1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

January 2010

5
「The Age of Stupid」

映画の紹介と上映会について英国大使館よりご案内を頂きました。

日本版作品HP:<http://www.t-joy.net/aos/>
オフィシャルHP:<http://www.ageofstupid.net/>
配給:Arts Alliance Media
上映協力:ティ・ジョイ



気候変動と人間の行動と思想、実践が求めらる時代ですが、まだ時間がのこされているということは、もう最後通告と同様の意味を私は感じます。
大抵において、環境などは「科学技術が進歩すれば、解決できる」いわゆる他人まかせの行動原理がつよく、そのためにここまで進行してしまったのではないでしょうか。
日本では上映の希望の声が高く、3月から上映されるようです。
特別上映会に参加しましたら、また記事やオピニオンをかけるといいと思います。

【作品情報】
「アパルトヘイトや奴隷制度の廃止、月面着陸などがこれまでの時代を形作ったように、我々の気候変動に対する今の行動が我々の時代を決めることになるでしょう。今の時代は『エイジ・オブ・ステューピッド(愚かな時代)』と呼べますが、世界を変えるための時間はまだ残されています。」(フラニー・アームストロング監督)


以下は、ご案内メールの内容を掲載します。

=======


なぜ、人類はもっと早くに手を打たなかったのか?

「MCLIBEL」、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞受賞作「ブラックセプテンバー/五輪テロの真実」の監督が送る、地球温暖化を扱った大作。

現代でもっとも重要な映画との評判を得る、フラニー・アームストロング監督の「The Age of Stupid」。

イギリスの個性派俳優ピート・ポスルスウェイト演じる“地球最後の男”が、2055年の荒廃した未来から2008年の6本の映像アーカイブを眺め、「なぜチャンスのあるうちに自分たちを救おうとしなかったのか?」と嘆き、地球温暖化防止を訴える。インドで貧困撲滅活動をする青年やイラク戦争で家を失ったヨルダンの姉妹、イギリスで風力発電の開発をする男性などをテーマにした6本のドキュメンタリーやドラマ、アニメなどで意欲的に構成されている。

2009年9/21-22に40以上の国で世界同時プレミアム上映が実施され、大きな反響を呼び、日本でも9月22日(火・休)、新宿バルト9にてプレミアム上映が実施された。

駐日英国公使 デーヴィッド・フィットン

【司会】
井手迫 義和(環境ナビゲーター/気象予報士/InterFM Green Station DJ) 駒村多恵(InterFM Green Station DJ)

イベント共催:駐日英国大使館、ブリティッシュ・カウンシル、ティ・ジョイ

「MCLIBEL」、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞受賞作「ブラックセプテンバー/五輪テロの真実」の監督が送る、地球温暖化を扱った大作。

日本での再上映要望の声を多く受け、この度3月より全国TJOY系劇場にて順次公開が決定致しました。


【トークイベントゲスト】
世界自然保護基金ジャパン 気候変動プロジェクトリーダー 小西雅子氏
ブリティッシュ・カウンシル 気候リーダー* 小長谷 瑞木氏 *「気候リーダー」は、気候変動対策プロジェクトを推進する東アジアを中心とした若手社会人ネットワークです。


======

イリ・ブベニチェクとオットー・ブベニチェク、そしてドレスデン国立バレエによるバレエガラ公演へいきました。公演の告知、とくにプログラムと演目に魅かれて観にいきたかった公演です。日本初演になるイリの振り付けのバレエ。そしてフォーサイスのステップテクスト。こういったプログラムを用意し、来日してくれるドレスデン国立バレエの創造性への挑戦は同時に観客も試される作品であると思う。

「辿りつかない場所」は、プラトンの「饗宴」が元になっているという。幕があいた後の3組のダンサーたちは円錐形状の舞台と同化した布に拘束されて緊張と抱擁を表現する。「饗宴」には、人間の原初の姿について語られる部分がある。つまり、もともと男女ー男男ー女女という3種の人間がいて、それぞれはうまれる時に別離する。そして生きている間に、生まれる前に分かれたもう一人の自分を求めるというくだりを彷彿とさせる。こういったプラトンならではの解釈を好まない人もいるが、人間の誕生時点で最初はすべて女性であり、その過程でなんらかのきっかけで男女にわかれるという最近の研究もあることを考えると・・・プラトンはそのことを最初に書きとめた人と思えてしまう。このパートは古代ー現代と連動しながら、舞台としてとても興味深いものだあったと私は思っている。
ただ、途中の人間と世界の解釈は、どちらかというと「闘争」原理に基づいている気がして、「饗宴」とは離れてしまうように思うし、よくも悪くもドイツ的なのでは、あるいは二項対立によっているようにも思えた。世界観として、必要なのはやはり二項対立を超えたものが必要なのでは、と思うからです。
それから、バレエの言語化というのは、「言語」に乗ることではない。言語にあわせることではない。それでは、演劇とバレエの違いはなくなり、言葉を駆使できる演劇(またはオペラ)にはかなうことはなくなってしまう。
バレエは、ひとつひとつのステップ(パ)がすでに言語なのだから。
それも、翻訳がいらない芸術なのだから。
だから、(ノイマイヤーのいくつかの作品でも思うことだが)バレエに必要なのは、音・音楽なのであって、言葉を流してはいけない・・・そう思ってしまう。意味を言語で読まれたら、バレエの意味が消えてしまう。可能性も消えてしまうかもしれない。バレエは、言語を超えて、表現できる唯一の現代の芸術なのかもしれない、といつも思っているので、私にとってはそこが疑問だった。もしナレーションが読まれるとすれば、ドイツ語かギリシア語がよかった..のかもしれません。


「steptext」は、バッハの「シャコンヌ」を使うフォーサイスの作品だが、これはある意味でダンサーが試される作品だとおもう。
普通・・・「シャコンヌ」を聞くとき、私たちはその「音楽」を聴くのに集中してしまう。「シャコンヌ」は「自分自身」をその音楽の中で回想したり、考えたりしてしまう音楽だからでもある。だからこの曲でバレエを踊るということは、完全に音楽を乗り越えなければならない。
エレナ・ヴォストロティナはそれを表現していたと思う。
またこの作品は、幕がない。
幕が上がる前から、もう始まっている。・・わたしたちは、普通、物事が始まっていることにいつも途中から気がつく。ダンサーは、見られる存在でありながら、観客をみている。オレグ・クリュミゥク、クラウディオ・カンアロッシは、音楽のつながりをバレエのひとつひとつの形を流れるように踊っていた。イリはもちろん、すばらしかったけれど、オレグとクラウディオの音楽性もよかった。

