1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

July 2010

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イングリッシュ・ローズのワイルド・イブ。
西向きの壁に植えているので、酷暑でも返り咲いています。
暑い中ですが、きれいに咲いています。観ている自分も活力をもらえるような気持ちになります。


バラの葉は、私はお米の研ぎ汁をわりとあげているので、それほど病気にはなっていません。農薬を使っていないわりには元気ではないでしょうか? 黒点病などに糠成分が効くようです。

「よみがえる古代思想」を読んでいます。
近代と異なるのはどこか、現代からみていくと判らない部分がとてもわかりやすい。

「正しい人間の魂の中では、これら三つの部分が構造的にきちんと秩序づけられているわけです。したがって、正しい人間においては知恵が支配して、勇気は知恵に従い、欲望ももちろん知恵に従うことになるわけです。しかし、ときどき政治体制の中では、勇気が知恵を追い払ってひっくりかえることがあります。そうすると、どういう国ができるかというと、スパルタのように、やたら戦争をする国になります。それならまだしも、三層目と一層目がひっくり返ると、お金だけがすべてという体制に変わっていくわけです。」 (『よみがえる古代思想』p.90-91)

戦争をすること、それ自体もプラトンの中では退けられるのが本来的である。なぜなら「調和」状態が望ましいのであって、自国が勝利することも「やむをえないことの一つ」で「最善」とはいえない。

プラトンが善さとして捉えたのは「適度」さである。
これをアリストテレスは、極端と極端の「中」(メノン)と捉えているけれども、プラトンのほうは極端と極端の間をとることだけを適度さとしていないように私などは思う。


古代では、橋や道をつくるのは政治ではない、とペリクレス時代のアテネをプラトンなどは批判している。

思案するのは、「実現可能レベルを達成しようとする」ことと、「理想的、より良い状態を目指す」ことの決定的な違いである。
一般に前者のほうが望ましいとされるが、実際によりよき状態の実現を望むならば、後者を目指すことで実現がなされるのではないだろうか。
どちらも有限を認識することから始まるが、その有限の先をみようとするのか、あくまで内側しかないと捉えるのか、この違いは似ているが結果的に大きな違いを生む認識の差異なのかもしれない。

カントの「普遍立法」では、立法者の個人的な思惑や意図が法に介入しないことを理念とする。個人的なというのは、政治家の身内とか支持団体なども入るだろう。日本の場合は普遍どころではなく、思惑や意図、利害のバランスは考慮するだろうけれども、基本的に特定の要望を満たすため、不平不満を調停するような形で法が作られることも多い。
(実際に、議席を有するような人に何か意見を話す場合、なぜか自動的に彼らは個人的な「不平不満」を言っているのだ、または要望を言っているのだと取り違える人がとても多いのです。つまり、立法の立場にいる人たちが議論するときには常にそうした集団の利害を代弁しあっていて、そのすり合わせを行っており、原理原則で正しいかどうか、どうするべきかを念頭においてはいないことが多いのです・・・すべての人がそうではないでしょうが・・・そういう人が多いのです・・・)

カントなども含め・・・プラトン、アリストテレス、ストア派、エピクロス派、新プラトン主義とこのあたりまでの思想は、後の世界でも何度も注解されるような形で登場する、と古代ー近代ー現代を見渡したときにそう思う。
名称はその都度変わるのだが、そしてある思想とある思想の中庸をとったり一部否定をしたりするのだが、原典は古典期にあるように思う。

それにしても、プラトン的愛(プラトニック・ラブ)やエピクロス派の解釈(エピキュリアンという語)もラテン語世界を通じ、英語的説明になると簡略されて通俗的になる。なぜだろうか。物質的なものを介入することで理解しようとするからだろうか。

思うに・・・光の量は数量的には測ることはできない。いい日ですねという挨拶をする地域、イタリアから南では太陽は特別な意味を持っている。

「太陽は、見られる事物に対して、ただその見られるというはたらきを与えるだけではなく、さらに、それらを生成させ、成長させ、養い育むものでもあると、君は言うだろう。」

「上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そして、その後で、天空のうちにあるものや天空そのものへと目を移すことになるが、これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間その光を見るよりも楽だろう」

(プラトン 『国家』 )

「多くの人間は、自分の中にある神聖な要素を開発しないままに死んでいっている。一つは、経済的な欲望によって、もう一つは権力欲によって。物欲、色欲、名誉欲というのはキリスト教の中でも三つの悪い欲望とされてきましたが、こうした感覚的欲望は本来開花すべき潜在的な要素を埋没させ、隠蔽している殻のようなものである。(略)もちろん、「原罪」などという概念は、プラトンにはない。(略)結局、人間の努力や意識改革などによって、そこはカバーできるような仕掛けが必要になります。」
(『よみがえる古代思想』P.72)

こでも三層目と一層目が逆転したときの不幸な状況が今日ではよくある・・・つまり、そうした努力や意識改革、実践などを人がしようとしたときに、「お金にならない」「経済効果が」などの類の素朴すぎる意図が「有力」で、そのような人々の意識の在り方さえも否定されたり中止させられたりすることがままあるのです。しかも、家の中(まだまだ家父長制が強い傾向がある)や、会社組織、学校組織など・・・あらゆるところにそういったことは根づよく残ってるように思われる。

そして更に困難なことは、人の世界の中で、自然に抵抗なく「美」や「正しさ」「適度さ」をもとめるような人々が多数を占めている場合はともかく、こうしたことは「趣味・好みの問題」だとまともにとりあわないような人たちが多数を占めているが場合、人に過度のストレスや実際上の不都合も多く生じるように思う。
目的論的すぎることはほとんどの場合、その目的にも達成できないようなことが多い。

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8月7日土曜午後に行われました。



アジア圏で初めて東京で開催されるプラトン・シンポジウムの後に一般向けに広く、開かれた公開講座の形で開催されます。
『国家篇』(ポリティア/デ・レプブリカ)を中心に今日的意義について。
事前申し込みは不要とのことです。


イデアと幸福―プラトンを学ぶ
プラトン 理想国の現在
栗原 裕次
知泉書館
2013-05


プラトンとの哲学――対話篇をよむ (岩波新書)
納富 信留
岩波書店
2015-07-23

内在と超越の閾―加藤信朗米寿記念哲学論文集
知泉書館
2015-08-10

平和なる共生の世界秩序を求めて
加藤 信朗
知泉書館
2013-06


第9回プラトン・シンポジウム市民公開講座

納富 信留
慶應義塾大学出版会
2012-07-19






国家 下    岩波文庫 青 601-8国家 下  岩波文庫 青 601-8
著者:プラトン
販売元:岩波書店
発売日:1979-01
おすすめ度:4.5





国家〈上〉 (岩波文庫)
国家〈上〉 (岩波文庫)
著者:プラトン
販売元:岩波書店
発売日:1979-01
おすすめ度:4.5








この会議にアリストテレスからという立場で岩田先生が出席しておあれた。
その後、数年後に冬にお亡くなりになり、シンポジウムで直接お話を聞いてよかったと思う。
また自分のアリストテレスをああためて、ある程度つきはなして考えるようになった。

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7月27日はロンドン・オリンピック開催二年前に当たる日ということで、記念イベント&交流会に出席・参加しました。
場所は駐日英国大使館公邸(半蔵門)。
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2009年3月にUK-JAPAN2008の閉幕式に出席させていただく機会がありましたが、今回も駐日英国大使館よりご招待いただきました。ロンドンで開催されるオリンピックは環境やエネルギー効率、教育や医療面などにも配慮したものへと準備が進んおり、映像や写真、コンセプトと取り組みなどを聞くことができました。P1080316

ディヴィッド・ウォレン大使から日本語と英語で挨拶があり、その後、ウィリアム・ヘイグ外務大臣と、ロンドンオリンピック・パラリンピック組織委員会会長のセバスチアン・コー卿からのビデオ・メッセイジがありました。

ロンドンオリンピックは開催施設を建設するために解体した建築物の資材を、オリンピック公園建設に再利用するとのこと。

A Green Agendaのコンセプトが紹介され、この公園は開催後にはヨーロッパで最大の公園になるという点が興味深かった。公園は誰もがアクセス可能な市民的な場所です。日本の公共政策では公園と住居整備の整備が著しく不十分なことがよく私的されていますが、開催後も、その場が共有されること、持続可能なことが視野にいれられ、取り組まれようとしているのがわかりました。何事もプランとコンセプトがなければ実現できないのですから、やはり目先のことだけではなく、その後のことや、他の地域、世界にも開催がどう影響を与えるかということがとても重要に感じます。
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日本が滞在することになるラフバラ大学の研究と取り組みについて、キャサリン・ウォルシュ大学副総長(博士)から紹介がありました。施設面の充実だけでなく、シューズやウェアなどを工学的に開発しているそうです。
食事の提供も考えて、ラフバラ大学のシェフたちは日本食を学ぶために来日したそうです。

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ラフバラ大学のガーデナーが作った花壇。
春に花が咲いたところ(!)だそうです。


その後短編映像 istoryが上映されました。英国に留学中の井上康生氏が出演してロンドンの様子もまた映し出されています。

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istory(アイストーリー)
http://www.youtube.com/ukforeignoffice#p/u/6/sDSXK7x4Cmo
(映像は公式チャンネルにて視聴できます/ 7月27日から公開スタート)

