熱狂した。
この日この舞台を目にした人も同じような期待の中で、それ以上のものを観た。
表現がと技術、どちらもそれが完璧に見えるときは、あたかも自然にみえるものだが、そうした次元のものだったと思う。
同様に、「フラジル・ヴェッセル」もまた完璧だった。普通ネオ・クラシックというものはモダンとクラシックの折衷的なものに終わりやすい。しかし、リアブコ、アッツィオーニ、イリ・ブベニチェクの3者の動きは、美しく正しい動きで、残像が見えるほどだった。動いた軌跡が見えるパであり、一つ一つの形・フォームが鮮明であると同時に、つながりをもって調和している。リアブコは前回もすばらしかったですが、今回は更にすばらしかった。
ただしい動きというのは、規範的であることだけを意味しない。それは調和的なライン、線分である。しかも、完全に重力からの支配から解き放たれている。イリの振付ける作品を見ると、なぜかレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画のデッサンとスフマート画法のことを思い出す。人間の創造性は言語と舞踏で理性そのものを表すことができるが、リアブコ、アッツィオーニ、イリのこの作品はすばらしかった。こうした演目が日本で上演されることはとても貴重だし、こうした演目が上演される機会が増えてもらいたい。
ドロテ・ジルベールとマチアスの「スターズ&ストライプス」もフィナーレに相応しくすばらしかった。とにかくマチアス・エイマンがすばらしい。彼が動いている姿は、映画「パリ・オペラ座のすべて」でも観られるが、もっと映像作品・全幕で残されるべきだと思う。

バレエを学んでいる娘が言うには、ドロテ・ジルベールが後ろにパッセをしながらフェッテをしていてあれは凄く難しいのにあまり拍手がなかったのはもったいないと言っていました。フェッテを実際に練習している人がみるとまたこういう視点なのだな、と思ったので書いておきます。
どれもすばらしい舞台だったけれども、三つ上げるとしたらどれ?と聞いてみたところ、「スターズ・アンド・ストライプス」(マチアス・エイマンとドロテ・ジルベール)、マリ=アニエスの「瀕死の白鳥」、マリ=アニエスとブベニチェクの「アパルトマン」だそうです。
この演目は夫も行きましたが同じ質問をしたら、「薔薇の精」、「スターズ・アンド・ストライプス」、「フラジル・ヴェッセル」それから「アパルトマン」だそうです。

私は上記3作品ともう2つ挙げるならば、「プルースト」のモレルとサンルー。バンジャマンとアバニャートの「牧神」も意欲作だと思います。アバニャートはネオクラシックも良いので次はそういった作品で観られると嬉しいです。(今年の新年ウィーン・フィルのルリッシュとのバレエはすばらしかったので)

薔薇の精ではオブラスツォーワもすばらしかったと思う。薔薇の精自体がとてもよいときに、カルサーヴィナが演じたこの役割を自然に演じることもまたとても難しい。両者の調和がとても絶妙だった。

この映像が残り後の世代にも受け継がれるとよい、と思うほど(当日は録画がされていたようです)

とにかくすばらしい公演でした。演目も構成もすばらしかった。もし次回企画されるとしたらマチュー、ジロ、マチアスが出ているジュニュス「生成」を観られたら良いです。ロメオ・ジュリエッタはヌレエフ版のジルベールがすばらしいので、オブラスツォーワがスワニルダをやり、ジルベールが・・・とそういうことも思ってしまいます。
プロティノスやフィチーノを翻訳している左今司さんが「すばらしい芸術作品を美術館でみるとアーティストのパワーに圧倒される」といってますが本当にそういう状態(いい意味で)した。
人がここまでのものを創り上げることができるというのは感嘆しますし、そしてバレエは一瞬ごとに消えていくが永遠・普遍の造形をも同時に作り出す。それは観るものとの共有によって繋ぎ止められる価値なのだと感じます。人が生きる意味や目的というのは、こうしたときだけに、純粋に存在するのだ、と思えるのです。


日記としては...
夏の忙しい時期に丁度さしかかっており、4時半に起床、眠るのは25時すぎという状態です。ただ、忙しいとかずっと行動しつつけているとかやらなければならないことがあるとかいうこと自体が困難だとは思わないといいますか、それよりも「困難」だと感じることはあります。私的なことは割愛しますが・・・・
ともかくこの公演は1月から愉しみにしていたので、本当にみることができてよかったと思います。
また追記できたらと思います。