1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

May 2009

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デンマークロイヤル・バレエのナポリ、はシュトゥットガルドバレエの「オネーギン」に次いで昨年から観たかった演目だったので楽しみにしていました、タランテラの部分はごくたまに踊られることもありますが、本場ブルノンヴィルの伝統をもつデンマークのステップは素晴らしかったです。
「生の謳歌」と云われるこのバレエは通常2幕でバレエ・ブラン(白いバレエ)と云われるような、生死の境界や精神性、詩情を謳う「異界」「非日常」も、海底という「異世界」が舞台となります。海王はポセイドン、異世界の入り口は、青の洞窟。
キリスト教による異教(ギリシア・ローマ的世界観)という見方も入り込んでいますが、それも、第一幕から三幕までジェンナロと町の人を支えて見まもる修道士(フラは確か修道士の位階だったとおもいます、フラ・アンジェリコもそうですが(彼は天使のようなフラという意味で呼ばれていたはずです、ルネサンス期の画家たちは本名と違う通称で呼ばれますね..)の役割や存在によって決して一元的なものではなく、いいと思います。

1幕はマイムが中心、これをみていると北方のバレエは劇の要素が強いなと思ったのでした。そして、ドン・キとの共通点もちらほら。ドン・キでは母がいないキトリにたいして、ナポリではテレシーナは父のいない母が登場するあたりも、地母神・母系的考えが残っているイタリアを思わせる部分がありました。

2幕の16人の海の精の踊り・シーンは絵本の挿絵のようでした、こういう舞台はやはり北方のバレエ団ならではの雰囲気がでます、オペラ座のエレオノーラ・アバニャートもノルマン系を思わせるシチリア人ですが以外と南イタリアと北方は共通点があるのですよね。そしてテレシーナの2度にわたる衣装の早変わり。こういう仕掛けがあるのも、ラ・シルフィードとの共通点かもしれません。ラ・シルは宙のりするように、シルフィードたちが上空を飛び交ったりしますから、形式化されていく19世紀後半のバレエとはまたちがってとてもおもしろかったです。

そして3幕はすばらしかったですね、ナポリは南の文化風土とと舞台設定ですが、踊りや衣装の文化的根底はケルトがあって、ジグやリールなどの絶え間ない躍動感、アイリッシュダンスなどにも通じる舞踏が流れてる気がします。
ブルノンヴィルのステップは絶え間なく躍動して音楽と同調するスタイル、このステップの本質を守り、身体から音楽が生まれているように踊っていたダンサーたち、ソリストたちは素晴らしかったです。
この公演をもう一度みたいと思ってタランテラの後半には寂しくなってしまったほどでした。テレシーナ役のティナは正直少々太めで、しかしマイム演技が重視されるとなると彼女がタイトルロールなのかな、とも・・・ただ、上体の柔らかさはよかったです。デンマークの演目のメルヘンな雰囲気はあまり感じられませんでしたが、2幕のコール・ドの海の精や、3幕のパ・ド・シスなどでは十分に堪能できました。
ジェンナロ役は演技も踊りもよかったと思います。
デンマーク・ロイヤルバレエの子ども達はみな、アンカーの絵画にでてくるような子ども達で可愛らしかったです。

ぜひぜひ、このデンマークロイヤルバレエ「ナポリ」のDVDを再販売するか、新しい録画で観たいと願ってしまいます。音楽もとても素晴らしいですよね。
最近はゴーティエの時代のバレエをすごくみなおしています。
実はデンマークロイヤルの「ナポリ」と「ラ・シルフィード」だったら両公演観に行ったと思います。

午前中から午後はじめまで仕事もあったので、重い資料を持ちながら上野へ移動したりしていたためか、明け方から肋間神経痛が酷いです..
あまり無理できたものではありませんね...しばらくはまた忙しい日常かと思うと、「ナポリ」の舞台体験と時間がとても名残おしいです。(本当に)

6月7日、日本をテストします---というキャッチコピーはいかがなものか。四谷大塚の現在の経営母体はたしかスイミングスクールなども経営している筈です。中学受験の過熱は、少子化で大学受験が「産業・ビジネス」にならなくなってきたため、市場がシフトしているためと思われますが、それにしても、教育の目的自体は、再生産、再労働者化ではないはずです。
「日本」をテストします、というキャッチコピーの中には、産業的ナショナリズムが見え隠れしている。というか露骨に感じる。親の不安感を利用しているように思える。たしかに、生活を成り立たせることは重要だし、そのように子どもを訓育することも大切ですが、それがいわゆる「教育」の意味でも目的でもありません。