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特別ゲストのバルセロナ・アトランタ五輪女子マラソンメダリスト有森裕子さんとトリノ・長野パラリンピック アルペンスキー金メダリストの大日方邦子さんからコメント&メッセージがありました。
有森さんは「オリンピックの後にその経験をどう生かすのか、それによってメダルの色も意味がある」というコメントが印象的でした。
大日方さんは5回のパラリンピックを経験されているそうで「若い人たちに自分の眼と肌で感じてほしい。観た感動がインスピレーションなること、愉しむこと。パラリンピックの原典もイギリスにある」というメッセージがありました。

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私自身が一番感銘を受けたオリンピックはやはりバルセロナでした。
オリンピックはスポーツだけではなく、文化とスポーツという人間の創造性が一体化する部分があります。音楽や芸術も関わります。現代では特に商業化(コメルス)に偏ったオリンピックもたびたび問題になりますし、実際に経済効果だけが成功の可否のように捉えられるような報道も見かけます。元々近代オリンピックは、アマチュア精神の復興をよびかけて1896年に呼びかけられたのきかっけです。

教育学者だったクーベルタンが、イギリスのスポーツ教育による人間形成に感銘を受けて勝利より参加が重視されて興ったものでした。ヨーロッパ中心だったのが第二次世界大戦後には世界的な動きになった背景があります。今ではあたりまえのように感じますが、女子マラソンも1970年代に入るまでは認められていませんでした。「女性には過酷すぎる」というのが理由でした。ですからアスリートたちはそういった壁も乗り越えてきたのだと思います。

私も昔陸上をやっていたので(短距離とリレー、幅跳びでしたが)やはり陸上競技には関心があります。

イベントではロンドン・オリンピックの<6つの約束>が紹介されたので、ここにも書いておきたいと思います。

・スポーツを超えて(文化・医療・教育など)
・6週間に限らず
・ロンドン以外でも
・単なるスペクタクルではない

やはり単なるスペクタクルになってしまうと、一過性のものになってしまいますし、目的至上主義のようなものに成ってしまうので、このコンセプトはとても重要だと思います。
私が思うには、やはり観る側も、単に感動したとか、メダル獲得、などではなくて、競技自体やルールを知ったり、選手・アスリートが緊張やプレッシャーと戦いながらもベストをつくすということも観ることが大切。
いつも思うのですが、どうも日本選手の結果だけを追ったり、メダルの有無だけに注目したり、個数を争ったり、そういうことだけが報道されると面白さや楽しみも半減してしまうのではないかと思うのです。
それだけでは大切なものが何も残らないように思うからです。

交流会ではウォレン大使、キャサリン・ウォルシュ副学長、駐日英国大使館広報部の担当者様、ブリティッシュ・カウンシルの担当者様、それから当日出席されていたブログ執筆者様とご挨拶・お話させて頂きました。
ロンドン・オリンピックの取り組みや準備、開かれた大会への実践などを知ることができる貴重な機会でした。


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ロンドン五輪のキャラクターをかたどったケーキ。
目を有森さんと大日方さんが入れて完成したところ。
切り分けられたケーキも頂きました。ドライフルーツたっぷりの英国らしいケーキ。見た目だけでなく味もこだわりが。

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交流会+ランチ・レセプションの写真を少々。
一口サイズのアペタイザー。他にミートパイやサンドイッチ、シュリンプを使ったお料理など。

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ポストカードの写真にもスポーツと自然、環境、創造性との関係が感じられます。

私が興味深かったのはロンドンオリンピックでは、物資の輸送を船で行っているということ。陸路を使うよりもエネルギーを節約できること、競技施設では雨水(天水)を溜めて水洗トイレに利用するなどの工夫がとられていることです。映画「The Age of Stupid」でも、今あるエネルギーをどう利用するかが問題とされていましたが、こうした取り組みにもその視点を感じました。

コンピューター、機械化された現代社会では、身体やスポーツは「人間に残されている自然」という意味も持っています。

インターナショナルインスピレーション、文化芸術プログラム Unlimited(アンリミテッド)に関してはまた記事を書きたいと思います。

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ライブドアのキャンペーンのご招待で、シルク・ドゥ・ソレイユ”ZED”+パークをセットで過ごしました。
今回期間限定で、ZEDと好きなパークをセットで楽しめるというプランチケットが登場したとのこと。プランで購入するとサイドビューでのZED観覧後に、好きなパークに+1000円で15:00から、+500円で18:00からの入園ができるというものです。ZEDの劇場でチケット引換券と交換できるというものであらかじめプランで予約すれば得に1日過ごせます。


さて、私は7月25日の13:00公演+パークを体験しました。

好きなパークを選べるということで、私はディズニー・シーをセレクトしようと思っていたので、まず午前9時すぎにはディズニー・シーの駐車場へ。
駐車後、リゾーとラインでイクスピアリ/シルク・ドゥ・ソレイユの劇場がある駅までまずは移動。
劇場は12:15開場ですが、イクスピアリのお店は10:00から、レストランは11:00からオープンなので、余裕をもっていけばZED開場までも有意義に過ごせます。


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TDRはイクスピアリやSEAにはよく脚を運ぶのですが、ZEDはまだ観たことがなく。初めて劇場内に入りました。
ロビーにはお土産が買えるブティック、劇場内では席にて軽食や飲み物も楽しめます。
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ドライフルーツとワインのセット、プログラム。
プログラムは自宅へのお土産に良いと思います、写真・解説ともに充実していますのでぜひ。公演のあとに見直すとまた楽しめますし、シーンを思い出します。
プログラム写真と内容には小学生の娘がかなり観て興味を示していました。

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写真は今シーズンのリーフレットから。
セットでパークプランも右下に載ってます。
今回初めて知ったのは、音楽も生演奏とのこと。地中海音楽をベースに、フィドルやパーカッションなど音楽もパフォーマンスもライブです。
オープンニングの演出がとても良かった。ステージ上、ステージ下、音響、照明、客席まで使った演出で、「天の誕生」の幻想的な上昇下降の世界からショーが始まります。



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ZEDのテーマは天地世界の融合。
太陽の、そして天への・・と聞いて真っ先にプラトニズム的世界だ、と思った私ですがプログラムにはヴァチカンにあるラファエロ・サンティ「アテネの学堂」の写真が(!) 命令や支配ではなく、自由意志で身体と精神に挑戦するというアーティストたちと共有すること。その空間としての専用劇場。

太陽と天への憧れに向かう運動、上昇下降のダイナミズムがプラトン的世界の特徴ですが、球体をモチーフにした舞台装置に連動してショーが続きます。「ケルヌーンの火」では炎を使ったジャグリングがすばらしいです。「バベルの塔」 バトン(稲垣正司さん)もすばらしかった、ぜひまだ観ていない方は見てほしいです。

小学生の子どもがいる方にはぜひこの機会に一度専用劇場ので観覧をお薦めします。劇場体験できますし、生の音楽演奏、ライブ感覚、眼の前で繰り広げられるアクロバティックな演技、舞台芸術のエッセンスは、バーチャルな感覚になれてしまった子どもには新鮮に感じられると想います。

YOUTUBE・ZED公式チャンネルでステージの様子が観られます

10/3まで、アーティストに応援メッセイジを届けられる+返事が届くというサマーメモリーキャンペーンもやっていようです。期間限定でZEDの子ども料金も設定されています。

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中学生くらいまでの子どもにもはぜひ見てもらいたいので、今後も子ども料金設定は、春、夏、冬の休みなどに設定されるとよいですね。
小1くらいから楽しめるのではないでしょうか。
次は娘をつれてきたいと思います。
母も仕事関係の人と一緒に観たことがあると話していました。


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シルク・ドゥ・ソレイユ ZEDの劇場からSEAまでは徒歩で移動もできます。10分程度。
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ZED公演後、TDSへ.
写真は朝シアターへ行く途中のリゾートライン車窓から撮影.ミラコスタのモデルはフィレンツェ・トスカーナなので、ブルネレスキのデル・フィオーレ聖堂(ドゥオモ)のクーポラを模した屋根が見えます。
シアターがあるゲートウェイステーションとSEAのステーションは隣ですが、朝時間があったので一周してみました。

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往路の移動にはリゾート・ラインを使いました。
写真はステーション内で。
移動もそれほど混雑なく、気分転換になります。


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写真はリゾートライン(モノレール)の車窓から。
劇場へ向かう前に撮影。
正面にシルク・ドゥ・ソレイユの太陽のロゴが見えます。奥はイクスピアリとアンバサダー・ホテル。

ZED(ゼッド)公式ページ:パークとのセットプランは9月26日(日)まで


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イクスピアリ内の立体ポスター。

ショウを観ながらも軽食が食べられますが、すこし速めに到着したら「ピエール・エルメ」でお茶+リゾットなどの軽いメニューや、空いていれば自然派料理の「響の詩」などで食事をしてからシアターに向かうことも。
パークには何度も行っている、ZEDも観たことがあるというかたも、多彩な楽しみ方ができるようになったのではないでしょうか?
ノンストップ型の90分ショーに4月から変わったとのことで、それ以前の公演も見ておけばよかったかな、と想いました。

