1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

May 2010

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開催されているユトリロ展は、全作品日本初公開の絵画で構成されている。
「白の時代」「色彩の時代」という安易な時代区分ではわからない、ユトリロ絵画にある深層がわかる展示である。
アルコール依存症の治療のためにかかれていた初期絵画と白の時代は、まだ彼の本性が表現された絵画作品であった。
ここでの町並みの人影は、単にシルエットである。
人が人影としてのみ、目に映る孤独感だが、静寂もそこに描かれる。
内面を描きこむ自由がまだそこにはあった。
壁や樹木の陰は、印象派絵画のような、感覚的自然描写がされている。
だが、色彩の時代、つまり監禁状態で金銭のために絵画作成をさせられる時代となると、一変する。自己嫌悪と画家であるというアイデンティティ、家族への憎悪。絵葉書をみながら「風景画」を「モノ」として描く作業。
定規でひかれた主線と色彩。

19世紀のフランスは両極的な場所である。
現代では、快さ、コンフォートを幸福とイコールで結ぶことが一般的である。しかしそれは、移ろいやすい気分の問題であって、いい気分が続くことを幸せと想い、常に充足してることを幸せと思うだろう。
自らに苦痛が体験されなければ、何も問わない。周囲におよんでも、他人ごととする感覚、これが常識となっている世界。
そして、差異を認識せず、無条件に他人が同調してくれる世界。
物質と快よさ・コンフォートが満たされていれが何も不足を感じない人たち。

物質主義は、数量的価値と結びついたとき、果てしない所有という価値観へ変容する。
精神性の物質への還元化、この流れに反発する形で、フランスの文学と芸術と哲学は水脈をともにしている。象徴主義、ベルクソン、アンドレ・ブルドン、ロラン・バルト、ガストン・バシュラールなど・・・


ブルジョワ趣味、中産階級思考に流れる「ナルシシズムと他者犠牲の精神」これほど「悪辣」なものはない。
モーリス・ユトリロの絵画における「全くの他者」・・・
正面から描かれた通行人の顔を見れば、そこに憎悪と全くの無関心がある。そして「顔」のない、彼らこそが「自分の快楽と所有欲のために」、彼らがなんとなくよいと思う気分のために虚飾を消費する。
監禁状態でひたすらに売るために絵をかかされていたユトリロに「同情」することは容易である。

しかし、その「同情」こそが、他を犠牲にして自分が生ぬるく生きることに悦びを見出す人の心性である。
この絵画をみながら、おそらくは、強制の中の制作といった中にも、無心に描くこと、色彩を塗り重ねたときにそれでも描きたいというものがこの人にはあったのだろう、と思う。それは教会の屋根の群青色と灰色の微妙な色彩であり、パサージュの壁の陰影や漆喰の壁の微妙な色彩の影などである。強制的な中でも、こうした部分が、この人の特質なのだろうと思われた。それだけに、もしも、好きなように行動し、描くことができたらどのような作品を描いたのだろうか? しかしそうした、普通の人が生まれながらにももっている空気のような条件があったならば、彼はもう描くことはする必要もないのかもしれない。どこか、絵画作品そのものというよりも時代性の刻印を見るような感慨を持つ。19世紀後半から、20世紀のフランス・パリの文化の両極性をみるような気持ちになる。

絵をそれとなく眺めることほど容易なことはない。
すきか嫌いか、趣味か、趣味ではないか、そのように絵に対峙することも今日では容易、というか、当たり前である。
なんとなく「絵画」や「パリの街角」を眺め、通り過ぎたあとは、同伴者とその日のランチをどうするかといった日常が途切れることもない、のだろう。そういう人が多いのではないだろうか。
自分たちが完全に善良である、間違っていない、と信じ込むことは容易である。だが、私たちは自分自身を本当にしることはないように、他者の存在と他者の苦痛には気がつかないことが多いし、現在ではしらないでいることがどこか推奨されているような部分がある。

それと同様に、「なんてひどい」と「苦しみながら悦ぶ」という無意識の群衆心理が存在する。
悲劇を悦びながら見る意識。涙を流すことに対する浄化意識。

それらは皆、手を汚さない破壊者=消費者であり、「しかたない」といいながら「生贄」を求める心理である。

・・・果たして無自覚なままに、コンフォート「快適さ」を手に入れる(所有)ことで満ち足りる(筈だ)という意識がひどく表面的であることに、ほとんどの人は気がつかないのだろうか?