自立自律、自主自尊は、競争だけから生まれるものではない、競争には、共生概念が付随しなければならない。
それよりも自己認識が必要で、そのためにテストは必要だとは思う。
しかし、あからさまなキャッチコピーだと云わざるを得ない。

将来的に必要な、数学や英語は中学入試では問われない。多くのオープンキャンパスなどにいくと、私学中の先生たちは、英語は中1から教えるから今は受験勉強しなさいと(きまった)事をいうが、実際は、私立中進学時には中2/中3レベルの理解がないと、進度に対応できないこともあるのではないか。
公立中の場合でも少なくとも例えば英検5ー4級レベルは必要である。


子どもを「善く」したいと思うのが教育(教え育てる)の骨格であって、子どもに「楽」をさせたい、「得」をさせたい、と思うのは功利主義のよくない部分の集約でもあるのに、余り「親」も気がついていないのではないか、と思うことが多い。

自他の利益が反転して、反対するような「正義」は「正義」ではない、それは最低限の法的正義であるという東大・法哲学者の井上達夫先生のお話を思い出しながら。

実は、教育学自体は、日本ではあまり問題にされない。

村井実先生の「教育学入門」「善さの構造」は親、教師など必読の本だと思っている。


東京大学公開講座の内容と感想はまた後日、今書かなければならないことがあるので、それが一段落したらできるだけ早く書きたいと思っています。
「法という企て」(法哲学/井上達夫先生)はぜひ読みたい。松島斉先生の「金融と特異」では「非日常としての経済」が大変参考になった。













法という企て
井上 達夫
東京大学出版会
2003-09

2009年後半に注目するバレエ公演の演目は『イワンと仔馬』です、唯一、マリインスキー管弦楽団が演奏し、指揮がゲルギエフという理由、タイトルロールがアリーナ・ソーモア、レオニード・サラファーノフということで期待しています。でもまだチケットは確保していませんが...ラトマンスキーの振付と「斬新な」舞台演出ということで、本当はダイジェスト映像などが欲しいところです、私がしらないだけで公開されてるんでしょうか。
斬新な、というとどうも、ニューヨークシティバレエの「放蕩息子」などを思い浮かべてしまうのですが、劇場で観たいかといえばそうでもなく...。バランシンは純粋に音楽の躍動感や旋律美と意味化されないバレエとしては面白い演目もあるとは思いますが、それほど本学の本質に迫ろうとはしない振付家なので(おそらく「非」本質型のアーティストなのだろうと思う。楽譜や音符の「間・余白」からなにかを読み取るようなことは不要と感じるような・・・あくまでも私の私見ですが)

期待していますと書いているのは純粋にどんな演目かみてみたい、他では観る機会がないと感じるためで、別に広告的な意味で書いているのはありません...

たまに聞かれるのですが、世界バレエフェスティバルは行きません。
「オマージュ・ア・ベジャール」が気になり、ローラン・イレールとマニュエル・ルグリ、ジル・ロマンが出演するので行きたかったのですが、迷っているうちに売り切れ、しかも夏のその時期は毎年なかなか余裕がなく。
余裕がない時期だけに、昨年の「エトワール・ガラ2009」は本当に行ってよかった公演でしたけれど。また「エトワール・ガラ」が開催されることを願っています。その際はぜひまたルンキナ、そして今度こそレティシア・プジョル、エルヴェ・モローらが来て欲しいですね。その頃には私の好きなダンサー、マチルド・フルステーもプルミエになって一緒に公演に参加してほしいです。

それに、劇場でみるなら引っ越し公演の幕ものが観たいです。特にあまり日本ではやらない演目やそのカンパニーでしか体験できない演目、または、ルグリと輝ける仲間たちのような、オペラ座のダンサーやハンブルク、シュツットガルド辺りのダンサーの公演でしょうか・・・

冠婚葬祭のお返しで貰ったレミパン、私は煮込み料理を沢山つくるのでル・クルーゼばかりで料理するので、レシピブックについていた「自家製スモーク」しか作ったことありませんでした。蓋をしたままでも水が入れられるとか、材料の様子をみたいからそんな機能もあまり必要性を感じないんですよね。

今回、レシピの中で気になっていた「バリピラフ」なる豆入りのピラフをつくってみました。現在月・水は娘の夕飯が弁当、木曜はバレエのレッスンがあるのですが弁当を食べる時間もないので、炊き込みご飯かピラフなどを持たせているためです...要は豆とタマネギと人参があったからという理由なんですけれど。

