1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

April 2010

ルネサンス、現代同時代性における他者性とプラトニズムの受容と水脈について、考えている。テキストや作品から受けたものの多さを、自分なりに形にできたらよいと思っています。
限られた時間のなかで、体力(物質としての肉体と、持続力、時間の配分、いかに集中するか)どこまでできるかは、私の問題です・・・
1日24時間を26時間、27時間・・・あるいは30時間のように、考えそしてそれは行動して作業としてもまとめていかねばならない。また立場上、観想や思慮の時間はつねに日常の煩瑣なこと、生活全般のこととも隣あわせで廻っている。そのことをひたすら実感することが多いです。

レオン・バッティスタ・アルベルティの言葉も思い出す。(『絵画論』)
私たちは、時間も手間もかけなければ何もえることはできない。


DSCN0029レオン・バッティスタ・アルベルティ


The Letters of Marsilio Ficino
The Letters of Marsilio Ficino
販売元:Shepheard-Walwyn Ltd
発売日:2010-01
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『ピレボス』注解―人間の最高善について (アウロラ叢書)

著者:マルシリオ フィチーノ
販売元:国文社
発売日:1995-11
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ギリシア・ローマ世界における他者
ギリシア・ローマ世界における他者
販売元:彩流社
発売日:2003-09
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ユディットがいるヴェッキオ宮殿のおお窓からブルネレスキとジョットの鐘楼もみれる。部屋は静けさにみちていいる。

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フィリッポ・ブルネレスキ 大聖堂のクーポラを見上げている


Platonic Theology, Volume 1: Books I-IV (I Tatti Renaissance Library)
Platonic Theology, Volume 1: Books I-IV (I Tatti Renaissance Library)
著者:Marsilio Ficino
販売元:Harvard University Press
発売日:2001-04-26
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A History of Russian Philosophy 1830–1930: Faith, Reason, and the Defense of Human Dignity
A History of Russian Philosophy 1830–1930: Faith, Reason, and the Defense of Human Dignity
販売元:Cambridge University Press
発売日:2010-04-30
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Commentaries on Plato, Volume 1: Phaedrus and Ion (I Tatti Renaissance Library)
Commentaries on Plato, Volume 1: Phaedrus and Ion (I Tatti Renaissance Library)
著者:Marsilio Ficino
販売元:Harvard University Press
発売日:2008-12-15
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Planets Within: The Astrological Psychology of Marsilio Ficino (Studies in Imagination Series)
Planets Within: The Astrological Psychology of Marsilio Ficino (Studies in Imagination Series)
著者:Thomas Moore
販売元:Lindisfarne Pr
発売日:1990-01-01
おすすめ度:4.5
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Marsilio Fichino (デル・フィオーレ聖堂にて)

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ラウレンツィアーナ図書館
ラウレンツィアーナとは「ロレンツォの」という意味である。
フラッシュをたかなえれば、撮影が可能。

テラコッタのデアイン、書見台もデザインもミケランジェロが行った。
採光があかるくおちついた閲覧室のなどは、ステンドグラスが控えに光を室内に取り込んでいる。


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DSCN0034
バルジェッロの中庭 2階がドナテッロの間.

(バルジェッロ、アルベルティ建築、ブルネレスキ作品、ドナテッロ作品についての記事と写真は過去ログにもあります.)

より良いものの探求、実践、他者との共有、公共性・・・
近現代後期ではつねに、何かに集中して取り組むこと、他者共有要素をもつことがら、個人が万能を志向すること、手作業を含むさまざまな手間と工程と完成させようとすることは・・・しばしばその逆の価値観や事柄によって中座させられる、あらゆる制限のなかで、どこまで出来るのだろうか・・・

プラトンの対話篇『パイドン』はピタゴラス派の影響をもっとも受けた作品といわれている。ピタゴラスの定理で有名なため、数学者のカテゴリーに入れられて現代では語られる(少なくとも日本では)が、ピタゴラス派は理念実践のグループだった。

「ピタゴラス学徒は肉体を浄めるために医術を用い、魂を浄するためにはムーシケーを用いた」(パイドン訳注 p.179)

ムーシュケーとは何か。mousikeとはムーサの女神たち(歌、音楽、ダンス、詩、文芸などをつかさどる女神たち。9人いる。「饗宴」において適当な人数は三美神からミューズの数まで(3人から9人が共通の話題で過ごせるとしたのもこの数と意味からであろう)の技術という意味である。ピタゴラス派では大きな意味を持っていた。

このムーシュケーの技術がプラトンの「教育論」では論じられる。

「人間を教育する際、その気概的な要素のためには体育(gymnesuike)が、知的な要素のためにはムーシュケーが必要であり、これらの両者が適切に混合されたときに、最高度に教養のある、調和のとれた人間が生まれる」(「国家」)

そしてなおこう付け加えられる。
「もちろんムーシュケーの方がはるかに重要である。もしも、教育においてムーシュケーをないがしろにし、体育のみに励めば、そのような教育を受けた人はやがて知を愛する心を失い、粗暴な性格になり、金銭や欲望のみを追求することになるだろう。」(国家)

理数特化したり、体育特化したりする高等学校のカリキュラムに欠落しているものが、本来的なこの部分である。もちろん個人や家のなかでそれらを大切にすればいいが、私的時間の確保は、保護監督体質の強い、固有な時間の意味をあまり考えない進学校では保護者(親)もそれを求めない傾向にある。

・・・・・幼児早期教育(つまり脳や感覚が形成され経験が蓄積する時期)に公文的なことをさせるのは余り意味がない、それ自体を非難したいわけではないが、あまり公言されてもいない。幼児期にパソコンなどをさせる幼稚園もあるそうだが、それは人間ではなく機械化することには意味があるだろう。親や大人は自分にその技術がないことで焦るのかもしれない。その気持ちはわかる。が、すでに高度に機械化されある部分ではすでにコンピュータや人工知能のほうが人間の能力をはるかに凌駕しているのであって、機械的な人間が、機械の代わりもはたせないのではないか、ということである。欧米では子どもには電磁波・脳波に影響があるので子どもには携帯電話を使わせないという法整備がされているし、コミュニケーション能力にも悪影響が出る、つまり心的なコミュニケーションではなく、反応的なものになる。しかし日本ではほとんど問題にされず、問題提起をした教育的配慮のある人たち(専門研究者)へも、市場単一思考と価値観「売れることのみ・自社と自社のカテゴリーの利益のためには他者の健康や利用者への長期的な影響を黙殺する」という理論が働いている。大学や教育の内部にまで、コメルス(商業主義)が入り込んでくるのは見えにくいが、近年の大きな問題となっている。それが親の「需要」によって支えられいると説明されるが、教育は需要と供給の原理とは異なるものなのに、である。未だに多くの高校が、週刊誌のランキングを気にしている。気にしすぎていていると感じるくらいである。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)パイドン―魂の不死について (岩波文庫)
著者:プラトン
販売元:岩波書店
発売日:1998-02
おすすめ度:4.5
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子ども観というのは人間観に拠っている。
その問いがないままに語られる教育は欠如している。もちろん、近代現代後期では、自由民と奴隷という身分固定型のギリシア的価値観をそのまま当てはめるわけにはいかないが、教育のコアには、大人・親の人間観への問題意識と志向は不可欠である。どこか、そうしたものが、ほとんどの日本の学校機関からは欠落している。組織の一部になる人、顔のない人、特性のない人、人の感情や配慮を理解できない人はおそらく市場理論においても、機械の役割以下になる。・・・マニュアル化され、同調意識だけの協調がすでに意味のないものになっているように。それはもはや「売り買い」の選択肢から外れていくものになる。

公立中の極端な体育指向(欲望や探究心をもつよりも、その体力と気力と個人の時間をそぎ落とすことが目的のような)と、公立高校の「文武両道」志向はともに欠落している。日本の文化の衰退、継承は以前から危惧されているが、ますますそうなるだろう。個人の確立が成り立たなければ、社会も確立しない。全体性という、個人の生活を丸ごと喪失させる原理が、感情論と滅私的価値観によって復活してるくのも、大抵は、そういう時代であり、金銭と暴力の支配力が有力な時代である。

