1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

November 2008

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東京文化会館・シュトットガルド・ガルドバレエの「オネーギン」を見ました。
オペラ「エフゲニー・オネーギン」をジョン・クランコがバレエ化したものですが帝政ロシア末期的な優美な哀愁が華やかな舞踏会や田園風景にも漂う。
モダン、クラシックというジャンルカテゴリーが無意味なように思えてしまう、モダンの身体能力の限界と記号的表現、クラシックのパの美しさと心情の表現のよい部分が融合しているから・・・モダン的な振付部分もよくありがちな「人体の機械論」の方法ではなく、あくまで人間性としての表現を追求しているように思われてならない。ジョン・クランコの「オネーギン」は単なるオペラの「ドラマ・バレエ化」ではなく、「再生され創造されたオネーギン」だと思う。
作品を構成するエッセンスを慎重に取り出し、もっとも効果的かつ実験も加えて舞台化したのだろうと思われる。

1幕のタチヤーナ。読書好きで内気な彼女の様子、籐椅子に腰掛けて舞台遠方で佇む姿は絵画的である。オリガとレンスキーのパ・ド・ドゥも素晴らしく、コールドも形が美しい。揃っている揃っていないというコールドの評し方はすきではないのだが、舞台全体で表現されている田園の邸宅でのひととき、それがコール・ド・バレエによって絵画で欠かせない背景のように時代性をも体現していた。作品自体、舞台自体の完成度を上げるのはやはりこのような部分であると感激ひとしお・・・

幻影・妄想の中に現れるオネーギンとのパ・ド・ドゥ。緩急のある、優美かつ息をのむ身体での表現・・・「ル・パルク」での夢の中のパもそうだが、この場面は本当に素晴らしい・・・まったく目が離せない。その後、パーティでのオネーギンに対して踊るタチヤーナのソロも含めて本当に素晴らしかった。踊りとはテクニックや美しさではなくパトスで昇華され固有のものになる、マリア・アイシュヴァルトのタチヤーナは理性的かつ感性の深さ、自分に忠実さゆえにパッションを捧げる悟性の少女を見事に体現していた。このような舞台をみられること自体素晴らしいことだと思った。

3幕の舞踏会の重厚さ、拒絶のパ・ド・ドゥは1幕とのコントラストを感じる色彩の違い、音楽の違い、何もかも対照的で、舞台は変遷を、しかも抗いようのない変遷を表現している。その中で最後に踊られる、タチヤーナとオネーギンのパ・ド・ドゥ。
変わらないものも確かにある・・・しかしそれも拒絶に抗える筈もない。
拒絶される手紙は観客の解釈コードとして共有されている。
ここの言語を介さずしてドラマが鮮やかに浮かび上がるのが奇蹟のように思える。

ジョン・クランコが、ドラマと人間の心性と身体表現、音楽と舞踏、記号と言語というもので「オネーギン」を創りだし、それを理解して踊り表現できるというシュトゥットガルドバレエというカンパニーだからこそ可能なした舞台だと感じた。
本当に素晴らしいバレエを見たときは何もいえない気持ちになるのだが、この「オネーギン」もそのような作品・舞台だった。
配役についても後ほど、記述しておきたいと思う。









『エリザベス』は放映されたもので観たのですが、『ゴールデンエイジ』は舞浜シネマイクスピアリまで観に行きました。DVDの発売も決まったようです。
フェリペ二世の肖像画を以前行って買った『プラド美術館展』のカタログをひっぱりだして観てましたがとても似ていますね。
公人の部分の歴史と個人的なドラマ(受容と責任)とプロテスタント・カトリックの対立、常に突きつけられる選択と岐路の図式が個人的には興味深い映画だと思っています。
二作目ですが、単独として観られる部分のほうが強いかもしれません。
今回は、衣装や建築物のシーンが素晴らしい。聖堂内の映像などは空間を感じられる撮り方がされている。
イングランド、スコットランド、スペインと3国の差異が言語、衣装、建造物、風景を通して見ることができます。スペイン勢が格好いいんですね。
それからイザベラが絵のまんまです!だからこその風格が出ています。

予告ではさほど触れられてませんが、女王と侍女、ウォルター卿の関係性はなかなか複雑なものがあります。王政での主従愛というのは極めて個人的な部分に寄っている部分が強い場合が多い。ベスにも友愛を超えた部分で裏切られた部分がエリザベスの空虚さに繋がっているというのか。
実際のところ、ベスの行為は現代的部分が強すぎるような気もします。エゴを超えた忠誠心などは必要とされないのでしょうか。捧げるという部分はないのでしょうか。 無私の愛・無償の忠誠がエゴという人もいるけど、本能的に生まれる部分があると思う。前近代的な主従関係というものは深い繋がりによって支えられている。
 