「完全な根源」に成るのは不可能である。
だが、そこを目指すという可能性は閉じられていない。
「適度さ」とは「妥協」ではない。

むしろ、物質を伴うものは「完全」には成りえない。
ただ、「適度さ・時宜をえていること」によって「よりよき状態」を目指すことはできる。

しかし多くの人は真理を退ける。
殊に「自らの(気分的な)快適さ」が損なわれるかもしれないようなことには。

転じて、世に流れる情報もまた、この原則にのっとっていることを忘れてはならない。「消費者・投資者」の気分を損ねるような真実は何も語られないのだ。
私たちが無条件に「自由だ」という意識をもっているならば、それは無意識に隷属・披支配の状態にあること、また、自然と無意識の享受は、意識されない退行の過程ではないだろうか。


ユトリロ展では、色彩の時代に入る前の絵葉書2枚を購入しました。
<スュレーヌ>(1912)と<ソール通り モンマルトル>(1917)

固定された、強制的視点からみる町並みは、形を変えることはない。
したがって、ユトリロが描きこむのは色彩である。とりわけ白い漆喰の壁の色は複雑に塗り重ねられる。もはや白色ではないこの色がそれでも白と認識されることが奇妙に思えてくるほどにこの壁の色は均一ではにないのだ。これほど風景画の特質をもたない風景を描いた作品というものはないだろうと思われる。通常、画家は描きたい風景を見出して、そこに構成しつつ見たい風景を描く。(肖像画家や歴史画家が風景画や自画像を描くのは自己のためである。そこに画家の描きたいものはこめられていることがしばしばある)だが彼の作品はまったく逆であり、その中、濃密に表現を与えられている部分がある。
そして彼の作品の中には、鋳造された風景の中には、無関心という群衆というの肖像が描かれているのが観られるだろう。

招待券を下さったramaramaのyukiさん、ありがとうございました。
年表や解説も充実しています。
会場はとても落ち着いて観ることができました。

ブックショップのほかに一回にもショップがありそこでル・コルドン・ブルーのティータオルがあったのでキッチン用に買いました。
秋にはヴァザーリの回廊の肖像画コレクション展(同美術館にて)があるようです。

一季咲き(つまり5月-6月に一度だけ開花する古来のばらの特性を改良されすぎていないばら)のバラはそろそろ見ごろが終わってきました。
といっても、近年は、多雨、晴天、強風とあまりにも天気の変化が日々大きいので、雨が多いとつぼみがダメになり、気温があがりすぎると一気に開花してしまい、開花したあとは強風ですぐに花が散るという状態になり・・・たとえば2日、3日と多忙になると、ほとんど一番よい状態の花をみる時間もなく終わってしまうことも・・・今年は一季咲きのロールドローズが、つぼみが多かったので、まだよかったのかもしれませんが・・・
P1020948


先日シャボー・ド・ナポレオンの写真を載せましたが、ヴァリエガータ・ディ・ボローニャの写真も。


P1020973

今年もニュー・ドーンの花は八重で大きめの花がついています。
だんだんとフェンスも花で一杯になってきました。
P1020974
バラのカテゴリーではなかったので、もう一度シャボー・ド・ナポレオン。


参考文献を探して/しらべています。もちろん図書館にもあるのですが、やはり必要なものは手元にあったほうがよいのです。
ただ、問題なのは80年代から90年代末にかけては貴重な文献が多いのに、再販されていないことです。みすずは復刊させていますが、どうにも手に入らない必読文献や重要なものは・・・探してもみつからないことも。
私も一時、出版会社にいたことがあるのですが、90年代後半には版元自体がなくなったりすることが多いため、その時期に出た重要な文献は見つけるのが大変です。
もっとも古書をみつけるのも容易になったかもしれません。WEBの発展のよい面だとはいえます。

ただ、新刊本があるならば、なるべく新刊で買うように購入者(消費者ということばは私はすきではないです、人間の役割は消費にはないはず)がしなければ、市場自体の先細りが確実となり、結局は利用する側(われわれ)がまったく利益を失うのですが、あまり実感する人/実践する人はいないのでしょうか。自分だけが一円でも安く購入し、所有できればよいのでしょうか。

古書で買い求めるものには、70年代前半など自分が生まれるよりも前のものも多いのです。
なんとも感慨深くなることが多々あります。

人は身体の養育のためには食物や水が必要ですがそれだけでは生きられない。言葉(ロゴス)によって、それは支えられている。

さまざまな言葉から受取れること、そして受容するにも力はいるのでしょう。早朝から夜まで1日が長く・・・時間配分に気を使います。すべてを同時に行いますが、やはり集中できる時間をどうつくるか、が問題です。困難も安楽も無限を想定したら、きりがありません。
やはり有限のなかで、どこまでできるか、
それを念頭に取り組みたいと思います。

日程、体調など、直前までいけるかどうかわからない状態だったのですが、チケットをとっていたAプロへ。

ボリショイがプティの「若者と死」を公演することに関連して、プログラムが大幅に変わってしまいましたが、それでもマラーホフがフィナーレでグランジュッテを見せてくれたときは会場が一体となった共鳴があった。
ただ、「アリア」を見たかったのでソロの変更は少々残念でした。もちろん、マラーホフのコンディションや要望は重要だとは思います。観客のために、犠牲となったり、そういった要求まで観客がしてはならないと思っています。ただ、販売する側(NBS)はそれならば、ソロは未定という発表であるべきかと。公演者側の倫理の問題です。観客(客席)と舞台の関係に対してのある種の鈍さを感じます。