レシピには米3カップとありますが、私は2カップ+胚芽押し麦1袋でつくります。
胚芽押し麦はリゾットなどで米に加えても美味しいですよ!
発酵バターとオリーブオイルを熱し、米とタマネギのみじん切り(1/4くらい)炒め、人参のみじん切りも炒めます。
別の小鍋に、水2カップと60CCに粉末の野菜ブイヨン(COOPの)を煮立て、白ワインを小さじ2ほど入れます。
生協で売っているひよこ豆、赤インゲン、大豆のミックスで冷凍されている豆をレシピ通り1カップ弱。

あとは一緒に炊くだけです。
豆は米の上にのせる感じで炊かないと、火の通りにムラができて、美味しく仕上がりませんので注意。炊き込みご飯や筍ご飯、きのこ・しめじご飯などでも同じことです。

今回、ズッキーニは入れませんでした。ズッキーニは美味しいけど少し水分がでそうな気もします。

毎日毎日料理をしていますが、最近はあまり作ったものを更新していませんでした。

年末の忙しさからあまり食欲がなかった...というのもあるのですけれども。

レミパンといえば、フランス文学者であるレミさんの父・平野威馬夫さんと家人は知り合いで、よく家に行ったそうです。
レミさんが和田誠と結婚して引越してうんうんという話をよく聞いたとか・・
その後しばらくして、レミさんが突然料理研究家ということで取り上げられたり家人はして驚いたそうです。。



あっさりとしていて、常備のもので出来上がる(豆もとれる)のでまた作りたいと思います。

慶應義塾の安西祐一郎塾長が塾長補選で3選を果たせなかったという記事を以前よみましたが、これは携帯電話関連の企業や団体からの圧力の関係しているのではと思ってしまった私です。
慶應キャンパス新聞などで、安西塾長は「子ども、特に小中学生が携帯メールを使用することによって、基本的なコミュニケーション能力形成にあまりいい影響はない、小中学生は携帯電話使用を禁止するべきだ」という意見を、専門の認知科学、心理学の立場から一貫して提唱してきた。好みや「いいわるい」の意見で終わりがちなこの問題について、人間は、声や表情などによってより相手を理解したり、自分をアピールすることができるのであって、子ども時代の主なコミュニケーションが携帯メールで行われることに懸念を示していた。
私もまったく同感なので、市町村単位で小中学校での携帯の利用禁止の動きが鈍くなり、本当に、適切かどうか検討されなくなることを危惧している。
慶應義塾の塾長は、私学の代表にもなることが多いから、安西塾長が3選できなあったことについては、他の私大や企業社会にも影響がでるのかもしれない。

高齢者層は、消費者ターゲットになりにくいためなのか、消費者ターゲットとして「子ども(小中学生)」を設定しているようなサービスや商品が増えていると思う。
おそらくこれも80年代を堺に、子どもにとって「よい」「わるい」ではなく「売れる」ことが最も重視されてきたことに関連している。

本当に必要かどうかを各家庭で決めて利用している場合はそれほど問題ではない。
しかし、小中学生の時から、1日に数10(もっとだろうか?)のメールを送信し、返信し、すぐに返信しなければ、悪意とうけとられるようなコミュニケーションの在り方が「普通」でいいのだろうか。数年前から、受験勉強やテスト勉強の最中でさえ、メールが気になって仕方がないという人達が増えたように思う。
正直、高校生以上になったら本人の意志の問題もあるし、自制心の問題でもあるだろう。しかしその判断がまだおぼつかない小中学生の場合は?
やはり必要ないのではないか。

費用も、もし月々5000円利用料を払わなければ、その料金でできることはいくつかあるのではないか。大人の場合も、携帯電話がなかった時は、その料金分は何に使っていたのだろうか、今の大学生は旅行にも行かない。車を買わない人が増えたのも、携帯電話に2万円払っているからでは?などと思えてしまうのだが。

実は便利になるために、開発された技術は、時間短縮やいつでもどこでもといったサービスに用いられるのだが、それが効率重視となるのはいいとしても結果的に、「時間的貧困」現象がうまれている。

説得力のある、子どもには携帯電話を所持させるべきではない、という説明を唯一、明確に打ち出していた安西塾長が、そういった背景を理由に補選で落選したのだとすれば非常に残念なことだと思う。
今後も、教育関係でその責務を追う立場でより決定権と影響力ある立場の人がこの問題を、産業化社会に教育が取り込まれすぎない提案や発言をしていって貰いたいと願っている。