ところで、子ども手当てが、市町村行政区分で政府が合意したことは、教育に関しての無関心さがよく顕わせている。こうした予算を無駄とみなすのは、ではなにを利益とみなすのか。そのまま、その問いはでてくる。歴史的に、長期的な豊かさを持続できたのは、その国の教育制度と理念と実践が大きくかかわっている。なぜなら「同じように教育された経験をもつ人によって、それは血や地縁を超えて受け継がれるから」である。パリ・オペラ座バレエ学校のクロード・ベッシー元校長は「卒業生すべてが子供たち」といっている。教育にかかわるものが自らを権威、教権に属すると思えば、すでにそれは、教育ではない。守護者、誘引者として、方向性をあたえ、必要なものを示すこと(実践によって)で、受容されるのである。

ある一定の領域までは、説明書のような教え方が通じる。しかしその先の考えることや問題解決能力、創造性、価値を生み出したり、判断するような能力は、そこにいたるまでのその人の経験に基づいていると私は考えている。だから、規範となるようなものを認識・認知しておく必要がある。しかし、日本ではそれは衰退している。そのことはおそらく、今後も公には報じられないだろう。格差といわれるが、階層は実は以前から移動していないのが実情である。しかし、もっとも活力ある国や共同体では、階層移動が個人のレベル・世代で可能な法制度があることが特徴である。

比較ではなく、調和の価値観をもたなければ、多様性と自由が基調となる世界とは相容れない。

「ムーシュケーには、音楽、詩歌、舞踏などの要素がある」
ものごとの本質(ousia このプログのアドレスでもある)は、実体でもあり、可能性が現実になるために必要なものである。論理と倫理が欠落した世界では、そのどちらでもない、他者依存的な「癒し」「ヒーリング」などが流行する。そういったものでは、本質的には「癒されない」ということも、おそらくは商業化と広告が一体化したマスメディアでは公言されることも吟味されることはないだろう。

この時期、多くの学校パンフレットや説明に接するが、この問題は難しい。個人と家庭(家庭=母親ではない。父不在が、成人したときの問題解決能力や、話あいによって問題を解決するということをしらないまま、子供が親になるという危機がある。ちなみに私自身がそういった経験のもとにあえてこうしたことにこだわらざるを得ない理由でもあるのだが、私は自分がした経験を他人にはさせたくはない。)が、保護監督と量的な勉強と自立のための協力をすべて他人まかせにすれば、学校は教育の場ではなくなり、本来性から離れていく。しかし、各人の責任にのみに寄れば、公や国家や自治体の制度や法自体が不要なのであり、時代錯誤的・逆行である。・・・・・

多様さを保つためには統一が必要であり、統一を保つためには多様さと個別の力が不可欠なのだが....

よりシステムの力に抵抗を持たない存在・不合理な理由で排除されたり、その人が排除されているという感覚を生み出さないための、法・行政法が必要だと感じるのだが、それを制度化する人たちは、大人たちの組織に都合がいいシステムに「合意」させることで、つねに必死な印象がぬぐえない。

多は一の方向性に向か、対話の中でその方向を性を見つけ出し、実践の中でよりよいものへと向かわねばならないのだが・・・

パリ・オペラ座のすべて [完全限定生産デラックス版] [DVD]パリ・オペラ座のすべて [完全限定生産デラックス版] [DVD]
販売元:アミューズソフトエンタテインメント
発売日:2010-05-28
おすすめ度:5.0
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バレエ学校の卒業時には、バカロレアも合格しなくてはならないオペラ座バレエ学校は、人間の調和と自立自律を考えた学校としても大変興味深い。この映像の中でも、それはつねにルフェーブルやイレールによって語られ、実践されている。そして彼らすら危機を感じているのがわかる。
世界最高の水準、といわれている彼らだからこそ感じるのかもしれない。

ダンサーはレーシングカーであり、レーサー、強靭な肉体と精神、その行使、終わりのない表現と技術への探求、・・・ベジャールが名言をとルフェーブルがいう。「修道女でボクサー」のこの相反する類似し性質に、さらに上述したムシュケーが必要になる。競走馬であり騎手でなければならない、自らの肉体と精神をコントロールし、創造を生まなくてはならない
それは、過去の経験(教師たち)からの継承から大部分が生まれる。
そして「修道女でありボクサー」である芸術に肉体と時間を支える人たちをどう社会が支えるのか、これは同時に重要なテーマである。特に日本ではそうだろう。


イタリア・ルネサンス再考 花の都とアルベルティ (講談社学術文庫)
イタリア・ルネサンス再考 花の都とアルベルティ (講談社学術文庫)
著者:池上 俊一
販売元:講談社
発売日:2007-04-11
おすすめ度:5.0
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原典 イタリア・ルネサンス人文主義
原典 イタリア・ルネサンス人文主義
著者:池上 俊一
販売元:名古屋大学出版会
発売日:2009-12-18
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アルベルティの家族論については、池上俊一氏の本に詳細がでているが男性にこそ読んでもらいたいものである。


饗宴/パイドン (西洋古典叢書)饗宴/パイドン (西洋古典叢書)
著者:プラトン
販売元:京都大学学術出版会
発売日:2007-12
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パルシステムから筍と桜海老が届いたので、一品作りました。
筍は糠と鷹の爪でゆでます。
根元に近いほうは、筍ご飯にするので使わず、穂先をマリネにしました。
勝沼へいったときに前菜としてでたマリネが白の辛口のフレッシュなワインに合ったので、それを思い出しながら。

オリーブオイルで、穂先は軽く焼き目をつける程度でソテー。
(本当に軽くです)
焼き目がついたら、オーバル型の皿に盛り付け。
生の桜海老を隣ももりつけます。
ゲランドの塩をふり、白ワインビネガーを適量ふりかけて、エクストラバージンオリーブオイル(香りがあるものが合います)を適量。
ルッコラを彩りで添えて完成です。

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素材がよいのでシンプルな味付けがあうと想います。

国産ワイン(赤・フレッシュなもので甘くないもの)にも合うとおもいます。
勝沼ではこれに、つぶ貝もあわせていたようにおもいます。


新じゃが芋は適当は大きさ(4つに割かくしがたにきっても)にきり、ル・クルーゼのレクタングルにならべます。しんたまねぎをスライスして上のまばらにのせて、塩(ゲランドの塩)、オリーブオイル、お好みブラックペッパーをかけて180度のオーブンで40分くらいでできあがります。
この間、文献を読んだり、ほかの仕事をしたりできるので・・・オーブン料理や煮込み料理はル・クルーゼをつかうと楽ですし、重宝です。やはり。

前回は庭でそだてているローズマリー(フレッシュ・ハーブ)を少量のせて焼きました。ローズマリーをのせたものは、イタリア産のミディアムボディやライトな赤ワインにあうと想います。
ローズマリーなしにしたのは、娘の朝食用にも使えるからという理由でもあるのですが・・・ペンネも夜つくって朝食に添えたりします。時間がたってもペンネやフジッリは食べられるのでいいみたいです。

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今はやることが多くて、お酒は飲まないようにしてるのですが、どうしてもワインや芋焼酎にあうもの、それから和食とイタリアン、和食とギリシア(魚介系)料理の中間のような料理は、白州とあわせるものをイメージしてしまいます。なぜか、角のハイボールはあまり料理と一緒のイメージはないのですが、白州は軽くて素材自体を味わいたい料理に合わせたくなります。

写真を追加しました。ルッコラを添える前の(急いで)撮影したもの。おたる生ワインもパルシステムで購入。
ノスオルグのイベントで頂いた、白州オリジナルのうすはりのグラスでつくったハイボール、それからnico様(タンのポメラニアンです).やはり野菜や魚介料理と合います。
・・・どうも仕事や調べ物、テキスト意訳や文献よみに煮詰まったり、終わりのみあない焦燥感もあり、調理にむかってしまいます。実際に手ごたえが確実に得られるためでしょうか・・・・


ポータルサイトの広告やSNSのバナーにはほとんど興味がわかないのですが、珍しく!惹かれた英国観光キャンペーン・・・>>
VisitBritain(英国政府観光庁)

歴史、文化・芸術、食、などなど・・英国の魅力について50文字で理由を書く・・・・・のですが、どうしても50文字では語りきれません...! そして歴史、文化芸術、食、などのカテゴリーも一つには選べない・・・都市ごとの特色、田園と都会、・・・多様でいて両義的な魅力があるように感じます。招待プレゼントつきだそうです。1組2名様まで。UK-JAPANのロンドン招待企画も思い出しました。サイト内は多くの街と地方が紹介されています。いいですね・・・月末、そしてしばらくは仕事や課題が多いので、落ち着いて・・・ゆっくり見たいです。