ゴールデンエイジは、ケイト・ブランシェット一人見ているだけでも満足です。映画の舞台装置と時代に完璧にはまっている存在感。
前作のイギリス国教を定めるときにどう発言しよう?と苦悩してるエリザベスのシーンがよかったのですが、そんな彼女の公人としての内面性と葛藤を描いたシーンは今回は割愛された部分なのでしょうか。
私人としてのエリザベスが全面にでていた気もします。
台詞も醍醐味です。字幕みてるとはいえ、殆どは聞き取れる・・・イギリス英語は発語が綺麗だし、よいですね・・・オーストラリアの映画学校出身の方はシェイクスピア演劇を学んでくる分、アメリカ人俳優・女優より歴史ものにも向いているのだと思う部分が。


カトリック vs プロテスタント という世界図式でしたが・・アメリカの国民感情としてイギリスとの溝を埋めたい意図があるのかもしれません。元々は同じと云いたいのかな、と隠されたメッセイジ性にも目がいってしまう。アメリカン・ソフトパワーというのは、無意識の支配。 
高度に作られた娯楽によって支配されていると自覚しないまま、国家理念と体制を受け入れるように出来ているのです。以前TVでハリウッド映画は人類の財産ですよ等と安楽な発言をしてる議員がいたがわかっていっているならともかく? 
 
それから神の意志で敗北したのだと涙を浮かべるフェリペ二世が実は印象に残っています。王権神授説=神の寵愛(君主)だから、敗北が「見放されたから」という理由づけをする王の絶望感は言葉にできないものなんだろうな、とその想像しづらい部分がよく出ていたと思う。
しかしなんといってもケイト・ブランシェットに尽きます。

『ブーリン家の姉妹』もbunnkamuraなどで公開されますが、世界史の細部に沿ったご都合主義でない映画作品がもっと作られるとよいと感じます。
歴史考証と人間心理の普遍性が描かれているものはぜひ劇場でみたいと思う作品です


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エリザベス : ゴールデン・エイジ [DVD]
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『ブーリン家の姉妹』を観てきました。スカーレット・ヨハンソンとナタリー・ポートマンがブーリン家の姉妹を演じ、エリック・パナがヘンリー8世を演じています。
アン・ブーリンの妹、メアリーは今まで辞書にも出てこなかった女性。The Otherという言葉が被せられていて意味深い。ストーリーはまだ王女に王位継承権が復権されていない時期で、王権を巡る確執や策謀から姉妹が対立していってしまい最後には・・・と「1000日のアン」を格に正統な描き方をされている良作。
衣装や髪型が時代設定を盛り上げています、当時ヨーロッパで流行していたスペイン・カタルーニア発祥のドレスと刺繍の装飾。キャサリン女王が詩か歌か刺繍が出来て?とメアリーに問いかける台詞とも繋がりますが、キャサリンはスペイン黒糸刺繍の名人だったとか。当時の教養ある女性はラテン語の読み書きや詩を書けるということでしたが、さりげなくそういった美貌だけでは足りないという価値観が反映されてています。同様に、この時代は君主も武力が強いだけでは十分とはいえず教養や文化を持っていることが重要でした。ヘンリー8世は多言語に通じていたという。
『エリザベス』の冒頭と丁度リンクする作品です。処刑されるアン・ブーリンの娘がエリザベス一世になり、・・・ブーリン家の姉妹の冒頭のシーン、草原と子供達が遊ぶまだ何も知らないゆえの満ち足りた時・・そういった原風景に繋がります。
ブーリン姉妹の母と、ヘンリー8世の妻キャサリンが大変存在感が大きかった。

ところで、既婚女性の頭飾りがとても美しかった。実は結婚時のヴェールを被るという慣習は、イスラーム世界で結婚時にヴェールをつけるようになったのが起源です。おそらく、中世のイベリア半島経由でヨーロッパにも伝わった習慣なのでしょう。
(イスラームではムハンマド生前時は女性の地位は高かったが、死後ムハンマド言行録ハディースが編纂され、継承者争いの過程で女性蔑視的な思想が入ってしまった、と言われています。恐らく権力の後継から女性を排除したかったのでしょう、何故ならムハンマドの最初の年長の妻は資産家かつ実業家で初期のムハンマドの活動を支えた有能な人だったからでしょう。)

それからノーフォーク公の存在も忘れてはなりません・・・エリザベスでも存在感が大きいこのデュークがブーリン家でも常に策を巡らせます。しかし3大続いて反逆罪で処刑されているのだが、いまだに公は健在なのだという。
英国がカトリックとプロテスタントを選択する過程は大変興味深い。
ブーリン家の姉妹でもその点がさりげなく織り込まれていた。

スカーレット・ヨハンソン扮するメアリーが、城を去っていくときの衣装(紅色基調の)と姉妹が着ていた揃いのシノワっぽい衣装が素敵だった。衣装は、『恋におちたシェイクスピア』を担当した方とのこと。俳優ではヘンリー・パーシー役のオリヴァー・コールマンとスタフォード役のエディ・レッドメインが良かった。エディ・レッドメインはエリザベス・ゴールデンエイジにも出ていたようです。
それからアンやメアリー、キャサリン王妃がつけていたアクセサリーはAgatが作っていたものなんでしょうか、バロック真珠や大きな十字架などとてもデザインが美しかった。

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The Other Boleyn Girl
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翻訳もでているようですが、イクスピアリの丸善に寄った時に洋書原作があったので購入していまいました。