セットですごすZED+パークプランチケット、開演前も観覧中も、観覧後も、ゆったりと無駄なく過ごせると思います。
 

さいたま市にある石心亭。懐石料理がいただけます。

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弟がお昼を招待してくれました。
落ち着いたたたづまいで、館内のあちらこちらに季節の花があり、心使いを感じられます。


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冷酒を頼むと、好きな杯を選ばせてくれます。
緑の切子グラスにしてみました。アールヌーヴォー調のものもあったり、散々迷いましたが、脚付きのグラスが涼しげ。
小懐石をいただきましたが、お弁当もよいようです。白身のおつくりとカニと枝豆豆腐の前菜が美味しかったです。
丁度夏季の繁忙期が始まる時期でしたが、一息いれることができました。午後から再び仕事へ。

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にこさん、18歳ともうすぐ8ヶ月. 
暑くて大変ですが、早朝(夜中・・・も)夕刻の散歩ではぐいぐいと引っ張って歩くほど元気です。ユーカヌバのドライフードも少しずつ食べてます。あとはパルシステムのミックスフードを少量ずつだったり、11歳以上用の食事をすこしずつ。
15歳〜18歳のいぬも多くなりました。
食事も15歳以上用が揃うとよいのですが、たべやすさを重視したウェットフードだと、おなかがゆるくなったりもするので、バランスとタイミングに気を使います。小さいので心配に。
暑いのも大変ですが、寒いと体温を保つのにもっと大変で弱ってしまうようにも思います。元気にご飯をたべてくれるのが一番安心します。にこさんは気持ちは子犬にもどっているような部分があります。

日記としては、髪を切ってきました。いつも行っているのはBLANCHEというお店です。月末から多忙になるので予約をし。あまりお店のことを書いたりしていない当blogですが、こちらの美容室にはもうかれこれ5年以上行っています、7年くらいでしょうか?
カットが丁寧なのとお店がおちついている、話し方などがちゃんとしている、担当者さんが話しが通じる、丁寧という点が良いです。大体オーダーを伝えてお任せして安心できます。いろんなオプション料金が発生しないのも、誠実なお店だと思います。

お店のかわらない、誠実さ、コンセプト。こういうことは重要ですね。
たくさんお店があるからこそ、基本的なことはとても重要に想います。


「いつもわたしに不幸に思えるのは、「神」の語(これは結局は宗教用語である)が、哲学者たちによって、かれらの体系における、なんぴともおそらく信仰の、まして愛の対象とはみなされないような因子の名として、保持されてきたことである。」(「ソクラテス以前以降」 F.M.コーンフォード P.121)


コーンフォード著作を読んでいる。同感なので明記しておくが、付け加えると「神」とか「善」とか「理」という言葉は日本ではそれまで使用されてきた歴史的背景や言語に染み付いたイメージがつきまとっているがゆえに、更に不幸な状態に思われる。
哲学も同様で、フィロ・ソフィア(知を求め愛する いうなれば知の欠乏を認識することによって始まること)がどこか狭義に受取られて、人々からは遠ざかる。結果として、怪しげな「自己啓発」とか「ニューサイエンス」のような霊感商法に惑わされたり、「セラピー」のようなものに依存したりと、さらに不幸な状況が生まれている。

不安は、逆にいえば、それまでがその人が「思い込み」の世界にいたからなのであって、何事も決定していないことは自然なのだが、奇妙な形で近代(移殖された、または途中で頓挫している)した社会となり、生存競争は激しくなる一方で、実をいえば多くの人のメンタリティは2000年前とかわらないような「多神教」(開運とか、厄除けとかそういうもので何か状況が変わるという、また支配者にすべて任せ、他者依存的な態度など)状態なのだから、混乱する人で溢れているようにみえる。

ある大型書店(大型書店ほど読みたい本、探している本がない傾向はいっそう酷い)で塩野七生が十字軍について執筆するという広告をみたが、その理由づけに首をかしげた。
「現代では宗教戦争が続くのだから、多神教世界のほうがよい」というような内容だった。あまりにも素朴な誤解というか思い込みのような気がする。多神教から次第に一神教が形成されていくのであって、イスラムとキリスト教が反目しあっているという単純な構図ではない。(厳密にいえばキリスト教は宗教だが、イスラームは宗教ではない。聖俗の境界線がないのだ。それにユダヤ、キリスト教、イスラム教は根本において同じところから派生している。イスラームでも旧約は聖典の一つであるし、イエスも預言者の1人として扱われている。共通点のほうが多く、解釈の違いによって異なるものになっている。)その差異において日本人が橋渡しになれるだろうというのは、やや視点が狭すぎる。

権力が宗教的絶対性と結びつくことが問題であって、そういう問題ではない。「混沌」を「自然」と勘違いしている限り、アイデンテティが不安定になれば、忽ちにして、多神教のなかから生じる一神教的独裁が始まりやすい。絶対的なものに身をゆだね、支配することと支配されることを望み、他人と自分の自律性に盲目的な社会ではしばしば、第二次世界大戦前のような状況が生まれやすいのではないか。
無知の民ではないが、忘却の民だと思うことが多い。それはしばしば、人情とか義理とかで正当化される。
問題なのは、公的システムもまたこうした傾向をあてにしたり、利用したりしようとすることだ。


先日もローマに対する日本人の勝手な親近感について書いたが、どこか自分たちの価値を補強してくれるから、ローマを支持するというような人が多い。

私はどちらかといえば、違う部分、差異の部分にローマの美点を見出す。公共事業は有力者や貴族、市民上層部の私財でおこなわれていた、とか市民には食料が保障されていたとか、宗教的民族的寛容性などに美点を見出す。
その差異を見出す点で「ローマ人への20の質問」や比較的自由散文的な「イタリア異聞」などは小中高生には薦めたいとは思うけれども、大人たちが「ローマ人の物語」などを読んで悦に入っている場合ではない。

もう一つ、カエサルものの演劇の広告も見たのだが(原作 塩野七生)そのコピーも「リーダー不在の日本に贈る・・・云々」とあって、自分たちの問題を他人まかせにしたいのか、リーダーに「だけ」求めるのかということに対して、あまりにも無頓着すぎる。多元的世界では、「力」を単に独善的に行使するのはファッショなのである。
(石原都知事が再選したときに、「現代思想」の後期でこの傾向、つまり「強力な指導者を盲目的に求める指向」を批判していたが、つまりそういうことである。しかもほとんどのマスメディアではそのことはあまり取り上げられない。なぜならば彼ら自身もまた「力」を欲するところの、権力の力そのものよりも権力が表すものを求める体質があるから、なせいだろうが。

基本的に他者依存的で自律性の低いところでは、ファシズムが生まれやすい。しかも他人に対する憎悪が深いところ、傲慢な民族意識が強いところでは、悪辣なナショナリズムが展開する。自国民もは不幸が美徳になるし、近隣諸国にも多大な被害がでる。
しかも、東京新聞の一面広告には「涙なしにはよめない」というコピーがついた靖国賛美的な本が紹介されていた。違和感を感じるのは、そうした感慨は他人を犠牲にして自分は安楽にしていたいという生贄精神があるからである。
あまつさえ「感動した」などと一言二言のために、彼らは死んだ(殺された)のではない。(”敵”だけによってではない...敵とは「作られるもの」でもあるからだ。多元的なものを包括する世界で単一的な「統合力」を持とうとするとき、それは外に圧倒的な「敵」を措くことではじめて自然に可能となるという側面がある。つまり、「十字軍」の「正義」はそういった意味で理解されるべきである。「正義」は時に、暴力を覆い隠すもの、正当化するものであることが多いのだ。もう一つ、虐殺は、多くの場合「強制徴兵された」場合に起きる現象である。彼らは過酷な受動的立場に強制的におかれることになり、その力の暴発がさらに下位におかれる場で起きる。このような暴発は90年代に入ってもグアマテラなどで起こってきた。)
人の死は無駄にはできない。しかし「消費」されることも適当ではない。
オーラルヒストリーという分野では、「声」としてこうした過去を活かすことが求められている。

マルシリオ・フィチーノは晩年、「正しい哲学と宗教は、人間を幸福にする」と言った。
犠牲者を出したり、自分だけがよければ何も問題としないという類のものは、それは端的にいって正しくない、といえるのではないだろうか。

問題は幸福とか生き方といったものに見合った社会について吟味されていないことだ。社会といったが医療なども同じである。他者性が曖昧なのに、近代的な制度を形だけ移殖しても疎外感が深まるだけである。
主語が省略できる言語を用いている世界と、主語を明確にする必要がある言語とは隔絶している。しかしながら、単一言語世界でまかなえるほど、自立できてもいない。

・・・「無知な人は神というと、それぞれの民族のスーパーマンのような人を思い浮かべる。」ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、生き死にしないものとして長らくDio(大文字で書かれたこの語は普遍なもの、原因としての一をあらわす)という言葉が語られたのである。小文字で書かれればそれは、ギリシア神話の神のような有限な存在として表されてきた)

西洋は進歩主義によって歩んできたが、ニーチェ以来「神なき世界」で絶望にくれてきた。しかし、そもそもそういった捉え方をしていたことが誤解だったのだ。だから無神論者は、実在している可能態としての神がいないといっているのか、それよりも原因、一なるものを否定してるのか、この言葉も曖昧である。