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「カラバッジオ」はやはり・・・全体を通してみないと、ですね。
カラバッジョ的キアロスクーロ(明暗法)とバロック的肉体描写は現れていたように想います、ただカラバッジオというタイトルを知らなければミケランジェロ・メリージ・ダ・カラバッジオという画家を主題にとった意味は伝わりにくい印象は否めません。またこうした具体的タイトルをもつ作品ほど、どこか象徴性、記号への解釈までは振り付けに反映されておらず、どこか主観的な印象があります。プティの「プルースト」もそうですが・・・
つまり、もし、バレエや映画などが特定の主題や登場人物、文学、絵画、神話などを扱うならば、少なくとも、「原典へと誘う」ような魅力がなければ意味がないように思うのです。独善的なARTとあたらなクラシックとなるコンテンポラリー(同時代性・普遍性)の差異はそこにあるのではないか。

ヤーナ・サレンコとディヌ・タマズラカルの「ゼンツァーノ」、マリア・アイシュバルトとマライン・ラドメイカーの「椿姫」は良かったです。といいますか、マリア・アイシュヴァルトの「オネーギン」はすばらしいですが、、シュツットガルドバレエはよいです・・ポエジー、ドラマ性、音楽性、コンテンポラリー性が調和されている。

ベアトリス・クノップが来日してくれるならば、やはり以前の来日公演でみた「バヤデール」のガムザッティなどが見たかったという感じもします。

「仮面舞踏会」の四季では、吉岡美佳さんはギリシア的ムーサのような雰囲気でよかったです。冬では、宮本祐宣さん(先生)が出演されてました。宮本先生は以前ゲネプロのリハーサルをみたことがあるのですが、作品に対して「より善きもの」を求める姿勢が印象に残っています。さて、ポリーナとマラーホフの演目は、ジュエルズよりもこちらの仮面舞踏会・四季の夏が良かったです。ポリーナの「シルヴィア」を観に行けばよかった・・・と少々想いました。
この演目でパリ・オペラ座が演じた舞台をみてみたい、と思ってしまいました。秋はおそらくはローマをテーマにしてるのでしょうが、衣装と振り付けと動き全体がまだあっていないような印象でした。
同じことを「アレクサンダー大王」でも感じました。アレクサンダーのマケドニア的な、そしてプロメテウウス的な悲劇性と両義的な人間(アレクサンダーは「神のように永遠にいきるように、また連続する死の再生のような生き方を望んだ」)があまり感じられない・・・どこか、古典解釈に迫りきれていない演目が多いように思うのです。イマージュの世界は、たしかに個別的なものですが、しかし共有できるものとしての最低限の統一性というのは必要なものなのでは、と個人的には思ってしまった。

やはりプログラム変更によるトータルなガラ公演の内容構成は充分だったとはいえない・・と思います。特にドイツのコンテンポラリー作品では、「言語化するバレエ」が、次第に「踊らないバレエ」「静止する表現」になっていることがいつも気になります。
音楽、意味、言語、詩性、・・・そして踊るということの起源は、「踊るサトゥルス」にも顕著なように、ピルエットと跳躍、指先と爪先の表現・・・なのだと。芸術表現としてのバレエは、演劇ではないし、その代わりでもないのです。気分的に、「ザ・グラン・パ・ド・ドゥ」もこのプログラム構成の中で最初の演目としてあまり・・・これはまったく個人的な感慨なのですけれども。第2部の「仮面舞踏会」から始まってもよかった。なにかトータルな印象が弱いコース料理のような印象になるのですよね・・・
当日は数年前から知人だったバレエファン(ファンというよりも見者)のN様と一回目の休憩時に挨拶できました。今は英国へ出張へ行かれているということで、またエトワールガラBプロでお会いできればと想います。

近況としては、すぐに月末になるのが信じられません...1日はとても長いというのに。
短い睡眠時間の中で、直前まで読んでいたテキストについて、浅い眠りのなかで自己問答しているからなのか、あるいは考えたことの忘却がきになるのか、延々意識だけは目覚めているような・・・娘がいうには、明け方魘されているとのことです。・・・・こうしたドクサ(思い)に振り回されているようではいけませんね・・・ストレスは無意識に蓄積するもののようですが、皮膚が薄いのですぐに影響がでます。
ここのところ時間がとくに限られているので、マラーホフ公演のときにはマークスとアルゴナチュラに立ち寄りました。アルゴナチュラで取り扱っているハーブティ(イタリア産)がすきなのですが、在庫がなくなったら扱いは未定らしいです・・・。ミントティは水出しでもでるので、持ち歩きもできます。
温かくなったので、ハーブティ、ルイボスティのほかにはアズーラ(フリザンテ)を飲んでいます。あまりpetボトルは買わないようにしていますが、コンビニなどでもうすこしスパークリング・ミネラルウォーターを売ってくれたらどんなにかよいか・・・しかし日本人の味覚にはあわないものなのでしょうか? 私の周りには、スパークリングミネラル・ウォーター好き、ペリエ好きな方が多いので、よくわからないのです。

ところで、私は自分自身の悩みについては、酷く落ち込むこともありますがあまり自棄になったりはしません、できるだけやれることから時間がかかったとしてもこなしていかなければという思いがあります。
いままでもそうだったから、自己解決とそれに理解と手を差し伸べてくれる方の助力があって「今」が蓄積されている、と思っています。
(困難に直面している方に、なるべくできることをしたいと望むのは、自分がそういった恩恵を受けてきたからかもしれません。)

