1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

June 2010

Image986

写真はティージング・ジョージア(イングリッシュローズ)


少々....というか控えめに書いても大分といいますか体調を崩しておりました。20日から月末、月初めにかけて大抵いろいろと重なりますので、自分の力不足を実感するといいますか・・・

この実感を克服して克己心にかえられればよいのですが、やはり時間や、自分よりも努力している人、をみて自分もまだまだやらねば、と思えるのであって・・・ 

個人的感情の部分は書きませんが、なかなか道程は険しいと思ったり。

ゼノンが死の直前に言ったとされる
「徳は必要だが、幸運もまた必要だ」という言葉がリフレインする。

しかし幸運は、幸運を享受している間は気がつかないのかもしれない。


アニエス・ルテステュの「パキータ」を久々にDVDで見たのですが、パ・ド・トロワのエマニュエル・ティボーがすばらしい。ジョルジュ・ラトユールの絵画を彷彿とさせる衣装。ラコット復刻版はコール・ド・バレエの振り付けが好きです。
「パリオペラ座のすべて」で、ラコット氏が「なぜ酔う必要がある?」とコメントする場面があるのだが、私も同感なのです。バレエは純然たる美、光が真理を照らし出すように、言語そのものに「打たれる」ようにあるべきもので情緒や物語性は二次的なものである。

つまり、光によって自らを認識するように、本来性へと導く力を舞踏と言語は持っている。それは実質として、物質を媒介にはしているけれども、物質によって魅了されているわけではないからだ。

今年観たい舞台は、ベジャール・バレエ・ローザンヌの「80分世界一周」なのですが・・・
なぜベジャールが録画して作品を残す方法をとらなかったのか、いまになるとよくわかる。つまり・・・作品は、上演されなければならない。書記による記述によってのこるのではなく、口伝で生き残るようなやりかたで、人々の記憶にメモリアされ、その舞台をつねに再生できるようなダンサーと、観客の両方の立ちあいを求めるのである。精神的な自己革命を求めるのであって・・・(それがこの芸術の利巧的でもあり傲慢といわれる部分もあるかもしれないのだが)愛好家たちの趣味・ホビーに芸術が化すのを阻止しているからでもある。
それとは別に、ドラマトゥルギーとしての演劇の力が大きく作用するから、でもある。

まあとにかく、・・・・・日本の劇場は閉幕したあとの忙しなさといったらない。本来はその舞台のために、そこに集まった人でなにか会話や対話やらが交わされなければあまり劇場空間としての意味もないのだが。

すべてのヒエラルキーは固定されるべきではない。
私たちはそのヒエラルキーとカテゴリーを時と場所、場合によって、移動する。


ここまでは前日の下書きです。
今朝、コッポラさんが17歳と14日で亡くなりました。朝5時すぎに弟から電話があり、車で迎えにきて貰いました。娘とにこさんも一緒にお別れにいきました。
3月から歩けなくなりましたが、歩けなくなってもずっとトイレを鳴くか、尻尾をうごかして教えたのでなくなるまで一度も家の中で粗相をしたことはなかった、と聞き、子犬時代のことを思い出しました。
子犬のときも一度もしませんでした。いつも鳴いて教えてくれるか家族が帰宅するまで待っていました。母親が会社の旅行などで帰れないときは、ずっと玄関で寝ないで待っているような子でした。近所が火事になったときも耳がよいので夜中に吼えて教えてくれたり、それがだんだんと15歳くらいからは耳が悪くなっていきました。
その日の晩はにこさんが夜中にとても落ち着かない様子で私も2時と4時に起きていました。
亡き骸をみて、やはり心身は一つであるけれども心・魂は物質とともに消滅するようなものではないのだ、と思えて仕方がなかった。

弟が中学生のときに友達の家から譲りうけられて生後2週間で家にきてからずっと家の中で暮らしました。
5月半ばからだんだん食事もとれなくなって、水とミルクをスポイトで飲ませていました。ほんとうによく頑張ったと思います。
同じ兄弟たちは8歳前後で亡くなったので、ほんとうに長生きでした。
一度家に帰ったあと、庭にさいているアナベルとバラをもってもう一度お別れに行きました。
P1010427


P1010428

写真をフレームにいれて、母に渡しました。
去年の11月末に散歩中にとったもの。

記憶されている限り、生き続ける−−不死なのだ、全てが失われるわけではないと思うのですが、それでも哀しくて仕方がないのです。

P1000281


サンマルコ修道院を思い出す。

14世紀クワトロチェントのイタリア、スコラとプラトン主義のネオプラトニズム的解釈について、コジモ・デ・メディチのパトロネージについて、フィチーノの生成と場について考えているせいか
場は想起の契機ともなりうるのではないか。

それが本来的想起であれ、個人的なメモリア、情緒の一部であれ、場はそうした力をもっている、のかもしれない。

コジモの個人的な礼拝するための部屋もおとずれたが(2年前だろうか)
サンマルコ修道院とドメニコ会、を少し知るようになった今では、またその場に訪れたら何か気がつけることが増えるような気もする

ジョバンニ・ピコ・デッラ・ミランドラはサヴォナローラの前で息をひきとった。秘書による毒殺であったとされている。フランス軍がフィレンツェに侵攻した日である。
コジモはドナテッロに、遺言で死後自分の隣に埋葬されることを望んだ。

サンマルコにはサヴォナローラの部屋も残されている。



・・・死はその人全体とその人の生を照らし出す。
思慮ぶかさとは調和である。

知は支配のためには動いてはならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




自らの正当性や生の優位性、自らの活力もまた、他者の犠牲や他者の死、正しいが故の死、殉死のような構図を・・・・本能的にもとめる人がいる。しかも多神教と無神論者(自負にすぎないレベルにしろ)世界ではより多数がこの心性を持つ。他人の死や病気、病状、抵抗できない人への懐柔、そういったもので自己の支配欲をみたす人がいる。

下位への配慮、同意の結合、上位への転回、そういったものをプラトニズムでは由とするのだが、下位への支配、同位での抗争、上位への従属、これは善に反する、とごく単純に私には思えてしまうのだが、・・・

ドイツで歴史上いわれ問題となった「知識人の裏切り」

これはいたるところにはびこっている。なぜ「知」を従属、しかも既成権力への従属と配慮への道具としてみなすひとが多いのか、・・・・・疑問だし、そういった人には、ほとんどの「言葉」が通じない。だから私は遠慮するしかない、と思うことが多い。


P1000285

フィレンツェ サンマルコ修道院(美術館)にて 2年前 4月(FIRENZE)

アルベルトゥス・マグヌスがいったように場は生成と作用の場であり、サンマルコと付属図書館(ニッコロ・ニッコリの私的蔵書をもとにしてつくられた。)もそうであったろう...

生は煉獄である、もしそう思えないならばそれは忘却しているからだろう...
私はといえば、ペシミスティックに気分に関らず、言葉そのもの、のレベルになれればよい... 肉体は解体される、おそかれ速かれ、それは私の実体ではない。
これは単に苦しみから逃れたいとかそういうことではない。・・・・

P1020982
写真をデジカメで撮影しているので、画像を取り出すのに時間がかかります.. イングリッシュ・ローズのLD.ブレスウェイト。ピンクのほうはニュー・ドーンです。つぼみが開きかけたときにまさに「新しい夜明け」のような美を持ってます。


批判的であることが非生産的であると思い込まれているのは、ありのままの受用、本性のままでいることに何も問題はないという意識に基づいているのだろうか。批判とは了解と提題としての応答であり、それは相手を認識しればこその反応である。無反応を由としたり無条件の従属を由とするのは、相手を本当の意味で認識していないからこそできる反応なのだ。ギャップは常に横たわっている。
しかし批判は他者を貶めるためにある手段ではないし、批判することによって自らの優位性を確保するものではない。

自らと他に分有されている本来性を求めることに拠っている。

「雄弁の伴わぬ知恵が共同体の役に立つことはないが、逆に知恵の伴わぬ雄弁も害を与えること甚だしいだけで、決して何の役に立たない。従って、学問と道徳に真剣で高潔な関心を寄せることなく、ひたすら全ての努力を弁論の鍛錬に向ける者は、自分自身にも何の役に立たないばかりか、祖国にとっても有害な人物にしかならない。それに対して、祖国の利益を阻害するのでははく、祖国の利益の為に戦う手段として弁論で武装する市民こそ、自身にとっても全体にとっても最も有益で好ましい市民となるだろう」(キケロ『発想論(De inventione)』

弁論の鍛錬とはあらゆる方法知と技術に向けられるだろう。
専門知識を持つものもその結果生じるかもしれないブラックボックスの未知に関しては、その知識がない人と同等なのである。
いかにそれを用いるべきなのか。その力をどの方向へ向けるべきなのか。
こうした立場を全く受け入れない人もいる。おそらく、何か知における階層秩序においてもう終点に達したと思い込んでいる人は全てに過信できるのかもしれない。しかしおそらくは、そうした過信を抱いたままでいられるほど、生ぬるい状況を生み出すのはカリキュラム自体とそこでの結論づけの方向がずれたままなのである。
学科上やカテゴリーの優位を争うような主張ほど見苦しいものはない。
よく思うのだが、なぜ自信のなさを覆い隠すために、他者の領分や他者の能力や分野を貶めるような言動をするのだろうか。