言葉の差異を認識すること、表現を正確なものとして語るのは、この曖昧さ、何となく共感を抱いていけるものを明確にすることである。曖昧でもよいと思うかもしれない。しかし、「何となく抱く連帯感」は「理由ない差別」を引き起こす因子でもある。

プラトンは一なるものと、それを存在として定める不定の二とし、これは不文の教説とされている。

曖昧なはずな言語が、ただ一つの言葉によって同じイメージや像を想起させることもある。これが詩である。文化史的には、私には、おそらく、象徴主義が用いたのはこうした人間の言語、創造といった面に「眠っている力」に働きかけた文学・芸術活動だったように思う。


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著者:ルチャーノ・デ・クレシェンツォ
販売元:而立書房
発売日:1986-10
おすすめ度:5.0


物語ギリシャ哲学史〈2〉ソクラテスからプロティノスまで

著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
販売元:而立書房

エトワールガラ2010のお知らせがbunkamuraから来ました。

前回、リアブコがすばらしかったので愉しみでもあります。前回同様、バンジャマン、マチアス、ドロテ・ジルベールも来日してくれるので待ち遠しい。
前回はボリショイのルンキナが参加してすばらしかったです。前回はルグリが筆頭でしたが、今回はバンジャマン・ペッシュが筆頭ダンサーになっているあたり、感慨深いものがあります。
今回はイザベルの変わりにオブラスツォーワが参加するようで、ラコット氏からのオファーをうけたとのこと。

ただ今年も公演時期に多忙期が重なっているので、公演は愉しみですが、日常と切り離せないのがやや気がかり...


以下はbunkamuraからのメール内容。

  『エトワール・ガラ2010』いよいよ28日より開演!

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 今年で3回目の開催となる「エトワール・ガラ」。ヨーロッパのトップダンサー
 がセルフ・プロデュースで行うこの公演は、毎回ドラマチックな感動の連続です。
 パリ、ハンブルク、ドレスデン、マリインスキーという4つのバレエ団からダンサー が出演する今回も、リハーサル時間の調整から振付家への許可まで、パリ・ オペラ座バレエ団のエトワール バンジャマン・ペッシュを中心にダンサー自身が行ってきました。だからこそ上演できる魅力的な演目、組合せがずらりと並びます。
 
 特に、この公演のために振付ける新作『三銃士』は、ダンサーからも「どんな 風に仕上がるかとても楽しみ!」との声が聞こえてくるほどの注目作品!まさに今、 ダンサー全員が集まってパリで最後のリハーサルをしているところです。
 トップダンサーたちが贈る“夏の夜の夢”は、クオリティの約束された優雅なひと時を楽しめる公演です。そして同時に、彼ら自身が手塩にかけて育てた内容 だからこそ伝わる情熱が肌で感じられる、稀有な公演なのです。


―――――『エトワール・ガラ2010』公演概要 ―――――
   会期:2010年7月28日(水)〜8月1日(日)
   会場:Bunkamuraオーチャードホール
   <出演>
   パリ・オペラ座バレエ団 
   マリ=アニエス・ジロ、マチュー・ガニオ、バンジャマン・ペッシュ、
   ドロテ・ジルベール、マチアス・エイマン、ジョシュア・オファルト、
   エレオノラ・アバニャート
   ハンブルク・バレエ団
   シルヴィア・アッツォーニ、アレクサンドル・リアブコ
   ドレスデン・バレエ団
   イリ・ブベニチェク
   マリインスキー・バレエ団
   エフゲーニヤ・オブラスツォーワ

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7月10日過ぎまでかなり多忙だったのでもう20日を過ぎているということに・・唯々焦ります。チケットをとったのが1月末。冬から雨季を経てすぐに夏という気がますますします。この間も忙しなかったからでしょうか・・
とにかく近頃はなかなか公演にもいけないので愉しみな公演です。先日サイトをみるとイザベル・シアラヴォアラが怪我で来日できない、とのこと。しかし前回のレティシア・プジョル、エルヴェ・モローらが来日できなくなったことに比べたらそれほどショックではないのですが、オペラ座公演のときに続けてなのでイザベルのためにチケットを買った方も多いと思います。

Bプロ内容が楽しみです。プティの「プルースト」は輸入版DVDがあります。



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先日記事に書いたスケドーニのクピド。
ナポリ カポディモンテ美術展で購入したポストカードを飾りました。


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パソコンと机がある部屋の壁。
カラバッジオのアートフレーム(「カラバッジオ展」(2001年)、スケドーニ(「墓の前の3人のマリアたち」 パルマ展時)、ドナテッロの「ダビデ」(バルジェッロ国立博物館(フィレンツェ)のブックショップで購入)を飾っています。

壁紙はラルフローレンの青です。これは輸入壁紙ではなくリリカラのもので、気楽にリフォームなどでも選べるはずです。私は家の壁紙すべてを10冊くらいの壁紙見本帳からすべて自分でセレクトしました。
どうしてもインテリアコーディネーターの方に任せることはできず....自分で選びたかったのです。かなり大変でしたが、壁紙は空間をどう仕上げるか、大きい要素になると思うので、色彩や柄など適度さが重要だと思います。
仕事場はこれの緑を使っています。
ラルフローレンの壁紙は使いやすくお薦めです。

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日曜日に夏野菜のコンソメ・ゼリー寄せを作ったのでそのときの写真、ダイニングの壁紙もそういえばラルフローレンです。ベージュ・クリーム色に薄いリーフの柄が入っています。もうすこしブラウンがかったものもあったはずです。
モダンでもクラシックでも使いやすいのではないでしょうか。
世間では3連休だったようですが、私は土曜日休みではないですし、月曜も通常通りの仕事日に設定したので、普通の日曜日でした。書き物をしたり、草取りをしたり、にこさんも散歩をしたり・・それでも月曜の午前中は比較的時間があったので助かりました。
スパークリング・ワインは酸化防止剤無添加のもの、生協で売ってます。
グラスはミケランジェロ・シリーズ、このシリーズは使いやすいのでお薦めです。「私の部屋」で取り扱っている食器類が一番好きかもしれません。
日常使いに丁度よいのです。

ナポリ カポディモンテ美術館展ではパルマ出身画家の作品も観られる。
パルマ展ではスケドーニの「墓の前の3人のマリア」が傑出していたのが記憶にあるが、スケドーニ作品は2点来日しており、「エッケ・ホモ」と「クピド」が展示されている。
スケドーニは不思議な画家で、少し距離をおいて眺めたほうが繊細さが際立つのだ。輪郭が適度にぼやけており、それは線よりも面で構成されているからかもしれない。
グイド・レーニ作品「アタランテとヒッポメネス」はこの展示でもっとも重要な作品だろう。本来、大きさ、完成度ともに現地ナポリに行かなければ見られない絵画の一つだと思う。肖像画が比較的持ち運びやすい大きさで描かれるものだとそれば、やはり主題をもつ歴史画は大作となる。その横に展示されている、ジョバンニ・ランフルコの「聖母子とエジプトの聖マリア、アンティオキアの聖マルガリタ」も眼を引く。エジプトの聖マリアの姿は、ドナテッロの「マグダレーナ(マグダラのマリア)」にそっくりだからである。おそらく、この画家はドナテッロのマグダレーナ(当時は洗礼堂にあっただろう、そして現在は大聖堂付属美術館(フィレンツェ)にある)を観ただろう、そうとしか思えない類似性がある。

秀逸なのは、マティアス・スメートル「エマオの晩餐」である。
カラバッジオ的な影響ーカラバッジオの「エマオの晩餐」はナショナル・ギャラリー(ロンドン)に現在あるーがみられるのだが、それよりも光源(蝋燭という人為的な光)と明暗の特徴はホントホルストを彷彿とさせる。そして解説を読んだところ、スメートルはホントホルストから影響を受けたユトレヒト出身の画家らしい。ナポリ・バロックは北方の画家をも光の氾濫の中で引き寄せているのがわかる。反動宗教改革について触れられているものの、ナポリの異端審問や内的自由がスペイン支配によって失われたことは、触れられていない。

今回の展示コレクションにはジャンボローニャの作品もある。小さいが会場を訪れたら、見逃すことはできない。
ルネサンスーマニエリスムの作品では、ラファエッロとレオナルドの特徴を合わせたような作品がいくつか見られる。ベルナルディーノ・ルイーニの「聖母子」はその代表例だろう。スフマートで描かれたマリアはレオナルドの聖アンナに似ている。マルコ・ピーノ「マギの礼拝」ではフィレンツェ・ルネサンスでは見られた東方的要素は見られない。例えばゴッツォリがパラッツォ・メディチに描いたような要素はほぼ見られなくなる。どちらかとえば、この時代の絵画はフランス古典主義に近いのである。

素描ではアニエッロ・ファルコーネの「戦士の頭部とヘルメットの習作」が秀逸である。

映像コーナーでは、カポディモンテ美術館について8分強の紹介がなされている。この展示では、地下部分だけで構成されているので、展示をみてからいつものように映像コーナーがあるホールへ出ようとしても出られないので、忘れないようにしたい。
私はいつものようにまず空いているうちにスケドーニ、レーニ、アルテミジアの作品を見なければと思って映像を後にしたのだが、映像を見ることを忘れそうになった。西美ではいつも、途中でこのホールを通過するので、つい作品を見るほうを優先させる人は注意したほうがいいでしょう。