ムービープラスでカンヌ映画祭特集をしている模様。ユーロスペースまで観に行かなくてはいけないか、と思っていた「ふたりのベロニカ」を観ました。

ポーランドとフランス、2人のベロニカという女性は象徴的。

1848年革命とその余波でも、革命が成功(一応ではあるが)フランスと、結局独立まで至れず、周辺国との圧力で封じられるポーランド。(第二次世界大戦でもそうである)キシェロフスキの作品にはこうした歴史性のイメージ化された対比が表現されていると思われるシーンが多い。

バスの中から、執拗なまでにポーランドの街中のデモ隊や混乱にシャッターを切るフランスのベロニカ。それを奇妙な「眩暈」のような世界認識的な目線で追うポーランドのベロニカ、彼女は取り残された存在である。デモ隊の混乱の中で、人から荒々しくぶつかられ、楽譜が散乱する。踏みつけられる。それは、彼女が死ぬ間際まで、「舞台の上で」歌っていた、ギリシア正教的な歌ではなかったか。


彼女自身もこの歌を高らかに、透明な高揚の中で歌いながら、生き途絶えてしまう。
以前、「トリコロール」をみた時にも思った、智慧の女神ソフィアを思い起こさせたシーンだった。ベロニカの歌唱は素晴らしい、技巧的なことではなく、自我を突き抜けて音楽や賛美される対象へ向けられた声だ。
彼女の声の異質さに気がついた女性教師は、「変わった声ね」と云うがその通りである。自我がそこには棲んでいない声なのだ。天国から(人間社会を超越した俯瞰的空間という意味での)の声のようだと私は思った。

人形師が操る人形は、天野可淡が作る人形を思わせた。
球体間接人形をつくる人々は、どこかみな、「精神の器」としての「人形」をつくりたがるように思える。つまり、物質で表現しながら、非物質的なもの、精神性を「形」にする。しかもその人形は「動かせる」ので、形もひとつに留まることがない。

どこか、人形劇をみやる人間のほうが、人形的に思えてkる映像だから面白いと同時にこのシーンは、神秘的であるだけでなく恐怖がある。美と恐怖は表裏一体であるし、美と醜さも表裏一体であるような、アレキサンドルの表現世界。
私にはアレキサンドルという名前も、どこか、ギリシア正教的な正統カトリックとは違う文化圏を思わせるのだが。


とにかく、二重対比的な作品である。
ポーランドのデモ隊の大勢の青年や鎮圧部隊に対して、フランスの街中ではサッカーをする少年達。この光景すら、コントラストが強い。

カメラの人称が切り替わる際の奇妙さ。
ベロニカの視線、俯瞰的な視線、私たちは映像を通して観せられる映像が直接語る以上のものをそこから得ている。観ている者が、常にその映像を再構成させながら観てしまう。
それが、この映画やキシェロフスキの映画作品で感じる時間の濃密さの理由のひとつかもしれない。

「トリコロール・青の愛」以上に音楽が効果的な作品。

ウェア・モア(WearMoi)のバレエシューズは、スプリット・ソールのキャンパス地のものを以前何度か購入しましたが、価格も手頃だしなかなか良いです。
レッスン・ウェアはほぼすべてウェア・モアを選んでいます。カラーやデザインが丁度よい、というのかチャコットは少々サイズが大きめ+素材の相性があまりよくないのもあり。
今回ウェア・モアのストレッチ・バレエシューズというのを注文しました。
爪先を伸ばしてと注意されるらしいので(伸ばしていても伸びてないように見えてしまうシューズもあるようです)ぴったりフィットするもので履きやすいならいいかと思ったのです。発表会では、クラスコンサートがあり、バー・レッスンとセンターの本番用にも使えたらよいと思いつつ...

私自身は、チャコットの黒いバレエキャンパス・シューズを部屋履きにしていますが、履きやすいですよ。【チャコットの人気商品】 前皮バレエシューズ 22・0cm〜26・0cm
【チャコットの人気商品】 前皮バレエシューズ 22・0cm〜26・0cm
【メール便可能】スプリットバレエシューズ クロスゴムタイプ(チャコット)
【メール便可能】スプリットバレエシューズ クロスゴムタイプ(チャコット)
ウエアモアWearMoi レオタードAW-29:サティヌ
ウエアモアWearMoi レオタードAW-29:サティヌ


ウェアモアの製品は、名前のとおり、身に着ける人の良さを引き出しながら主張しすぎないデザインだと思います。シンプルさとはこういうものを指すのだなと思うアイテムが多いです。