原点へ向かわせるような魅力はそれ自体に備わっているものである。

日記としては...
毎日の時間の中で優先順位をたてて物事をこなしていますが、その中で読む+書くの繰り返しです。推論の段階をそのまま文章としていてはエセー(自由散文)であって、論にはなりません。1日3-4冊は読みますが、一度読めば理解できるという類のものではないので、・・・リスト上にある資料だけでも50冊は超えますが、それもある程度絞らなければ。

何かをしている(実際、複数のことがらを平行して行わなければ、何事も終わらないわけですが、「何も終わっていない、まだ進展していない、充分ではない」という意識がとにかくつきまといます。
実際には何もしていない、という時間はほとんど・・・ないのですが。

タイトルは元々のこのブログのテーマです。最近はなかなか日常のことは書けませんが・・・デザイン・フォー・ライフというタイトルにしようとおもいながらも、それも延々後回しになっています。

何か、確信の持てなさがあり・・
自らの存在基底も定められていないことに拠るのでしょうか。
(確信など本当に持ったらそれこそ終わりなのですが)




プラトンは「人間は身体と魂の合成体であり、その両者の組み合わせは双方の強大における均整が最もよく、その不釣合いが病を生じさせる原因となるから、回避・予防策として双方の共同訓練がよい」といい一方をとって他方を忘れることなく、両方が同時ながえにつけられた2頭の馬のように指導されなければならない。
「パリオペラ座のすべて」においてはルフェーブルもまたそのことを言っている。身体を通した表現は舞踏と言論の双方に通じる。
このことは1508年のモンテーニュによっても引用されている。
(プラトンにおいては魂を単に精神とは訳せない部分がある。少なくとも日本語のイメージで捉えるとそれは正しくは理解されないだろう・・・漢字は意味を規定する。もし余分な意味を与えようとするならば、それは曖昧さと誤解を生みやすい。例えば、哲学ですら、フィロソフィア(愛智)の意味をどこか意識的にか、人から切り離してしまう・・あえてそうした意図が組み込まれている部分もある・・・)
ルネサンスは身体蔑視というのも素朴すぎる誤解である。物質のみを重視する姿勢に批判的であったのであり、身体は「場」として捉えられた、と考えるほうがよい、のではないか。

プラトン全集〈2〉クラテュロス・テアイテトス
プラトン全集〈2〉クラテュロス・テアイテトス

プラトン全集〈12〉ティマイオス・クリティアス


エセー〈1〉
エセー〈1〉
販売元:白水社
発売日:2005-10
おすすめ度:4.0



「場は存在の形成そのものに働きかける」(locus igitur ad esse operatur)のである。

別々のものとして認識したとき、個々についての認識と役割も意識される。
フラ・アンジェリコ 神秘神学と絵画表現フラ・アンジェリコ 神秘神学と絵画表現
著者:ジョルジュ ディディ=ユベルマン
販売元:平凡社
発売日:2001-05
クチコミを見る
*アルヴェルトゥス・マグヌスとフラ(ベアート)アンジェリコ、サン・マルコ修道院と図書館(ニッコロ・ニッコリの蔵書をもとにする)などに詳しい
アルベルティ「絵画論」とは別の立場の「絵画」表現について

・・別の問題は、この認識がどのように「受容」されるのだろうか。
受容する、受容可能であるという一見受身のようにみなされる能力についてはどうみなされるのか。
このことを近代以降問題にしたのは、バンジャマン・コンスタンのように思われる。様々なものの中の(多様な)共通なもの、価値からよりよきものを見つけだすことは一貫性がないことと同一ではない。彼はモンテーニュとルソーの中庸を思考した。動かさされやすさ(モビリテ)は、T.トドロフによって言及されている。
対立するものの中間に価値をおくのは、エピクロス派にみられる価値意識である(と私には思われる)
両義性の調停を求めることにつねに、回帰と展開はあったように思われる。

P1080137
光の認識は、同時に影の認識である。


P1080130

今年一番速く咲いたバラが6月になり、もう返り咲きはじめました。(スーヴニル・ド・ラ・マルメゾン)

以下はコメントのお返事です。


映画「パリ・オペラ座のすべて」ポスター写真 追加
2010.06.13 00:28 季子

>>検索でふらりとお邪魔したものです。「パリ・オペラ座のすべて」は映画館で見損ねたのですが、せめてポスターがほしいと思って。発売はしてないようですが、こちらでたくさん見られて良かったです。田舎にいるので、こんなに数種類もあるとは知りませんでした。UPありがとうございました。


季子さん、コメントありがとうございました。思いがけずイクスピアリの廊下に展示されていたときには感嘆してしまいました。そして思わず1枚ずつ撮影しました。ぜひ販売して欲しかった、と思いますよね。「パリ・オペラ座のすべて」はDVDも何回も見直しています。リハーサルと舞台、過程から上演、その背後まで見られる基調な映像だと感じます、オペラ座ですら、転換期なのだな、と感じました。そしてそれに対して監督ルフェーブル、ローラン・イレール、プラテルたちヌレエフ世代が鋭敏なところが印象的でした。シーンと言葉の両方に引かれる作品です。

Liberal Values: Benjamin Constant and the Politics of Religion (Ideas in Context)Liberal Values: Benjamin Constant and the Politics of Religion (Ideas in Context)
著者:Helena Rosenblatt
販売元:Cambridge University Press
発売日:2008-11-13

Benjamin Constant and the Making of Modern Liberalism

著者:S. Holmes
販売元:Yale University Press
発売日:1984-07-01

Benjamin Constant and the Birth of French Liberalism (Palgrave Studies in Cultural and Intellectual History)

著者:K. Steven Vincent
販売元:Palgrave Macmillan
発売日:2011-01-04

バンジャマン・コンスタン―民主主義への情熱 (叢書・ウニベルシタス)
バンジャマン・コンスタン―民主主義への情熱 (叢書・ウニベルシタス)
著者:ツヴェタン トドロフ
販売元:法政大学出版局
発売日:2003-12






バンジャマン・コンスタンについては邦訳は少ないが、バンジャマン・コンスタン『征服の精神と簒奪ーヨーロッパ文明のとの関りにおいて』(慶応義塾大学法学部 「法学研究」に日本語訳が連載で掲載されたのを読みました。いずれ書籍化されることを願います)小説のコンスタン作品は文庫であるが、民主主義に関するコンスタンの著述も収録されるとよいのですが・・・・)


パリ・オペラ座のすべて [完全限定生産デラックス版] [DVD]
パリ・オペラ座のすべて [完全限定生産デラックス版] [DVD]
販売元:アミューズソフトエンタテインメント
発売日:2010-05-28
おすすめ度:4.0


プレゼントその2です。リョウコさん(デザイナー)がお手製の名入り服をにこさん用に作ってくれました!

P1080135

NICOのiの点部分がシルバーのハートになっています。愛らしい。

P1080102
リョウコさん宅のPULもお手製の名入りTシャツです。

P1080104

PULとNICOさんとチョコ(実家の)
パル7ヶ月、チョコ4歳(確か・・・)、NICOさん18歳と半年です。


P1080103
性格が違うので、にこさんは実はチョコが苦手です...
(思わずそういう状態の表情をしている....ように思えます。チョコはnicoさんにいつも興味津々...)

P1080145

その日の夜のにこさん。

P1080132

久々に野菜ゼリーコンソメ寄せをつくりました。
ミニアスパラ、パプリカ、ズッキーニ、セロリ。コンソメは生協の野菜ブイヨン、隠し味はボンベイ・サファイアです。ガラス容器は大抵、「私の部屋」で購入しますが、いつも大抵銀座に寄れても資料と本を大量に抱えているので(文献を大量に持って速読+精読の日々です)食器などをなかなか買う猶予がありません...。大宮にいくときも大抵は仕事で大量の資料をもっているので、立ち寄れませんし.....でも一番、使い勝手とデザインがすきなものがそろってるのが「私の部屋」のものです。
マテリアはエイドスで整えられる、ということを感じるものが多い。
長く使えるものは、素材と形、色調、手触り使用感、利便性、手入れしやすいこと、だと思っています。
ものは金額ではなく・・・「選び方」だと思うのです。

P1080067

庭のバラ5種類(赤系)とローズマリーでポプリをつくりました。
そのままでも香りがありますが、ソラリス用のエッセンスも足しました。

9月まで開催中のナポリ カポディモンティ美術館展。オンラインチケットを利用してチケットは買ってあるものの・・・まだ脚を運べていません。

が、カラバッジェスキ(カラバッジォ派)のアルテミジア・ジェンテレスキのユディットとホルフェルネスが来日しているようですね。美術史上初めて名が挙がる女性画家でもありますが、ことさら女性とつけなければならない(西暦2000年をすぎてなお)のはそれだけ稀有な存在なのでしょう・・・が、絵の迫力も描写も緻密性、そういったものにむしろ最初に感銘を得る作品です。ユディットをめぐる省察は若桑みどりさんが主著で書かれています。


象徴としての女性像―ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象象徴としての女性像―ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象
著者:若桑 みどり
販売元:筑摩書房
発売日:2000-05
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
フィレンツェ―世界の都市と物語 (文春文庫)フィレンツェ―世界の都市と物語 (文春文庫)
著者:若桑 みどり
販売元:文藝春秋
発売日:1999-04
おすすめ度:4.5
クチコミを見る