余り問題にしている記事を見かけないので、書きますが大阪府知事橋下氏の「私学助成金カット」とそれにまつわる県民との対話には見逃せない問題がある。

まず、例えば埼玉県の例から公立高校と私立高校について述べると、高校進学者の全体の6割を受け容れるのが県立で、残りは県内私立と都・近県の私立ということになっている。これは予め決められている配分であり、キャパが設定されているということ。そのような状況から私学へ進学する人に対して、県内私立の場合には県から補助がでる。進学する際に予めその事は説明されるし、公の領域で設定された制度であり、教育行政そのもののシステムである。

大阪府が突然この補助を止めると言いだしたが、その際の橋下氏が口にした「貴方が選んだ」「自己責任の時代」などという発言は極めて現状を理解していない無責任な発言である。補助の制度を前提にして入学しているのだから、せめて現在在校している人達が卒業するまでは約束を守るべきではないだろうか?

日本の公的教育行政は先進国の中でも特に劣っていると言われているが、こうした制度を突然決定したあげくその説明不足の中で「自己責任」はないだろう。

公的機関こそが、無責任というか責任者の匿名性によって責任を果たしていないのではないか?

また自己責任、公的な機関を頼らず問題を自己解決しようとするというのは、確かに1980年以降表れてくる個人の特性だが、それを全ての人に求める行政というのは「公」の本質に外れるものがないか?行政機関が、個人主義の極地に対して無意識でいられること、公的権力によって権利を停止するというのはいかがなものか?

こうした問題に対して、新聞メディアやインターネットニュース(これも匿名性の暴力性を持っているが)がつけた記事の見出しは「橋下が女子高生を泣かした」などという非常に破廉恥かつ、出来事の問題のはぐらかしであった。

違和感と現状認識に対する甘さを感じるのは私だけだろうか?
自らも同様の困難を味合わなければ、何も認識できないという人が増えているように思う。こうした問題について、「自分には関係がないから」とそれこそ「女子高生を泣かした知事」的な関心しか抱けない人が多数を占めているのだろうか?

田中義久先生が指摘する「5メートル以内の出来事にしか関心を持てない人々」が増えている。そして、地方自治体の長も公共性を理解しているとは言い難いと思われてならない。

ルーブルで「アンドレア・マンテーニャ展」が9月ー1月まで開催されている。
可能だったら是非みたい展示。ですが行けないので記録だけでも書いておきたい。

初期ルネサンスの画家、人文主義者。技巧的画家・・・
マンテーニャの作品はしかし、大戦中、連合軍の爆撃によって破壊された。
それ以前に撮影された写真によってしか見られない作品もある。
破壊された壁画は現在もマントヴァで修復されているという。
例えば科学主義の延長上で語られることが多いレオナルドや、聖母子としてよりも女性美絵画として賞賛されているラファエッロはともかく、ミケランジェロやマンテーニャなどは今後もあまり日本では大きく取り上げられないだろう・・

マンテーニャが見たゲルダ湖の風景と古代遺跡。
北イタリアのレモンやオレンジの木々。古代レリーフの復元と再構成を絵画で行い、トロンプルイユの原型のような室内装飾とその技術。
是非見たかった。一部でも日本で紹介されればもの凄く嬉しいのだが・・・
鑑賞する絵画だけではなく、解読する絵画の楽しみを重視した企画や巡回展が来ることを期待したい・・・

ところで、ルーブルへ行くときは、自分で見たい絵画を5作品決めていくとよいと館長が奨めていたが私もそう思う。

私が見たいのは、クロード・ロラン、ウスタッシュ・シュウルール、シャルル・ルブラン、ニコラ・プッサン。そしてフォンテーヌ・ブロー派です。

「記憶の中の古代」を読んでいてはっとさせられたのは、ローマでの都市復興について・・・のページで、キュベレイ神がやがて聖母信仰に収斂されていくということです。実際、ローマではキュベレイ神殿があった場所に建てられた教会が聖母マリアを奉った教会。それ以降はキュベレー崇拝は地下に潜った、つまり隠蔽されることになる。しかし、それは終わりでなく、再生なという意味ともいえる。
カトリック→プロテスタントという流れの中で、例えば映画でも扱われた「エリザベス」や「アン・ブーリン」の流れの中でカトリックと決別するということはどう捉えられるだろうか?
「いつからこの国では野心が美徳のように語られるようになったのか」というアンの母親の台詞が代弁する言葉は「ブーリン家の姉妹」でのもう一つの主題でもあったように思う。
「私の良心に従う」ということは主観主義であって、それ以前に風土歴史、人間精神活動の中で長い間に形成されて(変化しながら)いたものが「人間の独我論」的に切り捨てられたのではないだろうか?
その良心についての判断は、絶対化されれば問われることはない。・・・・
現代ではそれすらも一度吟味する段階に来ているように思う。