「カノン」の全幕として踊られた「魂のため息」・・この作品をみるのは二度目だが、パッヘルベルのカノンの上昇旋律、ギリシア美術にあるような螺旋の構造、そういったものを、音楽を聴くときよりも、更に浮かび上がらせる作品だと思う。正直いって、この曲に振り付けをすることと、それが踊られて表現されることに感嘆してしまう。私が、ギリシアの調和美に魅かれるせいかもしれませんが。背景にはレオナルドの絵画が映し出されている。イリは本当は、レオナルドが絵画で実験していたような、「理想的人間・性差を超えた美と自然の調和」「この世界に自明にある大気を描くこと」をバレエで挑戦したのかもしれない。
他の観客がどうおもうかわからないが、私はイリ・ブベニチェクが成功していると思う。これは、本当に振付家としてすばらしい仕事だと思う。
多くのダンサーがこの作品をおどるところが見てみたくなる作品だと思っている。そしてバレエの本質が音楽性と詩情(ゴーティエが言ったようなポエジー)だと思える作品である。27分の小作品とは思えない。1時間くらいに感じてしまう・・・

とても良かったのだが、観客の拍手のタイミングが早すぎたのが残念。
(実は会場にいた関係者が、カノンが終わったあと、拍手が幕が下りたあともしばらくないといいね、と話していたくらい・・)
それは、余韻が消えてしまうからで、早すぎる拍手は、ぶっきらぼうに「メルシー」というときの「もう結構です」という意味になってしまうからで、・・・こうした劇場での舞台と観客の交歓というのは、やはり観客も自分の行動を思慮深くするべきなのでは、と思ってしまう。
すばらしいコンサートにいくと、静寂が染み渡り、余韻が消えたあと、洪水のような拍手に包まれる。映像録画をしていた公演だから、余計なことかもしれないが書きとどめておきたい。

P1010937


この日の映像が、芸術劇場(NHK)などで放送されることを願います。

パリ・オペラ座の『メディアの夢』はDVD化もされ、映画『パリオペラ座のすべて』にもリハーサルと舞台の映像が映し出される。アンジュラン・プレルジョカージュは古代や聖書、フランス文学などさまざまなテキストから題材をえて詩や感情を「形」にする作品が多いと私は思っている。

映画でみて興味をもった人も多いと聞きますが、「メディアの夢」の全幕はみたことがないという人もほとんどです。一度は見て欲しいのがアニエス・ジローがメディアを演じるDVD。これは単なるストーリーではない、何かとても象徴的で、現代にも通じるテーマである。それはやはり、観客が見るしか受容できない、いくら解説をだれかが書こうとも、また振付家が意味を語ることも意味はない。(意味をかったって済ませれば作品は不要になってしまう。インタビュアーが悪いのだが)

私が、プレルジョカージュが参照したテクストだと思うのは、グリルパルツァーの詩だった。以下解説とともに引用しておく。


「メディア伝説は、エウリピデスを始めとして多くの人に扱われてきたが、夫の裏切られて、夫とのあいだにもうけた二人の子供まで刺し殺すこの復讐の女性の心理を描いた第三部は、先人たちの作品にまさっているといわれている。(略)メディアの心理を人間的に深く追求し洞察した点で、あきらかに新時代の文学の性格になっている。(略)劇の最後で、メディアは失意の夫に出会う。夫イアソンは今まで名誉と事業のために奔命してきたのだが、それに向かってメディアはいう。

 事業することよりも堪えることに強くありなさい。
 堪えなさい・・・忍びなさい・・・あがないなさい。
 
 この世の幸福とは何でしょう・・・−それは影。
 この世の名誉とは何でしょう・・・−それは夢。
 かわいそうな方!あなたはただ影を夢見ていました。
 夢はさめました、けれど、まだ夜はつづきます。

(ドイツ文学案内 手塚富雄 岩波 p.215)


アンジュラン・プレルジョカージュはさらに、メディアにはこの詩にはない、フォルトゥナ、地母神的性格を負わせていて、とくにアニエス・ジローが演じるとその性格が浮きあがる。映画ではエミリー・コゼットが、ローラン・イレールに振り付けの意味をきいていたが、それはこの部分にあたると私には思われる。
こういったものの意味を、言葉で説明されて、「演じて」はそれは「再現」になってしまう。バレエでメディアの夢は、「踊られて語られる」・・・それを観客は一度きりのものとして目撃する。・・・


もしこの詩を忠実に演じるとしたら、・・・私はおそらくレティシア・プジョルが最適なように思う。彼女のアンジュラン・プレルジョカージュ作品を踊るときの解釈と感性はすばらしい。日本にはあまり来日しないのがとても残念。

1月にやらなければならないことがすべて終わりました。
結果や先のこと、評価などは未知数ですが、とりあえず形にできて良かったです。今週は食事もあまりとれない状態でしたが(お弁当や必要な料理はもちろんしていたけれど、自分が食べられなかったのです..)今日は普通にお昼を食べました。やっとイングリッシュ・ローズやオールド・ローズの植え替えや剪定をはじめられますが、雨が多くなるのですよね、2月は....


1/16から目黒・庭園美術館で開催されているマッキアイオーリ展に行ってきました。昨年の秋ごろから観にいきたいと思っていた展示です。
DSCN0346


イタリアにおけるリアリズムは、本来の意味でとても「印象的」な絵画。
フランスの印象派は、光は色彩を変えるものとして、そして「網膜の上で絵画が完成する」という理論をもち、輪郭をぼやかしていったことを思い出すと、明解で鮮明な「印象」は本物の風景や情景を目にしたときの光景として浮かび上がる。風景がそこにある、その場所と時間を体験したような絵画展です。
リアリズムとは何か、このこと自体が問われていると感じられます。
フローベールはたとえば、「本当に自然を目にしたときのような感動」を再起させるものを、文学で目指すことを語っていますが、それ以上のものが明るい明暗のなかに描かれています。風景であって、風景ではないのです。画家の視線、思考、思われ、大切に思っていること、それらが、技術を通じて表されてる。リソルジメントの動きと連動しながらも、個人は生きていて、そして繋がりをもっている。
そして、トスカーナの、あの陽光が絵画の中に再現されている作品にとくに魅かれます。