個人的に、スケドーニが好きな画家なので観に行きたいと思っています。
おそらく紹介されていない作品の中にも傑作があることでしょう。

ここのところ読む、書く、推敲する、推論する、行き詰る・・・の繰り返して、はたして展示に運んでエネルギーを得られるのか、画家たちの仕事を受け止めるだけの胆力が自分に残っているのか(過労気味なので・・・)とやや心配なのですが、期間中に脚を運びたいと思う展示です。

16世紀ナポリ。15世紀の哲学的自由は失われ、反動宗教改革の動きに巻き込まれ、スペインからの異端審問が設置されるに至る。
ブルーノに関して読んでいることもあり、今直接ナポリにいくことはできないけれども、その意味でも脚を運びたい展示ではあります。
クレシェンツォのナポリ案内―ベッラヴィスタ氏見聞録クレシェンツォのナポリ案内―ベッラヴィスタ氏見聞録
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
販売元:而立書房
発売日:2003-09
クチコミを見る
クレシェンツォ言行録―ベッラヴィスタ氏かく語りき
クレシェンツォ言行録―ベッラヴィスタ氏かく語りき
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
販売元:而立書房
発売日:2008-02
クチコミを見る
無限、宇宙および諸世界について (岩波文庫 青 660-1)
無限、宇宙および諸世界について (岩波文庫 青 660-1)
著者:ブルーノ
販売元:岩波書店
発売日:1982-01
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
原因・原理・一者について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)
原因・原理・一者について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)
著者:ジョルダーノ ブルーノ
販売元:東信堂
発売日:1998-05
おすすめ度:5.0
クチコミを見る


「理性」は「感覚」から完全に離れて働くことはできない。感覚とは風土にある程度限定されるのだろうか。それも海や太陽、丘といった要素に。
なぜか地中海文化についてはそう思うこともある。


L.D.ブレスウェイト(赤いイングリッシュローズ)が返り咲いたのでヴェネチアングラスの花瓶にいけてみました。

P1080169

アナベルも咲きました。
本は...「ルネサンス哲学」および「ルネサンスの偉大と頽廃」
プラトンのティマイオスは未読なのですが・・・読まなければいけないのでは、と感じます...



P1080153

山梨へいったときの道の駅で購入したカモミール、テラコッタのプランターのい植えているのですが、花が咲きました。


P1080168



にこさん。ここのところ、仕事で外出することも増えたので、在宅で仕事、勉強をすすめたいときには、かなり....甘えてきます。嬉しいけど、期日もある、量もあるので、時々混乱するのは、私の人徳がないせいです。
18歳と半年。元気です。

P1080155
バラクラで2年前?にナーセリーで購入した多肉植物。
シマトネリコの木の下に植えています。

ルネサンスの偉大と頽廃―ブルーノの生涯と思想 (1972年) (岩波新書)
著者:清水 純一
販売元:岩波書店
発売日:1972


P1080150

野菜はほぼパルシステムのエコ・チャレンジとコアフードを利用していますが、ルッコラや小松菜が「いきいき」(収穫日が1日ー2日更に短縮。新鮮)になりました。ルッコラはもともとよく買っていましたが、みずみずしさが全然違う!!
ごぼうと人参(エコ)のサラダと盛り合わせてみました。
小鉢とココットのほうは、家人の夜食・おつまみ用です。

4
現在唯一?購入して読んでいる漫画−−ともいえるヒストリエ(6).

登場人物が大抵、主要人物はもちろんだが、ヘカタイオスなど史上にある人物名だったり、現在の私たちからすれば、かなり異質のはずの古代世界を「現代風に」描写して「歴史性」からは距離をおいて描いている珍しい作品でもある。かといって、この時代のエッセンスは濃いものがあり、大抵は進行上、展開が見通せてしまうのに、話と話の連続性が意外なつながりをもっていたり。もっとも、この作品は、他の作品では焦点とならない部分を焦点にする、というのがテーマだと思うのですが。


この漫画を読んで「ギリシア 古典期のギリシア」を一から十まで、先入観としてマイナスチャージをもたれても困るのだが、ギリシアの他者性や文化も咀嚼されて描かれている作品である。
人に薦めたい気持ちと、やはりギリシア古典の原典に最初に触れてから楽しんでもらいたいという気持ちと、両天秤な心持になる、のだが、6巻のエウメネスとアレクサンドロスのやりとりは興味深い。

「設計」「製作」「運用」のどれがもっとも楽しいか、というテーマに対する職人たちのこたえは「製作」

「初め死に体の素材が目的をもってあるものとなっていく」
生成についてのテーマがごく自然に語られる。

「物質」の中にある「潜勢力」を形相で整える。
目的を果たすための道具をつくる手仕事と知の関係。



こういうテーマについて文章で説明するのも労力を要するのだが、見事に数ページで表されている。主人公エウメネスが読書好きで脚だけは速いというのは自分に似ている気がします。

hisutorie


ところで、この作品ではヘファイスティオンとアレクサンドロスはいわゆる「二重人格」として設定されているのだろうか。それを「書き物上」書記官たちは異なる人物として、しかも一心同体的なものとして書いた、という扱いになるのだろうか? 私としては、プラトン的愛、神的な一をともに抱くものがもつ驚異的な共同性というのは、実際にあることだと思っているので・・・そうなると、アレクサンドロスにとってのまことに信用できる他者が愛馬ブーケファラスだけとなってしまうのでそれはあまりに哀しい、とも思うのですが、気になります。プラトン的なものを・・・わかりやすく書く、エンターテイメントと歴史的なものとして扱う、というのは、なかなか、大変なのかもしれませんが・・・。
(初めに薦めてもらったのはKさんからです>ヒストリエ.)



ところでもう一冊、ある程度の流れを抑えたうえで、読むことを強く勧めたい物語として、ルチャーノ・デ・クレシェンツォの物語ギリシア哲学史がある。IBMのマネージャーを退職、文学、映画などの分野に入り、50万部をうった「物語哲学史」だが、たいていは「ソクラテス以前の」とか「七賢者」などでおおまかに説明されて終わってしまうこの時代の人々を・・・
真偽のほどは別として(それはそうだ、現実とは、真理ではない・・・・)
「面白いとおもったものは書いておく」というスタンス+特別な用語なしでその思想のエッセンスと生まれ育ち、死まで「物語って」くれる本。

その冒頭にはヘカタイオスの言葉が載せられている。

「私は自分に本当と思えることだけを書く。ギリシア人の話は数多いが、笑止千万なものも見かけるからだ。」

ミレトスのヘカタイオス

STORIA DELLA FILOSOFIA GRECA
I Presocratica

物語ギリシャ哲学史―ソクラテス以前の哲学者たち物語ギリシャ哲学史―ソクラテス以前の哲学者たち
著者:ルチャーノ・デ・クレシェンツォ
販売元:而立書房
発売日:1986-10
クチコミを見る

あたかも日本語で書かれたように次から次へと読める本。翻訳者のどうしてもこの面白みを共有したい、という思いが伝わってくるような文体。
これですべて、と思い込むのは危険なのだが(それもこれもこの本が面白いがために)どこか彼らが活き活きと感じられ、なぜこういった考えが生まれたのか、そういったことを「問題外」とするのはもったいない。
七賢人からピタゴラス、ゼノン、デモクリトス、ソフィステス、プロタゴラスまで。ちなみに、ルチァーノ氏がなんどか本文中で触れているB.ラッセルの哲学史は、私はあまり馴染めなかった・・・・記憶がある。
今読めばまた違う感慨を抱くだろうか。タレス、パルメニデス、ゼノン、ピタゴラスの項は・・・本屋や図書館で立ち読みしていて平然さを保つ(つまり笑いをこらえたり、感心したり、どんなものを得たときよりも充実した気持ちになるのが一つの章ごとに詰まっている本なのだ)のに苦労する文章。コラムも面白い。このシリーズは、近代まで出ているが(最後はカントまで)ギリシア哲学史1・2が面白い。


物語ギリシャ哲学史〈2〉ソクラテスからプロティノスまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
販売元:而立書房
発売日:2002-10
クチコミを見る




古代ものとしてにわかに人気があるテルマエ・ロマエだが・・・・
どこか、古代ローマ文化<現代日本という構図が根底にあって、この作品を面白いと思う気持ちの背後には、アイデンティティとして自己喪失=現代を肯定したいという欲求が先だっているような気もする。
問題なのは、ローマがもっていた市民的公共性についてあまり言及がないことなのだ。それはどちらかといえば、現代日本ではなく私には江戸期と重なるように思われる。現代日本には、すでに消費としての「癒し」だけがあるのであって、「公共」としての文化は途絶えている、もっとも古代ローマ共和制からマルクス・アウレリウスあたりまでの文化や歴史にもっと多くの人が興味をもつきっかけになればよいのだが、なんともよく描けた作品というのは、それだけを読んで満足するか、何か知ったような気分になってしまい、それ以上のものにあたることをやめてしまうことが問題なのだ。そういうことよりも、ルキウスがあの「ローマ」のルキウスを意図的に?模倣している、のが何か連鎖的。

おそらくよく描けた漫画は戦後以降の日本のサブカルチャー、カウンターカルチャーの最たるものだと思う。
(漫画が「文化」として語られることがあるが、「文化」とは「権力」と結びついた形のものを指す。おそらくリアルタイムで「名作」といわれる漫画が出版されていたころは「文化」とは呼ばれていないはずである。日本的文化が決定的に喪失しはじめたころに、「文化」と「固有さ・価値」の切り札のように語られ始めた感がある。・・・)
だから、何が、パラフレーズされたのか、が重要と思われる。
逆にいえば、パラフレーズが自然になされている作品は、「文学」としての役割を追っている。