見世物興行的な絵画展ではないので、混雑して絵が観られないということもないだろうから、観に行くときは、アルテミジア・ジェンテレスキ、スメートル2作品を見たあたりで、一度ホールに戻り、もういちど展示を見直しながら、一巡するとよいと思う次第です。

混雑は週末でもそれほど起きないと思います。西美は展示室も広いですし、椅子に座って作品を眺める場所も多いので助かります。
ミュージアム・ショップではイタリア製文具・レターセットの類もあるので(フィレンツェのマンドラゴラなどで売っている品)文具好きな人は楽しめると思う。図書館へいく途中、また7月から9月の間で適当な日がほかに思い当たらない状況なのですが(日常が分刻みな日が多いので、数時間まとめて時間をとれる日が極端にない状態です・・・)混雑していない、広さが適度にあり観やすい構成なので、体調が万全ではなかったけれどもー私的なことは省略しますがー観に行くことができました。

ここのところ夜中1時、3時半、5時半とにこさんの散歩へ出ています。
食欲がおちないように、気をつけてタイミングをみて少量ずつご飯をたべさせ・・・少々私の体力がついていかないことも。家の仕事が終わるのが1時過ぎなのですが、家人は明け方3時くらいまで起きていたりするので・・・私はいつ眠ってよいものか・・・と繰り返しの日々です。

ジョルダーノ・ブルーノ『原因・原理・一者について』(De la causa, principio e umo)、F.M.コーンフォード 『ソクラテス以前以降』、ベルクソン『講義録?』(BERGSON COURS 1)を読んでいます。


思想と動くもの (岩波文庫)思想と動くもの (岩波文庫)
著者:ベルクソン
販売元:岩波書店
発売日:1998-09
おすすめ度:5.0






原因・原理・一者について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)
原因・原理・一者について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)
著者:ジョルダーノ ブルーノ
販売元:東信堂
発売日:1998-05
おすすめ度:5.0

知らなかったのですが、ステージサイド席にプラス500円からTDRのパークに行けるプランがあるそうです(期間限定)

CIRQUE DU SOLEIL は 太陽のサーカス の意。
隣接するイクスピアリに時々買出しに行くのですがZEDを観たことはまだありません。・・・が、キャンペーン選考でZED+パークを体験するプランに招待されることになりました。


以下写真は以前(2006-2009)私が撮影したTDSの風景・町並み写真です。環地中海圏好きにはおすすめしたい。
意外と知人でも行ったことがないという人が多いようです。

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ケープ・コッドの建物、庭。
ダブルハングの窓や庭のアプローチなど実は結構家のつくりを研究していました。今でも植栽・草花のアイデアを貰うことが多いです。

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バラのアーチも。
庭にバラのアーチを作りたいと思ったのはバラクラ(蓼科)とケープ・コッドでしょうか・・・・

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ロストリバー・デルタからアラビアンコースト側へ。

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アラビアン・コーストも好きな場所です。
なかなか実際にはいけない地域なものですから。

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ケープコッドのたたづまい。
このエリアでは、アイリッシュ・ダンスやジグ、リールといったアイリッシュ・ミュージックがよく演奏されています。

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インディアナ・ジョーンズ博士の机上。
ユカタン・ベースキャンプでは夏はキューバ音楽が聴けるのが嬉しい。

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最も好きな場所。フォートレス。ルネサンス的宇宙論。
天体を動かすことができる場所。音楽がルネサンス音楽でとても好きな場所。

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テーマごとに音楽が鳴っているのがシーの魅力かもしれません。
混雑が少なく、建物がちゃんと背後も作られているので、建築好き(私のような・・・)には楽しめます。

予定のない日曜も最近では稀で・・過去に私が撮影した写真ばかりですが掲載してみました。

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オリーブの木を3本育てています。
3-4年たってようやくオリーブに実がつきました。
地植えにしたのが1本とテラコッタの鉢で育てているのが1本、今年は鉢植えのほうに花が咲いたので、もしかすると・・・と思っていましたが実が。



環地中海圏が好きなので、オリーブやレモンにあこがれます。
レモンの木も大きくなってきました。薄紫色の花がついたのですが、多忙で写真はとれず終い・・・・。
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オリーブはアテナの象徴らしいです。(月桂樹がアポロン)
樹木崇拝はどちらかといえば北方起源ですが南下したドーリア人がギリシアで樹木信仰を持ち込んだのが起源なのかもしれません。初期のギリシア神殿はすべて木造でさらには木そのものだったらしい。

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nicoちゃんと英国メリーソート社のベビーチーキー。

ここのところ気圧が低いので、身体に堪えます...それでも自分で設定した締め切りや期日よりも速めに終わらせていかないと気分的にも落ち着かず...変に張り切ってしまうのは変わりません。
にこさんは元気ですが、昼間は少々元気がない。朝は早起きなので、私も毎日4時半くらいに起きてます。寝る時間は1時過ぎてしまうので夏の忙しい時期になるまでにもっと調整せねば、・・・といいますか夏を乗り切る自信が余りありません。しかしEverything must go. なのですよね・・・
長時間留守にはできないのですが多忙期の2週間あまりはにこさんを半日は実家に預かってもらおうかとも思いますがその2週間が原因で弱ってしまったら、、と思うとかなり悩みます。
しかしコッポラさんが亡くなってから、母もぽっかり穴があいてしまったようで(亡くなった日も出社していましたが・・・)
たまににこさんをつれていくようにはしてます。ちょこは元気ですが、やはりクロはコッポラさんがいなくなって以来、弱ってきているようで・・・心配です。クロは国道沿いの駐車場で迷いイヌだったのを家につれてきたので歳はわからないのですがやはり15才にはなっていると思います。
コッポラさんが亡くなったときは、たくさんの方がお言葉をかけてくれました。



U・ロパートキナ(Uliana Lopatkina)のライモンダ。

詩そのものを観るようでグラズノフの音楽と一つになっている。
あえて言うならば”イデアの影”、とでもいうような・・・しかし言葉では表しきれないものがあります。後ろへのパ・ド・ブレでは見えない糸でひかれていくよう。イデア分有の可視の領域、人の眼にうつる美の極限を形と音楽、見える美と見えない美の境界線で、鮮明に線分として浮き上がらせる。具体的にいえば、パとパの境界をまるで感じさせない。

ライモンダは、新国立の抜粋版、ABT(ジリアン・マーフィ)の来日公演全幕を観て以来全幕では観ていませんがなかなか全幕を上演するには日本では難しい演目ではないでしょうか・・・。通常のロシアクラシック作品が主役2名とパ・ド・トロワ、コールド、キャラクターダンサーで上演できるとすれば、ライモンダはダンサーの層が厚くないと成り立たない演目だと思います。難しいとわかっていてもボリショイ次回公演でライモンダを上演してもらいたい(以前も書きましたが・・・)
WEB上ではギエム、エリザベット・プラテル、アニエス・ルテスエュ、ドロテ・ジルベールなどのライモンダが少々観られるようですが、プラテル時代の全幕映像がないのが本当に残念。

現在ではDVDでセメニャーカのものが再刊されています。以前はVHSしか無かった(キーロフの「海賊」もそうですが)ものです。

Raymonda [DVD] [Import]Raymonda [DVD] [Import]
出演:Irek Mukhamedov
販売元:Kultur Video
発売日:2004-12-21
おすすめ度:4.0






通わせていただいているスタジオではレッスン参観があり大変貴重な機会です。バーレッスンからセンターまで観ることができます。
最近では、ライモンダ、白鳥のパ・ド・トロワ、エスメラルダなどを少しずつ練習しているようです。
古典は振り付けが決まっている分、どう解釈しどうみせるのか、それもあたかも自然に、振り付けがもつ本来性を崩さずに形と線を表出するのか。観る側は割りと観たままの感想を口に出しますが、その形を身体が取得するまでには長い時間とレッスンの積み重ねがあります。
「人は時間をかけてより善きものを発見する」
価値あるもの、移ろわないものは、はじめから与えられはしない、ということをいつも思いかえします。

日記としては...推敲の日々。どうしても文章が長くなります。あっというまに一万字くらいに達してしまうのですが、おそらく理解が深まるほどに言葉もそぎ落とされて表現できるのでしょう。自分の立場と客観的立場との中間はどこなのか、不十分さと過剰な点はどこなのか、理解していると想いながら充分でない認識をどう察するのか、その自問の繰り返しです。

余談だが、いつも美術展の焦点が日本では特に、「美女/貴婦人(または高級娼婦)」といったものにあてられている気がする。つまり、基本的には「美女」を絵画においても日常においても眺めたいという素朴な願望が趣味として「絵画を観る」ことを「好み」とする層が一様に求めるからだろうか。そのターゲットを外すと、美術展自体が成り立たないのだろうか?とすら思うほどである。
そこまで鑑賞者を限定したりする方法/迎合するような時代でもないと思うのだが、どこかそういった姿勢を感じることが多い。

しかしいうまでもなく、絵画の主題や要素は、それにとどまるものではない。
何がいいたいかというと、こうした基準を顧みない限り、傑出した芸術が来日したり紹介されたりはしないだろう、ということなのだ。