マルク・ブロックが指摘するように、イングランドにおいては、自由民と領主裁判権の元にある農奴しか身分がもともとはなかったといわれたり、その身分も農奴からジェントリー層になった例もあったりと、どこか寛容性があったローマ時代に通じる階層移動も感じられます、アングロサクソン〜ノルマンコンケストを経て、「マグナカルタ」成立と時代ごとの確認、議会が成立していくなかの中世から近代にかけての歴史は複雑です。。
複雑なものを、しかし理解したいと思う気持ちもあります.. 否、私の場合は、理解しなくては・・・、なのですが。

ここのところずっとイタリア産ミントティーを飲んでいますが、もう少し気温が上がれば、ロックス&トゥリーのコーディアルを日常の時間の節目に飲みたいです。英国ロイヤルでアリーナ・コジョカルがみたいですし(前回の来日では降板してしまったしバレエフェスの時期は繁忙期で公演にはいけません・・・)ナショナル・ギャラリーでサンドロ・ボッティチエリの後期作品「神秘の降誕」やカラバッジオ「エマオの晩餐」が観たいです・・・モリス関連やV&Aも。・・・やはり50文字では語れません。

イングリッシュ・ローズの「エイブラハム・ダービー」 「ティージング・ジョージア」のつぼみも大きくなってきました。晴れたら写真を撮りたいと想います。気温差や晴雨の差があり、開花時期が予想できません・・・。

5
東京バレエのベジャール作品 「ザ・カブキ」へ。実は機会を逃していて、今回はオーチャードホールということもあり、24日公演(二階堂さん、宮本さん(先生)の勘平が見たかった)へ行こうと思っていましたが、諸事情により、25日公演へ。当日収録カメラも何台か入っていたようです。
「まだ見てないの今回絶対みたほうがいい」、と水村さんに薦められたのもあります。直前まで、体調も事情もあり行くの難しいかな、と思ったのですが、結果、本当に見逃さずに今回の舞台を見られてよかった。

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高橋竜太さんの伴内、すばらしかった。伴内はべジャール作品のたとえば、「ニーベルングの指輪」 ローゲのような役回りである。メフィストのような伴内の存在感、身体能力、表現、踊りのコントラストとは躍動と静止の調和なのだが、それが見事だった。鍛錬と集中、役と振り付けのあるべきイマージュに向かって構築するキャラクターである。そしてこのカブキの、顔のない塩谷判官とは異なるもう一つの記号でもある。

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塩谷判官は、当日の配役表でようやく知ったのだが、平野玲さん(先生)だった。歌舞伎の忠臣蔵もみているが、塩谷判官の人物像と心理が見事にあらわされている。自刃のシーンの緊迫感は再現性ではなく、リアルな出来事として舞台に顕れていた。あの演技の後、むしろ、演出の鮮血をイメージする布の舞台装置は不要なほどである。観客は、「死」と「継承」の目撃者となるシーン。一個人の死を扱うのではない、このベジャールの「カブキ」ではとくに重要なシーンである。

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おかるの小出領子さんがすばらしい。音楽と言語、感性と理性の間の表現を小出さんのバレエからはいつも感じる。それは振り付けがもっている形の意味と美のフォルムを彼女が表現できる人だからなのだろう。

井脇幸江さんのお才は、そこにいるだけで役柄のもつ人間性(ユマニテ)を感じる。この役は特に踊るわけではないのに、そこに悲劇の静止した形を表出させる。「春の祭典」の生贄でもそうだが、井脇さんはこうした主題を舞台でシンボリックに表現できるダンサーである。

ベジャールの「カブキ」における、顔世御前は姿をあらわさない誘引者であり、フォルトゥナである。
あらゆる物事・事象の背後にある、原理であり、運命の擬人像である。このあたりがベジャールの解釈の二元的なところなのだが、一方で男性的闘争的世界観、ヘーゲルの英雄、理性の狡知をおもわせる表現が際立つが、背後でそれを支えて原理の源になっているのは、女性原理である。つまり古代地中海世界とオリエントにあった大地母神が原型にある。(この女神は近代に近づくにつれて図像的にも主題としても没落させられていくのは、若桑みどりさんが指摘している通りである)
このふたつの原理、本来対立する原理を、ベジャール作品では並列させることで、私たちは、舞台を見ながら、また見た後に、思考や想うことをはじめる・・・ように思う。


改めて原型である「仮名手本忠臣蔵」「外伝」もみたくなったから不思議だった。つまり、主題は類似しながらも、変容しているので、原典を確認したくなるのである。本来の歌舞伎の主題は、ここにさらに個別化したエピソードが付加される。
ベジャールは、時代をこえ、たとえまるで関係がない他者であろうと、「受け取った」ものはその役割を果たさねばならないことをメッセージとしてこめている。死者からのメッセージ・パトスとタナトス。
受容と継承・・・無限の問いとして、たとえばレヴィナス「全体性と無限」で書いたことでもある。
そして亡くなったべジャールから問われている気持ちになる。
ベジャール作品をみていて私が感じるのは思考が動き始めるきっかけとしての言葉、がこめられていることである。

ところで、本当は・・・日本において、「カブキ」「能」が言語化されたバレエとして作られなくてはならない。コンテンポラリーの課題はつねにそこである。固有なものを、普遍な記号へ置き換えられるのか?
ベジャールの作品は大切にしてもらいたいし、改変する必要はない、奇妙に変形されて上演されるオペラのようになってはいけない。

ベジャールの「M」をぜひ上演してほしいという声も耳にする。

今回の「カブキ」は収録カメラが入っていたようにおもいますが、放映されることを期待しています。

写真は当日購入したパンフレットより。
チラシだけでは、「ザ・カブキ」の多様な要素が伝わらないように思えたので掲載しました。


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シルヴィ・ギエム オン・ジ・エッジ [DVD]
シルヴィ・ギエム
ユニバーサル ミュージック クラシック
2009-12-16

デザイナーのイシカワさんのおうちにお邪魔しました。久しぶりに会えてよかったです。PALにも会えました!

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コーネリアスのブリージン的な日和の中、川沿いを散歩。
やはり川沿いというのは一つの原風景なのか、落ち着きます。川の流れのなかに、街、自動車、人いきれなどの喧騒が吸い込まれて、静かな風や空気を感じられるからなのか。
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私はケーキは得意ではないのですが、和甘味は好きです。もっと寒天が硬くてもいいな、と・・・でも世の中はやわらかいもの好きな風潮ですものね。とろけるプリンとか・・・なぜだろう、あまりやわらかいもの好みではにないですね;できればあんみつは500円台でお茶はお変わり自由なお店が好きですね、あと白玉よりも、求肥はほしいところ。
カフェ化しない和甘味処はなかなか都内でも少なくなりました。それでも和甘味好きです。和甘味かジェラートが好きです。
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PCソフト上の疑問もお聞きし。どうもありがとう・・・! 頑張ります。。。

「森香るハイボールナイト2010」にて、オリジナルグラスと白州10年をいただいてきましたので・・・

パルシステムのエコ新人参とルッコラ、ノンオイルツナをつかって一品つくりました。

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軽くゆでた人参(ピーラーでむくか千切り)にオリーブオイル、ゲランドの塩、ツナ(汁はきる)と白ワインビネガーであえました。
ルッコラをちぎって、そえて。

うすはりのグラスを氷で冷やし・・・白州をダブルの量で注ぎます。
そしてプレミアソーダ(普通のソーダでも)を氷にあてないようにそそぎます。マドラーで一度かき混ぜる程度。

マドラーは、ギルビージンのおまけでもらったものです...が
グラスはマリーアージュ・フレールの木の葉型の托においてみました。

ビネガーをつかわず、
醤油とごまでもいいかもしれません。
がやわらかい酸味が欲しかったので。

ハイボールナイトで使った白州オリジナルの木のマドラーや、うすはりグラスが買えるとよいと想います。

渋谷ノス オルグ(NOS ORG)にて開催された。”森香るハイボールナイト2010” にご招待いただきましたので参加してきました。サントリーの白州蒸留所には行ったことがあり、都内で森香るとはどんなセミナー・イベントになるのかと関心が。

DSCN0574

19:30にスタートしたイベントでは、まず、ピュア・モルト・ウィスキーについて、説明がありました。このあたりは白州の蒸留所にいくと実際の工程や香り、樽の歴史などみることができますし、それを思い出しました。
ウィスキーはプリン体などが含まれず、糖質も低い+翌日に残りにくいお酒なのだということも改めて。
4種類のピュアモルト、マッカラン、ボウモア、山崎、白州をテイスティング。テイスティングのグラスは白州のものと一緒でした。1:1になるように加水したほうが、香りと味をよりわかりやすくしてくれるとのことです。