キリスト教自体、それ以前に信仰や支持をあつめた多神教の伝統や慣習をある程度引き継いだ部分があり、例えば、最初多くの預言者の1人としての存在だったイエスに、多神教時代の病気直しの神の性質と信仰が刻印されていく。当時、ユダヤ教では、病人や貧者を初めとする社会的弱者は罪人という名目で社会から疎外されていた。その人々を受け容れ癒す役割が信仰として他地域に圧倒的に受け容れられたキリスト教が広まった理由でもある。例えば、イタリアでは北方風習とは異なり、プレゼントを配るのは老婆であるという慣習があり、いまでもそのような人物像がサンタクロースの役割を果たしているが、これも多神教時代の流れだろう。
おそらく北方は北方の慣習を聖人と結びつけているのだろうと思う。南では老女であり、北方は老人なのが興味深い点でもある・・・(ギリシアにも女性神信仰を持っていた民族と北から入ってきた天上信仰かつ父系神信仰をもつ民族がいて、最終的には父系神が武力で文化制圧をするのだが・・・・)
(つまりそのような個人救済の内容を持つ宗教があった地域にはおそらくキリスト教は根付いていない。仏教はやはり情けに対する一面があったからである。実際熊野巡礼などとキリスト教巡礼には類似する部分がある。神道だけだったらキリスト教が広まっていたかもしれない)

話がずれたが、聖母子像の原型は子を抱くエジプトのイシスの像が原型である。

考古学だけでなく、こうした形式の継承から文化の繋がりを観るのも興味深い。
というよりもそのように文化が接触する部分に様々なヒントがある。

英国でラファエル前派の流れや、フランス象徴主義、または20世紀のバタイユ、ベケット、ブランショからロラン・バルトに至る流れのように、切り捨てられたもの、隠蔽されたものに対する問い直しがあるように思う。
物質主義に対して、「再現不可能なもの」を表現しようする象徴主義は各地に広まっていった。
また産業革命に対するモリスは中世ゴシックの伝統と自然の色彩を引き継ぎながらも機能的美も追究し、「モダンデザインの祖」とも言われる。
つまり伝統や価値を継承しながら新たな価値や創造が生まれ、それは伝統との繋がりの中で創られていく。それが”新しさ”であり”古くならない・廃れない”というものなのだと思う。

21世紀は果たしてどうなのだろうか、2010年代からその動きが出てくるのだろうか。
それとも、もう産業封建制のような現代ではその流れも無いのだろうか。
政治や宗教、ソーシャルな視点というものもタブーのように扱われる日本で、どのように問うことができるのだろうか。
フランスでさえ、カミュー以降、「なぜもう問われないのか」と言われている問題だが・・・・素朴な疑問ながら、広域かつ年代が多層なのでふと気がつくと問いがうかんだり、書庫へ行ってみたり。仕事や日常の合間でそんなことを思う時間が増えている。

中沢新一の問いと答えの材料には気がつかされることが多いが、改めて「東方的」つまりビザンツの流れが気になっている。

より具体的な問いと可能性と限界については、高山博先生の「知とグローバル化」(勁草)「ヨーロッパとイスラーム世界」(山川)「神秘の中世王国」(東大出版)「中世シチリア王国」(講談社)が大変魅力である。

19世紀以降、階級というカテゴリーが崩壊した後に国家という概念が大きくなったが、それは他者排除ということと結びついていないだろうか。・・・・


舞台と文学・批評との関わりでは・アンジュラン・プレルジョカージュの作品については何度か感想含め書いてきたが、ふと先日アントナン・アルトーについて改めて読んでいるなかで、プレルジョカージュの手法と主題はアルトーを継承している部分があるのでは?と思った。この事については改めて書きたいと思う。

UK-Japan 2008 WEB 記事掲載


記憶の中の古代―ルネサンス美術にみられる古代の受容
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58a39531.jpg先日記事にも書いたローラ・アシュレイのクリスマス・チャリティ商品。
ブックカバーを購入しました。文庫サイズに加えて、新書サイズもあり嬉しい限り。新書サイズのブックカバーは余り見かけないですし、良いものもないので嬉しい。
普段小説よりも新書を読むことが多いし、しかも手帳やブックカバーなどはやはり気に入ったデザインのものが欲しいですから。
実際に手に取ると、麻を使ったファブリックでとても質感もよく、リボンの栞もついていて、堅くずれなく仕えるしっかりとしたものでした。
本の中身は小川英雄先生の『ローマ帝国の神々』(中公新書)です。
(余談ですがBBCのROMEを見て文化に興味を持った方は小川先生の本がお薦めです。オリエント、エジプトからローマへの流れが解ります)

ローラの新しいフレームも一緒に購入して玄関に飾りました。

クリスマス・チャリティ商品にはUK-JAPAN2008のタグがついているのが目印です。
ティッシュ・ケース入りポーチも使いやすそうでした。
私はナショナル・トラストの赤いペンケースを使っているのですが、チャリティ商品でペンケースがあれば嬉しいです。デザインと素材がよいチャリティ商品は贈り物にもしたいですし毎年やっていただきたい企画です。






5
11/12に限定盤で発売された英国ロイヤルオペラ(コヴェント・ガーデン)の『ラ・トラヴィアータ』をみて満ち足りた舞台だった。映像でここまで入りこめるオペラも稀だと思う。というのも、この作品はかのヴィスコンティ演出以来27年ぶりの新演出で、舞台設定も原作どおり1840年代のパリになっている。