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パトリック・デュポンの「プティ・パン」は、ミハイル・フォーキンの「ナルシス」、ニジンスキーの「牧神の午後」の系譜にあるバレエながら最も「踊り、跳躍する」バレエである。ニジンスキーの「牧神の午後」の音楽はドビュッシー、そしてモチーフはギリシアの壺絵であり、古代のモチーフであるプロフィール(横向き/横顔)で表現される。そして、跳躍で20世紀初頭のパリを一斉風靡したニジンスキーの作品ながら、跳躍をみせないバレエである。人間とは何か、動物とは何か、神とはなにか、聖性や超越性などを非言語的に表現した作品だが、余程のこの主題に根ざした解釈がなされない限り、主題にたどり着けないという「難解さ」をも孕んでいる。

フォーキンの「ナルシス」は転身物語(メタモルフォーセス)のナルキッソス/ナルシスと牧神存在を重ね合わせた作品である。こちらはどちらかといえば、人間性や無意識、フロイト的深層心理や純粋な精神性の表現、シュルレアリスム的な作品といえるだろう。マラーホフの、「ナルシス」と「ブラボー・マラーホフ」に収録された作品はどちがも素晴らしいが、「ブラボー・マラーホフ」のほうが超自我的な深淵な表現だと私は思っている。

パトリック・デュポンの「プティ・パン」を改めてみていて、人間と動物の境界とは、また野性と神聖の境界とは何か、そういったテーマを全て包んでいる作品であり、ほぼ完璧に踊られていると感じた。超人的な跳躍というだけではない、身体の極地といえるような動き。しかもそれは解釈が難解な動きではなく、誰もが観ても「凄い」と思える身体能力の高さによって観る者は引きつけられる。
しかも、身体能力の高さだけで踊れるものではない。人間、野性(動物性・生命存在の力の根源性)、そして聖なるものの解釈と位置づけ、そういった文学、歴史、心理的表現を咀嚼して体現できたダンサーだけが演じられる演目だと思う。
葡萄を食べる様子、踊る様は、ギリシアで発見された「踊るサテュロス」を思わせる。古代性がなぜ、モダニズムに通じるかといえば、中世と近代は連続しているのに対して、古代は更に古い文明の集束によって築かれた数千年の歴史の先端に位置しているからだと考えられる。


進歩とは、単に時間の経過によって得られるものではなく、影響を与えるもの、それを理解して受容し改良するもの、継承によって得られるのだと思う。

ヌレエフ世代のダンサーたち、カデル・ベラルビ、マニュエル・ルグリ、ローラン・イレール、L.ドラノエら、ギエム、ノエラ・ポントワ、映像は古いが、これらの作品を後の世代が観られるということが遺産なのだと思う。

舞踏や運動競技自体が、元々ギリシアや古代では死者に対する「捧げもの」であったといわれている。つまり、永遠の生の価値や美を、死者にたむけるために行われたものであり、だからこそ、踊る身体、躍動する身体そのものも、非永遠なものなのだ。しかし、観る者はそこに永遠を感じ、普遍の美を感じるのだろう。
だから、素晴らしいバレエは、動きそのものや身体の物質としての運動を超えたものとして現象する。
抽象的な話になってしまうが、ヌレエフ世代のダンサーたちが引退をする中、あらためて濃密な舞踏史にのこるバレエをみた思いだった。

ベラルビは「シーニュ」でパリ・オペラ座を引退した。
「シーニュ」をみると、ベラルビが表現できる静的で言語を超えた表現としてのバレエを一貫してみることができるようにも思う。

日本でも、舞踏や絵画芸術、音楽といった芸術全般を現象学的に観ることがもっと必要だと感じている。
科学主義に偏った分析や解釈、説明では語れないものがあるのが芸術だからである。
つまり、物質に還元できないものがあるのだから。


このゴールデンウィークは、パリ・オペラ座学校公演のレッスン見学と公演をみたばかりのためか、感慨深くDVDを観た。

パリ・オペラ座☆輝けるエトワールたち [DVD]
出演:パリ・オペラ座バレエ団
販売元:アイ・ヴィ・シー
発売日:2006-09-22
おすすめ度:3.0
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ナルシス~マラーホフの肖像 [DVD]ナルシス~マラーホフの肖像 [DVD]
販売元:ジェネオン エンタテインメント
発売日:2009-03-25
おすすめ度:4.0
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Signes [DVD] [Import]Signes [DVD] [Import]
販売元:BelAir Classiques
発売日:2007-01-01
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エトワール デラックス版 [DVD]エトワール デラックス版 [DVD]
出演:ローラン・イレール
販売元:パイオニアLDC
発売日:2002-12-21
おすすめ度:4.5
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ブログネタ
好きな植物は何ですか? に参加中!
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「好きな植物はなんですか」というテーマでしたので記事を投稿してみます。写真はイングリッシュローズのL.D.ブレスウェイト。後ろに見えるのはバラクライングリッシュガーデン(蓼科)で気に入って購入した彫像。
今は育てているオールドローズが日々開花していますが、それが落ち着くと紫陽花の季節ですね。アナベル・ハイドランジアという白い紫陽花が好きです。