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山崎はやはり香りが豊かで美味しいですし、白秋はさっぱりとした、和食やマリネ、素材をほんとうに味わいたい食事にあうと思います。
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気軽に合わせられるものの紹介として、テーブルには、チョコレート、ホワイトチョコと抹茶のクッキー、コーヒーチョコレートなどがありましたが、この中ではコーヒーチョコレートが一番あったかもしれません。ビターなチョコレートとスコッチなどはよくあいますよね。コートドールなどのチョコならいいかもしれません。

さて、「森香るハイボール」の造り方を実際にレクチャー。
自宅でも簡単にできる+ポイントをつかめばもっとよさを引き出せるということでとても参考になりました。
まずグラスもよくよく(強調)冷やします。
グラスいっぱいに氷をいれ、マドラーでしずかにかき混ぜます。
解けた氷の水は、捨てます。
ダブル(指2本)の量をグラスにそそぎ、そのときにウィスキーは氷にあたるように、氷の角をとるように、注ぐのがポイントだそうです!
(サントリーの、ハイボールを広めた竹内さんから教えていただきました)
この日に用意されたのは、白州蒸留所にもある、天然水のソーダ・プレミアムソーダで、このソーダをなるべく氷にはあてないように、泡立てないように注ぎます。そしてミントを、一度手の平でたたいて、ハイボールに浮かべます。これで森香るハイボールの出来あがりです。
白州の香りをそこなわず、清涼感があって、初夏から夏にかけて美味しくいただけるレシピです。
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森香るハイボール
緑のうすはりオリジナルグラスは、ミントとあっていてとてもいいですね。

ノス・オルグでは、これに、ライムを搾ってオリジナルのハイボールを出しているそうで、こちらもつくっていただき、飲みましたが美味しかったです。渋谷なのでbunkamuraの公演・展示やオーチャードホールなどの公演後にも寄りたい気持ちになりました。

懇親会では、春野菜の蒸し料理、モッツァレラとトマトのカプレーゼ、フィッシュ&チップス、海老のシーザーサラダなどなどを楽しみました。

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カプレーゼやシーザー・サラダはよくやりますし、蒸した野菜と白州ハイボール(ライム)がとてもあったので自宅でも野菜が美味しい季節、ためしてみたくなりました。ソースは、ケーパーとオリーブをつかったソースでした。

当日は赤貧亭、野菜ソムリエ一年生さまと同席させていただきました。
初めてお会いしたのに、野菜好きという共通点もあってゆったりと楽しい時間が過ごせました。ありがとう御座います。テイスティングのときなども、香りの違いについて話したり、根菜は山崎にあうのではなど、料理との組み合わせなどについてお話できました。
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フィッシュ・アンド・チップス 
モルト・ビネガーがあるとなお美味しいですね
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終了後には、白州と、森香るハイボール用のうすはりのグラス、プレミアムソーダも頂きました。資料もいただいたのでセミナーの復習もできますね!お心遣いが嬉しいです。

それからノス・オルグのコンセプトは、「いろいろなものをシェアできるお店」とのこと。近郊の野菜生産者のみなさんとの提携、ハイボール1杯につき、街の美化運動をしている団体への寄付、環境への配慮、などなど。
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コンセプトは重要です!そしてシェア・共有できる空間と場所であることも。白州ハイボール・オリジナルレシピ、お勧めです。

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渋谷ノス オルグ(NOS ORG)にて開催された。”森香るハイボールナイト” にご招待いただきましたので参加してきました。サントリーの白州蒸留所には行ったことがあり、都内で森香るとはどんなセミナー・イベントになるのかと関心が。

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19:30にスタートしたイベントでは、まず、ピュア・モルト・ウィスキーについて、説明がありました。このあたりは白州の蒸留所にいくと実際の工程や香り、樽の歴史などみることができますし、それを思い出しました。
ウィスキーはプリン体などが含まれず、糖質も低い+翌日に残りにくいお酒なのだということも改めて。
4種類のピュアモルト、マッカラン、ボウモア、山崎、白州をテイスティング。テイスティングのグラスは白州のものと一緒でした。1:1になるように加水したほうが、香りと味をよりわかりやすくしてくれるとのことです。

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山崎はやはり香りが豊かで美味しいですし、白秋はさっぱりとした、和食やマリネ、素材をほんとうに味わいたい食事にあうと思います。
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気軽に合わせられるものの紹介として、テーブルには、チョコレート、ホワイトチョコと抹茶のクッキー、コーヒーチョコレートなどがありましたが、この中ではコーヒーチョコレートが一番あったかもしれません。ビターなチョコレートとスコッチなどはよくあいますよね。コートドールなどのチョコならいいかもしれません。

さて、「森香るハイボール」の造り方を実際にレクチャー。
自宅でも簡単にできる+ポイントをつかめばもっとよさを引き出せるということでとても参考になりました。
まずグラスもよくよく(強調)冷やします。
グラスいっぱいに氷をいれ、マドラーでしずかにかき混ぜます。
解けた氷の水は、捨てます。
ダブル(指2本)の量をグラスにそそぎ、そのときにウィスキーは氷にあたるように、氷の角をとるように、注ぐのがポイントだそうです!
(サントリーの、ハイボールを広めた竹内さんから教えていただきました)
この日に用意されたのは、白州蒸留所にもある、天然水のソーダ・プレミアムソーダで、このソーダをなるべく氷にはあてないように、泡立てないように注ぎます。そしてミントを、一度手の平でたたいて、ハイボールに浮かべます。これで森香るハイボールの出来あがりです。
白州の香りをそこなわず、清涼感があって、初夏から夏にかけて美味しくいただけるレシピです。
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森香るハイボール
緑のうすはりオリジナルグラスは、ミントとあっていてとてもいいですね。

ノス・オルグでは、これに、ライムを搾ってオリジナルのハイボールを出しているそうで、こちらもつくっていただき、飲みましたが美味しかったです。渋谷なのでbunkamuraの公演・展示やオーチャードホールなどの公演後にも寄りたい気持ちになりました。

懇親会では、春野菜の蒸し料理、モッツァレラとトマトのカプレーゼ、フィッシュ&チップス、海老のシーザーサラダなどなどを楽しみました。

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カプレーゼやシーザー・サラダはよくやりますし、蒸した野菜と白州ハイボール(ライム)がとてもあったので自宅でも野菜が美味しい季節、ためしてみたくなりました。ソースは、ケーパーとオリーブをつかったソースでした。

当日は赤貧亭さま、野菜ソムリエ一年生さまと同席させていただきました!このセミナー・招待イベントで初めてお会いしたのに、野菜好きという共通点もあって、ゆったりと楽しい時間が過ごせました。ありがとう御座います。テイスティングのときなども、香りの違いについて話したり、根菜は山崎にあうのではなど、料理との組み合わせなどについてお話できました。ぜひともこんごとも、よろしくお願いします。

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フィッシュ・アンド・チップス 
モルト・ビネガーがあるとなお美味しいですね
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終了後には、白州と、森香るハイボール用のうすはりのグラス、プレミアムソーダも頂きました。資料もいただいたのでセミナーの復習もできますね!お心遣いが嬉しいです。

それからノス・オルグのコンセプトは、「いろいろなものをシェアできるお店」とのこと。近郊の野菜生産者のみなさんとの提携、ハイボール1杯につき、街の美化運動をしている団体への寄付、環境への配慮、などなど。
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コンセプトは重要です!そしてシェア・共有できる空間と場所であることも。

白州ハイボール・オリジナルレシピ、お勧めです
定番がジントニックだった、という方にはぜひ、甘みもなく、香りがよく清涼感がり、食事もあう・・・お勧めです。

岩波講座哲学 4 (4)  知識/情報の哲学岩波講座哲学 4 (4) 知識/情報の哲学
販売元:岩波書店
発売日:2008-10
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バレエ、クラシックにおいても、コンテンポラリー作品にも共通な、芸術表現としてのバレエと言語の関係と本質についてを納富先生が書かれていたので、引用させていただきます。

「言葉を自由に用いることは、芸術表現としてのバレエに似ている。人間の身体がもつ限界や重力による自然法則をもっとも強力に引き受けながら、そこであたかも身体が自由に可塑的に美を生み出し、重力から開放されているように振舞う。その活性的な身動きは、私たちが囚われて生きている身体と精神のあり方を、硬直したイメージから真に開放する。」
(『知識/情報の哲学 岩波講座哲学4』より <知の創発性> 納富信留 P.96)