言い換えれば文字の特徴と特質は、イメージを付与しないで表現・言表できるということである。

ところで、最初のテーマに戻れば、古代において「ヨーロッパ」と「アジア」という概念が最初からあったのだろうか。東という言葉が誇張されるのは、おそらくは東ローマ帝国と分離したあたりからである。東ローマ帝国はといえば、自分たちが「ローマ帝国」であるとずっととらえていた。
「東」という言葉を付与することで、「差異化」「区別化」=「自らの優位性」を表すことは、たとえば、「東ヨーロッパ」と呼ぶことなどにも関る。
アイデンティティの確立のために、他を自と区別することと全体性が関るとき、もっとも「優位なはず」のその自意識はひどく「差別的な」言動を起こす。私たちはどういう感情を自分や自分たちに抱くとき、「安心」「快適」さを得るのだろうか? それこそが「思い込み」と密接に関っている。



ヒストリエ(5) (アフタヌーンKC)
著者:岩明 均
販売元:講談社
発売日:2009-02-23
おすすめ度:4.5


ヒストリエ(6) (アフタヌーンKC)
著者:岩明 均
販売元:講談社
発売日:2010-05-21
おすすめ度:4.5


とにかく少しでも興味をもったら、ギリシア古典時代とはどんなものだったのか。さらに詳細なものへと向かってあれこれ読んでみれば、「誰もが楽しめる、興味がもてる」といったものを書くこと、「自分たちの」物語として再生させることが、より一層理解と愛着とパッションを必要とするか、それがいかに表れているか(限定的なところがあるにせよ・・・)よりわかるはず。と、私などは思うのです。

西洋の歴史〈古代・中世編〉西洋の歴史〈古代・中世編〉
販売元:ミネルヴァ書房
発売日:1988-07
おすすめ度:3.0
クチコミを見る
饗宴 (岩波文庫)
饗宴 (岩波文庫)
著者:プラトン
販売元:岩波書店
発売日:1965-01
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
ギリシア・ローマ古典文学案内 (岩波文庫 別冊 4)
ギリシア・ローマ古典文学案内 (岩波文庫 別冊 4)
著者:高津 春繁
販売元:岩波書店
発売日:1963-11
おすすめ度:5.0
クチコミを見る

プラトン全集〈4〉パルメニデス ピレボスプラトン全集〈4〉パルメニデス ピレボス
著者:プラトン
販売元:岩波書店
発売日:2005-04
クチコミを見る





ルチャーノ氏が、「哲学史上最も複雑で・・・・とても最後まで読んだ人がいるとは思えない・・・」と書いた「パルメニデス」・・・・。
パルメニデス、ゼノンはある理論だけが有名だが(アキレスとカメなど)
ゼノンがこういう死に方をしたとは初めて知りました。
ソクラテス以前の哲学者たちは、僭主に恨まれて殺されたり、民衆裁判によって死刑にされたり、あるいは生きる気力をうしなって断食で死んだりしているが・・・・そういった心情が理解できるというあたり、自分の未来が透視できるような気にもなってしまう。

しかも消費社会という害毒が蔓延する前の世界ですら、そうなのだから、消費社会の中で、大多数の人がそういった性質全く問題視しない態度を持っている中では更に難儀なような気もする。・・・・


プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)
プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)
著者:広川 洋一
販売元:講談社
発売日:1999-01
おすすめ度:5.0
クチコミを見る

529年アカデメイア廃止のあともおそらくは細々と存続はしていただろうという指摘と、具体的なアカデメイア説明があって面白い、廣川先生の本。

この本を読むとプロクロスが怪しげな人物に見えてくるが、プロクロスの美即善など、プロティノスープロクロスー偽ディシオニウスのもつ深遠さは他の資料を読むほうがよい。何にせよ、人は多面的なものである。理論的な部分もあれば、おかしみを感じる部分もある。そして多面的な人物は魅力にあふれている。

あれこれと書いてはいるが、目下勉強中といった部類の私ですから、あれこれと至らない部分は御赦しいただきたい。とにもかくにも、少しだけ賢くなったような気分、これは後々もっとも自分自身が恥じ入るものである。
それの繰り返しによって少しは研磨されればよいのだが。

ぞっとするのは、「向上心」をもつ(いわゆる地位や金銭的なものに限らない)こと自体を「妬む、嫉む」態度をもち更には、脚を引っ張ったりするような態度が集団の中でまかり通ることが多いことです。つまり、自己の能力を引き上げようとすることを、暗黙のうちに非難されていると思い込む態度、他人との比較にしか尺度をもたない傾向・・・
果たしてこういう集団の中に、あえて迎合していくことが「協調性」といわれるものなのかどうか? 
多数の規範が多数なだけで肯定されることが続けば、悪循環は続くだろう。善の連鎖というものは短命だが、それでもそのようなものを繋いでいくことしかないのだと思う。

完全に中立・中庸・客観的であるのは難しい。
「私性」というのは消え去らない。
できるだけ「自分の立場」を明確にした上で、自省的に「観る」こと、照観すること、そして、行動として「成す」ことができればよいのだが...

http://blog.blogmura.com/tment_tbe/9784/wcnslwc2tfh5


P1080063


6月に入ってから更に時間が過ぎるのが速く感じます。
大変に焦ります。おかしな疲労を5月から溜めているのも相変わらずです。その他もろもろハナミズキの花も咲き始めました。


P1080062

エイブラハム・ダービー(イングリッシュ・ローズ)
アプリコットの香りがよい、好きなバラです。


P1080061
ハーブの花も咲いています。


P1080059
アナベル・ハイドランジア(白いアジサイ)にもつぼみが出てきました。
今年は大きな鉢(IKEAで昨年買ったテラコッタ598円・・・鉢と裁縫セットとキャンドルだけはIKEAは重宝ですね・・・)に植え替えたので沢山咲いてくれるとよいです。



P1080076

そして、なかなか・・・なかなか(本当に)外出/買い物する時間がない!!私の日常ですので、友人のリョウコさん(デザイナー)がにこさん用のレインコートを買ってきてくれました。花柄が愛らしい。ポーチもついています。
ちなみに、マウスもリョウコさんからもらったマリメッコ(マリーゴールド柄)を使っています。nicoさんは消化吸収がよいタイプのフードを獣医さんにすすめられてつかっています。

6月も中旬ともなると忙しないです・・
分単位でやることをこなす、寝ている間も考えごと・・・
眠りが浅いのでしょうけれども。

スーツはMANO(マーノ・ガーメントコンプレックス)を着ていますが、ブラウスも好みのものが多いです。アクアシティ店が広くて好きなのですが、なかなか行けないのでコレド日本橋店に久々に立ち寄りました。

ローラのDANFUI NAIのアートフレーム。最近はあまりこういった絵のフレームもローラで少なくなりました..

P1080160




P1080166

お弁当写真その2. 娘のものですが、バレエ、数学、英語〜・・・・学校の活動などで使いはたしてしまうらしく、体重は30キロ前半ですが、けっこう食べてくれます。お弁当の日が週3-4日になっているので、魚・野菜中心.ご飯はわかめご飯だったり、たきこみご飯だったり・・・いなり寿司、ピラフを炊くことも多いです。しかし、自分が朝早く電車にのらなければならない日はかなり忙しない・・・・家族の中で私が一番あまり身体が丈夫ではないので・・・・。

前日の夜は歩いて帰宅できた荷物を翌日半分の重さにしてもってみたら、重くてもてない!!ということが多々あります。
外にいるときは気力でもたせているだけなのだな、と感じることが増えました。

何かをやめる、というときに偶発的な理由や単独の理由でやめるということはありません。SNSなども然りです。個人的な理由をあれこれと書き連ねることもあまり意義を感じないので、あるときから思っていることを二つだけ。
マスメディアが「知る」ということの全体を意味するものではない、ということは理解されていても、未だに「ニュース」を知らなくてはならない、「ニュース」を読めば世の中を知ることができる、と多くの人は思っているか感じている。
しかし、その内容が変容していることはどのくらい問われているだろうか。

現在のポータルサイト(yahoo、Infoseek、livedoorなど)の「ニュース」としてヘッダーが流れるものは大抵が「雑記事」である。こうしたものに最近では「主要ニュース」というカテゴリーまで付きだしている。
紙の新聞もそれほどは変わらない、web上も・・・といいたいところだが、携帯サイトはさらに限定されている。もともと画面や情報量が少ないのだから当たり前になるのだが、この偏りは一般にあまり指摘されていない。
「ニュース」は、見せながら隠すのである。
実際には、例えば批判の矢面にたたされている人がいても、情報はそれだけではない。騒がれれば騒がれるほど、話題を占めればしめるほど、TVで言えば、同じことの繰り返しをキャスターやコメンテーターという人たちが感情的、気分的に「報道」するほどに、他の情報は、流される機会を喪失する。
報道は真実ではないし、現象でもないかもしれない。
メディアにおける擬似イベント体験は、深刻なレベルである。
編集され、婉曲された報道はコメントの一部をいいように放送したり、記事に引用したりする。web上の「ニュース」は記名でもない、匿名の誰かが、広告アクセスのために、つまり数量的な獲得のために、ヘッダーと内容が異なることもしばしばある。