それから青いデルフィニウム。ジキタリス。
赤のゼラニウム。

実家からもらってきて移植したゆきのした、すみれ、たつなみ草も。
砥草も移植しました。
以前マンダリンホテル東京でお茶を飲んだとき、大胆にモダンに活けられた砥草が印象的でした。アプローチの仕方で、植物の趣も変化しますね。

オリーブの木も庭に1本、室内に1本あります。
檸檬の木もいいですね、以前記事にも書きましたがギリシア神殿はもともとは樹木そのものを神聖視していて、オリーブのアテナ、月桂樹のアポロンなどその名残はいまも残っています。日本も樹木を神聖視する文化が深層にありますし、ドイツロマン主義などの絵画をみても、世界樹思想をみてもその名残があるように思います。

ピックアップテーマには東京には自然がないと書かれてましたが、それは「観ようとしないから」ではないでしょうか。自然は実はとてもミクロなものなのではないでしょうか。東京育ちの方ほど、自然の価値を理解している方が多いと感じますし、「都市」と「田園」「自然」は共に重視されるべきだと思うのはないでしょうか。

土を残して植物を植えて薬剤を撒かないでいると野鳥、蜂や蝶(実はかえるやトカゲも)沢山の生き物がやってきますし、それだけで「小さな生態系」が生まれてくるように思います。
見えないところに生命が沢山あるのだと実感する季節です。

写真はGW中に咲いたL.D.ブレスウェイト。2年目になる赤いイングリッシュローズです。

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ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ(イタリアのオールドローズ)が咲いたので、スーヴニル・ド・ラ・マルメゾンと、アイビーを活けてみました。花瓶は...実はIKEAで249円で買ってきたシンプルなガラスのもの。咲きたてのばらは綺麗なのでシンプルな花瓶のほうが引き立つような、クラシックローズもモダンになるようでちょっと新鮮だったので写真を。
二つともとても良い香りがします。

明日からまた日常...ということでリハビリ的に夕方からは在宅仕事を。
日常のこまごまとしたことをしている間は時間はゆっくりなのですが、パソコンをつけてしまうと時間が過ぎるのが早いように思えます。
やはり実際に手を動かしたり歩いたり、そういうことが大切なように思った今年の連休でした。最後の日は外を歩けなくて残念。歩いているほうが頭も働く気がしますね...

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連休中は毎日ばらが咲いています。写真はレディ・ヒンダリン(ヒリンドン)と英国製オーナメント「アネモネの少女」。
連休の初日にLDブレスウェイト(赤い大輪のイングリッシュローズ)とティージング・ジョージアが、今朝はオールド・ローズのヴァリエガータ・ディ・ボローニャが咲きました。私が育てているばらで一番すきなイタリアの18世紀のばらです。

前後してピエール・ド・ロンサールも咲きました。
今年は(といいますか大抵の5月の連休は)外出しないので草取りや水やり、咲いたばらを花瓶に活けたり、家の大掃除(冬は寒さが苦手+仕事も忙しい時期なので実は大掃除できません...)拭き掃除やワックス掛けをしています。
近所の神社の藤まつりに徒歩でいって、実家のいぬたちを毎朝散歩につれていったり、料理はブイヤベースやコールスローサラダをつくったり、お昼は春キャベツといかの塩やきそばをつくったり......とりとめがなさすぎるのでこれくらいでやめますが、とにかく時間に追われない日常とはよいものです。


図書館でティオフル・ゴーティエの舞踏評論や作品集を借りてきました。

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イングリッシュローズも咲き始めました。
写真は、エイブラハムダービーとクラシックローズのスーヴニル・ド・ラ・マルメゾン(マルメゾンの庭の思い出)アプリコット色のエイブラハムダービーは、蕾から咲き始めるときがもっとも色あいが美しいです。香りもフルーツ香でとても良いばらです。

蕾のうちに活けたら朝になって咲いていました。
クラシックローズは、一輪一輪表情が違って、このスーヴニル〜はきれいなクォーター・ロゼット(中心が4分割されているロゼット咲き)になっています!