どう対処してよいのかわからないのは、本当に困り果てるのは・・・「嫌なこと・やりたくないこと」に直面したときに「他に対する攻撃や闘争的態度」を表出させたり、「感情的に自己の暴力性を他にむけて」きたりということに直面したときです。困り果ててしまうし、自己の居場所もまた同時に基底ごと喪失します・・・この状態で二日ほどは弱り果てていました。
しかし、どうにも・・・やはり私にはアリストテレス詩学にみえるような「悲劇をもとめる人間の特質」にはよさを感じられず、それに無意識に「酔う」(心酔)するような事ももとめることもしたくはないのです。

ですからなるべくならこのブログにも、主観的なこと、感情的なこと、日常についてはかかないようにはしています。
・・・しかし書かなければ、安寧であるというわけでは、ないのです。

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写真はシャボー・ド・ナポレオン(モスローズ)
今年はきれいに咲いてくれました。一季咲のばらが咲いてくれると2月の世話の結果が出てほっとします。苗も去年より元気そうです。

全てのものには目的がありその可能態を実現態に導かなければならない。また、それらは最初からあるわけでも、与えられるものもない。与えるという行為自体もそれを期待するほうも、受動的すぎる。受容性と受動的な志向は異なるものである。

「成すべきことを成す」ことの連続が私の日常だが、その時間も作業も分断されている。それを分断するのは、「自らの快さと自己充足を志向する」人たちによって、またそういった特性の環境によって、他者性とは他人をつねに気にかける態度や一方性ではない。まったく逆である。
他者を「自己補完のための道具のように、部品のようにみなす個人主義」この態度と行為と言動によって常に悩まされる。
(おそらく私の主観的感情もその理由の一つではあるだろうし、問題なのだろう。そこに無自覚なわけではない)

だが、相手が気がつかない以上、そして対話不能な状態がつねにある以上、・・・私が(地上から)立ち去らなければならないのだろう。

「良かれとおもってやった」という行為、対話のもとに成り立たない行為。
独我論と個人主義、快楽主義による自己充足を求める人は、常に自らによって充足を(思慮と実践によって)もとめるのではなく、他人に関与することでそれを満たそうとする。しかし彼らが究極的にみたいのは、苦悩する相手(他者)であり、それに憐れみと同情を感じる自己陶酔の心理である。・・・彼らは、自己の好みにあわないものを排除しようとする。
対話、言葉によるコミュニケーションが成り立たず、自己が他者の場所を奪うか狭めていることにも気がつかないか、それを由とする。

・・・私が、立ち去らねばならない。
・・・私のもとにおいて生じた責任をある程度、返還し、成すべきことにできるならば一つの形、フォルムを与えられれば、よいのだが・・・
近頃は生活レベルでも、もっと異なるレベルにおいても、限界を感じる。

意志と行為と思慮においては何事も可能だということは、事実だが、それもある一定の条件のもとでなければならないのかもしれない。
はじめからそれを享受する立場の人は、いっそう、その事に無意識であるように思う。そしてその立場に、甘んじる。空気のように、そう感じるのだろう。

(・・・このような感慨を抱くのは、すべて憶測であり、結局は、私の生ぬるさ、脆弱さだろうか。)

私は「よりよきもの」については具体的に記述しておきたいとはおもうが、そうではないものについて、あえて特定することは避けたい。
そして、公明正大でないものや物言いは好まない。

書くこと、記述すること、の価値と役割は他者を貶めるためにあるのではないと、と思うからであり、
更に言うならば、「私」という意識すらも、その本質には自分では「完全」には認識できないものによるからである・・・


フィガロブックス パリ・オペラ座バレエ物語 夢の舞台とマチュー・ガニオ (FIGARO BOOKS)
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彩の国芸術劇場からおしらせがきましたので当blogにも。
bunkamuraでの上映を見逃した方はぜひ、ただDVDもすでに販売していますので、何度も見たい方はそちらをおすすめします。


このブログでもなんども感想を書きましたが、パキータ、ジュニュスなどリハーサルから舞台までその創出の過程が見られ、語られる。ローラン・イレールの指導シーンとマチアス・エイマンがすばらしい。
本はフィガロブックから出版されています。私はフェアリーの書籍コーナーで買いました。

以下は転載事項です。

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150席の親密な空間で珠玉の名作をお贈りする、彩の国シネマスタジオ。
今週末は、ドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマン監督による『パリ・オペラ座のすべて』を上映いたします。
世界最古にして最高峰のバレエ団、パリ・オペラ座の内部に84日間密着して、エトワールを筆頭とした世界トップクラスのダンサーたちの創作過程と、スタッフたちの献身的な姿を浮き彫りにします。
悠久の歴史と秘密が解き明かされる、興奮と感動に満ちた160分。お見逃しなく!