作り出された現象はいたるところにある。

デジタル化され電子化され、固有の時間は、分断される。つまり、日記を書く「わたし」と読む人「他者」の時間が重なることがないのに、同時に共有しているような感覚を生んだり、メールを売ったら即届くという前提が、相手が返事をしないという猜疑を生み出す。空間と時間の感覚があれば、自己と他者が即時に呼応することはありえないか、あってもかなりの無理、負担を生み出すかのどちらかであることは自明である。
だから手紙の返事が今日中に届かないといって怒るような人はいないが、メールの返事が即時にくると思い込む人がいる。
もしきてもそれは返事ではない。反応である。反応で応答しあっていたいだけならばそれは必要なのだろうが・・・

機能が「利便性」のために向上したといっても、その機能のために、結局主体も互いの関係も悪化してしまうのは意味がない。
だがあまりそういうことは気にならないのだろうか。

つまり社会が成立しないところには個人の領域も存在しないし、共有しているとか同調しているというものが、単に曖昧な連動感であってそれはコミュニケーションをしないことで保たれている場合がある、ということです。他者とは自己が明確にならなければ、浮かび上がらない。
そういった人は他者の目線を感じないので、常に自己中心的にしかものごとや人を見られない。
webが商業化(コメルス)するとすべてのニュースが広告へと変容していく。企業主体となり、金銭によってのみ人が行動する。日本のウェブサイト上のサービスで、「無料」の文字と「楽に儲かる」という文字が多いのはこのためである。多くの人は「無料」で最大限に楽しみたい(したいことしかしないという意味でである)と考え、「働かずに金銭を得たい」と思うのである。そもそもそれが表層化されていることに、不合理性を感じないのだろうか? 

自己と他者の有限さに配慮すれば、何がもっとも共有していられるかが自明となる。つまり自分のなすべきことを最大限に行うという目的が日常で行われている場合である。
ツィッターで人々のアクションとシンキングが発信しやすくキャッチしやすいいのは確かだろう。だが、それは自分の時間をたえず分断していくことである。非連続性があたかも、真実のように捉えられてしまう。
実際にはこうして、文字を書いている間のその人自体とは何かギャップがよこたわる。書かれるものは、自らの内側にある別のもの、プラトンはこれを書記官とよぶが、書いている最中でさえ、その人と同一ではない。
これは私が嘘をかいているということではない。
自己認識とは、自分が思うところの極めて限定された部分しか表面化しないし、自分でも捕らえきれないのである。

日記でその人が理解できるような「気分」にはなれるだろう。
何もないよりは、共有できるだろう。
だがそれは一部であり全体ではない。あたりまえのことですが。

mixiニュースのPC版と携帯版では、まったく異なる内容の「ニュース」が表示される。PC版や新聞の主要ニュースすらもある傾向性をもっているが、無料サービスを売りにし、アクセス数を目的とするポータルサイト、yahooなどの「ニュース」はもはやニュースでもなんでもない。
雑記事はマスに訴えかけて、民衆裁判的な風潮を作り出す。世論は、作られるものである。娯楽化によって、その意図は巧みに覆い隠されている。無料の娯楽ほど、自らに本当に関る問題に対しては無関心でいられるように、成っていくのである。

今の大学生は極めて強い同調プレッシャーの中で育ち、ゆとり教育によってほぼ世界と自国の認識が大幅に欠如したまま、「みな同じ」感を得たいという気持ちが強迫観念的に強い。
1人で食事ができず、トイレで食事をする大学生が増えている、クラスではないので大学で講義のあとなにをしたらいいかわからないという人が増えているそうだが、・・・それほど課題が出ないというのも凄い話である。
余暇、有り余る時間を、他者への干渉と1人でいたくないためだけに「誰か」を求める心理が増大しているのだろうか。

運営者も利用者も「顔」が喪失した空間。
匿名性の保護と、「顔」のなさ、「主体のなさ」は同一ではない。
「顔」とはレヴィナスが用いた概念である。
わたしたちは、自分の顔を自らみることはない。
鏡に映ったものをみる以外には。

他者と対峙しているときも、1人でいるときも、自分では自分を見ることができない。(だから古来の権力者のみが鏡を持っていた。自分がどうみられているか気になるためであり、自己認識なしには存在できないからである)私たちは、自分が知っていると思い込むほどには、自己了解さえしていないのである。・・・・

すべからく、配慮は必要である。

しかし意見をすぐにクレームと受け取り、改善点として認識するよりも、改善する必要がないことを説明する傾向は、実に根強い。意見をいわないのが当たり前で、しかもその不満が金銭や快さの問題としてしか認識できないということが問題である。

官僚化と市場原理は、個を喪失させる。

以下は「意見」に対しての「お詫び」的メール。
なんでもすみませんといえばいいというものではない。
少なくとも「情報」というものを「意図的に発する媒体」であり、「商品化する」以上、配慮しなくてはならないのは「客・利用者」への「快さ」の問題ではないのである。それは最低限のレベルである。
脱会したあとにこのメールが来ました。
しかし、紋切り型というのは言動不一致のいい見本だと思います。

それとは別に個人のレベルで、わざわざ相手を不快にさせるような言動をしてくるような人(それで楽しむのでしょうか)もいますが・・・自分に自信がある人は、常に対象が外側に向いていますね。
そして周りがそれにあわせるしかない。・・・行動が先で、思惑(思慮ではない)があとから出てくる(快いときは問題にしない)のが不思議だな、と感じます。

ともかく、すべての人が皆同じように「余暇」をもてあましているわけでもない。それが標準であるというのも、どこか誰かを安心させたり、それ以上気がつかせないための、無知のヴェールのように思われる。

個々の事情、というあたりまえの配慮すら、前提にできない人も多い。
年齢があがれば学習するというものでもないらしい。
認識の問題だろうか。
それとも、すべて経験をしなければ、そして困窮を味あわなければ何もわからないということなのだろうか。つまりすべてを自己のカテゴリーとだけ照らし合わせているだけなのだろうか。

1日が24時間でも、その時間において均質なわけでも均一なわけでもない。すべては状況と環境にも限定を受けるのであるのに。

==================


お忙しい中、貴重なご意見をいただき、誠にありがとうございます。

この度は mixiニュースの掲載記事に関しまして、ご不快の念をお掛けし、
大変申し訳ございませんでした。

ご指摘いただいた内容を元に、より多くのお客様がご満足いただけるサー
ビスを提供できるよう、今後の改善課題として検討させていただく所存で
ございます。

また、mixiは以下のヘルプにもございますとおり、ご友人様同士の交流を図っていただくためのサイトとして運営しております。

居心地の良い空間を醸成するため、この度ご指摘いただいた内容を参考に、
さらなる健全性の強化、ならびに、より安全に mixi をご利用いただける
よう各種の啓発に尽力して参ります。

貴重なご指摘をいただきましたこと、重ねて御礼申し上げます。
今後とも mixi をよろしくお願いいたします。
――――――――――
ソーシャル・ネットワーキング サービス mixi (ミクシィ)
mixi運営事務局




退会したあとに紋切り型の文面が送られてきていることはさておき・・・.


メディア批判 (シリーズ社会批判)メディア批判 (シリーズ社会批判)
著者:ブルデュー
販売元:藤原書店
発売日:2000-07
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
透きとおった悪
透きとおった悪
著者:ジャン ボードリヤール
販売元:紀伊國屋書店
発売日:1991-02
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
消費社会の神話と構造 普及版
消費社会の神話と構造 普及版
著者:ジャン ボードリヤール
販売元:紀伊國屋書店
発売日:1995-02
おすすめ度:4.5
クチコミを見る
幻影の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
幻影の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
著者:D.J.ブーアスティン
販売元:東京創元社
発売日:1974-10
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
マクルーハン理論―電子メディアの可能性 (平凡社ライブラリー)
マクルーハン理論―電子メディアの可能性 (平凡社ライブラリー)
著者:マーシャル マクルーハン
販売元:平凡社
発売日:2003-03
おすすめ度:4.0
クチコミを見る
メディア論―人間の拡張の諸相メディア論―人間の拡張の諸相
著者:マーシャル マクルーハン
販売元:みすず書房
発売日:1987-07
おすすめ度:4.0
クチコミを見る

友達百人できるかな、というように友人は多ければ多いほどよい、フォローされていればされているほどよい、コメントは多ければ多いほどよい、というわけでもあるまい・・
実際に百人以上の人や、本当は嫌なのに義理でといった不一致が「友人同士」なのかどうか。有名人、無名人というカテゴリーわけもよくわかりませんね・・・誰にとっての、というものが欠如してる限り、あまり意味を感じません。メディアによって単なる目立ちたがりが増えたというブルデューの指摘は正しい。そして事態は更に根が深くなり、透明になっている。
気がつかない危険、眼に見えにくい危険ほど防御しにくいものはないように。

直接の理由は、かなり一方的なメッセージ、異様に執拗な思い込みの激しい人、すべて他人のせいにしてくるといった人がいたためなのですが。
他者依存的、対話不能、つねにおだてられていないと気がすまない人、こういった人に合わせるのも限度というものがあります。ただでさえ自分の家や実家などに「好き勝手したい・自律性がない」という性質の人がいるのに、会わせようがありません。
他者の時間やそれぞれのなすべきこと、を自分に他人があわせるのが当たり前と思っている人・・・所有欲、数量的な価値観によって人の話をきかずに、断定的に無自覚に振舞う人、どのくらい迷惑だったかというと1日に数十通以上、一言メール・メッセのようなものを送ってきたり、・・・・・分別がない世代というものがあるものですね・・・