相変わらず早朝目が醒めてしまって睡眠不足気味です。
川沿いまで歩きにいっていますが、あまり寝ていないと夕方から体力が辛いです。
5月の連休を6月に1-2日移動してほしくなります、丁度6月頃が雨や気温も下がりしかも忙しかったりするので..電車内の冷房もこういう体調だとつらいものがあります。

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東京バレエ団45周年記念ガラ公演4/19に観に行きました。
日時が経過してしまったのですが感想を..「エチュード」はカール・ツェルニーらの音楽を用いて、バーレッスンからセンターレッスン、最後は高度な回転や跳躍を組み合わせたバレエのテクニックをみせるもので、マリインスキー・バレエの前回公演でも踊られた。今回もサラファーノフが客演とあって観に行ったのですが、フリーデマン・フォーゲルの跳躍やテクニックに垣間見える表現の豊かさが目をひいた。
この方は写真でみるよりも実際の踊りや、動いているときのほうが数段良く見えるというダンサーですね!私見ですみませんが、エルヴェ・モローなどもそうだと思います....

ノイマイヤーの「月に寄せる七つの俳句」
これも私見ですみませんが、「俳句」と「バッハ」は単純に合わないのではなかと思ってしまいました、しかし「月」や「日本的情緒としての詩性」のノイマイヤーの解釈は間違ってはいないし、実際静的な動きでそれらを表現する東京バレエの女性ダンサー(コールド)も良かったと思います。ただ、振付と音楽は合っているのに、主題とは乖離してしまっているようにみえる。
おそらく、芭蕉などの「俳句」を英語訳で解釈してノイマイヤーは振り付けているのだろうが、俳句や和歌は、文字化された意味以上に、背景の音楽や色彩、秘められた感情を詠むものであって、意味解釈した振付では主題をとらえきれないのではないだろうか。誰かアドバイスをすればよいのに....
単純に「和」と「バッハ」を足したら、それ以上の表現やモダニズムに至るということはないように私には思われる。
それに、朗読風のナレーションは、非言語表現であるバレエにはやはりそぐわない。
踊り自体が、言語を超えていなければ、バレエは芸術ではありえず、ショーになってしまうのではないだろうか、何よりもナレーションが不要だと思った。
そして、少々構成的にも長すぎるように思った。

ソロを踊った長瀬さんは良かったと思う(少々痩せたようにみえて、始め誰か解らなかったくらいでした)見ごたえがあった。

タムタムの木村さんは良かった、でもどちらかというとベジャール作品のときのほうがしなやかで伸びがある踊りのように思えた。
パ・ド・ドゥの宮本祐宣さん(先生)と渡辺真理さんも良かったと思う。
同じような演目で、オペラ座のベラルビやドラノエが出ている「ブーブー」という演目があるが、バレエの可能性としての地中海世界の南側、アフリカ的原始性、舞踏の野性的+人間性の両立を描いた作品として面白い。
だからそれだけに、女性コールドはもっと、自己遠心的(エゴを排除したような)な表現が踊りに欲しいと思った。
そういう部分は、「習って」習得できるものではないのだろう。
踊りがもつ本質、音楽性の表現、「素晴らしい」と思えるバレエや身体表現は技術だけで成り立っているのではない。
それと同時に、技術の高さによってのみ、本質表現ができるのではないのかと思うこともある。
ダンサーや舞台公演から受ける「影響」が、遺伝子のように受け継がれていく伝統や技術の基盤なのかもしれない。

もう1演目、短い作品でもいいがあるともっと良かった公演だと思う。

ところで、のえるさんのblog(Art and The City)で知ったのですが東京バレエの中島周さんは3月で退団されたときいて驚きました。非常に残念です、「ギリシアの踊り」は見事でしたから、やはり観られないのかと思うと残念です。

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4/29のパリ・オペラ座学校公演、クラスレッスン見学について、続いては公演について。本当に素晴らしい公演でした。

ノイマイヤーの「ヨンダーリング」はローザンヌのコンテンポラリー課題でもありますが、今回オペラ座の第6学年の生徒たちの公演をみて、初めてこの振付の意匠が「解った」気がした。
ノイマイヤーがベジャールと異なるのはあくまでも「主体」としての人間、人間中心的近代観が揺らがない境地からの、ドラマ性や精神性であって、神話やギリシア的時間感覚、地中海的な反規律性にはむかわないのだが、しかし人の内面性をドラマとして描くのは優れているし、「生き続ける運命の人間像」にはどこまでも迫っていくものがある。