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☆16日(日)14:30上映会終了後、バレエ雑誌『ダンスマガジン』でおなじみの長野由紀氏(舞踊評論)によるアフタートークをおこないます。
パリ・オペラ座の魅力についてたっぷり語っていただきます。どうぞご期待ください!
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◆『パリ・オペラ座のすべて』チケット好評発売中!
○日時
5月14日(金) 10:20/14:30/18:05
15日(土) 10:20/14:30/18:05
16日(日) 10:30/14:30
○会場 彩の国さいたま芸術劇場 映像ホール
○監督 フレデリック・ワイズマン(2009年/フランス・アメリカ/160分)
○料金 一般:前売1,200円/当日1,400円 小中高生:前売800円/当日1,000円
シニア券(60歳以上、障がい者の方):前売・当日1,000円

◆ご予約・お問い合わせ
財団チケットセンター
TEL 0570-064-939 (10:00〜19:00/休館日を除く)
www.saf.or.jp



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こちらもすでに感想を書いていますが、芸術や文化がおかれた転換期、つまりコメルスと市場の理論が入り込んできたときにいかいに、クオリティを維持し、生きたダンサーたちによる文化の創出性を現代人は担うのか?ローザンヌやフランスでさえ直面しているこの問題は深刻である。
だがとにかくダンサーだちとジル・ロマンのパッションと作品の構築の過程がすばらしい。監督の日常の追い方と非日常の捉え方も見事である。

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さてにわかに参議院選挙所の報道も増えているようですが、なぜ意味のない形骸化した二院制をとっているのだろうか、参議院の意味はどこにあるのか。
英国の貴族院と庶民院は14世紀に枠組みがつくられ、現在の上院、下院にまで継承されている。ちなみに庶民とはコモンズをさす。選挙とは租税担当者を代表するものを選出するのであって、人気投票ではない。メディアによって全ては娯楽化し、脱社会化する。社会とは個人と個人の間に成立するものであって、脱社会化とは個人の権利も次第に衰退することをさしているのだが・・・
ちなみに代表議会制度自体、封建制に根ざしている部分がある。
庶民院はコモンズであり、都市代表や土地の代表者、租税担当者であるジェントリー層を代表する制度になっていった。単純に比較することはできないが、それでも参議院の形骸化は否めない。それにしても制度自体を確認し社会と一致させようという意志の弱さは一貫して議会制度が導入され(輸入といったほうがいかもしれない)て以降、まったく社会自体に根付いていないことを表している。
そして租税制度とそれに関係する特権はその支配体制の本質をよく表している。当然減税制度も同様である。「誰」が最も利益を得るのか、遡ればわかることなのだが・・・ 
中世のイギリス中世のイギリス
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マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制 1199-1307 (歴史学選書)

著者:城戸 毅
販売元:東京大学出版会
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日本語ではほとんど5W1Hを問う対話は行われない。むしろそれを避ける傾向にあるのではないか。「顔」のなさ、主体のなさが浸透する。なぜ、何を、どのように、どちらが、いつ、誰が、そういった具体的な問を「持たない」ことを促されているようでもある。
問いがなければ「答え」は得られない。
最善なものも、よりよきものも得られることもないし、もし提示されても選らべない状態になるのだろう。



日記としては・・・クリステラー、ポイマンドレースとグノーシスについて、またコムーネについて読み返しています(シエナ・フィレンツェ)
コムーネからポリスへ、そしてペリクレス時代の復興と終焉という形でプロトルネサンスからマニエリスムへ・・そこへ至るまでの大枠としての文芸と人文学・自然学はどう変化したのか。ピコとフィチーノ、フィチーノとポリツィアーノの差異、初期から盛期への変化についてみている。

ただ、やはり時間を創出することが難しい。とても難しいです。

・・・・どれほどの時間が残っており、その中でどう行動できるのか。
一つ一つ解読するごとに、問いは増していく。
人間は仮に上昇するときには返却をする過程であるという、何をどこまで返す、ことができるのか。これは知識を得る、得た、という目的と意識と表裏一体ながら、根本においておそらく異なることなのだろう。

そして斉藤先生が『デカルト』で書いていたように、我々は、「死者としか対話はできない」ということを思い出す。常に想起させられる。

デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)
著者:斎藤 慶典
販売元:日本放送出版協会
発売日:2003-05
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・・・・

再び、ジル・ドゥルーズを読んでいる。
またブルデューの原書3冊をamazon.frにて注文しました。
そして同様に、ブルデューが言ったように「ペシミスティックになってはいけない」ということも思い出す(常に)のですが、常に何事もLive on、忍耐強く感覚的にならず成さねばならないのだと思う・・・原典や翻訳にあたることができるのだから、それを受取るかどうか、そしてどのように応じることができるのか・・・常に思うことではあります。

政治と精神分析 (叢書・ウニベルシタス)政治と精神分析 (叢書・ウニベルシタス)
著者:ジル ドゥルーズ
販売元:法政大学出版局
発売日:1994-11
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原子(アトム)と分身(ドゥーブル)―ルクレティウストゥルニエ

著者:ジル ドゥルーズ
販売元:哲学書房
発売日:1986-11
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ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)
ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)
著者:ジル・ドゥルーズ
販売元:法政大学出版局
発売日:1974-01
おすすめ度:5.0
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ピエール・ド・ロンサール、ヴァリエガータ・ディ・ボローニャが咲き始めました。玄関に取り急ぎ飾ったところです(時間が分刻みです・・・)