それとは別に、羨みや妬みなど私はそういった感情もわからないですし。

ローラのコンソール上を模様替え。
Image10781

スヴニール・ドゥ・ラ・マルメゾンと、黄色いモダンローズ
bunkamuraのブックショップでみつけたアリスのもの


P1080070

お弁当。(娘用)
夫の夜用とともに作っています。週2回だったのが週3-4回。
お魚、野菜中心になるようにしています。胚芽米、五穀米、炊き込みご飯、麦いりピラフにしたり、ごま入り稲荷寿司にしたり。
小風呂敷は便利です。私は歌舞伎座(東銀座)でよく買いました。季節ごとの風呂敷は便利です。最近は東京国立博物館の鳥獣戯画風呂しきも使ってます。

P1080069

わかめご飯、
銀だらの焼きもの、
紀州梅ぼし、
かにシュウマイ、
エコ・水菜とコアフード人参とうすあげのおひたし。
それからチーズと小さいゼリーかフルーツ、お弁当もずくなどをもっていかせます。お茶は緑茶かプーアル茶、ほうじちゃを自分で用意するようになったのでその辺はらくですね。

すべてパルシステムの品。加工品は1品だけにしたいと思っていて、
だいたいこんな感じです。2人分つくるのに10-15分くらいでしょうか。
慣れてくると手間でもない・・・のですが出張や朝自分も早いときは、やはりいそがしい。
・・・夜中に一部おかずをつくっておいたり。
朝ご飯のスープは夜つくっておきます(ポトフなど)
料理はつくるのも、たべるのも速いといわれます。
料理では迷ったりしないからでしょうか。

娘は細いといわれますが、・・・けっこう食べます。
ただし私と同じで、揚げ物やハンバーグなどは嫌いですね・・・
お弁当が増えた分、家ではやぱりさばフィレの焼き魚や、さわらのソテー、カポナータ、夏野菜をいれたドリアとかをつくって、食べています。
今夕食を家でたべる日は、2日くらい。
忙しいという理由は甘えだとおもうので、なるべく手を抜きたくはないです。

私は、お浸しとお魚少々ついで自分用にします。あまり夜は食べません。
家人の仕事ペースにあわせているので、どうしてもお昼中心になるため。
そのほうが調子よいですよ。
ようお昼を軽くして(ダイエット?)夜は普通にたべているという話をききますが、食べたものを働いたり調査したり勉強するためにエネルギーをつかうために昼はカロリーをおさえたものを食べたようがいいと思います。
作業量が多いのか、食べていても・・・痩せます・・・・



P1080066


ずっと忙しないのですが・・・・・・
食事をすると苦しくなってしまう。かといって勉強したり、仕事の〆前は頭をつかうとなると・・・まったく食べないというわけにもいかず;
でも基本的にぜんぶ作っています。

イタリア料理教本〈下〉イタリア料理教本〈下〉
著者:吉川 敏明
販売元:柴田書店
発売日:2000-09
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
イタリア料理教本〈上〉
イタリア料理教本〈上〉
著者:吉川 敏明
販売元:柴田書店
発売日:1999-07
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
PASTA ―基本と応用、一生ものシェフレシピ100
PASTA ―基本と応用、一生ものシェフレシピ100
著者:真中 陽宙(まなか あきお)
販売元:世界文化社
発売日:2009-06-12
おすすめ度:4.5
クチコミを見る

私が日常で参考にしている数少ない料理教本。
応用がきいて、素材をよさをいかせるような地方色ゆたかなレシピがおおいです。上2冊は完全にプロ用ですが、とてもためになる。

駐日英国大使館からお知らせを頂きました。

attd69c


キャンペーン内容

英国貿易投資総省(UKTI)では、今後10年間にビジネス環境の最大の変化を予想する
オンライン・キャンペーンを世界規模で実施しています。
電球、ジェットエンジン、ペニシリン、インターネット、iPod・・・英国が産んだこれら
数々の技術革新は世界の人々の生活を変え、ビジネスに大きな影響を及ぼしてきました。
こうした英国の伝統を踏まえ、英国貿易投資総省(UKTI)は現在、世界規模で
「未来のビジネス予想コンテスト」を実施しています。

 

応募はこちらから

「2020年までに起こり得るビジネス上の最大の変化は何か?」という質問に日本語で300字以内

(英語の場合は英語サイトより80ワード以内)で回答してください。

 

応募締め切り:2010年6月30日

 

http://www.yourbusinesstomorrow.com/jp/

 

 

選考プロセス

UKTIの対英投資専門家による選考の後、ファイナリスト10名の予想がウェブ上で公開され、

7月5日から30日までの間、一般からの投票を募ります。

 

日本地区からは、最も創造的で、革新性を感じられる予想をした優勝者一名に、ロンドン往復

ペアフライトチケット(ビジネスクラス)および全額UKTIの費用負担でロンドンを訪問する権利が

授与されます。またUKTIが組む視察プログラムには、優勝者のビジネスにとって有益となるよう、

ビジネス界に影響力を持つ主要なキーパーソンとのミーティングや、グローバル経済の新たに成長に

向けた、英国のイノベーションの最新動向を知ることのできる機会が含まれます。

 

キャンペーンのウェブサイトには応募方法以外に、英国のイノベーションの伝統や国際ビジネス・

エグゼクティブによる未来のビジネス予想などが多数紹介されています。

 

 

英国貿易投資総省(UK Trade & Investment: UKTI

英国貿易投資総省は、英国に拠点をおいて活動する企業がグローバルビジネスで飛躍するための

支援を行う政府機関です。また、海外の企業が英国にクオリティの高い投資を行うためのサポート

も行っています。英国貿易投資総省の提供するサービスの詳細はwww.ukti.gov.ukの日本語ページを

ご覧ください。

 

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆☆★☆★☆★☆★☆




社会学見地から。私個人が書いたことは大体以下の通りです。
先進工業国ではストレスやコミュニケーションを円滑にするための代替医療に関心が高まっている。英国はアロマ、ハーブ(バッチ社、ロックス&トゥリー社)アニマルセラピーなどの実践と社会浸透も先進的な国である。利便性やアクセス、ビジネスにおける時間短縮のメリットと同様に、人のもつ能力の停滞や環境との親和も同時に視野にいれる必要がある。ギデンズも指摘するように近現代後期の疲労やストレスを意識する人はより能動的に「健康を消費する」傾向にある。英国の伝統と科学技術の融合としての技術が世界的に浸透されるべきである。

アロマやハーブなどは普段から記述していますので割愛しますが、以前アニマルセラピーについて相談をうけた際に私も文献を読んだりしらべました。英国では浸透しているアニマルセラピーとセラピストも多いのですが、日本ではまだまだ限られています。多くは法的な問題が根拠のようです。麻布大の獣医学部ではアニマルセラピーの学部があり、オクスフォードと提携して研究していますが、せっかくそのような学術研究と専門家が育っても、日本の社会ではそういった面で立ち遅れているのを実感します。やはり日本は「機会社会」への神話が根強いのでしょうか。介護用動物ロボットや人形、寿司を握るロボットなどが時々ニュースにも出ますが、私にはこれが進歩であるとは思えないのですね・・・機能主義的にプログラムされた反応は、それを超えることはできない(人工知能でさえ)と私には思われるのですが、それも「表層でしか判断できないのだから本当は内部に意志があるのかもしれない」という反論が耐えない・・・これ以上は立ち入りませんが、そもそもライルなどが言ったことはそういうことではなかったと思います。

ともあれ、他と親和的であること、より善きものの共有と浸透は、単純な数量的価値観を抑制して、より調和的な人と世界につなげてもらいたいものです。個々人の実践と、理論は現代では本来分離するものではないはず、です。

課題(複数・多分野)をすすめています・・・
pukkaハーブのdetox オーガニックハーブティを飲んでいます。アニス、フェンネル、コリアンダーとリコリスの自然な甘さが感じられるお茶です。それとピンクジンジャー・コーディアル(アズーラ・フリザンテ)で割ったものを飲んでいます。

1)薬膳レシピにあった、キャベツと豆のスープ。
キャベツはエコ・キャベツ、豆も生協のひよこまめ、赤インゲン、大豆、白いんげんの4種の豆(冷凍)を利用。エキストラバージン・オリーブオイルを煮込んだスープに少し加えます。

2)豆と海老、ズッキーニ入りのピラフ

ピラフはお弁当にも、朝食にもあたためなおしがきくのでよく作ります。
ズッキーニとたまねぎ、人参はみじん切りに。
オリーブオイルで炒め、米カップ3をいれて更にいためます。
(私はパルシステムのエコ庄内はえぬき・胚芽米を予約米で使っています)
米が透き通ったら炊飯器へ。
スープ3カップ(野菜ブイヨン/生協)に海老、豆(上記と同じミックスビーンズ)塩小さじ半分程度を入れて火を通す。
白ワインかチンザノなどで香りをつける。あとは炊くだけです。
スープに好みでサフランを入れてもよいでしょう。