また付け足しておくと、高級娼婦というと何かいかがわしいものを感じる人があるかもしれないが、西欧では特にー古代ギリシア以来ー知識や教養といったものはすべて遊女が身に付けたものである。「よい生まれの子女」ほど、「無学で何もしないこと」が推奨されたのである。前者はそれによって幸福になれたとも考えられない。ルネサンス期の女性の中には才能を教養を持ち合わせた女性も何人かいたが(ストロッツィ家出身でコジモでメディチにその才能を認められ、息子ピエロ(イル・ゴットーゾ)の妻になりーサンタ・マリア・ノヴェッラにはドメニコ・ギルランダイオのフレスコでその姿が描かれているーロレンツォ・イル・マニフィコの母やエステ家のイザベラなど)それは稀であった。知識や博学な女性を年齢や性別を理由に貶めたりするのは、決まって嫉妬深い男たちに拠る。ルチアーノ・デ・クレシェンツォはこうした男性たちや、我が物顔で愛を独占物のように扱う妻や母親に対して、愛と力を欲する「法王の領域」というカテゴリーを宛がってる。少しばかり考えてみれば当然である。この領域は「愛」が「憎」に少しばかり変化するだけで「暴君」に化す領域だから、他者依存的な老若男女は、そういった危険を無意識に周囲に振りまいていることにもっと注意深くなるべきだろう...と思う次第なのだが....。ルチアーノはこの領域には古いタイプの企業家も含めている。表では愛や温厚さを振る舞いながら、自分の利害を第一に、いやそれ以外のことはどうでもよいと考えるタイプの人間が要するにここの領域に相当する。(いうまでも「法王」とは比喩の問題である。すべての法王がこの領域にいるということではない。賢者の領域にいる人物もいたし、暴君の領域におかれる者(サヴォナローラを破門し、サヴォナローラもまた破門した(!)アレクサンデル6世やボニファチウス8世が例として挙げられている)私は単なる範疇・カテゴリー分けをあまり好まないが、このカテゴリーが興味深いのは、座標軸で顕わされ、常に移動変化するものとして表されているからである。

歴史画が長い間、絵画彫刻で主題だったので美女(なんという主観に左右される概念だろう!・・・)というキーワードで展示を構成すると、ほとんどは単に眺めるだけか、装飾的な絵画になってしまう。なぜかといえば、歴史画と肖像画の間にあるものになってしまうからだ。しかもこのジャンルから宗教画を取り除くと主要作品ほど来日しないという状況になる。そうなると中間層のための消費的な絵画中心となり、・・・・ということに繋がる。単に眺めるだけに堪えられるべき絵画がどれほどあるか、というと実はそれほどにはないように思われる。カテゴリーの問題ではないとしても、新しくしかも独我的でない芸術というのは、カテゴリーとカテゴリーの中間にあって、多様な要素をあわせもっているものである。
そして、消費主義的な展覧会の要素は、つまり、花押(だれそれの作品)だから、という理由で価値付けを行わないことだ。それは本来的な価値とは別である。

日本美術の歴史日本美術の歴史
著者:辻 惟雄
販売元:東京大学出版会
発売日:2005-12
おすすめ度:4.5

カラー版 日本美術史
カラー版 日本美術史
販売元:美術出版社
発売日:2002-12-25
おすすめ度:2.5

カラー版 西洋美術史
カラー版 西洋美術史
著者:高階 秀爾
販売元:美術出版社
発売日:2002-12-10
おすすめ度:4.0

西洋美術史ハンドブック (Handbook of fine art)西洋美術史ハンドブック (Handbook of fine art)
販売元:新書館
発売日:1997-06
おすすめ度:4.0

新装版 西洋美術解読事典新装版 西洋美術解読事典
著者:J・ホール
販売元:河出書房新社
発売日:2004-05-01
おすすめ度:5.0





解読や理解を伴わない絵画鑑賞は、ではどうなるかというと、1)感覚を悦ばすもの・自己満足的な好みのレベルで観ること 2)外的権威づけ(だれそれの作品とか、誰のコレクションであるとか) 3)金銭的換算によるもの (ゴッホのひまわりが何億円であるとか)のいづれかを引き起こすのである。

ジオット、チマブーエ、マゾリーノ、マザッチオらは自分の絵画にサインをしたことはない。ゴッホは生前に絵が売れたことはない。(「哀しみは永遠に消え去らない」この詩を曲にしたのはマニック・ストリート・プリーチャーズである)
何家のコレクションであるというタイトルは日本美術の間でも、西洋美術の間でもここのところより顕著である。「皇室の至宝」とか「冷泉家の・・・」とかのタイトル、ハプスブルク家の・・なども基本的にはそういう呼び込みをしている。この趣味の人々は基本的に所有と単なる豪華さ(つまり装飾的美)を好み、鑑賞によって観照にいたること、自省的になることを望まない。自己認識が変化することも望まないし、フォルムにあるべき姿を望まない傾向がある。企画自体が問題というよりも、広告の仕方が問題があるのかもしれないが、・・・また画家の生涯を読み取って同情したり感傷にひたることもあまり意味がない。
形式を理解することは、個有のものをよりよく理解することに繋がる。
私は西洋美術史と日本美術史ともに学んだが、何が表層されているのか、それを理解すると愉しみは拡がるし、価値をみすみす見逃したり低く見積もったりすることは避けられると思う。また商業や広告によって誇大に表現された価値づけに対しての自分で判断できるようになると考えている。何より流れを知ることは、モノを見るだけでなく、そこに生きた人個人とそこに生きた大多数の人々の価値観を知ることができる。そして現代に価値が置かれているものの多くは、当時の大多数の人が理解できないか、価値がないと見なしたもの、批判にさらされたものであることがわかるだろう。あまつさえ、芸術的に生きる場合は多くの場合、死か孤立を余儀なくされることが多いのだ。

幇助のシステムも、工房やギルドといった結びつきも都市から失われた現代では、才能も多く沈み込む時代になっているという想いもあるのだが私だけだろうか。

駐日英国大使館からお知らせを頂きまして、ヘイグ外相が来日していることに関して、一般からの質疑応答にツィッターを媒介にして応じますということでした、

アジア、やはり西欧にとってのアジアは一つのカテゴリーなのでしょうか。
私たち東洋人、東方にありつつ西洋的生活様式に次第に融合されてるものとしては、中央、東、東南、中近東、西とアジアと一言と言ってもなかなか一緒くたにできるものではありません。私がいつも気になる点としては一つ、気になるというよりもやや気をつけるようにしてるのは、アジアと一言で述べられてた際にオリエンタリズムに根ざしているのかどうか。
つまり、文化としてみるのではなくあくまで、利用すべき文化、民、風土、といったものが微量でも含まれているのであろうか。

個人的に聞きたいとするならば、英国、フランス、ドイツ、イタリアなどについて差異を端的にのべることはおそらくほとんどの日本居住者にはできるでしょうが、英国ではいかがでしょうか。ということです。そしてその差異に興味を惹かれますか、そこと提携するならばどんな点に注目しているか、などです。同じ意見を国内でも問いたら結果を知りたいくらいですけれども。

く意見を募り、それに応えようと、対話可能な領域にしようというのは評価が高い点だと感じます。何事も閉塞性の中では、現時点よりもようり悪くなるからです。


7月11日は参議院選挙ですが、「イギリス議会史」(有斐閣)はぜひ一度読んで貰いたい本の一つです。

「イギリスの議会政治は二大政党制によって運営されて来たとはいえ、その二大政党がいずれも第一次世界大戦までは地主ないしブルジョワジー、すなわち有産階級の基盤の上にたっていた。しかしながら、イギリスの議会が、封建体制の中から生成しつつこれを克服し、また絶対王政と戦いつつブルジョワ民主主義の政治体制を築きあげ、政府の施政を批判しつつ国民の自由を大幅に拡げてきたことも、明らかな歴史的事実であって(略)今日のいわゆる自由民主主義諸国における政治体制は、いずれも、以上のようなイギリス議会政治の体制を多少とも模倣して、成立し発達して来たものである。われわれは、有力な反対党が存在して、政府に対する活発な批判が行われることにより、国民の政治的自由が確保されるものと考えるが故に、イギリス流の議会制度が、いかにして成立し、どのように発達してきたかを知ることは、今日依然としてわれわれの重要な課題であると思う。」(p2-3)



この本は新書か文庫に入っているべき本なのですが、現在は絶版。講談社学術文庫などに収録されるとよい、と個人的にはおもいます。図書館などのリクエストサービスを使うか古書で手にするしかないのですが一読するべき本です。著者は御茶ノ水大学教授の中村英勝氏。

イギリス史 (世界各国史)イギリス史 (世界各国史)
販売元:山川出版社
発売日:1998-04
おすすめ度:5.0
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イギリス議会史 (1977年) (有斐閣双書)

著者:中村 英勝
販売元:有斐閣
発売日:1977-04
おすすめ度:4.0
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間接民主制では、我々は代表者しか選ぶことができない。
イギリス議会は封建制の中から発展し、14世紀には庶民(コモンズ)が代表として召集される。(庶民=住民ではない)15世紀には次第に議会の重要性を増していく。それは租税担当者の同意が課税には必要だという原則が14世紀には確立していたからである。