ピエール


近況としては引き続き在宅で課題、英文テキスト(イタリア語からの翻訳・・いずれイタリア語テキストやラテン語原典に向かえるときがくるのでしょうか・・・道のりは長い)、アルベルティ、フィチーノ、ピコ、ポリツィアーノ周辺のテキストを読みながら・・・、微熱程度の熱と貧血、課題が終わらず形にならなかったり、様々な行動の結果が正しく作用しなかったらどうしようかという戸惑いのもと・・・10分以上nikoさんの散歩をしていると、考えがまとまってくるのですが(メモやノートを常に携帯したほうがよいかもしれません)・・・それ以上歩いていると、今までやってきたことやこれからの領域、己の裁量の小ささ、努力の足りなさに果てしなく、絶望的な気持ちになってきます・・・ 
まだまだ・・・修練が足りません・・・
時間がなくてもすべて自炊(家族の分への責任もありますし・・・・)です。

何事もおろそかにできない。

書斎5月

書斎+リビングのエリアは通常nikoさんは自由な出入りはしてませんが・・・
ドナテッロ(バルジェッロにて購入)の写真と、ラコストの城写真を背景に。

後期対話篇 「ピレボス」を読んでます。
それから、先日までは古書でも扱いがあったジョバンニ・ピコ・デラ・ミランドラの著作が古書でも見当たらなくなってきました・・・・・
80年後半から90年代にかけてでていた著作は、現在みすずが復刻版を出してはいますが、ピコの「人間の尊厳について」はちくま学術文庫などにあってもよいと思うのですが・・・・

関係ないですが、私は一切美容には関心がありません。調和的美というのは関心があります、つまり、フィチーノやプラトンがいっていたように、「美しい肉体や美しい顔」などというもの自体を追い求めてはいけないのであって、「美や善」そのものを、内側から求めることが、外側の形成にも繋がるのです。単純な本質否定による現代の行き詰まりは、もう形や世情にあらわれています。

コムーネからポリスへ。
ポリスからペリクレス時代のアテネを志向したのがロレンツォ・イル・マニフィコの時代であり、コジモ・イル・ヴェッキオの死の床で「ピレボス註解」がフィチーノによって朗読されたのは偶然ではないように思われる。

私たちが現在では「勤勉・勤労」として美化するものでさえ、根本的には「快楽主義(それも小市民的な)」であり、それさえもが吟味の必要がある。

しかし1960年以降、私たちは「私生活主義」を命題としてそれ以外は何も価値がないかのように「操作」されている。多くの人はそれに気付かない。気がつかず、価値を吟味することなく、受容する。

それは単なる同調性と組織的生ぬるさとして、漂流する。

MEMENTO MORI 死を記憶せよ、この銘文の解釈は2通り存在するように私には思われる。つまり、・・・「死における他者性」と「死における個人主義」は大きな方向性の差異を生む。(イタリアルネサンスと北方ルネサンスと地域の違いだけでルネサンスとして考えることはできない。池上俊一氏は、ルネサンス再考において、このことを指摘しているが、付け足すならば、おそらくこの「死生観」の大きな隔たりに大きな意味の隔たりがある。そしておそらくは、日本人のほとんどは、盛期ルネサンスのラファエロやレオナルドには共感するだろうが、初期ルネサンスの建築や彫刻、絵画には共感しないのだろう。そうであれば、あのような、数時間の滞在においてフィレンツェを後にする行動は説明できない。つまりリナシメント(ルネサンス)のコアには何も触れることなく、フィレンツェを経由し、ピーサの傾いた鐘楼を見物する。ピーサの10世紀の建築や美術に興味がないまま、にである・・・)

話がずれたが、長い間、隷属的で受容的な態度を「良い」と受け入れてきた被支配階層ほど、権威と権力への隷属を望み、自律性を自ら排除する。快楽主義と自律性の喪失は、すべての価値と所有しているものの価値すら転換させ、私生活圏の喪失に繋がるのだが、多くの人はそれを自らの身をもって経験しなければ、認めようとはしない。また記憶せず、忘却の淵に受容的態度とともに、自ら認識を放棄する。そこにあるのは「決められた価値」であり「本来的価値」ではない。

「自らが心地よいと無意識に受容できる」意識が、現代における「アイデンティティ」となっている。・・・・それも集団的アイデンティティとして、それらは、あらゆる媒体(メディア)を通して現代では浸透していく。こうした言説はすでに吉見先生によって岩波新書化されているとおりである。

・・・私が選択するのは、つまり死における他者性である。
つまり、生に価値があるとするならば、また人が生きることに有意味さを見出すには、「他の存在」にとって、良い結果、良い作用をもたらす有益さを行動とともなう思慮によって可能性を実現態に変えていく絶え間ない働きによって、である。公的な生活と私的な生活の両義的な意味を吟味したであろう、フィレンツェにおいてこの近代的な態度が早期にみられることはもっと着目されるべきことだと、私は思っている。