私の日常料理はオリーブオイルを使う、添加物のない料理を短時間に作る、魚、野菜、豆を使うが日常の基本なのでスープは生協の野菜ブイヨンを使います。


写真は撮り忘れたので、お弁当の写真を。

bentou

濱文様の小風呂敷は綿のシャンタン生地に季節の柄のプリントがあって包むのに役立ちます。夏なのであさがお。
他に梅、雛人形、すいか柄も。

bentou2

メカジキの玄米味噌漬け焼きとゴマ、梅干をご飯にのせ、キャベツ、筍、人参のキムチいため、ミニトマト(エコ)・・・子ども用でも私はいわゆるキャラ弁(?)みたいなものは一回も作ったことはないです。娘も野菜、魚好きなので。(大きいほうが娘の、小さいほうが家人のです。)おかずは週3回ほどは義理父にももって行きます。朝朝食を作り終えたら20分以内に作り終えます。このほかにゼリー、お弁当用もずく(娘はこれが好きらしい)、チーズ、バナナとお茶を付けます。

バレエと舞台は確かに観るものです。観ることは感覚によりますが、単に感覚的であるというよりも、生きた言葉をありのままに観せられるという極めて言語的な世界で、それは歓喜と認識、憧憬と内省、生きる本質に立ち返る表現なのではないでしょうか。

「テクストの破壊」と、そのことの肯定に関して、あるドイツ演出家の話を読みました。何度か記事に書いたこと(コンテンポラリー)に関連することもあり。
結論から言うと、テクストを破壊して新しいものができたと思えても、それはテキストからの逸脱であり、もとのよさを超えることはできない。内省は個人主義的なものとなってしまうかもしれない。(後期ロマン主義のように)
なぜならば、観客の個々に解釈が分断されれば、全体の価値も統一からは分離する。ついには、芸術が「趣味」扱いになってしまう(ライブドアブログも最初はアート・学術というカテゴリーですが、今ではアートとホビーは完全に同列になってカテゴリーになっています・・・(上部参照)社会認識の退行の一端のように思われます。

同時代性とは歴史性との連動によって生まれるのであって、歴史否定や無視によっては「新しいもの」は生まれない。ドイツオペラの演出には以前から「テクストの破壊」に類似する問題があったが、ドイツにおけるコンテンポラリーもおそらく問題にされるときが来るだろう(もし、それが国民性やドイツ的などという言葉で語られるようになったら、それはすでに限定された価値を認めたことになる・・・)・・・現時点ではオペラよりもそのことを指摘する専門家はいないように思える。むしろ、舞踏批評があまりにも演劇批評のごとくで、表面的(動きや感情レベルの表現のみを追うからだろうか)批評理論がまだ日本語に確立されていないか、確立する意志がないのだろうか。言語も舞踏も、表面的なものではまったくない。事物として扱う範疇ではないのだが。あくまで私見なのですが。

「現代ドイツのパフォーミングアーツ」にはマラーホフ、ポリーナやバレエ・カンパニーの編成などもにも詳しいが、興味深いインタビューは、フォーサイスのものである。

現代ドイツのパフォーミングアーツ―舞台芸術のキーパースン20人の証言



フォーサイスの作品は、いくつかにおいて、「テオリア」の意味が逆転する。見るものと見られるものとの関係を認識の外部から、それは「客席」にむけて透明に演じられ、私たちは観客という役割(受動状態)がいかに慣習による被作用・暗黙の受動状態であるかをしるように。
しかもそれは観客の意図が関与する前に、舞台上で成し遂げられている。

視ることによって、観る側はその対象からの差異を認識する。
・・・モーリス・ベジャールが、演目の上演を、「広場」で行ったのは、観客に観ることと自己認識を即時的におこすためでもあるためではなかったか。また、ダンサーたちにも「見者」としての視点を認識させるためではなかったか。そして第三の視点を想起させるためではなかったか。


P1020774

写真は4月1日ごろに撮った湾岸線方面からのスカイツリー。
なぜか見るたびにバベルの塔を思い出してしまいますが、POINT VIEW POINT 的に・・・斜光。


P1020911

5月のほうが多雨でした。つぼみから咲きかけた、エイブラハム・ダービー。(庭にて)


4


熊田陽一郎先生の「美と光」を読んでいる。

プラトニズム、プラトン、プロティノス、偽ディオニシウス....と続く光と可知性の基底。 スコラ哲学の中でプラトンとアリストテレスを統合させようとしたアルビノス、西欧に偽ディシオニウスを紹介したフランスのエウリゲナなど「プラトニズムの水脈」は大変に読み応えがある。しかし現在は入手不可能な書物となっている。ちくま学芸文庫などで再販されるべき書物である。または講談社学術文庫などで・・・プロティノス「美について」が今年文庫化されたのだから。ノートをとりながら読み進めている。

美とは何か? 装飾、華美、豪奢こういったものは美の本質ではない。善とは何か? 忘却された中で美だけが視覚(認識)を通して、本来性を想起しつつ、「善」それ自体に近づくことができる。
そして知とはなにか? それは光によって照らし出され顕わになるものである。本来性回帰のため、人があるべき姿に近づくために必要なものである。

善さと善について、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」とともに読んでみると、類似性と差異が一層明確になるようにも思われる。


では伝統的美のカテゴリーはどうか。

「高次のものの低次のものへの配慮」
「同位のもの相互の結合」
「低次のものの高位のものへの転回」
「すべてのものが自己を保ち、確乎として自らにとどまること」

プロクロスにおいては、美=即時善として語られる。
 
(フィチーノにとっては、他への益、友愛、志向(目的の達成)などよりローマ的な解釈をしている部分があるように思われる・・・のだが、)
フィチーノも、美といったときに美しい顔、美しい身体などを「目指してはならない」という。「模倣の模倣」がそれに近づくことがないのと同様である。
(※高次と低次を定まった範疇のみとしてとらえないのがプラトニズムの特徴である。
アリストテレスはこの範疇を固定する。というよりも、少なくとも、同じ場所にじっと留まること(身分の固定)という秩序に利用されてきた。位階秩序にダイナミズムの余白を設けないものとして様々な形で流入されている。)

よきものとは、第一次的に「適度」さが筆頭に来る。すなわち時宜をえていること、比、調和のための条件となる。
ものの形、色彩もまた「適度な混合と限定」によって定められる。

こうしたときに、氾濫する「美」がいかに「その場限りのもの」で「本来的なものではない」ことが判るだろう。
古典主義やクラシシズムに対する批判としての感覚重視の態度、感性という個人主義と曖昧な連帯感・・・ 差異を明確にしたのちに、本来的統一というものはあるだろう。しかし、大抵は、明確にしないために、連帯感を作り出すのだろう。

ところで、日本ではよく教育に思想を反映してはいけない、といわれる。
だが思想に基づかない「教育」がそもそも存在するのだろうか?
この次元の自論を持つ方の多くは、「公共性」「公」についても、いわゆる官公庁の管轄を「公」とみなしていることが多い(ように思われる)

そもそも「思想」が何を指しているかも曖昧である。
もっといえば、法と制度のなかに浸透している「恣意」「固定させようとする力」は問われないことが多い。
話がずれたのだが、議論の前提となる言葉の確認も曖昧なままである。そして、日本では「議論好き」を自称する人ほど、他者の声や考えは聞こうとしないのである。・・・「雄弁家」のように主張するだけで論じることにならない。論じるとは、他者の意見と知を理解したうえで、自信の見解を述べることである。それも「あら捜し屋」のような態度ではなく、より善いものにむけてなされるべきだと思うのだが・・・

制度を定める際に、「習合的」になることが多いのは、よりよきもの、という概念が欠落しているのだろうか・・・と思うことも多い。
多くの人は、「思い」「過去の記憶」を中心に主張したりするので、「より善き制度」は、善きものへ近づくどころか、より不確定なコアをもたないものへと改変されていく。性質の違うもの同士を比較して、権威づけられるような人間性への配慮のなさを、感じることが多い。
はたして、学ばなければならないのは、「大人」たちである。
ウィリアム・モリスは、なぜ多くの人が、大学を出たあとにもう何も学ばないという姿勢をとるのか、支配と所有、しかも数量的なものへの偏りを疑問に思っていた。自らが上昇志向のない大人たちが何を「教えられる」のだろうか、といよりも「知」の獲得への憧憬をどうやって伝えるのだろう。
おそらく、そのあたりが問題なのである・・・

熊田先生については堀江先生の講義を聞いたときに論文雑誌に載っているのを拝見したのがきっかけなのですが(もう8年近く前になるでしょうか)、改めて必読するように納富先生から助言をいただきました。
家人は院生のときに熊田先生を存じているようで、熊田先生と丸山先生の講義がまったく同じ時に行われていたとのことです。当時デリダから井筒先生に送られてきた手紙を、丸山先生のゼミが翻訳担当していて、それを手伝っていたとのことです。
なぜ熊田先生の講義にもでなかったのかと思わず口をついて出てしまいましたが、・・・
昨年夏以降、フィレンツェにおけるプラトニズムについて色々と文献をみていたときにも手にとって読んだのですが、改めて「プラトニズムの水脈」「美と光」を読みすすめたいと思っています。


言論と議論を論争と勘違いしている人が多いように思う。
同様に対話はおしゃべりではない。
この論争が行き詰ると抗争に転じてしまうのが日本の議論という状態なのではないだろうか。議論においてまったく意見のことなる人をも説得する力は必要である。それは丁寧な説明と具体性によるものでなければならないし、感情や暴力性によって誘導されるべきものではない。
難しいのは「思いなし」という状態の言表である。
プラトン、ピレボスにおいてパテーマ(パテーマタ)といわれる状態、すなわち、怒り、自身、恐怖などであり、それは「真実」にある記憶や感情といったものが付加するとおきるものである。こうしたものに囚われない言論、言表がロゴスであり、それがおそらく言葉としての生命なのである。・・・・