納富先生の「知識」「知」とは何かについてを読んでいる。言語で現象や本質に迫ろうとすると、言語表現でどこまでそれを表出できるのか、という思いにいつもぶつかるが、私が優れた作品をみたときに感じることがテキストとしてかかれていた。
日本におけるバレエ批評、特に新聞などの記事ではその作品についてまるで言い表せているものがない。ほとんど見かけない。
バレエの本質はあらすじではなく、表面的な動きでもない。コール・ド・バレエの美は、多のダンサーが生み出す統一感に根ざしているのであって、機械的にそろっているかどうか、が問題ではない。
バレエのコンテンポラリー作品---「モダン」「クラシック」という比較はここでは意味がない。クラシック作品は常に「モダン」であったのであり、コンテンポラリーは同時代性であって、クラシックになりうるものが、コンテンポラリーなのである・・・---について、例えば、パリ・オペラ座の「ル・パルク」(Le Parc)やベジャール作品などにも言ってきたことなのだが、言語としてのバレエ、記号としてのバレエは視覚の快以上に、言語表現を超えて存在する。そして対話と同じように、観る物と言語を発するもの(ダンサー)の表現は、その場かぎりのものである・・・・)
「シーニュ」(記号)もそうであるし、パリ・オペラ座作品には、「ジェニュス」(生成)も作られた。「ジェニュス」は生成を意味する。振付家ウェイン・マクレガーのこの作品は、振り付けからリハーサル、舞台までのその一部が映画「パリ・オペラ座のすべて」に記録されているが、この作品もまたそのことを気づかせてくれる。

「同様に、日常それに依拠して生きている言葉を新たに語り直し、自由に創作する詩的な驚きは、言葉そのものが人間の生を開放する可能性を感じさせる。イメージやアナロジーを縦横に用いる言葉の世界は、想像や閃きや曖昧さが織り合わされることで、新しい視野と世界を拓いてくれる。世界と自己を了解するとは、そういった言論の行使がもたらす人間の知的あり方であり、言葉の多様で創造的な挑戦によって「知」は深まる」

(同.p96)



すばらしいバレエや、時や空間を越えて遺されてきた言葉(そして生きた言葉(ロゴス)を読んだときの想いは、端的にいえば「目が覚める」思いになる。新しい認識をみたとき、それを受け取ったときに、了解する地平は少しずつひらかれていくような思いになる。
バレエを視覚の快さを超えて観たい想いに駆られる人たちは、どこかそれが自分の言語表現を凌駕している領域を、捉えられる表現であり、一瞬一瞬に刻まれていくその表現が、消え行くものでありながら、活きている証明であり、普遍の美や意味をそこに感じるからではないだろうか、いや意味(ratio)では、おそらくそれは不十分なのだが、意味論を超えている言語表現だからではないだろうか? バレエはパの一つ一つが言語化されており、その連続体でもある。音楽性と詩性、そして、言語を超えて顕れる世界、時どき、稀にそういった舞台を「体験」した人なら解るだろう。しかしあまり、そういった時限では日本では批評は書かれない(ように想うのだが)

「言論の遂行をつうじて自らの知のあり方を自らに透明にする者、すなわち自己を知ろうとする者」 「「知る」ことは、自らの内に目を向けて探求しつづけることで、自らのあり方を形づくる、自己了解であり自己制作である。」

人間の自立(生活の効率)や自己保存だけが人の一生の問題だという言説がすべての価値を多い尽くせば、そのどちらもおそらく行き詰るだろう。人は、人であろうとするならば、「目的」を物質や所有のほかに見出せなければ、不足を感じ、それが「ない・意味がない」といわれることに対して不安になるのではないだろうか、こうした意識は近代以降に特に顕れてくる。ある時代・地域境界の大部分では、「知・美・善」などがもはや物質ではないゆえに、価値がないとされてしまう。これらは所有することを目的にはできない。絶えず求めるしかない、・・・どのような視座を自分の内部に設けることができるのか、それを実践できるのか、それが問題になる。

「まことに神々は、始めからすべてを死すべき者どもに示しはしなかった。
(人間は)時をかけて探求し、よりよきものを発見する。」

納富先生は、クセノファネスの言葉を引いているので引用させていただく。死すべき者=人間である、つまり有限性であり、肉体は必ずいつか滅びる。それを知って(認識)いるかどうか、その上で、「善さ」を求めようとするのか、よりよきものは、「現在」「現状」「現実」を認識しないことには始まらない。「よりよい」ものを「理想論」と片付ける向きは未だに多くみられる。しかし、むしろその考え方は限定的すぎる。受け継がれてきたものの本質は、現象するか、現象しないか、表層にあらわれるか隠蔽されるかは別として、一つの根源なのだと、私は考えている。
そしてそれが、芸術として顕れるとき、卓越した技術(時をかけて発見する実践の結果と過程の形でもある)によって、顕在化したときに、私たちは、その言語化された表現を、共有できるのだと私は思っている。
そのことについて、自分なりにまとめ、論じることができればよいと思っている。

納富先生の「プラトン」はぜひ多くの方に読んでもらいたい。また、「情報技術」や「情報」というカテゴリーや価値、イメージの流布が多大な現在で、「知識」や「情報」のたしかさ、不確かさとは何かを確認するためにも多くの方に読んでもらいたいテキストです。

精神史における言語の創造力と多様性精神史における言語の創造力と多様性
著者:納富 信留
販売元:慶應義塾大学言語文化研究所
発売日:2008-04
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空間へのパースペクティヴ

販売元:九州大学出版会
発売日:1999-05
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哲学者の誕生 ソクラテスをめぐる人々 ちくま新書 549
哲学者の誕生 ソクラテスをめぐる人々 ちくま新書 549
著者:納富 信留
販売元:筑摩書房
発売日:2005-08-08
おすすめ度:4.0
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プラトン―哲学者とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)
プラトン―哲学者とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)
著者:納富 信留
販売元:日本放送出版協会
発売日:2002-11
おすすめ度:4.0
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冷たい雨の日が多く、なかなか写真もとれませんが、記録として。
雨の中でしたが先日、(小ぶりだったので)バラのつぼみの写真をいくつか撮りました。

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ピエール・ド・ロンサール
クリーム色っぽい白い花弁にピンクのふちどりが可愛らしいバラです。モダンローズなので香りがしないのが残念ですが、咲くと華やかです。
ことしは植え替えをせず、土を足して、肥料をいれた程度ですが沢山つぼみがついています。

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アーチのつるばら。
いつのまにかこんなに茂っています。P1020813
オールド・ローズ
スヴニール・ド・ラ・マルメゾン。マルメゾンの思い出。
ルドゥーテが好んで描いたばらの一つ
雨に弱い品種なので(オールドローズは香りや色がすばらしいだけに、弱点もあります)このつぼみが咲くかどうかは天気次第です...最近日本の初夏が暑すぎるので、日中は花も疲れてしまうようです。
写真は早朝しか撮れません!日中いないことも多いし・・・
植えかえた、イングリッシュ・ローズのLD.ブレスウェイトとヘリテージはまだつぼみがありません。

イングリッシュ・ローズは栽培が簡単+病気にも強いので、鉢栽培もおすすめです。一輪でも飾ると、育ててよかった!と幸せな気持ちになれます。香りがよいのも好きです。ティーの香りやフルーツの香り、ダマスクローズの香り。写真ではいつも香りまでは伝えられないのがもどかしいくらいです。一輪挿しはよく、キャトルセゾンや私の部屋で買っています。
インテリアを選ばない花瓶なので嬉しい。

今日も寒く、1時間前からはまた雨が降っています。
PC作業や仕事でマウス操作をしたりキーを打つのが指がうごかなくなるほど・・・まだまだ寒く感じます。

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奈良のお土産をいただきました!
みなみさんありがとう御座います。おかいの麻でできた手作りのポーチ。
目薬や飲み薬をいれてもっていって!というお気遣いが嬉しい。。。
来年あたりぜひ一緒に大好きな奈良へ一緒にいって欲しいです、神戸からは近鉄で乗り換えなしでいけるようになったとのことです。
奈良はならまちも斑鳩も飛鳥も好きです。もっともインターナショナルかつ古代性を感じられる場所。人と話すのも大好きです。歴史性のある場所。


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KOZさんが送ってくれた、オルゾ。古代ローマから伝わる麦のフレーバー飲料。ルピシアで紹介されてたときから気になってましたが、自分では買いそびれてます。いろんなローマものが伝来してくれたらもっとよいです、イタリア食材やイタリアコーヒーがもっと広まってほしいです。あの濃いコーヒーがまた飲みたい。あのコーヒーなら、紅茶派の私も、毎朝コーヒーでもいいのです。