ピレボス (西洋古典叢書)ピレボス (西洋古典叢書)
著者:プラトン
販売元:京都大学学術出版会
発売日:2005-06
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プラトン全集〈4〉パルメニデス ピレボスプラトン全集〈4〉パルメニデス ピレボス
著者:プラトン
販売元:岩波書店
発売日:2005-04
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『ピレボス』注解―人間の最高善について (アウロラ叢書)
著者:マルシリオ フィチーノ
販売元:国文社
発売日:1995-11
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純粋化、原理主義に付随する他者排除、一元化の方向ではなく、多様性、他者共存としての視点、私が確認したいのはそのことについてである。

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写真は、咲き始めたレディ・ヒンダリン。
そろそろイングリッシュローズが開花してきました。仕事締切も近づいてきていますが、月曜日の課題はとりあえず一段落させ、文献リストをもう一度(買い足したものが多い)見ています。在宅で作業を進めるか、仕事場の広い机で英文テキストをみたり、・・・すべてが「同時進行」です。...現代人は仕事とライフワークを両立させなければならない、と自分にいいきかせながら、にです。
二重の生が、おそらくは近代以降の「公共圏」と「私生活圏」になるはずですが、マルシリオ・フィチーノの晩年の著作や、「パイドン」などにおけるテーマは「三重の生」である。(”De Vita”)

必然的に温野菜料理、炊き込みご飯(ピラフ)が多くなります。
外出できない日常になりつつありますので、kozさんからダロワイヨのタラマを頂きました。田園調布から遠路すみません!
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この日の娘の夜弁当に作ったピラフ。新たまねぎや夏野菜がそろそろそろってきたのでつくったカポナータ。夏は定番です。
このほかに、エリンギ、コアフード小松菜、エコ新人参、アスパラの蒸野菜もつくりました。それからやはり弁当用のおひたし(エコ水菜とささかみのまいたけ、薄あげの煮浸しです)も。

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なぜかWEB通販などでもほとんど見かけないタラマ。
これだけたらこがメジャーな国なのに、なぜもっと普及しないのか、という疑問が。おそらく、ジャガイモでつくるほうがタラモ、パンをベースにするほうがタラマなのでしょう。
エールフランスでフィレンツェ入りするのが好きなのですが、帰りに必ずCDGで買うのがタラマ!です。
スピローズ表参道店が懐かしいという話にかならずなりますが、古代ローマ、ギリシア話ができてよかったです。kozさんとはなぜか共通点がありまして、それは幼稚園のページェントで「誰もやりたい人がいない宿屋のおかみさん役(馬小屋なら空いてますとヨセフマリアに言う役ですね、ご存知の方もいらっしゃるはず・・)をやったことがある」というものです。家がキリスト教ではないのに、奇妙に自分の中には価値観として入り込んでしまっていているというのも似てるのかもしれません・・・。
私の知人にはそういう方が多いように思います。

私が思うのは、カトリックがプロテスタント化していく過程でもそうですが(ミケランジェロなども限りなく、プロテスタント的でありながらカトリックであったように。)、完全に「プロテスタント」として完成していまうと、違う権力肯定が生じてしまうように思います。
改革過程の持続性が重要なのではと、つまり批判的吟味の持続と実践が重要なのでは、・・・と感じています。

90年代まではFLO表参道店(ブラッスリー)があった際には、前菜にタラマがありました。ここの魚のサフランスープも大好きでした。
今はもう表参道にはああいった店もありません・・・
どちらも食べられないので、サフランスープは自分でブイヤベースを作っています。
食や味覚の衰退はおそらく文化衰退の一つでもあると感じます。フードコートが私は苦手なので、おちついて会話しながら食事ができ、ワインがリーズナブルなブラッスリーやトラットリアがほとんどなくなった、と感じます。

バラはイングリッシュローズのエイブラハムダービー、ティージングジョージアが咲き始めました。シャボー・ド・ナポレオンも咲きそうです。
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モス・ローズのシャボー・ド・ナポレオン。

イングリッシュ・ヘリテージとLDブレスウェイトはまだつぼみが小さい状態ですが、ワイルド・イブはつぼみが大きくなってきました。
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多年草のハーブも茂ってきました。毎年冬はまったく枯れてしまうのに、宿根の生命力には感嘆してしまいます。

春から初夏にかけては、最近はルクレティウスの文章を思い出す。
(「万物の本質について」(樋口勝彦訳) 岩波 p.9)


モダンローズは、仕事場に鉢を移動させた緑光とピエール・ド・ロンサールが咲き始めました。

ところでまたキャノンのプリンター/複合機が壊れました・・・
以前他の方とも話題になりましたが2000年以降の家電製品は本当に壊れやすくなっている。しかし90年代に購入したものはまったく問題なく使えています。前回は忙しかったので新しいものを買ってしまいましたが、今回はサポートに電話をして修理することに。1年半ももたない家電。
後継機の値段はは修理代とほぼ同等です。それを考えて修理しなさいという回答でしたが、・・・あえて修理を依頼します。
ものづくりの理念も消費主義によって崩壊していると感じます。ちなみに同じシリーズのほぼ10年前に購入したものは、いまも問題なく使えます。

すべてのものが、見かけ以上の価値のないものになり、見た目の値段は安いとしても、価値としては低いものが商品化されている。

イングリッシュ・ローズ、モダンローズもつぼみが大きくなってきました。最初の開花ピークは今週になりそうです。

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窓に這わせているイングリッシュローズのティージング・ジョージア。