カビアンカの「糸つむぐ人」は寓意的なテーマももちながら、光のなかの日常を光景として描く。この光は、図録や印刷では再現できない光です、絵画は再現不可能性だと私は思っています。人の手と思いと意志と技術によってつくりだされるものなのです。全体の構成としてとても見ごたえのある展覧会ですが、この2作のことをわすれないうちに書いておきたいと思います。ジュゼペ・アッバーティ「フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ教会の内部」この光景に描かれた光と大理石、陰影・・・こうしたものが絵画で描けるのか、と思うほどです。そして同じアッバーティの「カスティリオンチェッロの谷」と「カスティリオンチェッロの眺め」です。何度も展示室に戻っては対峙したくなる絵画です。

カスティリオンチェッロは、マッキアアリオーリの画家たちの活動の場でした。ここでもヴィラが芸術家たちの活動の場で、庇護者マルテッリの家でした。
芸術活動の中心にあったのは、カフェ・ミケランジェロで、そこでマッキアイオーリ派ができたというのも、「場」の喪失を思わざるをえない現代では、絵画と同様に印象的でした。図録を、時間をかけてよみたいと思います。

2月までやらねばならない事が多く、期日が決まっていることが続くので、時間に追われている感覚が強いのですが、印象が鮮明なうちに読みたい図録です。
図録はカバーデザインが2種から選べます。私にとっては、カスティリオンチェッロの風景が大きく載っていたのが嬉しかったです。説明文がとてもわかりやすく、なお、問いかけをしてくれる。

DSCN0348


庭園美術館はあまり絵画展をやらないのですが(宝飾品が多い...私はあまり宝飾品を見たいほうではないのですね、考古的なものはまじまじと見てしまいますが、あまりアクセサリーに興味がないのです。)この展示がこの場所で行われてよかったと思います。カラバッジオ展のときを今も思い出しますが、(カラバッジオ展は奇跡的な展示でイタリア側は展示の際に機関銃をもった警備員をつけるようにと要望したそうですが、それももっともだと思ってしまう...分散しているカラバッジオ作品とカラバッジェスキ(カラバッジオ派)の作品をまとめてみるのは殆ど奇跡的です。個人ではなかなか実現できないことです...。
ボルゲーゼ展ももちろんいきますが、マッキアイオーリ展を混雑しない状況で見られて本当によかったです。会期中できたらもう一度行きたい。
ピッティ宮の近代美館から主に出ていますが、個人蔵も多く、貴重な展示だと感じます。

ユニセフでハイチ地震に対する緊急募金を行っています。
クレジット・カード、銀行振り込み、郵便振込み、コンビニからも募金可能です。私も募金を行ってきました。任意の金額から(1000円からでも)募金ができます。

今日は出張でした。早朝もとても寒いです。
ハイチは36度以上の気温があるとのこと、CNNのニュースなどでは、怪我をした母親のすぐそばのベランダには乳児の遺体が一枚の布をかぶせてそのまま・・・・通りには遺体が並べてあるという状況でした。日本の「主要」ニュースには、相変わらず雑記事がWEBやインターネットニュースのTOPを占めています。以前も書いたのですが、特に海外の状況などは、意図的にコンテンツを探し出さなくては読むことはできません。
一方で、実質的な「グローバル」(この用語は注意して用いる必要があります。プラスチャージの言葉として受容してはいけない言葉なのですが、氾濫しています)は進んでいます。・・・個人は分断されていますが、世界もまた分断が進むのでしょうか。・・・

ユニセフ募金については先日、友人と一緒に話題になったこともあり、ブログ記事にも記載します。ちなみにユニセフのカードやはがき、キャンドルやノート、クローゼット用のサシェなどの売り上げの半額は、寄付金となります。
ノートやメモ、お礼状、カード、仕事場のカレンダーもユニセフのステーショナリーを使っています。カレンダーは、使い終えると写真部分がポストカードになり、世界の花々や庭園、風景などの写真シリーズを毎年購入して使っています。
おすすめです。はがきは、国立西洋美術館のブックショップ/ミュージアムショップでも売っています。(以前はイクスピアリの正面にもありましたが、今はロクシタンになっています・・・)西美のポストカードと一緒にみなさんも手にとってみてください。ユニセフのフローレンス柄とブルーフロレンテインのレターセット(箱入り)がお気に入りです。封筒も便箋も箱も素敵です。(EU製)

昨日は午前中からお昼にかけて、PC作業を行い、根をつめすぎたためか午後からは寝込んでしまいました、食事もできず、どうなるかと思いましたが、出張に朝でかけられて、良かった...1月末までプレッシャーが(気遣ってくださる方に感謝を)続きます...。


追記・あえて、23日まではTOP記事になるようにしました。

ギルバート・ライル以降・・・
「心の概念」によって一般言語における「心」はないと現代ではされている。

肉体の機能と神経の反応によって「そうおもわれ」るのが心であり、「心」自体はないと考えられるのが「スマート」のようだ。


しかし私は疑問があり受け入れられない部分がある。

同様に、精神もまたそうである。
「精神」の力が「公権力」に働く・働かせられやすいと思われているゆえにタブー化されるのはわかる。
しかし、個人、私人、友人同士、師弟の間では、この影響なしには、精神への相互影響が「構築」につながるのだろう・・・・・

これは私の独り言である。

だがベジャールの映画で「徒弟制度では10年のうちに弟子はなにかを発見する。(そして技術を身に着ける)・・・こうした現代の教育とは別の方法を見直したのはフランスだが・・・現在のシステムが硬直し、単一的であることに危惧を覚える。

私に届く、他者の多くは友人(近く・遠く)を超えて伝わるもの。
それによって生かされている、力というよりも光が届けられる。
感謝したい。皆、それぞれ現代では時間も管理されたなかで、私に言葉を届けてくれる人がいる。


私はそれに答えられるのか。
なにか他人の場所を奪うほどに、何かができるのか。

ところで、ライルの本を冒頭に引いてしまったが、ライルの「心の概念」は面白い。面白いというよりも、現代に生きているからには、この概念を理解する必要がある。

だからこそ、私はつねに立ち止まらざるをえない。

今は思考ほか・・ここ数年の積み上げてきたものが容易に否定されてもとに瓦解するような状況がひとつ、以上あります、1日で立て直し今日すすめるべきものにとりかかるかずが、まったくできませんでした。

言葉を紡いで、ありきたりの言葉ではなく、声をきかせて送ってくれる方に感謝を。

私が考えているのは、おそらく、近代以降のシステム、「大量印刷的」「鋳型的」なシステムです。


以下はバレエ・ガラの詳細が埼玉芸術劇場から送られてきたのでそのまま掲載します。エトワール・ガラで観た「カノン」の全幕・全容がみられるので期待している公演です。
期待、というか、その眼で確かめなければこういった機会はないのかなと。
チャンスを逃したくない。
ドレスデンまでは、なかなか舞台を見に行けませんから....

~〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

新春を彩る、彩の国バレエ・ガラ公演開催!
期待の振付家イリ・ブベニチェクと双子の兄弟オットー、
そしてドレスデン国立歌劇場バレエ団の俊英たちがさいたまに登場。
イリ自身の振付全幕作品を日本初上演。


-----◆1/23-24 彩の国バレエ・ガラ
「ブベニチェクとドレスデン国立歌劇場バレエ団の俊英たち」


◆演目:
・『辿り着かない場所』(日本初演)(2005年/ハンブルク・バレエ団)
・『ステップテクスト』 
  ドレスデン国立歌劇場バレエ団 "特別ヴァージョン"(2004年)
・『ル・スフル・ドゥ・レスプリ―魂のため息―』(日本初演)
(2007年/チューリッヒ・バレエ)
 *最後のパートは、『カノン』として「エトワール・ガラ2008」にて上演されたものです。

◆出演:イリ・ブベニチェク、オットー・ブベニチェク、
エレナ・ヴォストロティナ、カテリーナ・マルコフスカヤ、
ヨン・ヴァイェホ、浅見紘子、大石裕香 ほか

◆会場:彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
◆チケット:S席8,000円 A席6,000円 学生A席3,500円
     メンバーズS席7,200円 A席5,400円
◆公演詳細はこちらから→ 
イリ・ブベニチェクよりメッセージ映像が届いています!間もなく配信!
http://www.saf.or.jp/arthall/event/event_detail/2010/d0123.html
『エトワール・ガラ』、『世界バレエ・フェスティバル』などで、
日本の皆様にもおなじみのスター・ダンサーイリ・ブベニチェク。
ハンブルク・バレエ団ではノイマイヤー氏のもとプリンシパル・ダンサーとして
活躍し、その後ドレスデンに移籍。2010年2月パリ・オペラ座の『椿姫』公演では、
ゲストとしてオレリー・デュポンと共演することが決定しています。
世界のトップ・ダンサーであると同時に、次代のバレエ界を担う
気鋭の若手振付家として、その活躍に期待を集めています。

本公演では、イリの代表作『ル・スフル・ドゥ・レスプリ―魂のため息―』と
『辿り着かない場所』(日本初演)の2作品とともに、20世紀バレエの転換点として
舞踊史に刻まれるウィリアム・フォーサイス振付の傑作『ステップテクスト』を
上演いたします。ヨーロッパ現代バレエの新しい息吹にご期待下さい。

----■■メディア情報■■-----
数々の雑誌・メディアに取り上げられました!
★★ダンス雑誌『DDD』2・3月号/『ダンスマガジン』2月号
 イリ・ブベニチェク スペシャルインタビュー掲載!

----■公演情報■-------------
◆彩の国バレエ・ガラ
「ブベニチェクとドレスデン国立歌劇場バレエ団の俊英たち」
◆日時: 1月23日(土)、24日(日)15:00開演
※開場は各回30分前(上演時間約2時間30分 途中休憩あり)


---------------------------

近況
少々、心身ともにダメージをうけることがあり(ここ数年関わっていたこと+つい最近まで継続していた問題)・・・1日で建て直して前向きになれなればとは思っているのですが... 生きることと生存することと維持し進展させること、問題に常に客観的に取り組むこと、自省的でありながら新たな価値をみつけること、そして実践すること・・わかってはいますが、だめな日もある。。

天秤は揺らぎやすい性質をもちバランスを探っていますが、まるでものの重さやのせられた存在自体がわからなくなってしまうことがあるのです。

映画館の音響と映像で、オペラ鑑賞というシリーズは数年前から行われていますが、今年からはバレエも加わったようですね!ただ、演目に関していえば、どうせならばDVDや来日公演されにくいものがよかったかもしれません。最初の試みですし、いろいろ分析されての決定なのでしょうが。マリインスキー劇場、ロパートキナの「白鳥の湖」はすばらしいのでそれ自体は何の文句もありません。以前にNHKロイヤルシートで放送されたものとは違うのでしょうか?この「映画館で鑑賞する」シリーズは幕間にインタビューや舞台裏の映像をいれていたりするところがオペラ版のうりだったようですが、バレエのほうはどうなんでしょう?
吉田都さんの「オンディーヌ」は以前、吉田さんを特集した衛星放送の番組の中でリハーサルと本番の様子をみたことがあります。
パリ・オペラ座バレエの演目でなかなか来日公演にかけられない演目などはみたいですね。

オペラ版ではやはり英国グラインドボーン音楽祭の映像はみてみたいです。

これで値段が2000円くらいだったらいくつか絶対行くのですが、家族でいくとなると、DVDでまだ買っていない作品を買ってしまうかもしれません。舞台芸術は、その瞬間瞬間を客席と出演者が共有する場でもあるので、あの舞台の緊張感と非日常性は...上のほうの席でも生きた劇場の観客として観たいという気持ちがどうしても強いのですよね。「拍手」を実際に送れる劇場に行きたい、といいましょうか。

でも、バレエが企画に加わったのはとても個人的にはうれしいです。それだけに、絶対に現地にいかなくては見られないような演目の映像のほうが価値が高いのですが。
ダンスマガジンの海外公演欄をみていると、気になる演目ばかりで、実際に胆力と時間があれば、現地まで脚を運ぶ方も多いですしね...

NBSから新年のニュースが送られてきましたが、その意味で来日演目に「うたかたの恋」「リーズの結婚(ラ・フィーユ・マルガルデ)があり、観てみたい演目です。特に「うたかたの恋」は気になります。英国ロイヤルらしい演目だと思います。

近況としては、愛犬も年末から風邪をひいていて、それがよくならず..12月で18歳になったのでもう歳なので心配で怖いのですね...、歳をとっても、内面はかわらず相変わらず大切な存在ですし、大切な..という言葉ではいいきれませんけれども。

冬なので、庭にヒヨドリやキジバトがきます。
今年はまだメジロはやってきません。みかんやりんごやゆずをあげています。

ブログネタ
育児中に年収が下がったら何の出費を見直しますか? に参加中!
兵庫県立美術館よりお知らせをいただきました。年内の記事に載せ忘れてしまっていた「山本六三展」のフライヤーです。
昨年、bunkamuraのギャラリーで展示され、その前にも埼玉近代美術館「澁澤龍彦幻想美術館」でひときわ目を引いた作品。「スフィンクス」と「眠るエルマフロディトス(ヘルマフロディトゥス)」