バラが咲いたときの写真は過去ログ(プルダウン/オールドローズ)にもあります**

毎朝お弁当をつくっていますが、そのほかにもいろいろ作ってます。
野菜が美味しい季節。春キャベツのコールスロー、新たまねぎのスープ、新たまねぎとルッコラのサラダ、パスタのトマトソース(たまねぎにんじん、セロリとしめじ+トマトホールで煮込みます。)・・・それから娘にホットケーキ(朝風邪+調子がいまいちで朝食をあまりつくれなかったので)・・・
仕事場の終了時刻がおそいので、家人用に湯豆腐・・・あれこれつくってます、というか何かしながら、作ってます。作りながらPC作業・仕事したり、・・・・
自分は、あんまり食べてません; 食事や料理はつくれますが、文献はとにかく手元にほしいので、その分、文献を購入したいのです。
1日中電車にのるか、図書館にこもるかすると、沢山読めるのでいいのですが。電車で外出したい気持ちにいつもとらわれます。
日常の中で専門書は、どこか外部に時間を創らないと、なかなか集中して取り組めない。どこか静かなところで時間を持ちたいです。
(手紙もゆっくり書きたいんですが・・・)


体温を奪われるので、暖かくなってくれたらよいのですけれど。

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マルシリオ・フィチーノが、ルネサンス美術を知る人にもそれほどは知られていないのはなぜだろう・・・日本ではもっぱら美術は絵画を指すからだろうか。

ピコはフィチーノよりは名前が知られている。『人間の尊厳について』の冒頭には、アダムに呼びかける文がある。それに続く部分も、人間とは何か、生物学としての人間に留まることが多い現代において、ピコの提言は的を得ていると思うのは少数派なのだろうか?

「それぞれの人間が育むものは、成長してそれぞれの人間の中に自分の果実fructusを産み出すでしょう。
(1)もし植物的なものvegetaliaを育むならば、その人は植物になるでしょう。(2)もし感覚的なもの sensualia を育むならば、獣のようになるでしょう。 (3)もし理性的なものrationaliaを育むならば、天界の生き物(星辰)caeleste animalになるでしょう。 (4)もし知性的なものintellectualiaを育むならば、天使、あるいは、神の子 angelus et Dai filiusになるでしょう。 そして(5)もし彼が、もろもろの被造物のいかなる身分にも満足せずに、自らの一性untitasの中心へと自ら引きこもるならば、彼の霊 spiritusは神と一つになり、万物を超えたところに「孤独な闇」solitalia caligoに置かれて、万物の上に立つものとなるでしょう。」(ピコ・デッラ・ミランドラ『人間の尊厳について』p.108)


万物の上に立つとは、近現代後期の「人間中心主義」の理念とは異なる。現代は自然や宇宙を功利主義や快楽主義の延長の所有物としてみなしている面がある。所有し、支配することよりも、ルネサンスの宇宙観は人間と他の調和を本質としている。自らを認識し、自らの外部を認識することがここには明確に現れていると私には思える。

「もし腹を満たすことに夢中になって地上を這い回っている人をあなたが見るならば、あなたが見ているのは潅木であって人間ではありません。もしカリュプソのもののような妄想の空しい幻惑の中で盲目になり、そっとくすぐる魅惑に誘われて感覚に身をゆだねている人をあなたが見るならば、あなたが見ているのは獣であって人間ではありません。もし哲学者philosophusが正しい理性によってすべてを識別するのをあなたが見るならば、あなたは彼を尊敬するでしょう。(略)もし純粋な観照者contemplatorが身体を無視して精神の内奥 mentis penetraliaへと退くのをあなたがが見るならば、この人は地上の生きものでも天界の生きものでもありません。この人は人間の肉をまとった「より崇高な神的存在」augustius numenなのです。」

ピコはカルデア人の言葉を引用する。
すなわち、<<人間は、さまざまで、多様で、しかも定まらない本性を持つ動物である>>


そしてこのような本性(physis)を「われわれは、自分がそうありたいと欲するところのもの」id quod esse volumusになるという条件の下に生まれついている、とピコは言う。


彼の人間の尊厳とは、万物の上の、自然や動物の優位性を誇張するためのものではない。人間は、生まれたときから人間ではない・・・つまり、ヒトという動物ではあるが、どのように「在りたいか」と望まなければ、何者にも近づけないことを示している。自分探しなどという言葉が、まことしやかに流布するが、自分は「創る・造る」ものである、世界もまた構築されているのであり、常に再構築の過程であると認識されなければならない・・・
ならない、というのは、私がそう望むということ以上に、他者(動物、自然、つまり私と私に直接関わるもの以外、いやすべては連鎖と複雑に関係しているのだが)との共存と継承のためには必要なのである。


ピコは、31歳でその生涯を閉じた。フィチーノが著書を書き上げた日に、フィレンツェを訪れた。ボローニャ、フェラーラ、パドヴァ、ヴェネチアで学び、ヘブライ語、アヴェロス派のエリア・デル・メディゴから影響を受けた。ミランドラからパヴィアにむかい、再びフィレンツェに来る。パリへ赴き、ローマへむかい、「提題」を出版する。しかしこれは異端的とされた。一時パリで幽閉される。ロレンツォ・デ・メディチらの尽力で自由になった。
1493年、11月17日、シャルル8世の軍がフィレンツェに入ったとき、31歳で亡くなる、秘書による毒殺であったと言われている。・・・・・

人は悪意や羨望など理知とかけはなれた言動によって、強制的に亡くなることがある。マザッチオは27歳でなくなっている。彼も毒殺であったといわれている。しかし私たちは、ピコやマザッチオの遺したものを読むことも見ることもできる・・・私は作品や言葉に対峙するとき、継承してきた人々によって、これらが時間や言語を超えて届くことに感嘆と尊敬の念を抱く。

人間の尊厳について (アウロラ叢書)
著者:ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ
販売元:国文社
発売日:1985-11
おすすめ度:4.5
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左サイドに公認ブロガーのブログパーツを設置しました。
Twitterも搭載されています。

最近また、ギデンズの「持続可能な世界」について、および「暴走する世界」を読んでいました。また、ジェンダーに関しては、コンネルのヘゲモニー的男性性と教育、メディアと一般意識のかかわりなどを読んでいました。

今年はロイヤル・オペラ、ロイヤル・バレエの来日公演があります。
ゲオルギゥーも来日します。メディアでは、吉田都さんが多く語られますが、アリーナ・コジョカルが本当にすばらしい。アルティナイ・Mにも少しタイプが似ているような気もします。NBSからロイヤル管弦楽の案内も来ました。

最近また、公共性 パブリシティということについて問われる機会がふえています。publicの語源が英国のpubであったこと、つまり誰でもアクセス可能で、即時性と持続性のある場所、空間、媒体・・・そういったもののを再考することが重要視されていますし、私自身も日常的に考えることが多い。公共性について、もっとも手軽に読めるものとしてはやはり斉藤純一氏の「公共性」(岩波)がどの人にとっても関わる問題を扱っていると思う。

共有できる空間と、プライベートな空間、どちがも近代以降の世界システムの中では、人に不可欠なものだが、そのどちらも充足には程遠い。
物質的な不足よりもそういった、何か、つまりその人が存立できるものと排除しない空間をどのようにシステムとして造ることができるのだろうか?またそれを維持するためにはより、困難が生じる。私性は取り去ることができないし、取り去るべきでもない、私と他の共存や共生はどのように可能だろうか? それを共有できるための価値観や世界観にある一定の方向付けは必要ではないだろうか? 
機能主義の欠陥は誰もが気がついている。科学主義の誤りもすでに気づかれている、がしかし、なぜか、マスメディアや保護管理機能のつよい学校教育は、個人の力をないものとみなし、自分の場所でじっとしていることを強要する。これらはイリイチによれば「隠されたカリキュラム」である。
教科書や正規のカリキュラムにはない、意識形成はまだ日本ではほとんど一般的に議論されてはいない。

ところで、渋谷オーチャード・ホールで今月行われる、ベジャールの「カブキ」(東京バレエ)公演に行くことにしました。もともと行きたかった公演ですが、なかなか日程がわからずチケットをとれずにいたのです。

Twitter が 「常識」になりだしたことは何を意味するだろうか?