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今開花中。スーヴニル・ドゥ・ラ・マルメゾン。(オールドローズ)


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もうすこしで咲きそう・・・



昨日は忙しい土曜日でした、いや私は土曜は休みではないのでいつも慌ただしいのですが、連休中も準備していた仕事が一段落・・・
自分の課題に頭を切り替えるべく・・・nicoさんの世話をしながら(私も支えられているのです・・・が)課題諸々を。なかなか家で一人で集中できないので、アイデアや考えを一時的に忘却してしまう焦りに付きまとわれています。。おちつかない・・・

昼食にボンゴレ・ロッソを作りました。あさりはチンザノで蒸しました。
マッシュルームがあったので投入。美味しいですよ!
あさりもパルシステムです。

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nicoさん(18歳) 元気です。階段ものぼれます。
5月にロビンスの床を掃除してコート・ワックスを1階はすべてかけました。
5月10月が私の大掃除スケジュールです。寒いと体を動かせない・・・

ピコ・デッラ・ミランドラとフィチーノを呼んでいるので、時々ぴこさんと呼んでみたりも・・・(?) 夕方と夜、にこ散歩に出ましたが、寒気がするし寒い・・・ので若干風邪気味なのでしょう、知らないうちに無理が4月末から続いている状態なのかもしれません。

クリステラーの著作を読み返しています。はやく概況だけでも詳細にまとめてしまいたい。

他の課題は下書きを終えましたが、8000字・・・やはり多くなる傾向が。
朝から微熱と頭痛、ストレスの蕁麻疹がでるほどあれこれと動いています。
母の日なのに、母親からかきあげ(海老入り)の差し入れがありました。
にこさんの様子をみにきたというのが本当の目的だと思うのですが・・・

私はまた夜は蒸野菜を作りましたが、オクラが美味しいです。

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小倉へ転勤になっているH様からおたよりとプレゼントが来て、涙がでるほど嬉しかった。手紙のやり取りが好きです。
読み返すたびに、そう想います。

毎年5月連休は年末や年度末できない分の大掃除をします。
久々にリビングと玄関の写真をとりました。

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窓とドア近くから。

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書斎方向から。

私の本・文献は2階の書棚に主においていますが・・・カオス過ぎて載せられません・・・・。

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晴れてくれると日中は明るいです。

私は寒さが大変苦手なのと冬から春にかけてはなかなか余裕がなく・・・混雑も苦手なので連休中にワックスがけや掃除をします。
6日に水村さんが目黒からいらしたので、以前から話題にしていたアンジュラン・プレルジョカージュ作品「メディアの夢」とパリ・オペラ座の「白鳥」(ヌレエフ版)を見ました。お昼はお土産でいただいたディーン&デルーカのデリと、私がつくったパスタを。久々にゆっくり食事した気分でした。
いつも慌ただしい・・・

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にこさんの面倒をみながらの日々です。
18歳ともうすぐ6ヶ月。獣医さんにも元気だね、と言われました。

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ramaramaのyukiさんにユトリロ展の招待状を頂きました!
どうもありがとうございます。日本初公開の作品が多数、チラシをみて以来行きたいなとおもっていた展示ですので大変うれしいです。
じっくり集中できる時間に脚を運ぼうと想います。
損保ジャパン東郷美術館は、ジョット展以来です・・・!

連休中は仕事も断続的にあったり資料をつくったりしらべものをしたりと、外出はせず(できず)年末できない分の片付け掃除などをしていました
nicoさんの予防注射には30日の午前中にいきました。
載せたい写真や記事もあるのですが、また改めて・・・

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写真は5月初旬のオールド・ローズのつぼみとたつなみそうです。
バラもですが、草花の彩りが美しくなるので5月は好きな月です。

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ひたすら在宅に迫られているので、蒸野菜を作りました。
ここのところほぼ連日、夜はこんな感じです。春野菜はシンプルな調理がほんとうに美味しいですね。
蒸すと味がよりわかるし、サラダよりもたくさんいただけます。
パルシステムのエコ野菜とコアフードの野菜です。
ソースにはパレスチナのフェアトレードのオリーブオイルを使います。これもパルシステム。

フィチーノ書簡集の、ピコ・デッラ・ミランドラ宛の書簡や註を読んでます・・

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仕事で東博へ。考古コーナーには銅鐸と遮光器土偶がありました。
火焔土器は出ていませんでした。
酒井抱一の絵巻、三十六歌仙の絵などがありました。(私の名前は三十六歌仙の一人からとられているのです・・・)

花の季節。フローラ逍遥を読みたくなるときがあるのですが、酒井抱一は好きです。東博のミュージアムショップでは、最近一筆せんやクリアファイルも新しいものが作られているので、嬉しい限りです。
仕事だったのでブラングィン展のカタログを買うために西美には寄れませんでした・・・


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上野自体は混雑していますが、東博はいつも空いていて最高ですね!

現在は東洋館の展示が一部、表慶館に展示されています。

「踊るサテュロス」が展示されていたのを思い出します。

(今年は唯一の外出がこの東博でした。)

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