P1010888


お近くの方、ぜひ脚を運ばれてください。
私もできれば行きたい、80点もの大規模な回顧展だそうです。

P1010889



「ペレアスとメリザンド」「メランコリア」など、おそらく多くの作品が観られるでしょう。オウィディウス的な主題、デューラーのように緻密かつもっと伸びやで神秘的な、異教的美をマニエラな技法で描いた山本氏の作品は画集ももっていますが、やはり実際の筆致をみてもらいたい作品ばかりです。


昨日は調子がわるく・・・今朝はどうなるかと思いましたが、なんとか1日過ごさなければ。私の生活は・・・「〜ねばならない」という動機で80%以上動いているように思います。みなさんそうなのかもしれません。
そうみえないようにするだけで、というかそう「語る場も機会もない」ために。
「悩みがない」ことが最善で最良であるような風潮のために。
「観想的な生」「行動的な生」こういった人間観が合理化されていくのは17世紀以降ですが、私はこの合理化を肯定できないと思っています。
話がずれました・・・
いまやるべきことは多く、資料も・・・膨大です。

イタリア・マッキアイオーリ展についてはまた後日書きたいと思います。

友人のそやさん宅へ午前中お伺いしました。紅茶とシーフードをたくさん使ったスパゲッティをご馳走になり、お土産まで...
11月の下旬に伺うつもりが、私が体調を崩したり諸々で12月も会えず、ついに年明けになってしまいましたが、約束が達成できてよかったです。
疲労回復によいというびわ茶を頂きました。もう5袋くらい頂いています・・!
のみやすく、プーアル茶などとまぜてもいいかもしれません。
(相変わらず夕方以降は、ルイボスティのフレーバーや、カリス成城で買ったコールド・シーズンというハーブティを飲むことが多いです。)


かなり唐突にボッティチェリ(サンドロ・ボッティチェリ/本名アレッサンドロ・フィリペピ)の話をふったりして申し訳ありません。
いつも話題が唐突、かつ多岐にわたります。たくさん紅茶をいただきました。
こんなにゆっくりお茶をのむのはいつぶりだろう、と思うくらい。
仕事のため帰りは車で送っていただきました、いつもお手数おかけします。


DSCN0337


イタリアの画人はとくに本名で通ってないことが多いですね...
ボッティチェリ、カラバッジオ(本名:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラバッジオ)マザッチオ(本名:トンマーゾ。マザッチオはあまり身なりには気遣わなかった画家の通り名できたないトンマーゾという意味らしい....)
サンドロとロレンツォの時代の逸話はどれもとても興味深いです。

そしてロレンツォの早すぎる死はフィレンツェ・ルネサンスの終幕でもあるのです・・「ロレンツォの死によって、世界はばらばらになってしまった」
この言葉を実感する。そしてボッティチェリの画風の転換と、最後には絵もかかなくなってしまったサンドロについて考えてしまう。・・・・
DSCN0336



写真はサンドロの自画像(ロレンツォと対をなしているように前面に描かれている)です。もうひとつは、弟子フィリピーノ(フィリッポ・リッピの子)にも描かれています。こうして作品の中に自身を描きこむのは、ラファエッロの「アテネの学堂」にも通じています、ひとりだけ視線を見る物(我々)に投げかけている人物...
ボルゲーゼ展にはボッティチェリとその工房の作品と思われる絵画も展示されるようです。ドナテッロやサンドロ・ボッティチェリ、ミケランジェロに関しては知りたいこと、書きたいことに尽きません。

バレエ鑑賞、ART関連での友人のりねさんが、私の不調時が増えているのを案じて天然石のブレスレットを速達で送ってきてくれました。お手紙と手作りのカードも添えて。感謝です。とても透明感のある石で、透明感のある石や硬くて透明なクリスタルガラスなどが好きなので、形のランダムさ、でもバロック的な調和もあるブレスです。早速使わせていただいています。。。感謝です。
DSCN0333


お心遣いありがとう御座います。
私が年末のシルヴィ・ギエムとアクラム・カーン「聖なる怪物」の公演にもいけなかったので、秋からお会いできてませんが、またお会いできますように。
石をやすませるためのちいさな水晶も同封してくれました。

結構前の話ですが近況的には、仕事+結婚式用にスーツ買いました。
 MANO マーノ・ガーメント・コンプレックスは、完全にメンズテーラー仕立てで着やすいし、シルエットがいいのです。縫製、生地、パターン、袖をとおした時の軽さ、しかししっかりとした裏地使い、裏地やボタンのさりげないこだわりと配色...好みですし、飽きないできられる服。

スタッフの方と相談して、ウエストを3センチつめてもらいました。
その日にお直し対応をしていただいて助かりました。(休みが少ないので身動きできないのです、以前にスーツを買ったときも宅配で送ってもらった記憶が)

都内には2件。日本橋コレドとアクアシティの2店舗です。
表参道界隈にあると便利なような、しかし最近は客層が違うのか....
あと思いつく場としてふさわしいのはどこでしょう・・しかしクオリティが一番、着心地が一番という気持ちもします。

P1010932

(写真はMANO台場店前のスペースのミラーボールを使った空間.)

もう少し増えてほしいけれど、どこが立地として適当だろう。
なかなか難しいですね...現在あるのは横浜、船橋みたいですが、お勧めです。
あと場で話題にしたらわかったことですが、船橋からは撤退だそうです、船橋はikeaなどが入ってしまったのでマーノのコンセプトがわかる人とはずれてしまうのでしょうか。
私が好きなものほど消滅するので、なくなりませんように。という意味で記事にしました。普段着も着やすいものが多いです。

日本の既製服は,,,重ね着重視の幅と丈がながいパターンが多く、しかもラインがすきではないのと素材が好みではないのです。


カジュアル・ハイカジュアルならフレンチコネクションが長年すきだったのでショックです。1月で日本から完全撤退とのこと...私は日本の既製服だと袖、肩幅があわず、かといって7号でもあまってしまう、加えて素材やデザインさりげない主張など、fcukとマーノは支持していたので、行けばかならずいいなと思うものがあったので残念。
Sさんと買いたい服が無くなっていく、と同感でした。
モノ・物質は・・・実は、モノ・物質化以上のところでしかペイしたいと思わないのです。コンセプトが形になるのです。だからその過程がみえるもの、素材や配色、シルエットなどが重要なのです。
そういったことが、衰退し、理解されず、価値観から喪失している気もします。