(給与から銀行口座を経て「手取り」化されるシステムはおそらく・・・租税担当者である自覚と、「自分の欲望を満たす金額」が得られていれば、労働者であるという階級意識を持たないということを補完するのだろうか。つまりアイデンティティが消費者だけになることを意味する。政治行政からも遠のき、なおかつ消費する生き物としてのみが企業社会から「与えられて」いるだけになる。結婚や葬式、あらゆる「商業(コメルス)」が生活全体を取り巻く。すべてはシステムの中に収斂されていく。)

代表者は代表の母体を代弁せず、自らの社会地位の保持、家の安寧などを求めるならばそれは寡頭政治である。
形骸化した参議院と在地でない代表者(選挙区)を選出する衆議院、どちらも日本においては自由民主主義というよりも封建制と寡頭政治に近い。さらに多数の有権者がマスコミや目先の利益のために多数派となれば、衆愚政治となる。−−−日本では歴史はもっぱら暗記科目とみなされるが本来は先のことを考える、出来事の意味を考えるための科目である。では現在の政治は、何をカモフラージュしつつ、誰の権益を擁護あるいは補強しているのだろうか? 租税はどこに使われているのか、無駄といわれる項目に対して、無駄とみなされない、多数が容認する租税の使い方、使われ方はどうされているか。

その背後にはどのような団体や企業があるか。考えてみれば、おのずと本当の「支配層」が明確になる。
本当の支配層は「顔」がみえないようになっている。
マスコミ報道で、「失言」が過多に流されるのは、その本当の支配に気づかせないためのカモフラージュである。実際の施政の過ちや無駄といった実際の害悪について、気づかせないためである。

様々な法制度は、それを決めた側と運用する側にしか情報提供されていないことはままある。
実際、顔が明確な寡頭政治よりも、民主制のほうが過ちや恣意的権力乱用、権益保持は容易なのだ・・・・

紀元前5世紀にあるアテネ人はこう記している。
「寡頭政治の環境におけるよりも、民主政治の環境におけるほうが、自らの悪行を隠しやすい」
この当時はまだマスメディアはないので、政治家はつねに直接演説していた。TVはあたかも、映像と音声とテロップによって擬似体験のような錯覚を提供する。TVが取り上げる「失言」は実際問題での過失や被害者が存在するかどうかよりも、情報を流す彼らにとって「好ましくない一節」を切り取って前後関係を編集し、繰り返し放送する。私たちはなにも知らされないにもかかわらず、何かを「知ったような」気分になる。

気分ーすべては”気分”で左右されている。
真実や真理に照らされるよりも、偽りの感情に安心を求める。

選挙後に繰り返し発表される支持率−私は世論調査の類に遇ったこともないし、身の周りの人でも調査されたという人に遇ったことはない。
なにか、「皆が見聞きする情報」 ならば正しいと思い込むような風潮は、少しずつ顧みられているように思うけれども、なおも「知る」構造は閉塞し、第四の権力として娯楽と一体化して透明な支配は拡大している。

それと同時にこの時期思うことは、法制化された制度があるにも関わらず、ほとんど「知らされていない」ことが多いということです。しかもそれは、制度を運用する側、提供する側の内部でしか知られておらず、行政機関従事者だけが活用しているというような事態も多々ある。

「内なる視座の欠落楽」 −−自分たちだけがよければそれでよい、そういう人が多い気がします。

何かを得るときに、自分だけ得ていてそれがよいことなのだろうか。
おそらくは共有されて始めてそれ自体の良さは活きてくる。

所有は、実は苦悩の始まりだが・・・
”独占することを「共有」する”人たちがいる。
そして疑念をまったく抱かない、自らを省みないという人たちは現に存在する。その不当さまでも共有し、それが当然・日常となっている人たちがいる。しかもここで生じる過失はおそらく、多くの人は気がつかない。
多くの人が気がつかないように、悪意なく共謀しているからだ。
だから実は多くの悪循環はこうした「透明化」された部分にある。
その権限にいるべきでない、相応しくない人が場所にとどまることによってそれは続く。相応な人ならば、相応に、適度に何をするべきかを自分に問うからである。


「多くの人びとは何とかして生命を延ばそうと腐心する。ほんとうは生活を深める必要があるのに!」

(物語ギリシア哲学史 コラムより「トニーノ・カポーネ」)

ソクラテス以前以後 (岩波文庫)ソクラテス以前以後 (岩波文庫)
著者:F.M.コーンフォード
販売元:岩波書店
発売日:1995-12
おすすめ度:4.0
クチコミを見る



物語ギリシャ哲学史―ソクラテス以前の哲学者たち物語ギリシャ哲学史―ソクラテス以前の哲学者たち
著者:ルチャーノ・デ・クレシェンツォ
販売元:而立書房
発売日:1986-10
おすすめ度:5.0
クチコミを見る

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フットタウン(と東京タワーに付属する建物は呼ばれているんですね..)で開催されているNEVERLAND展に立ち寄ったときに撮影。

THE POWER OF THE MUSIC
IS THE POWER OF THE SOUL.

まさにそうだと思った言葉。これ以外にもマイケルの詩が最後のセクションにあるのですが、上昇と太陽(一)、より原初の太陽と一とウマニズムがエンターティメントとして顕わされるというのは、ほんとうに稀有なことだと思った。SEEKER、探求者という言葉も印象的。
マス(大衆)の快さとして消費される音楽ではなく、覚醒の契機としての音楽、POP(ポップスではない)・・・息の長い音楽はこういった特色をもつと思う。ふと思うのは、消費は生成に転換できるのだろうか・・・?

音楽を「感覚を悦ばすためだけのもの」としてカントは不必要としたが、そういうものでもないだろう。私は割りとエマニュエル・カントは好きですが、ドイツ音楽・ロマン主義などの風潮のもとではそう思っても仕方がないかもしれません。
私が思うに、感覚に依拠すれば音楽も絵画のように堕落する。消費に依存すれば全ては広告化し時とともに崩壊する。時によって価値が劣化しないもの、そして特別な説明なくして、人をひきつけるもの。人がそれについて語りたくなるもの、感情を超えて引き寄せられるもの、それが「生成」の力、人に分有された「創造」「想起」の力ともいえる。

スクリームのセット(いす、キーボード)があり、あの影像を観ると何かすべてCGで作っているような錯覚を覚えるのだが、実際にこうしてセットが「造られた」のだと不思議な感慨があった。展示会場自体は、やや雑駁で演出も含めてそれほど展示に工夫がみられるわけではない。料金設定もやや高め。どこか、「モノ」を見せるだけという要素も強いのだが、それは仕方がないかもしれない。


ダイアナ妃とマイケルの写真が印象に残っている。二人ともマスメディアの餌食となり急死しており死因や背後の事情もわからない。
なぜかダイアナ妃が急死した時は、よく覚えており、丁度私は新宿の紀伊国屋書店にいく途中だった。だからニュースを街頭で見たのを記憶している。

アンソニー・ギデンズが「暴走する世界」で言うように、1日に巨学の資金が動いている。あたかも自らに不可能がないかのように投資によって生活している支配層にとってはおそらく、世界の暴走も自然現象のように、必然のように、事故や急病として起こせるのではないだろうか。
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バランス、調和をとるためにエゴを乗り越える人は犠牲となるし、事がすめば、「洞窟」にいる人々は死を単なるできごととして、せいぜい個人的感慨の内にしか想いを寄せない。自らもあるべき方向へ向き直るべきなのに。

彼らが真実を語り始めたら困惑する、または権益を失う人々、どこかそれは帝国主義の時代から、「顔」のみえない支配者たち、という想いもしてくる。

ところで近代ジャーナリズムの先駆者といわれるのはピエトロ・アレッティーノである。ミケランジェロ・ブォナローティの敵であり、「獲物を狙う冷徹な眼」は徹底したリアリズムと恐喝と追従をあわせ毒舌に溢れた文であらわされた。
権力者への追従と物欲の塊ゆえに、権力欲や物欲が薄いものの気持ちはこういう人々にはわからないのだろう。
彼らの基準からは外れたものは、「偽善」「異常」のレッテルを貼られる。彼ら自身、マスメディア自体が「道化」なので、「真実」を語るものは、「道化」や「偽善」のレッテルをすぐに貼りつけるのである。そして我々は、ほとんどのことを、メディアを通してしか知ることはできない。我々はメディアではなく、真摯な学問研究の結果としての書物・テキストを通じて、与えられた「真実」を吟味しなくてはならない。
このメッセイジの背後にある本当の情報は何か。
何をイメージとして「ばら撒きたい」のか。
多くの人を何に「従属」させたいのか?(しかも自ら望むようなやり方で)
良心や良識ですら利用されるのであり、大衆を目覚めさせようとするアーティストが「死」を迎えると、神聖化されるが故に、最近は事故死や犯罪者に仕立て上げられるというような疑念もよく現れてるように思われる・・・

理想主義は、より善い将来を望むのだが、それが理解できない人は、理解できないものへの羨望からか、彼ら自身の「知」の絶対化によって、理解できないものを誹謗し始めるか、価値のないものとしたがるように思われる。理想は、現実認識の次段階なのであって、空想的産物ではない。
自称「リアリスト」はそれゆえに最初から現実よりもよい結果をもたらすことはない。