「汝自身を知れ」=「自分自身をしる事はない」

これはそれゆえに問わなくともよい、知らずともよいということではない。
まったく逆の意味を真理として問われている。
自分自身が、果たしてこの問いと推論は正しいのか?悪しき憶測に囚われているのではないかとの思いはつきないのだが、「思いなし」(ロゴス)はその憶測に光をあててくれるように思う。・・・・
これも「思われ」だろうか?
今になると、フッサールが思考と単なる思われとを差異化していたことの意味が理解できるようも思う。

(しかし、私のような「無知」の人間にとっては思いばかりに付きまとわれる・・・しかも自覚している以上に、そうなのだろう・・・・)

光の作用によって善自体への認識の契機となる。
光の強さは影の認識にもつながり、この影の部分がおそらく、自己とこの世界の認識、足元と闇の認識にも繋がるのかもしれない。

おそらく建築空間は光の認識作用をいかに想起につながる美の空間として創造できるか、を目的としている。空間の対比、光源の中心に立ったときの感覚を通して知る光。その光源を見上げることが上昇の契機としての美=即時善の体験に繋がっていくのである。その場が日常の場にあるか否か、長い年月を考慮するとこの差異は大きい。



P1020957


ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ、
ピエール・ド・ロンサール、アイスバーグ、
ニュー・ドーン、一枝つづ切花で活けるまえに。(5月10日ごろ)

アイスバーグは今年はシュートが出てきました。
時間的な余裕がなく、5月15日以降に咲いたバラの画像はカメラから取り出せていません。夜中や仕事へいく前の数分に花がらをとったり、水をあげたりという状態です。分単位で今この時間でなにができるか?
自問しつつ行動するという日々です。


P1020980

ワイルド・イヴ(イングリッシュ・ローズ)
バレリーナと迷って植えたものです。今年はシュートがでてきました。
バラは中心から広がる形と色彩と香りの美を体現するものといわれる。
ダマスクスや、イスファハーンを例に出すまでもなく、ダマスクローズやセンティフォリア(千枚の花びら)は東方起源である。そして様々な兆候となって隠された真実を表すのかもしれない。

バラの香りを製品化したものでは、インフィニストリアのOPERAシリーズ、ビオリーブスのレメディ、アルゴナチュラのローズウォーターがお薦めです。香りによって、本来性調和へと感覚を呼び戻させてくれる。

芸術表現としてのバレエも、人の認識を本来性へと呼び寄せる美=即時善の働きをもっている。それは言語が持つ力と芸術表現としてのバレエが光が照らし出す作用と同じものを持っているからである。
月に1度、元東京バレエの辰巳先生のレッスンがありました。毎回説説もわかりやすく丁寧でレッスン時間がとても充実していて楽しいと娘から聞きます。私も見学させて頂いたことがありますが、レッスンを見学できる機会というのは、とても貴重なものだと感じます。


「光と美」、「ルネサンスの偉大と頽廃」を読んでいます。

時間の流れを意識すると、わずかな時間も無駄にはできないと感じます。ところで過去、現在、未来という時間意識より吟味されるべきで、過去と現在進行形として認識すべきだということを以前聞き、そのことを思い起こすことが多い。


「勘考を離れた自然的事態の変動」(プラトン「ピレボス」)
それを吟味すると「自分自身の(自然状態)からの退行と虚脱化は小刻みなものとして受取るが、その充足はいっきであり大規模だというものは、虚脱化の過程は感覚されないけれども、充足は感覚しうるものになり、魂の死すべき部分に対しては苦痛を与えることなく、極度の快楽をもたらす」(「ティマイオス」)

・・・虚脱化は、感覚されない。多くの人が自然状態ととらえ問わないのは感覚されない退行だからだろうか。
また「自然」という言葉がもつニュアンスはどこか、隠蔽されたままに用いられている。そして明らかにされないままに、共用される。しかし真実の共有ではないために、個々は分断され、それ以上にもそれ以下にも成れない状態なのではないだろうか。それ以上とは、「あるべき状態」である。

ところで、完全性は、適度さ・比によって限定され(形を与えられ)、美と認識される。言語もまた形を与えられるものである。
適度さ、調和を美とみなすとき、そしてその適度さと自我の表出の両方において、アルベルティのサンタ・マリア・ノヴェッラのファサードを思い出す。自宅にはテーブルとPCデスクトップに写真を飾っています。
善とはそれ自体が愛されるものを指し、悪とはそれを結果的に避けるものを指す。そして感覚で捉えられるもののうち、美だけが、光の作用と同じ作用をよりよいものを求めようとする力を呼び覚まし、存在自体がそれに向かおうとすることを言う。

ところでラテン語のnaturaにはそれ自体の生成力の内在、本性に内在される一への還帰を意味するのだろうか。 それは環地中海の太陽中心の豊穣さを前提にしているのだろうか? 
原風景の言語への投影なのだろうか。キケロやルクレティウスを通じてそれはリナシタ(ルネサンス)でも光のもとに再び焦点をあてられるようになるのだろうか。

それとも言語とは、原風景や風土という背景から切り離されたときに、独自の定点を獲得できるのだろうか。

光の作用、内的憧憬を原動力とすることは、教育、造形、社会的な制度・秩序でも鑑みられる必要がある。だが、善と真理のほうへ、という最初の命題すらも、おそらくは、習合や妥協、諦観、などによって認識されないことが多いのではないだろうか。煩雑さ、苦慮、他者依存など理由は沢山ある。
しかし、より善いものは最初からは提示されない。時間をかけて発見されるものである。発見ののちに理論となることで、他者との認識と実践に開かれた共有可能なものになるのかもしれない。
終点はない。ある認識からまた自己認識と見えざる闇への問いが始まる。

http://www.timelesscomfort.jp/category/373.html

アグロナチュラは以前から使っていました。
同じ方がプロデュースしていると(とショップで聞いた)インフィニストリア オペラシリーズを知りました。
ダマスクローズとローズウッドを使っていて、アグロナチュラよりもより天然成分なのだそうです。(よって詰め替えは売っていない)

ボディミルク・ローズも天然のバラの香りが香ります。
ボディミルクといっても、私の場合はこういう商品は髪や腕・手につけたりするほうが多いのですが、べたつかず、天然のバラの香りが漂います。
ローズをたくさん育てているので、いわゆる「バラ」の香りの本物かどうか、はすぐにわかります。説明しているお店の方はきっと、本物のばらの香りや色のすばらしさはしらないのだろうな・・・と説明を聞くときには想うのですけれど・・・ 

オペラシリーズとワイルドシングに分かれていて、ワイルド〜のほうはロックがテーマだそう。そちらは試したことはないですけれど。
チェネレントラ・シリーズなどはタイムレス・コンフォート(店舗)と伊勢丹新宿?で扱ってるそうです。余り出かけられないのでオンラインで買えるのはよいです。ヴェレダの歯磨きとパルのめぐるを使ってますが、ここの歯磨きジェルもよさそう。

ちなみに、ブログと連動したアフェリエイトやタイアップなどでは、この記事で商品を薦めれば金銭や物品のおまけがつくようなものもありますが、私は一切そういうものには興味がありません・・・・ので、このブログで書いている記事は単純に、色々なものを使ったり・見たりした経験から「より善きもの・コンセプトとエッセンスが一貫しているもの、おすすめしたいもの」について書いています。ブログがコメルス(商業主義・広告の下請け)のようになるのはあまり好ましいとはいえませんから・・・・

ストレス、疲労が皮膚に出てくるような気がしてます。(元々のアトピーがあったりというようなものではないです。ストレス、過労性・・・?)
結構疲れているとき、神経過敏だと口の中があれる・・ような。 
一番弱るのは、弱らされるのは、ダブルバインド状態・・・つまりどっちを選択しても、相手/他者からは否定される、という状態のときですが・・・
そして、周囲が「なすべきことを」を「感情的に否定し」、このままでは多くの人に迷惑がかかるのでどうにかしなくてはならない、とあれこれ仕事をつくしてみても、その決定権と相談にも応じてもらえない状態・・・だったりもします。
人は自分以外の人間の利害にかかわるときほど、「感情的」になってはいけないと私は思っています。そしてその感情の移ろいやすいこと・・・
自分の課題も多いので(家事などはそれには含んでいません、生活レベルのことはあたりまえのことです)・・・外圧による憔悴が断続的に続きます。

プラトンにおいても「香り」はすばらしい香りはそれ自体が「善」だと語ります。おそらくその中にはバラ、ミルラなど、自己と他の目にみえない真実によって呼ばれるからなのかもしれません。

今はそれほどでは。でも6月中旬以降から一気に余裕がなくなってきそうです...

日記*なかなか外出できない用事のため外出しても分刻みで移動しています・・・移動中は資料を読む時間です)/イヌ用品見にいけないと参っていたら、デザイナーのりょうこサンが仕事帰りにレインコートを見つけて、買っておいてくれたそうです ・・雨がざばさば降った日なってから「買わねば!」と思っても遅いのです...多謝。 娘や私にもデザインして商品化したものなどをよくプレゼントしてくれます。彼女のデザインやデッサンは昔々からよく見ているので、プレゼントされると嬉しいですね!
ロディのエコバックとか、2階PCルームの書棚に置いてます。