ピエール・ブルデューの「市場独裁主義批判」はフランスでは10万部売れた本である。この本を翻訳されている加藤晴久氏の言葉を引用させていただく。


「市場の論理」という単一思考に支配されているこの国の市民、とりわけ「ニュー・エコノミー」イデオロギーの犠牲になって解雇されたり、リストラの脅迫にさらされている人々、特に21世紀の世界を生きなければならない若い人々に『市場独裁主義批判』と『メディア批判』を読んでもらいたい」・・・・

 ブルデューは「常に失業するかもしれない可能性」と「非安定雇用の立場」になることの脅迫が、今現在雇用されて生活が成り立っている人にさえ「恐怖」としてい張り付いていることを指摘し、問題視しています。
「他人事」であると思う風潮が強まれば強まるほど、市場の原理がますます個人の生活圏に入り込んでくるのであり、市場の原理とは基本的に、投資家の「気分」によって影響をうけやすく、イメージによって影響をうけやすく、市場原理を「自然」にしておくことがよいという立場の人ほど「予定調和論者」であるのです....
ソーシャルなことを「考えたいか」「考えたくないか」・・こうしたことは、好みや趣味の問題ではなく、自覚せざるをえないのです。古代の民主制では、こうしたパブリックなことは「自由民」に生まれた人だけが考えればよい問題だったのです。パラドックスのようですが、近代以降は、「生まれた瞬間に自由か隷属的な立場か」ということは決定しない分、個人は自覚せざるをえないのです。

「さらにまた今日では、人類のもっとも貴重な文化的成果の経済的・社会的基盤が破壊されつつあります。市場に対する文化生産の世界の自律性は作家や芸術家、科学者のたかかいと犠牲によって増大してきたのですが、それが今、次第に脅かされています。「商業(コメルス)」と「商業的(コメルシアル)」の支配が文学や文芸・芸術批評、映画の上に日々、重くのしかかりつつあります。」


 「ベジャール、そしてバレエは続く」の中でジル・ロマンが言っていた言葉、「芸術は壊れやすい」というのは一面では(というかなりの面で)こういう時代と社会構造・システムと芸術の関係を象徴的に、しかも的確に表した言葉だと思う...

私たちの目の前には、あることがもっとも都合よく解釈され受容され、一般化するための演出がなされていること自覚するべきである。
報道は、報道しながら情報を隠すことも可能である。
「テレビは見せながら隠す」といったように、数字は数で表されるが故に、表面的に物事を結論に結びつけるために利用されることもあるのである。
(私もそうだが、私の友人たちもあまりテレビを観ないのでたまに忘れているが、未だに「テレビ」が生活に浸透する量は多大のようである...)


ブルデューの言うことと標的は正しい、だがそう思うがゆえに、ブルデューともうひとつの立場の中庸に、第三の道があるようにも思える(思わなくてはならないのか?)と思う面もあるのだが、...いずれにしても、答えも論も作成の過程にあります。なぜこんなことをかくのかといえば、同感する面と基本的な問題意識がとても似ているがゆえに、消耗するのを実感するからです。

あまり何度も書くのもどうかとも思うのですが、年末から体調的には最悪でした。3日に1度食事ができるかどうかという状態でしたし、3日に一度は頭痛や吐き気で寝込んでいました....もう1月も10日なのですからいいかげん、日常レベルのことができるくらいに回復させなければならないのですが。昨日は、ある新年祝賀会に出席し、知事や衆議の方と話をしました。出席して、いろいろな方から相談される問題について話を聞いてもらえたのはよかったと思います。ちなみにその前の日はあまりにも体調がわるく、娘を実家で預かってもらったりと、...時間が足りない、と思うことが多いです。とにかく、時間が足りないと感じます。時間は作り出すものだとはわかってはいますが、年々それは増えていっているように思います。

新聞やTVのニュースに物足りなさ、納得のいかなさを感じる方はぜひ、ブルデューの上記の2冊および、「再生産」を読んでほしいと思います。それから、ベジャールとジル・ロマンの映画は、1月15日までです。いずれDVD化されるのをもちろん望んでいますが、ぜひスクリーンで観てもらいたい作品です。

「私たちは加害者と被害者の間でもがき苦しみ、地獄を作り出している」
「現実はきれいごとではない、現実に暴力が存在する、それは世界が他の世界を攻撃するものだ。」ジル・ロマンが新作の主題にした「神話」は、現代にも存在しつづけてる構造を顕わしている。「神話」は「犠牲」となった人をメモリアするために語られる。しかし「犠牲」は・・・「神聖化」しすぎてはならない...私たちはこの次元を何千年も廻っているのか、あるいはシステムが逆行しているのか。

つまり、私たちは、実のところ、存在するだけで、他者の場所を奪っているのである。そのことに自覚的になることと、無自覚なままの状態は、あまりにも振る舞いや言動に断絶を起こしてしまうのかもしれない。それが、互いの眼に映る「世界」をまったく対照的に感じさせてしまうのかもしれない。

・・・・造的な問題から心性的なものを語るつもりはなかったのですが・・・ホッブス以来の「力」の原理は否応なくどこにでも影響を及ぼします。ばらばらにされた人間や個の孤独だけが普遍なのでは、とも想えてくるテーマは、見事に作品となっていると思う。

ピエール・ブルデューの「市場独裁主義批判」「メディア批判」およびアンソニー・ギデンズと統計資料を11月から見直しているのですが、あと数日で最初の形(下書き)にしなければならない状況です。
クリスマス頃から悪質な風邪になり、一度は治りかけたものの30日から再び悪化してしまいました。元旦は実家へ行ったり、犬たちの様子をみたり、具合のわるい犬の世話をしたりしていました。母親がエビチリソースやら野菜の揚げだしなど沢山の手料理でもてなしてくれました。もうすこし手をぬいてくれてもいいのにと思うほどでした。二日は半日仕事で、今週末も休日はない状態なのですが、今日の昼すぎからまた具合が芳しくなく..31日に無理をしたせいかもしれません。無理したくないと思っていますし、無理しないようにと周囲も友人たちも言ってくれるのですが、やはり無理しないとできない・完成しない不器用さがあるのですね...逆にいうと、多少無理しないと何もできないのではないかと思う部分もありますが、多分、資金やもっと能力が高い人ならば無理せずできるのかもしれませんが、手間ひまや作業を速く進める、他の人の迷惑にならないように他の人が納得してくれるレベルのものを造ることといったことでしか私は埋め合わせられないのです。