話がそれてしまったが、娘が見たがっていたので観にいけてよかったと想います。もうすこし展示自体が充実しているとよかったです。
私も娘も5月からほとんど休みはありません。もっとも「休み」とは何かといえば、単に「休むこと」にあまり意味を私は感じないのですが・・・

断続的に体調が崩していたので(それでも期限がある作業や仕事はこなしているので余計でしょうか・・・)、ナポリ国立美術館展(西美)もまだ行けていません・・・

帰りは神谷町まで歩いてから帰りましたが凄い雨でした。
図書館へいく際によく東京タワーは見るのですが、足元から見上げると遠くから見るのとはまったく異なる実感がある。
「橋は下から眺めるのがよい」という「死霊」の一節を思い出してしまうのですけれども。


マイケルが作品・CDだけを見てほしい、聞いてほしいといっていたメッセイジは痛切である。後に彼がシンガーではなくダンサーにより傾倒していったのも理解できる。以前も書いたが、ダンス・舞踏の身体表現は、翻訳がいらない言語なのだ。しかも日常生活を節制する必要がある。メディアが彼を放埓扱いするのは、その節制やコントロールを理解できないせいなのだ。メッセンジャーとしての「天使」や「隼」「鷲」といったモチーフが好まれるのもそういった背景がある。一としての太陽と地上の中間にあるのが、知者としての天使だと考えられるものがある。(だからピコなどは天使も階層化してとらえている。)

「すべてを一瞥のもとに理解する存在」
この視点は、映画「アレクサンダー」(オリバー・ストーン)にも多く出てくる。だから古代から中世の人はそういうイメージでヌースというものの原型を見たのかもしれない。

中沢新一が「天使空間」としているのは、地上と一者・原理の中間であって、地上(生きて死ぬという時間と空間と物質に限定されたもの・人にとっての必然)からより光とより善きものへの憧憬と自省、さらにはイマージュの空間である。・・・・

地上を越えたものを地上にいる人間が完全に認識することは不可能である。だが不可能なものの余地を取り除くことはできない。気がつきながらそのことは保留するという態度もおそらくは肯定できない。・・・(ウィトゲンシュタインのように)


純粋さと完璧さは同様である。
だがそれゆえにそのままでは地上において生きることは困難である。どういう小ささであれ、我々は完全な自立はできない。私性を完全に切り離すことはできず、どんなに最小限でも物質を得なければ生きられないからである。しかしそれゆえに、様々な悪を選択することもできない、というかそれをする自らを赦せない。永遠に生きるように一瞬一瞬に死ぬように在ること。
そのように在りたいと望むことはよいが、そのように在ることを選択する人をただ眺めて満足することは、裏切りである。
(多くのミュージシャンたちが味わうのはこの点なのだろう。彼らは詩人でもあるから、舞台の上に生きるとき、どこか生死をともに感じるのだろう、観客が異質にもかかわらず、喝采を浴びて望まれるからである。多くの人が熱狂すればするほど孤独は深まる。成功すればするほどギャップが深くなる。何かを切り売りしているような気分になり、自分自身が影のように感じられ、影しか人の目に映らなくなるのだろう・・・)

こうした意味をわからないかわかりたくないという人は、容易に、真摯さを道化とみなす。対極にあるものでさえ、区別ができないのだろうか。


七賢人のビアスは、「自分が何も書かないほうが、みんなのためによいのだよ。」といいながら、何か痕跡をのこせという声に応えて、躊躇しながらこうギリシアのデルフォイにこう刻んだとされている。

「たいていの人間は劣悪である」

・・・「サッカー試合の最中に競技場にはいりこんだことのある人なら、群衆の素顔を知っているはずだ。古代ローマの剣闘士は敗れた場合、皇帝に助命を乞うことはあっても、大衆にそういうことをしたためしは全くなかった。大衆は親指を下に向ける(死刑宣告をする)に決まっていたからだ。ローマ市民が一家そろってコロセウムに出かけたのは、できるだけ多くの人間が殺されるのを観たかったからなのであるし、こういう考え方は今日まであまり変わっていない。
人間がこの世でもっとも残酷な動物であることは、誰も疑うまい。唯一の希望の曙光をあたえてくれるのはベルクソンであって、彼の言によれば、人類は遅々としてではあるが、断然だんだんとよくなっていくという。」
(「物語ギリシア哲学史 ソクラテス以前の哲学者たち」 Luciano De Crescenzo)

私自身といえば「大抵」とか「多数」とか「みんな」というものから遠ざかっていることを望むし、同時にあまり「みんな」という言葉で1人1人の個人を一概にとらえること、レッテルづけることもしたくはない。

少しずつよくなっていく、これは事実である。
だがその進展すら瓦解させたり退行させたり逆行することもおきる。
これは容易におきるものであって、考えることよりも信じること、行動することよりもその場にとどまること、他者の領分や生産性を安楽に奪うこと、そういったことを自問せずに望む多くの人によって容易くおきる。そしてこの逆行は、逆行であるがゆえに、多くの人を巻き込んで、誰にも、真の利益をもたらさない。

・・・今日ではあまりにも容易く、退化が加速度的なので絶望的にならないことのほうが難しい。

人間は、自分が味わった経験を同じように他者へしてやろうとおもうか、または、自分が嫌だったことは他者には味合わせたくない、改善したいという意志を持つのかのいずれかであるが、大抵の場合は、自問することなく前者の行動をとっている。

ブログネタ
何語を話せるようになりたい? に参加中!

何語を話せるようになりたいか(ピックアップテーマ)、・・・基本的には都市に行くなら世界中用件は英語で済んでしまいます。特に非英語圏で英語で会話するのはかなり楽ですね。
しかし、どんな観光地であっても、その土地の言語でお礼、料理や飲み物の感想やオーダー、謝辞、簡単な会話などはその都度予習するべきだと思います。言語が用件だけ満たすための言葉ならば、それは道具にしかすぎません。ですが、発語するということはそれ以上の意味を持つ。
相手の言語を話す、話そうとすることはそのまま相手への尊重を意味する。自国語もそうですが。だから英語は便利で共通語となるのはいいのですが、公用語と称して自国語を省みない風潮もあまり良いとはいえません。このバランスのもと、多言語状態になると多言語な分、視界が開けるのではないかという気がします。

イタリア語は日本人には向いている言語だと思います、私ですらイタリア語で聞き返されたり、通じなかったことはありません。本当にないです。読みもローマ字読み(だからローマ字なのだが)でよいですし、rの発音も楽。やりたいかどうかよりもやらねばならない、のは目下フランス語なのですが、この言語は集団化したときの動詞活用がとても特徴がある。英語は、私(I)と貴方(YOU)の緊張感がとても強いと感じますが、フランス語は、どちらかといえば、私たちとあなた方の差異がとても強いように感じます。音声言語ですから、聞いたときの差異が言語文化の背景をなしているように思います。
読めるようになりたいと思うのは、ラテン語。美術史・建築関係ではイタリア語がやはり読めるとぐっと読める文献が広がるので読めるようになりたい。ちなみにラテン語に近い言語を見たり覚えていると・・・・・英語が読めなくなります。仕事で使うときに、ときどき戸惑います..
頭を切り替えるのに時間がかかります。

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Kさんからサウジアラビアのお土産いただきました。

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ブログのキャンペーンで頂いたユーカヌバのフード。小粒なのは丁度いいですが、ドライフードはやはりなかなか大変です。ただ食べられるならドライのほうがいいそうで(やはり噛むことは重要ですよね)なるべくドライフード、お腹の善玉菌にも配慮してあるものが好ましいのですけれど。
にこさんは食べたり食べなかったり・・・ですので食事にはタイミングも気を使います。私が食事をしないと、同じように食欲がわかならいらしく、どうもシンクロしてしまうよう。
フィラリア予防にジャーキータイプというのが出ていて、いまはこういうのがあるのですね。獣医さんの記録をみると、3.4キロくらいあった体重も今は3キロ以下で(獣医さんにいくときは大抵やや元気がないときではあるのですが)ここ数ヶ月は2.7-2.6キロくらいです。体調がよいときも2.9キロ以下では・・・と。少しでも食べないと不安になります。

色々とやることが山積みなのですが・・・・在宅仕事時間は、家のことや家人のこともあってなかなか時間が取れません。小さいノートパソコンを買って移動中などに数十分でも時間をつくらないと、なかなか・・・難しいかもしれません。
試験を受けたり、試験の引率をしたりと週末が終わると異常な疲れを溜めていることもしばしば・・・。
昨年はあっというまに7月ー8月、暑さを感じる間もなく(早朝家をでて夜帰宅し、夜中に課題をやるという繰り返しで)秋雨になっていたのですが今年も同じような状態になりそうな気がします。秋に夏の疲れがいつも出て10月-11月頃特にここ数年悲惨な状態になるので、今年はあまり無理したくないのですが。


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...雨が降ると、ひどくコッポラさんを思い出します。
写真はアナベルとガクアジサイ。

時間がなく、写真は撮れていないのですが、ピエール・ド・ロンサールも返り咲いています。コッポラさんのお墓にも何度か花をもっていきました。