この場合、「死すべき運命の人間達」という近代以前の主題とはそもそもテーマとフィールドが違うことが重要。

「ヨンダーリング」は本当に素晴らしかった。
まだ若い国だったアメリカと成長段階にあり優れた素質をもって努力しつづけている生徒達がじつによく重なる。
「ヨンダーリング」が極めて白人的なテーマと踊り手を必要とするあざとい部分も実に忠実だった。
映画オクラホマ的なスピリッツがモダンな切り口となっていて、内面性に裏付けられる丁寧な表現、高い身体能力。
ほんとうに、この演目は、極めて少数の能力の高い生徒達(ダンサー)でなければ、踊ることができないし、現象させることも不可能だと思う。

つまり動きやパだけをトレースしても、また独自的な解釈を加えすぎても「ヨンダーリング」というバレエにはならない。ノイマイヤーの振付の「意図」を理解した上で、踊りそのものは、その人の、世界の中で唯一の「自己」を表さなければならない。それが重なったとき、ノイマイヤーの作品がはじめて生まれ、呼吸し始め、他のどのようなジャンルの芸術がなしえない「芸術」となる極めてレベルの高いものだということだ。それがオペラ座学校の生徒たちを通じて見事に表現されていた公演だった。

ノイマイヤー自身も、この演目は「プロには踊らせない」と云っている通りだと思う。

「スカラムーシュ」は思っていたよりもずっと面白い作品だった
と同時に、この作品を等身大の子供達に作り上げたジョゼ・マルティネスは凄いと思った。実はあまりジョゼ・マルティネスは凄いと思ったことはなかったのだが、22分でこれだけのものを魅せてくれるのは凄い。
そして「スカラムーシュ」の存在が素晴らしい。
ジョゼ・マルティネスのことばを引用しておきたいと思う。

「このバレエの中で、スカラムーシュは、そのスペインの起源に忠実に、夢の世界への一種の”渡し守”、子どもたちに演劇とダンスを教える妖精となっています」

こうした外部的存在をさりげなく添えている部分がまた素晴らしい。
その役や年長組の最も素晴らしいダンサーが優しさをコミカルな部分をもって演じ、彼自身もまた学校で学び、学校を去る生徒であって、年少の10歳や13歳の子どもたちの「渡し守」となっている。フィナーレ近くで、リズミカルな音楽とともに子供達が踊りながら、華やかな金色のクラッカーが舞台に打ち上げられるのをみて、いいようのない感銘をうけてしまった。この場面はちょっと言葉ではいいつくせないものがある。

決して難しいテクニックはみせていない、しかし引き込まれてしまう。
スモークがたかれた舞台奥とドンナ役の生徒が見せる一つ一つのポーズ、ひたむきな透明といえるほどの表情。
バレエとは、メソッドではなく、やはり韻文詩のもつ豊かさのようなもので、見えない部分で「魅せてしまう」ところがある。
フランスは、いつの世の中も、文学、哲学、絵画、言語、舞踏は極めて接近している文化をつくりだしているのだが、年少組の演目をみてもそれがよくわかる。

スカラムーシュ役を踊った年長組の生徒エティエンヌ・フェレールがヨンダーリングも踊ったのが彼は本当に素晴らしいダンサーだと思う。

クラスレッスンはバーレッスンとセンター、合わせて1時間半、午後の公演は3時から5時半までと1日中オペラ座学校の生徒たちをみていたことになるのだけれど、本当に素晴らしい1日だった。

オペラ座学校は、バレエ学校でありながら、バカロレアも必ず合格させる。おそらく、現在の水準だったら学問的にも修士2年くらいの内容をマスターさせている+舞踏+音楽性...世界にこんな学校があること自体が奇蹟的なのだが、その基盤は教師たちのパトスと努力、教育理念とひたすらの実践、伝統の継承とはそういう地道なものなのだと思った。


年長組の生徒で目に付いた人
エティエンヌ・フェレール、
ピエール・アルチュール=ラヴォー

年少組で目に付いた人
ウジェニー・ドリオン
パブロ・レガザ

バーレッスンのとき上手いな、感じがいいなと思っていた生徒が5人くらいいるのですが、名前と一致させられていません。

久し振りにエリザベット・プラテルを観られて、やはりプラテルファンとして感激でした。 昨年のエトワール・ガラ、その前のルグリと輝ける仲間たち公演、オペラ座の「ル・パルク」などをみた後と同様の余韻が残っている。
色々な感慨をもって、東京文化会館を後にした。
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「白鳥の湖」はアニエス・ルテステュ、ジョゼ・マルティネスが、「ラ・バヤデール」はローラン・イレール、イザベル・ゲラン、エリザベット・プラテルが、ドキュメンタリー映画「エトワール」ではパリ・オペラ座学校(クロード・ベッシー校長時代)の様子も観られます。