ヴェルディは原作がデュマの自叙伝的作品なためあたりまえのように「同時代」の物語として作曲・設定したのだが当時はその同時代的オペラが流行らず、1700年代になってしまった。このロイヤルオペラは19世紀中期のパリの裏社交界の雰囲気が舞台美術や衣装にもよく現れており、なによりヴィオレッタ(原作ではマルグリット)役のゲオルギゥーが実にぴったりと役にはまっているのです。見た目もそうですが、アンジェラ・ゲオルギウーが「花から花へ」と歌い、自身の内面の葛藤を歌うところから、アルフレードの父と問答を行い、「私は死にます」と押さえていた感情が極まるところなど迫真の表現である・・・

3幕の謝肉祭の喧騒と犠牲への悲哀と歓喜・・この都市と群衆の楽観的残酷さがヴィオレッタにも悲劇に映るような演出など些細な照明の変化や工夫、コントラストの利いた舞台装置も素晴らしい・・・

つくづく、ヴェルディの音楽性と表現というものにアンジェラ・ゲオルギウーは合っていると感じる。コアなエッセンス、繊細さと大胆さ、聖性とドラマチックな部分がとても合っていると思う。アルフレードの「乾杯の歌」も抑制が利いていて原作の性格を取り入れていてとても感じがいい。

お薦めのDVDだし、これを機にオペラを見てみようという人にもお薦めできる。
なによりこの限定盤では名盤が3000円しないのだから...
ショルティの指揮による音楽もテンポが活気ある19世紀のパリにあっている。
ヴェルディの音楽を堪能できる舞台ライブだと思う。

ヴェルディ:歌劇《椿姫》



ヨーロッパの都市は人口10万人を超えると大抵オペラ・ハウスを持っている。
そしてシーズン中、毎日公演している(オペラかバレエをやっている)オペラハウスは、英国ロイヤル・オペラ、メトロポリタン、チューリッヒ、ベルリン、バイエルン、なのだそう。
つまり劇場は町の”顔”なのである。日本は1998年に新国立劇場ができたが、専属オケはまだない。劇場は単なる娯楽空間ではないし、それ以上に「場」なのだと思う。観客である人々が何かを「共有」できる場所、そうした空間が何よりも重要なのだと思う。ハコを新しくすればいいというわけでなないし、例えばイタリアには2万人が入る古代時代に建てられた野外劇場があり、しかもそこの音響はすばらしいのだという。時代を超えて「共有」できるものが重要なのだと思う。日本は新しさのために、作り直すことを第一にするが、それでは共有できるものが衰退していくといえないだろうか。コヴェント・ガーデンでのカーテンコール時の拍手や喝采を見ていて、また自分がいままで行った素晴らしい舞台での経験を思い出すと、そんなことを感じる。

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9月23日、熊野ー那智に行ってきました。
写真データを取り出せなくてなかなか記事にできませんでしが、先に覚え書きだけでも。
印象に残っていることからいくつか書きたいと思います。二日目は大門坂を歩きました。熊野古道のもっとも面影を残している場所といわれ、かつ古道を歩くという目的を容易に叶えられる場所・・・と言われる場所です。古道は国道になってしまったり、崩れてしまったりで全部は残ってはいません。
明治に入り修験道が禁止されたためでもあるでしょう・・・


大門坂へ向かう途中に南方熊楠が3年滞在したという宿、大阪屋旅館さんの跡があります。通りかかったら、共に大門坂を訪れていた方が、奥へいってごらんなさい、と仰るので、お邪魔することに。旅館跡にすんでおられる主人に熊野のお話を聞くことができました。http://www.mikumano.net/meguri/daimonzaka.html

昔は熊野は観光地ではなく、皆大変な思いをして訪れる場所だった。信仰がない人がただ拝むのなら、月をみて拝みなさい、信仰がある人たちは大変な苦労をして歩いてお参りをした。

五来重氏の熊野詣を読んでいてその内容に強く惹かれ心打たれ、実際に熊野に来れた私としてはとても貴重なお話だった。不治の病にかかれば、故郷を出なければならない、不治の病のまま行きながら死者のように熊野を目指した。歩けなくなる人もいた。這ってこの山深い道を通る。そして、巡礼者のために古道沿いの人々は、惜しげない援助をしたという。私はその話を思い出しながら、ご主人の話を聞いていた。
霊場・熊野はこもりの、つまり現世とはべつの場所である。
肉体は衰えても魂は救われることを願ったのだろうと思う。
熊野灘の海や深い山をみていると、名状しがたい気持ちになる。

そして明治になると廃仏毀釈によって、那智に祀ってあった仏像は山に捨てられたのだとういう。そしてその後、ご主人ら大門坂の近隣の方々でその観音像を再び奉られたのだという。
永く続いた信仰と文化と自然の場、聖域を明治という「近代化」はいとも簡単に破壊する。そのことを忘れるべきではないし、誰しも「価値」や「まもるもの」についてしらなければならない。実は進歩より保存や継承のほうが難しい。