完全に雑記なので後日消しますが、...自分のパソコンが不調なので、お返事やお年賀などは遅れてしまいます。いつも年末の仕事締切りのあとに急いで年賀をつくって、宛名とコメントは手書でつくっているのですが、今年は年末不調で何もできず、印刷もうまくできず。
年に何回もお手紙やお葉書など便りをくれる方とは今年も来年も同様に、宜しくお願いしますという気持ちで一杯です。

みなさんもそうかもしれませんが、一方でデリカシーに欠ける年賀状というのは、年末年始もあまり休めないという状態だとかなりのダメージをうけることもしばしば....。誤解のないように付け足しますと、私の直接的な友人にはそういう方はいません!
しかしまぁなんというか、ある友人の方の名言をお借りすると「私たちは人をがっかりさせるようなことをしたり、がっかりさせる人にならないようにしよう」ということを思ったりします。
人から受けた好意は、ほかの人にもそうするほうがいいし、自分がされて嫌なことを人にするような「悪意の循環」はやはり良くないな、と感じます。相手の気持ちを考えるという単純なことですけれど。

DSCN0340


ボッティチェリは「憎悪」や「羨望」や「嫉妬」などあらゆる悪徳を目に見える形で描きました。「真理」を忌々しげに見上げる「悛悟」の寓意、また「欺瞞」「嫉妬」「誹謗」が「無実」の人を「不正」な審問官の前に引きずり出すというあの、「アベレスの『誹謗』」(ウフィッツィ美術館にある・ボッティチェリの絵では小さい絵、しかし「春」と同様に絵自体が語りだす絵画です)に描かれた社会・世界とおなじものが世の中には蔓延しているのではないでしょうか。現代ではさらに、それらが「自由」という言葉のままに振舞っているのではないでしょうか...。ボッティチェリの描く「不正」には「無知」と「猜疑」がヒステリックに何事か(つまり無知と猜疑に満ちた言葉を)を吹き込んでいるのですが、どこか現代の社会でも同じ構図が人を生き難くしているように思えてしまいます。

DSCN0341

中世的だといわれそうですが、私が感じるのはやはり自分の中にそういった感情を律することは必要なのではないでしょうか。
些細なことで、人に元気をもらったり、その逆もあります。だから、気がついたらそれは他者に対しては特に「形」や「言葉」として表すべきなのだろうと思います。
特に感謝を示すことは大切だと感じています。
細部の大切さを感じることが多いです。

私圏(私生活)と公的な生を両立したり、複数の役割をそれぞれ適切に果たすことは難しい。しかし「生きている」なら「そうするしかない」のが現状だったりします。

生きている証というのに意味がないという人も多いのかもしれませんが、やはり私の中には「死を想え」memento moriの価値観が常にあります。古代ローマからルネサンスの教訓であり、形があるものは常に壊れていく過程なのであって、維持と保存だけでもかなりの労力を使い果たしてしまうものです。しかしそこになにかの意味を加えたいとするならば、それは物質に留まらない何かなのです。多くの場合は、私生活において物質を所有したり消費したりすることにエネルギーが向けられます。しかしそれはそれで意味がないとは言いませんが、それがすべてではない。部分ではあるが、全体ではないということです...



1月末まで週ごとにプレッシャーの多い出来事が重なっています。

ブログネタ
お正月の「お雑煮」はどんな味ですか? に参加中!
DSCN3137


江戸人(本籍が中央区)なので雑煮はおすましです。といってもやはり自分が食べてきた味をベースにしていくので子どもの頃から家庭で作ってきた料理は重要なのかもしれません。私の母親は料理好きで、今でも特に和食の場合は、料理屋や割烹で食べた料理の味を再現してみるということが好きなタイプです。(かといって専業主婦ではありません、私が小学生の頃から今もずっと営業の仕事をしています。本人は本当は家事に専念したいようですが、そういうわけにもいかない人もいるのです。(とわざわざ書くのは料理好き=暇という憶測をする人が多いからですが、実際にはある程度忙しいほうが、創作意欲が沸くのではないでしょうか...できない日もありますけれど、私も基本的には惣菜を購入するというのはしません。)

母が和食と中華料理をよく手製でつくっていたためか、その代わりイタリア料理的なものは私は自分でつくるしかなかったので、10代の頃からよく料理していました。でも、外食して美味しいものからヒントをえて家庭料理に取り入れるというベースはやはり母親の影響かもしれません。夫も食事が好きなのもありますが。

さて、おすましですが、私の場合は昆布だしベースです。海老、ゆず、小松菜、しいたけ、たけのこ、かまぼこ(グチ100%のものが好きです)などが具材です。三つ葉もかかせません。
お餅は今年はパルシステムの「ささかみのこがね餅(特別米)」にしました。とても美味しく頂きました。
正月用の食材はここ数年はほぼすべてパルシステムで頼んでいます。年末まで忙しいのもありますが、生産者の方が丹精こめてつくられた野菜などを大切に食べたいからです。

写真は自宅での元旦につくった今年の御節です。里芋の煮物と数の子、松前漬け、雑煮などはかならず自分で作ります。こはだやしめさばなどもかならず添えます。今年つくらなかったのは、百合根やくわいをつかった御節。元旦の朝と昼が御節で、同じものを夫の実家にも届けました。撮影した写真にうっかり七味が映ってしまっているのはうっかりしていました・苦笑

ぺすくタリアンとはいえませんが、今年の御節です。
私が微熱だったので、いらないものまで映ってしまっていますがそれはご愛嬌..。

近況といえば東京メトロの北千住駅ホームの方の対応は親切ですが、北千住駅の駅長室内の対応はまったく不誠実。この程度のマニュアル運営では....がっかりさせられます。まったく人と人tのコミュニケーション、問い合わせしてる人の気持や対応に誠実さを感じられない。

5
昨年中から観たかった「ベジャール そしてバレエは続く」を観てきました。
今のところbunkamuraのル・シネマでの上映だけのようですが、もっとこの映画を観られる機会・劇場が増えたらよい。多くの人がこの作品を観られるとよいし、同時にこの映画を作って記録してくれた映画監督に感謝したくなった作品だった。
P1010919


とにかくジル・ロマンがベジャール追悼公演(パリ・オペラ座2008年10月)で踊った「アダージェット」のシーンから引き込まれる。そして、ベジャールとジョルジュ・ドンから託されたような作品の少々でもある「アダージェット」を躍るジル・ロマンと、新作「アリア」の創作の過程。
団員とジル・ロマンの挑戦は、新しい創造と芸術が立たされている問題の象徴でもある。