ツールとしてのツィッターではなく、カルチャーとしてのツィッターについて現時点の私的な感想を書いておきたい。

なぜなら、情報はつよい影響をもつようになるとき、その表出の力の強さによって、隠されるもの、消失するものを伴うからである。
手軽さ、の背景にはなにがあるだろうか?何をもたらし、何が失われていくのか?

webの力は、サイバースペースに有志のコミュニティを国境を越えて創設することにある。時間や空間、距離の壁を越えた公共性。

それとも、単に、・・・短い文章で断片化され、個人が現実をあたかも「知って」いるような錯覚をおぼえ、「繋がって」いると思うこと・・・情報を所有したい、放出したいと志向するのだろうか。離されるために、繋がっているという錯覚を覚えないだろうか? 常に流動的でとらえられない流れの中に、個人はふたたび放り込まれているような気にもなる。
固有の空間と、固有の時間をもって初めて、共有できる空間と時間が持てるのではないだろうか。
「われわれは一つの世界に生きている」
この感覚は間違いではない。
しかし、完全に内部化できない世界がある。
それを排除したり、ないものとみなしてはならない。
つまり、WEBに表出しないものを「ないもの」として扱うのは危険であるし、排除志向をもってはならない。
「同じ」「類似性」「共通点」だけで繋がる世界は、真の豊かさには繋がらない。かかわりをもちたくないか、もちたいか、に関わらず、関わっている物事は数え切れないし、むしろその世界のほうが広いのである。

時間は、デジタルのように均一なものだけではない。私と貴方、また誰かの時間は表記上おなじであれ、流れ方は異なり、異なる経験の中で生きている。その異質なものを、多様なものとして共有することが重要であると、私は思っている。

フランク・ブラングィン展の感想を!少々慌ただしい日々になってしまい、詳しい感想は遅くなりましたが、とても見ごたえのある展示でした。
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実は展示があるまで知らない画家・アーティストだった、ブラングィン。
すばらしい作品ばかりです。リーフレットにある<りんご搾り> <海賊バカニーア> は実際にみると、とても大きい油彩作品で、しかも完成度もとても高く、だんだんと小さいタブローになっていく近代のなかで珍しい。同時に現代への橋渡し的な意味も感じられる作品。現代アートへいたる中でエゴや感覚的作品が増えていく中で、主題としてのモデル、リアリティと絵画としての表現の均衡が興味深い。一見、鮮やかすぎるように見える色彩も、印象の鮮烈さとバランスの妙によってとても美しい。近代の印象派からアールヌーヴォーを経たコントラストの絵画作品だと思う。

ブラングィン展をおすすめしてくれてご一緒してくださったArt Life DiaryのHeyselさん、ramaramaのyukiさん、当日はありがとう御座いました!UK-JAPANの原美術館でのジム・ランビーのプレビューイベント以来3人でご一緒できてとても嬉しかったですし、色々お話できて有意義な時間が過ごせました。ありがとう御座います。


大画面のキャンバスによって、壁面装飾の仕事をしたブラングィンは、空間やその場に集う人々の視覚の中に、特別な空間の印象と、美と映るビジョンを模索したのではないか、と思う。
<白鳥>では白鳥に、植物レリーフのような、優美な曲線が薄い影のように映りこんでいる。鮮やかなオレンジや緑の色彩は、構図とのバランスの中で鮮烈ならがも美しい。美しい、とは調和が保たれていることが含まれるが、もうひとつは、素描と色彩がともに力強いことである。素描は、絵画の本質であると長く考えられてきた。そのことはやはり重要だと思う。

壁面装飾は、自然光がどのように入り込むのか、視点はどうなのか、そういったこともおそらく計算されている筈。自然光が入り込む空間におかれていれる様子は、大画面の映像で見ることができます。
しかし、失われている作品も随分と多く、美術や創作にとっては受難の時代だったことも窺がえます....


エッチング作品のブリュージュを題材にした風景と人物の作品もすばらしい。<ハンニバル号の解体>もまたすばらしい作品である。精緻で、陰影が印象的であり原画の素描が生きている。船員をしながら、画業を行ったブラングィンの特性が現れている作品である。

また、木版画の作品はモノクロームの中で陰影が強調されるエッチングと比べて、更に原画の魅力に気づかせてくれる。

<慈愛> <市場の露店>もまた光の描き方がとても印象的である。
画家の目線が、再構成されている。光の強さ、そこに居合わせたような街や人々の存在が伝わる作品である。



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「白鳥」のポストカードは早速飾ってみましたが、もっと違うフレームにいれて自然光があたる場所に、置きたいです。

ロイヤル・アカデミー・オブ・ロンドン、カナダ・ナショナル・ギャラリー、ウィリアム・モリス・ギャラリー、ブローニング美術館(ブリュージュ)、そして多くの個人蔵の作品が一同に見られる機会はあまりないだろう。
日本では初めて、回顧展も2回目という貴重な機会である。美術の値打ちは、見る人それぞれが受け取るもの。ぜひ、多くの人に見てもらいたいと思う。美は他人の価値観にはよらない。しかし、多くの人にとって美と移るものには、普遍性もある。

ブラングィンの原画で、漆原由次郎が彫りと摺りを行ったブリュージュの町並みや橋のある風景を題材にした版画のセクションもとても見ごたえがある。モノクロームのエッチングとは違う、魅力が多種の摺りによって、見ることができる。

それからブラングィン展と併せて開催されている素描・習作展では、普段展示されていないギュスターヴ・モロー作品が展示してあり、感激しました。こちらは額絵を買ってきました。

マラーホフを観に5月に東京文化会館へいく際に、ぜひブラングィン展の図録も購入したいと思います。

毎年なかなかゆっくりと桜をみる機会がありません。年度末も新年度はじめも時間と量的な作業におわれ・・・
けれども道を歩きながら、移動中、駅のホームから眺める桜が咲いている風景を眺めるのはこの時期ならでは。もう桜が咲いている!という一抹の時間的焦燥のほうが強いこともあるのですが、日差し通してみえる桜の花と空の色に気持ちが晴れやかになる一瞬です。

3月末から4月現在までの今年の風景をいくつか。
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写真は撮れなかったのですが、上野・池之端の雨の中でみた葉桜も綺麗でした・・・まったく人影のない雨の中、ウミネコが飛んでいる寒々しい日でしたが、薄桃色の桜に、鮮やかな萌黄の小さな葉の色彩が美しかった。

ペールピンクとグリーンの枝にむしろ美しさを感じます。どちらかといえばこのイメージのほうが いわゆるSAKURAの美なのではないかと思ってしまいます。より春らしさを感じるのは私だけでしょうか。

アナベル・ハイドランジア(白く緑がかったアジサイ)に新芽がつきました。

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昨年やっと!大きな鉢に植え替えをし、冬の間はかれているので、どうかな、とやや案じていましたが、黄緑色の新芽がいくつもでてきていて一安心・・・ 山梨へいったときに、道の駅鳴沢で、赤いなでしことカモミールの苗をそれぞれ126円で購入しましたが(お安い...)まだカモミールのほうが植えることができていません。仕事場の花壇はラベンダーがよく育つのですが、自宅は土壌があわないのか、ラベンダーはまったく育ちません。
ローズマリーは勢いよく育っています。
フレッシュな枝をつかって、先日は夜中に調べもの・勉強に行き詰って、新じゃがいものローズマリー・ベイクド・ポテトを作りました...。
カモミールも料理に使えるようにちゃんと植えたいとは思っています・・・


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写真はトネリコ(自宅で増えたもの)とヴィオラの寄せうえです。
blogの上部にあるプロフィール写真にちょっと見えるのは、アナベルをドライフラワーにしたものとロッソ・フィオレンティーノの天使。
アナベルは蓼科で購入してきたものです。

年度末の疲れなのか腰痛が時々悪くなります・・・1日が長い、からなかなか疲労が抜けない、私もですが周囲からもよくそんな声をききます・・・
なるべく、ハーブティや野菜料理、デトックスティ、お酢(黒酢)など使って疲労をためないようにしていても・・・・・です。。

マラーホフの贈り物Aプロのチケットをようやく発券してきました。
なんとなく今まで郵送を選んでいたのですが、セブンイレブン発券、まったく簡単で、手数料も安いのでこれからはこの方法を使いたいと思います。

「今日、一部の論者は、民主制の国々の市民が無気力(アパシー)に陥り、政治過程に対する関心を失いだしたことを嘆いている。」(A.ギデンズ 「社会学」)