奈良へいっても、廃仏毀釈で多くの仏像や寺が壊されたと奈良の方から聞くことが多い。タクシーにのっても、運転手の方は奈良を訪れたわれわれに対して、色々な話をしてくれる。


明治を転換期とする評価は再考する必要があると思う。
何も西洋で市民革命までは市民社会がなかったわけではないからだ。
江戸時代までの文化のほうが「市民的」ではなかったか?自立精神や市民意識という観点、文化や伝統、信仰と思想史について問いはつきない。

近代ヨーロッパで初めて起こった・できた制度と言われているものが、実はアジア前近代にも名前を別にして制度としてあったことはよくあることである。
時間の流れにそって優れた文化や成熟した制度や意識があるわけではない。
継承されなければ、忘却され失われることが多いと感じる。

風土や自然が持つ独自性と文化の詳細を知ることが大切で、それは現地にいき、現地の人と話すことで、わかることも多いと感じた。

熊野は山というイメージがつよかったが、実際にいくとその深い山から生まれて溢れている水、川の流れの美しさがとても印象的だった。あの水色はどこにもみられない。


熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

これから熊野を訪れる方にもおすすめしたい五来重氏の本。
文庫版で復刊したものです。

ローラ・アシュレイとボディ・ショップがクリスマス・チャリティキャンペーンを行うようです。クリスマス限定の商品をコラボ・チャリティとして発表。ローラはこれまでも度々チャリティ商品を販売してきましたし、ザ・ボディショップは良質の製品と国際社会問題やアンチ・アニマルテスティングの草分け的なブランド・企業。
http://www.ukjapan2008.jp/events/20081110_100435j.html

心地よいライフスタイルだけでなく、心もハッピーに・・・というコピーは、幸せや心地よさは個人主義だけではもたらせない、自分が心地よい製品を使うことで、自分の外の世界に還元できればということを表している。難しいことではなく、チョイスする、選択するという僅かなことが変化に繋がる。
クリスマスが本来、世界が救われることを待望して、それ以前の新しい季節、つまり冬から春へ移り変わる冬至に重ねて祝われてきたように。

ローラのチャリティ商品は、ビスケット・シリーズのファブリックを使ったブックカバーやポーチ、バニティなどの商品のようです。個人的にはブックカバーを購入予定。以前ローラのインテリア・カスタマー向けのノベルティで頂いた手帳やブックカバーも重宝して今も使っています。ボディショップの限定キャンペーンは、ボディバターなど。ウィンターホリディらしい金を使ったパッケイジはゴシック風なアレンジがしてあり店頭で見てみたいと思います。クリスマスといえば、東方三博士(マギ)の礼拝で捧げられた一つ、乳香”ミルラ”がありますが、ミルラを使ったものも日本で増えるとよいと感じます。

クリスマスはイベントとして定着し、寧ろイベント商戦化していますが、それだけではなにかが足りないと思っている方も多いはず。
こうした試みが今後増えていくとよいと感じます。


ところで、ローラ・アシュレイの燭台やキャンドルはおすすめです。冬の時間をゆったり過ごすことができ、インテリア性の高いものが色々とあります。

聖夜12/25までキャンペーンをしている模様。

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*写真は自宅で使っているローラの燭台と、ローラの表参道店リニューアル内覧会の時に頂いたフォトフレーム。絵はベネチア派のティッツィアーノを入れて、今年初夏に咲いたイングリッシュ・ローズと一緒に玄関のコンソール飾ったもの。

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活けてある薔薇は今年春に咲いた(仕事の合間に)育てているばら。
オレンジ・アプリコットのものはイングリッシュローズのエイブラハム・ダービー、薄いピンクはフランスのクラシックローズ、スヴニール・ド・ラ・マルメゾン。ラズベリー色と城が混ざっている花はお気に入りのばら、イタリア原産のクラシックローズ、ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ。赤の大輪はディビット・オースチン作のやはりイングリッシュローズです。
クラシックローズは香りがとてもよいのです、香りがよく育てやすいのはイングリッシュローズ、ということになります。

UK-Japan 2008 WEBサイトに記事掲載

英国フェア@日本橋三越に立ち寄りました。ウィリアム・モリスのテキスタイルを使ったキッチングッズ、トレイをはじめ、紅茶、スコーン、クロテッドクリーム、ポプリ、シルバーアクセサリーなど。

モリスの製品でクッションカバーなどがあれば良かった。
スコーンはベノアのジンジャー入りと紅茶入りのものをクロテッド・クリームと一緒に購入。クロテッドクリームはなかなか売っていないので貴重です。スコーンは大分日本で根付いているのだから、英国のクロテッド・クリームをもっと取り扱う店が増えてもいいと思う。ベノアのスコーンは大変美味しかったです。紅茶は、少し甘みのあるものが飲みたかったのであえてマリアージュ・フレールの「エクスポジション・コロニアル」をミルクティで入れましたが、美味しかった。