「芸術やARTは感覚的なもの」という安易な認識をもし持った人がいるならば、それは払拭されるだろう。本当は多くの人が惹かれ想いを抱くような芸術や美術は常に、責任や重圧の中で生み出されるものなのだと実感できるだろう。そして、多様な意味で、舞台や演目は観客と観客の反応によっても方向付けられてしまう、可能性を与えられたり失ってしまうことがわかる。(今日、時代を超えて上演されたり読まれたりする作品の殆どは賛否両論か、売れなかったか、あるいは生前には未発表だったりすることは言うまでもない。)


過去の圧倒的な映像も「引用」されて、この映画は多くのことを教えてくれる。
監督はスペイン出身で、自分もバレエを学んでいたことがあり、80年代にはベジャールのバレエ学校で学んだこともある女性。文学の教授資格を持つ。つまり、バレエのテクニックやメソッドを知り、バレエが持つ可能性や意味も充分に理解している人の手によるドキュメンタリーで、単なる記録や説明でも過去のコラージュでもない。
リハーサル中。首の頚椎・筋肉を傷めながらも、翌日のローザンヌ市長に見せるために全力を尽くそうとするジュリアン・ファブローが印象に残る。リハーサル中のダンサーたちの姿が多く映し出され、すばらしい。私たちはいつも舞台しかみることがないから、その背後や過程の積み重ねを知ることは舞台をみることと同様に大切だと思う。


ヴェネチア・サンマルコ広場で踊られるベート−ヴェン「第九」の映像が素晴らしかった。ベジャールは映画「エトワール」で「「第九」は一種のデモのようなバレエであり、劇場ではなくスタジアムが相応しい」といっていたが、「広場」がもっとも相応しいのではないだろうか。
それと同様に「広場」(PIAZZA/人々の交流の場でありソーシャルで誰もがアクセル可能な場所)がなければなにも始まらないとさえ思う(日本にはそのような「広場」はない。)

P1010910


ルフェーブル、ショナ・ミルク、ミシェル・ガスカール、ミカエル・ドナールほか多くの人々の言葉も活きたものである。


多くの人に観てもらいたい作品、そして観られてよかった。語りつくせない内容なので、また追記したいと思います。



ところでチャコット本店に立ち寄ったのですが、新春のフェアでトゥシューズのゴム・リボンつけと刻印(イニシアル他)をしてくれました。

P1010912


映画の余韻が消えるのが嫌だったので、表参道まで歩いていき、それから帰宅しました。



写真は映画ポスター(日本版)とbunkamura1階ホールギャラリーの映画紹介パネル.

ブログネタ
三ケ日の出来事を教えてください に参加中!
1月2日は仕事日だったのですが、終わってからシネマイクスピアリへ行き、マイケル・ジャクソンの”TIHS IS IT”を再度観ました。11月にすでに感想・リコメンデットを書いていますが(こちらTHIS IS IT マイケルの他者性)DVDでもう一度観たいというのは勿論、もう一度この映画を劇場で観たいと思っていました。しかし11月は休みがなく観られなかったので、今回シネマ・イクスピアリで上映してくれたことはとても嬉しい出来事でした。(勿論、タワーレコードにてDVDも予約していますが、やはりライブでの観客の一人のように参加したいと思ったのです)

感想は、二回目は更によくこの映画を観ることができて、二回目に初めて気がついたことも多く、ダンサーやコーラスのメンバーたちやスタッフの情熱もより詳細にみることができた。THIS IS ITのために撮影された映像、スムース・クリミナル用の映像、EARTH SONGの映像、スリラーの映像ももこの大きなスクリーンで再度みられること、音もライブを聞いているのとほぼ同じ迫力だった。
この公演が実現しなかったことはとても残念なことだ。
しかしこの映画によって解ることも多く、この映像が公開されて本当によかったと思う。余談だが、やはり映画ドキュメンタリーである「ブロードウェイ・ブロード・ウェイ」とダンサーとダンスと舞台について過程を知れてよかったと思う部分が似ているところがある。ダンスは、表面的なものだと思っている人にこそ観てもらいたい気持ちになる。

観客を未知の領域につれていこうという最後のメッセイジ、その才能は「天」から授けられた運命的なものではなく、努力と方向性によって創り上げられていくものでもあることも同時に示してくれる。
私たちはよくもわるくも、多少に関わらず影響を与えたり与えられたりされる。彼(マイケル)のメッセイジを受け取った人は、各人がそれをどう受け取ったのか、行動して示すことが大切だと思う。他人任せの感情は、結局のところ、自分も操られたり騙されたりすること(知らないままに)の余地を生んでしまう。というか、はぐくんでしまう。

私も小学生の頃にマイケルの音楽やダンスに接した世代だが、私が観た回の前の上映では小学生くらいの子どもも多く観に来ていた。(私の娘(小学生)も、マイケルの大ファンになった。英語の歌詞もよく読んでいる。EARTH SONGとBEAT ITやBRACK OR WHITEが好きだという。因みに私が一番好きな曲はマン・イン・ザ・ミラーです)それぞれも子どもたちが其々に感じてくれるといいと思う。

凄い創造性というのは、説明がいらない魅力を持っている作品だが、それが技術の高さなしにはないことを時々思い出させる。
そして技術は天性のものであると同時に努力の結果でもある。時々わすれそうになるが、日常的なことによって、不可能は可能になるのだと思う。

上映後、館内では拍手が起きた。
この映像と記憶(メモリア)を再び共有できて良かったと思った。

5
ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのバレエでは、パリオペラ座バレエのエレオノーラ・アバニャートとニコラ・ル・リッシュが出ていましたね!
今年からマニュエル・ルグリがウィーンで監督に就くので、オペラ座バレエも何か関連するかとは思っていましたけれども、ヨハン・シュトラウスの「心と魂」の曲と古代彫刻のギャラリーでのバレエ、良かったです。
個人的にシチリアは文明の十字路、12世紀ルネサンスの一つでもあり、シチリア出身のエラオノーラがパリ・オペラ座バレエで活躍できるのを願っているので余計に感慨深かったといいますか..ドレスの仮縫いの場面で、娘が「今ニコラ・ルリッシュみたいな人がいたような...」と言ってましたが確かにそうでした。
「心と魂」の曲も良かったです。

30日からまた体調を崩してしまい、丸一日飲食もできす、大晦日の午後やらやっと起きられたという有様でした。まだ声がでません...。


今回はインターミッションの間にダンサーのリハーサルや衣装作り、イタリアから届けられた花々などコンサートを構築するまでの間がみられたのも良かったです。
以前のこういった場面が残っていないのが残念なほどです。
それにしても大理石の床でポアントで躍るのは大変なのでは...と色々な意味でプロのレベルを感じました。

このページのトップヘ