いかなるときも、現存の政府がどのように落胆させられるものであれ、私たち(有権者・学生も含む)が政治や社会全体に無関心になることの理由にはならない。そういった風潮はますます悪循環を生まれさせる。

そして、なぜ政策が何も実施されていないのに、圧倒的な支持は圧倒的な不支持に変化するのだろうか?
P.ブルデューはマスメディア、特にTVやインターネットにおける「アナウンス効果」を指摘している。つまり、どの政策も「実行」された時点ではなく、「アナウンス・ニュースで報じられたとたんに」あたかも実行されたような感覚に人々が容易に陥りやすく、また、通常の「知る」という行為がよほど能動的に、自ら脚を運んだり自分の目で確かめたりする以外はすべて「マスメディア」によって報じられた情報に依拠しているという近現代の構造がある。
世論調査のパーセンテージは、何を意味するのだろうか?
世論調査を直接うけたことがある、という人に私は出遭ったことがない。
ブルデューは、世論調査を発注する側と記事・情報として掲載発信する側は同じであると指摘する。人はあたかも、自分では判断できないような事柄や、物事に対して・・・多数の人の判断を由とする傾向がある。受容的な態度でいれば、それだけ、影響をうけやすくなる。

・・・例えば、少なくとも英国では市民とは、「共通の権利と義務を保有し、自分たちが国民社会の構成要素であることを認識している」のだろうが、果たして日本の場合はどうだろうか? 私が私たちに人称が変わるときにはじめて共同体としての認識は生まれる。私たち、には他者排除的な、ナショナリズムや民族主義的な感情をマスメディアもふくめて抱いている一方で文化意識は希薄であるように思える。言語表現にもそれほど関心を抱いていないように思われる。

「インターネットは民主化の強い力である。国境や文化の壁を凌駕し、観念や知識が世界のあちこちに普及することを容易にし、同じ考えの人たちがサイバースペースの場に互いに知り合うことを可能にする」(ギデンズ)・・・インターネット、遠距離コミュニケーションの可能性はこの点にある。文化と社会システムに対する再構築や再評価、政治的な選択について・・・つまり他者と共有する部分についての対話が可能な点、情報の交換の場であった。例えば、mixiはソーシャル・アプリなどと名づけているが、この場合のソーシャルはなんら本来の意味をもっていない。
私的時間を携帯電話や携帯ゲーム、アプリ操作に費やすこと自体を非難しないがそれが部分ではなく、ほぼ全体となったとき、人の関心は何に向くのだろうか? 認識を欠いた判断は、感情や気分だけに左右されるようになる。
感情や気分、それも「自分が得をしたい」という感情はますます利用されていく。連帯感がナショナリティだけになったとき、それはもっとも最悪な形で、私生活の時間や場所は、私たちのものではなくなる。

つまり私生活主義が私生活圏を破壊する恐れがあるし、現にそれは起こってきた。
個人の消去、個人のコメントや判断や批評の場を、・・・どこか末端にまで拡大したインターネットは、むしろ「可能性を奪い始めている」ように思える。私たちが思うほど、政治的な力と市場の富の力は離れてはいない。
消費行動と投票行動がほぼ同じような「容易さ・軽さ」で行われるのも偶然ではない。

「一部の論者は、政府には私たちの周りで生じている急激な変化を制御できる見込みがまったくないので、政府の役割を減らして市場勢力に舵取りをさせるのがもっとも賢明なやり方である、と述べている。とはいえ、このような取り組み方は、疑わしい。今日の暴走する世界では、私たちは、統治を、できるだけ少ない統治ではなく、<より多くの>統治をもとめている。」(A.ギデンズ)

暴走する世界。
そして市場の論理という単一的思考が支配的な日本。アナウンス効果が、政策の実施や法の施行と混同視される社会・・・
多数決の支配において、感情や気分によって構成される代表民主制・・・

他人任せの感情の蔓延、つまり自立自律性の低下はどこまで進むのだろうか・・・進行している、と過剰に感じることでペシミスティックな気分が蔓延しているのも、コントロールされたものなのだろうか。・・・・

職住分離、共同体と生活の乖離は、近現代後期、消費社会の特徴である。生活と仕事は多忙となり、私たちは直接なにかを知る機会や、代表者と対話するような機会も減っているか、めったにないか、一度もないかだろう。違う問題は、仮に、直接話しをする機会をもったり、対話する機会をもつために議員と対話したときの彼らの社会認識の低さである。そして彼ら自身の大多数が、「私化」していることである。

大臣に任命されると、第一声として会見があるが、その時に、官僚サイドから原稿が渡されるそうである。それに抗って、自分自身の言葉で述べないかぎり、そのあとはずっと官僚の用意した仕事をするだけになる、ということを3月28日のシンポジウムで聞いたが、おそらく伝統的に、こうした構造自体を黙認してきたのもメディアであるし、メディアは、自分たちが情報を与える機関なのだというかなり大きな権力機関である。
私たちは、娯楽を同時にTVから(無料)で与えられるので、彼らが「権力」をもつことにはあまり敏感ではない・・・・

こうしたことが、当然、新聞やTV、そしてネットのニュースで情報提供されるはずがない。

断片化した日常と分断した個人は、その存在自体を消去されていく。
人は無意識に「快さ」をもとめて、言動する・・・・
ベターな選択をするには、意識的にそれを、無償で与えられる「快さ」を拒絶しなければ、時間という個人の本来的財産も、メディアによって食い尽くされてしまうように、私は感じている。


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暴走する世界―グローバリゼーションは何をどう変えるのか
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フィリッポ・リッピのカードを飾りました。ウフィッツィで買ってきたもの。
ヴェネチアの花瓶。このヴェネチアングラスの紫は大好きなガラスの色です。活けているのは、伸びすぎたオリーブの枝を切ったものです....捨てるのはかわいそう。
義理妹からもらったポプリのサシェ。ソラリスの白いバラポプリはコヤタさんから以前誕生日プレゼントにいただいたもの。マットはウィリアム・モリスです。玄関にローラのクリフトン・コンソールを置いていて、そこにカードを飾ったりするのが息抜きになります。変える前は、サンドロ・ボッティチェリを飾っていました。


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ボルゲーゼで購入したカード。葡萄の葉のトレイに自分でつくった自分の家のバラのドライフラワーをのせてみた。




同じくボルゲーゼ・都美術館のミュージアムショップで購入したヴェネチアングラスのブレスレット・・・
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そしてB・Kさんに頂いたルチルクォーツと買ったカットストーンとあわせて自分でつくったブレス。

2-3月中できなかった(こういう些細なこともできないことがよくない)もよう替え・コンソールのディスプレイ替え。実は12月からやっていませんでした・・・
図書館などでは半そでの人もみかけるのですが、私はどうにもまだまだ寒くて仕方がないです。3月期の疲労が抜けず微熱・・今日は始業式でもあり、入学式でもあり、入学式に在校生として出席する娘は初日からお弁当。・・・就寝するかどうか迷いました。まようくらい早朝の弁当作りはプレッシャーのときがあります。5時におきるか、寝ないで明け方3時半につくってしまうか、・・・・

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ワイン・カーヴ!
ひんやりとしている。1階フロント・ギフトショップのカウンターでタートヴァン(テイスティング用)を1人1つ購入し、地下のワインカーヴへ・・・・
約200種類の甲州・勝沼参のみの国産ワインの試飲ができる。
個人的にやはりいちばん持ち味があるのは白のドライと自然な甘みの白。輸入ワインにはない味わい。さっぱりとしたマリネなどに合うものがいいのでは。「晩秋仕込」、「古代甲州」がとくに気に入った。部屋用には「クラシック」を買う。ロゼもある。赤も美味しい。ライトでさわやかなものが赤も美味しい。葡萄の品種が書いてあるので参考にしながら試飲するのがおすすめ。カゴに気に入ったワインをいれて1階のショップで購入することができる。宿泊施設があるのでゆっくり滞在するのがおすすめ。
夕食時にはシャトー勝沼を飲んだが美味しかった。和食やマリネ、カルパッチョに合うから家庭で気楽に飲めると思う。

また写真は追加します

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宿泊施設がある玄関から、レストランとワインカーブがある建物へ移動するときに見晴らしのいいちょっとした広場があり、そこから丘の下を一望できる。


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娘がオーダーしたカチャトゥーラ。
温野菜が美味しい。

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新じゃがの一品料理。バター、塩、イタリアンパセリ、ブルサンアイユが添えてある。自宅でもできるおつまみの参考になる。

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山中湖から富士の裾野。


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翌朝、午前7時ごろ。桜が見ごろです。

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