英国のシルバー製品は良質なものが多いですが、沢山のチャームを売っていて思わず見入ってしまう。妖精の小箱、クラウン、馬蹄、様々な象徴性あるチャームは細かい細工があり、貝殻モチーフの中にはちゃんと真珠が入っていたりする。
因みに貝殻はロココ・バロックでよく用いられるモチーフ。繁栄を意味するので、家具の装飾にもよく用いられる。ロココというのも貝殻(ロカイユ)が一杯(過剰なまでに)使われた装飾性重視の様式のことを指す。
話がそれたが、そういったシンボリックなチャームは見ていてあきない。こうしたものをみていると、革新の一方で伝統様式を保存してきた英国の一面がよくわかる。

英国フェアなのでメリーソート社のベアやグッズがあるかと思ったのですがそれは無かったようです。パディントンは当然ありました。

すでに自宅で使っているサーソン・モルト・ビネガーもありました。フィッシュ・アンド・チップスを食べるときには定番。サラダにもよく使います。
既に定番になっているバルサミコと一緒にあると重宝するビネガー。


飽きの来ない伝統的なデザインのものが多く、生活の中に取り入れたいと思った。



UK-Japan 2008 WEBに記事掲載!


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会場で購入したパディントンをフレームにいれて飾りました*

西荻窪のギャラリーMADOさんで行われた企画展示会に誘われていってきました。
博物館の起源はたとえば、謁見の間にほどちかくに設えた書斎(ステュディオーロ)に集めた品々(古代彫刻、遺品、鉱石、貴石、聖遺物などなど)を展示して、各国の使者などに見せた・・・おそらく集まってきた方も、澁澤さんの書斎的雰囲気をもとめていらしたんでしょう、愉しい企画でした。
閑静な日常と非日常の溶け合った町に比較的オープンな場でエッセンスの濃い品々が並んでいて、とても盛況でした。

18世紀のリトグラフなど欲しいものもありました。が、購入したのはシュヴァンクマイエルのポストカードと「遊星商會」http://planet-and-co.net/さんのレターセットと蔵書票。
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帰り際でしたが製作者さんに声をかけていただいて、お話しました。
サイトで取扱されている天球儀のスタンプなども次は購入したいです。

自宅に帰ったあと、山本六三氏のエロス・タナトスの蔵書票デザインもまた眺めてみたり。


故・埴谷雄高さんは生前、自分の本は文庫にしてくれるなと言ってましたが、「本」はやはりモノ以上のもの、という意識が私にはあります。
消費するものではないもの。
潰えない、特別なもの。

先頃、ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を読んでいたのですが。

現代では、消費する目的のものの量が増えていますが、
人が満たされるのはつまり、消費するもの以外の”もの”によってなのだと感じます。

ぜひまたこのような企画展示と場があると良いと感じた。

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写真は自宅のライティングデスク(上には購入したレターセットと蔵書票とバルザッックの『セラフィータ』バタイユの『C神父』・・)

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ハンマースホイ展に行ってきました。
詩情というよりも、心象風景的な絵画。
感情を排した上で残るものや、内に向けられる自己を秩序づけた空間によって精緻に表現されている。

ルーブルの古代レリーフ(浮き彫り)の模写は極めて写真的な再現でありながらも、絵として訴えかけてくる。
絵画の技法とは何か?写真との境界は何なのか、そんな事も思った。

全く知らなかった画家で、フェルメールー室内画(光と陰影)の繋がりで日本に紹介されたのかな、と思っていましたが、室内画、風景画(というべきなのかどうか?)、肖像画と多くの絵をまとめて観るととても興味深い展示だった。
北方の写実的・自然主義すぎる肖像画は絵画としてはあまり興味がないので好みが別れる所だろう。肖像画だけ数点みたらおそらく興味は抱かないかもしれない。

街並みを描いた絵では虚無を、誰もいない部屋の絵では不在としての存在感と空間を感じる。
厳格に秩序づけられた空間の消失点から、画家の目線・静かに凝視する空間が見えてくる。

風景を描いた絵では、屋根、壁、石畳、街路、扉、窓枠などまったく質感が消えている。にもかかわらず、雪を被った城を描いた絵からは雪景色と冷ややかさを感じる。
風景画ではこの絵と、ロンドンを精密な正遠近法で描いた絵が興味深い。

灰色の空模様の微妙な色彩、床の陰影、そういった色彩感覚が印象深い。
チラシではモノトーンの、とあったが、グリザイユ(淡色画)のような効果を感じた。

室内画では、質感の描きわけが丁寧に成されている。この画家の書きたいものが何かということが伝わってくる。
ロイヤル・コペンハーゲンのパンチボウル。
ピアノ、テーブル、白い食器、銀のボウル、白いテーブルクロス、窓枠と白いドア。
それらは温かみある質感で描かれている。
テーブルクロスや壁の陰影の自然さに驚く。

部屋ごしに描かれる光。
光というよりは、空間そのものを描きたかったのではないだろうか。

それは不在の部屋として描かれるのだが、いくつか解釈はできるとしても、それが正しいかどうかはわからない。


モノ以外ない、しかし物質も虚無と無縁ではないと思ったのかどうかはわからないが、現代人のほうがきっとこの絵を様々にみることができるだろうと思う。
物理的なものと心理的なものの境界、存在と不在の違和感を思い出す。

フリードリヒの絵と類似していると思った絵がいくつかあり、この作家についてもう少し知りたいと思った。ドイツロマン主義のように、自然に神秘性や価値を見出さなかったらしいこの画家はどういう系譜にあたるのだろうか。
唯一野外と青空を描いている絵はまるでシュルレアリスムのマグリットのようだと感じた。


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追記今日では、ハンマースホイ展で展示された作品は常設展でいくつか見ることができる。
ミュージアムショップにもポストカードがあるのではないか。

ユニクロとのコラボTシャツで今秋発表発売されたのは英国デザイナーによるもの。
Drawing and Motion 〜 UK Artist Collaboration T-shirts for UK-Japan 2008

個人的に気になったのは、ニースデン・コントロール・センター,それからザ・ライト・サージェンスのデザイン。赤いPOTとteaを配したデザインが目を引く。さり気なく英国テイストが漂う。アートプリントの配色もいい。カジュアルすぎず、着る人のカラーとマッチしそう。共に色違いで欲しくなる。http://www.ukjapan2008.jp/events/20080915_100198j.html

英国デザインTシャツは普段からたとえばフレンチ・コネクションやブルーレーベル、それからUK-ロックのアーティスト・ツアーTなど着る機会も多く、カジュアルは勿論だが、軽めのジャケットと合わせてもいいデザインが多い。

サイズはメンズしかないようだがおそらくSならばレディースも可なのでは・・?私はツアーTなどは大抵XSかKIDS-Lを選ぶと丁度よく、ライブの会場などではよく同じくらいの女性からどのサイズを買いましたかと聞かれます。WEBでも販売の模様です。UT.

UK-Japan 2008 WEBサイトに記事掲載!

最近読んだり参照したART・美術史的ビブリオ。
絵画を「解読」したり、背景や画家、注文主を理解したいと思う際に。
また無言のうちに語りかけてくれる著作と著者への敬意を忘れないために。

今回はミレイ・ラファエル前派、初期-ルネサンス・ルネサンス、ウィリアム・モリス、関連を中心に。

ウイリアム・モリスの全仕事
記憶の中の古代―ルネサンス美術にみられる古代の受容
パトロンたちのルネサンス―フィレンツェ美術の舞台裏 (NHKブックス 1083)
パトロンたちのルネサンス―フィレンツェ美術の舞台裏 (NHKブックス 1083)
ラファエル前派―ヴィクトリア時代の幻視者たち (「知の再発見」双書)
ラファエル前派―ヴィクトリア時代の幻視者たち (「知の再発見」双書)
新装版 西洋美術解読事典
新装版 西洋美術解読事典
イタリア・ルネサンスの文化〈1〉 (中公クラシックス)
イタリア・ルネサンスの文化〈1〉 (中公クラシックス)
絵画論
エトルリアの芸術 (1968年)
イタリア・ルネサンス再考 花の都とアルベルティ (講談社学術文庫 1815)
イタリア・ルネサンス再考 花の都とアルベルティ (講談社学術文庫 1815)

ブログネタ
消費税率引き上げ、何パーセントまでなら許せる? に参加中!
消費税10%、よく耳にするのは「これでも欧米よりは低い税率」というもの。
しかし、これは説明不足かつ、無責任な言い分だと思う。
そもそも、消費税を導入したときも、5%に引きあげた時も「福祉の充実」「老後補填に使う」などが口実だった。そしてまた、それらの財源に使うために税率を引きあげるという。
それでは今までの消費税は何に使われてきたのか?
この不透明な構造がかわらない限り、何%でも変わらないだろう。

7%にしたら、納税者に対してどれだけ還元されるか提示するべきだ。
老後不安にかこつけてただでさえ国民を拘束しているフシがある(寧ろ無意識に住居と老後不安を利用して統治している社会ともいえるのでは、と思ってしまう。(老後というか健康でなくなったら生きていけるのかという不安。勤め人含む=労働者は、働くことが商品なのだから当たり前なのだ)

衣食住のうち、食と住に10%の税率をかけるのは馬鹿げている。
食品や生活必需品などに高い消費税率をかけている国は?

日本は元々住居を、すくなくとも自分の最低点の居場所である「家」「住居」「部屋」を得るのでさえ、高額で、これは政府の住居政策の無策だと指摘されている。

唯でさえ、家や部屋を買うのに、消費税がかかるのである。

60歳ないし65歳まで働いて、その後の暮らしもどうなるかわからないという現状に加えて、現在を維持するための生活にも消費税をかける。
納得できる人がいるのだろうか?

何%なら仕方ないということでは最早ない。
何%なら、「働いていた人、社会的役割を果たしてきた人や、やむを得ず果たせなくなった人が、その後の暮らしていくのに必要な財源を確保できるのか」ということをはっきり明確にしてもらいたい。

そして仮に15%にしたとしても、食品と住居にはその税率をかけるのは相応しくない。
どこまで厳密に試算できるのか、それを示して貰いたい。

安易な負担増や、見かけの善意に基づいているような法が近年増えている気がしてならない。

以上、ピックアップテーマにて投稿します。





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