1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

September 2008

10/27の東京大学公開講座のテーマは動物行動学、マスメディア社会、学生のこころの問題。

動物行動学の森先生の話はまず、現代のソロモン王の指輪は「科学」であるというお話から始まった。ソロモンはその指輪の能力によって動物と自由に会話・コミュニケーションができたという話だが、現代では科学の発達によってそれが可能であり、動物行動学ではそれを目指しているという紹介。今日は主に犬の行動学と成熟、人間との共通点についてお話された。犬は狼と多くの共通点があるが、狼はある成長段階をすぎると心の扉が閉ざされてしまう、つまり警戒心が強くなる。一方犬は大人になっても好奇心が失われず、学習しつづけることができるという。犬はネオテニー(幼い部分の残して大人になる)を特質にもつ動物である。
学習は常に好奇心と柔軟な学習態度が重要だと感じることが多いので、この点でも人間との共通点を感じた。
これは個人的な考えだが、ヤスパースによれば人間の思考のきっかけは「驚き」「限界状況の認識」(もう一つは「疑い」)が重要だとされる。驚きとは、未知のこととに限らない。自分が置かれている環境や状況に気がつき、「驚く」ことが学習のきっかけ、動機になる。「何かに驚ける」というのは重要なことで、それは、「違い」がわからなければ驚くこともないからである。違い・差異というのは、認識がなければわからない。そういった自分の中の発見や驚きのベースを培うことが重要だと思う。
話が逸れてしまったが、動物行動学の立場では、もっとも効率よく「教える」ことは、「褒めること」で、罰を科すべきではないというのが最新の考えだという。プラスを高めることのほうが、結果的にマイナス点を改善できるというもので、このデータは今後人間の心理学的な面でも活用できるのでは、と森先生も話されていたのが興味深かった。

そのほかにも、犬の社会性の高さや人間との共通点のお話があり興味深かった。本塾では、今も昔も獣医師希望、獣医学部進学希望の生徒がとても多い。皆共通しているのは中学生時代からその志が高く、内なる動機をもっている生徒が多いことで、そういった意欲の高い中高生が多い。そんな理由もあり、森先生の話はとても興味深かった。パワーポイントの資料には、森先生によるイラストもふんだんに使われていて、パワーポイントの無味乾燥になりがちな画面がとてもハートフルだった。
森先生が警告していたのは、動物を親近感をもってみるのはよいが、擬人化してはいけないということ。彼らの能力や感覚機能は人間とはことなり、感覚世界を共有していると思うのは間違いである。動物には我々よりも広範囲に世界を認識している部分もあれば、我々とは違うところもある。能力や性質を正しくとらえ、人間の認知している部分を絶対と思わないことが、大切だと改めて感じた。

一つ気になったのは、やはり大学専門科目を学ぶ際には、倫理的、歴史認識や社会認識(法的なものも含む)が必要だと感じた。この部分を視野にいれなかったり、デフォルメすることがないことが望ましいと思う。高校では選択科目になりがちな社会系の分野は、「現状認識」のベースになる部分であり、大きな流れで学べるのは中学時代が基礎になる。


マスメディアのテーマでは、ロイター通信社から東大情報学環で教えている林先生が、現在の日本のメディアとジャーナリズムの問題点とネット社会について問題提起と説明があった。自由≠放縦ではない、自由を行使するためのルールつくり、そして情報の質を判断できることの大切さ、討論空間の有無。「自由の敵は消極的な市民である」というキーワードが印象的だった。これは消費社会とメディア、公共性と私化という問題にも関わる。今回はそこまではとりあげられてはいなかったが、メディアと個人、メディアと権力、消費と個人とメディアの問題は切り離せないテーマである。林先生の「日本のメディアは消費者としてしか個人をみなしていない部分がある」という指摘が興味深かった。
ネット普及による問題も多いが、可能性も多い。解りやすい講演だったと思う。


学生のこころの問題については、学生相談ネットワークの佐々木先生が説明された。大学院重点化の中で、東京大学の特に大学院生の生活は大変にハードである。
人文系でも長いひとで12時間、薬学や医学などではおどろくべきことに18時間を越えて研究室につめているという人も多いという。
大体、多くのことを成して進学する先では更に多くのことをこなさなければならないのはどこでも同じだとは思うが、やはり大変だと思う。一方で、就職などは分野にとっては厳しい状況でもあり、日本は専門知識が適切に活かされることが少ない社会だと改めて感じる。年齢など一般的な基準で就業の可能性が閉じられてしまうことも、柔軟かつ合理的とはいえない(と思う)。
この講演では普段詳しく知ることがない、学部生や修士の院生について聞くことができた。
ほかにも世界的に14歳から17歳の間、もっともこの時期の子供(若者)かかるのはメンタルな部分でのケアである。医療費のデータからそのことが紹介された。
この時期は成長過程でもあるから、メンタル面で変化が大きい時期でもあるのは当たり前のことで、それを個人の問題としてだけとらえ、切り捨てたり無視するのはやはり問題だと感じている。
レジュメの中で書かれていたが、24時間の時間サイクル、つまり「生活の24時間化」は「世界基準と思われるかもしれないが、意外と世界でも限られた国でしか行われておらず、そもそも人間の体にとって無理のある生活習慣」であるという。
それは本質的には誤った方向での「成熟」であると紹介されていた。

公開講座は一般と高校生、大学生向けの入門から最先端の研究についてまでわかりやすい形で行われている。高校生や大学生が参加しやすい日曜の午後などに実施されると良いとも感じます。

公開講座は、東大TVというwebTVでも公開されている。昨年のブログでも書いた藤原帰一先生や、高山博先生の公開講座がコンテンツとして視聴できます。

ブログネタ
麻生内閣発足、小泉元首相引退…日本の政治へ一言! に参加中!
ただの思われにすぎない、という類のことかもしれませんが、何も書かないとゼロかと思いピックアップテーマにて投稿します。

26日朝刊(ASA)に高橋源一郎の「ほぼ期待していない」というタイトルの記事が載っていました。一面に3名、早稲田の教授他との誌面上です。
基本的に雑誌「SIGHT」で読むのも高橋源一郎、酒井啓子さん、藤原帰一先生が書いているから、なので基本的にはこの高橋の「ほぼ期待していない」という記事の意図は理解はできます、が・・・・もう私はこんなコメントでも何の救われ方もないと思ってしまい、なおかつこの字数を与えられているのに、高橋源一郎の原稿というかコメントには何の提言も情報も問題提起もなく・・・とことん気力を削がれる日本の現状というのは解るんです。共感もします。でも、このスペースを与えられたのだからもう少し何か書いたらどうなんでしょうか。

日本の政治家が「他人の話を聞いていない」のは私も同感です。大抵、そういう人が政治家になりますし、そもそも日本は主張をしあっているだけで、議論によって議論する前と後とで、方法や判断が明確になるということができない人なのでは・・・と思う。他者の意見を聞かないということは、自分の意見も明確ではないからなのでは。

長くなっても仕方がないので、高橋の意見とこのトピックに対しても疑問を持つのは、政治は「やらせてあげている」わけでも「変わりにきめてもらう」ものでもない。勿論、議員の報酬は税金だが、だからといって、納税者が議員を雇用しているわけではない・・・雇用者という立場でもなければ、雇用者としての責任を担っているわけではない。仮に雇用者だとしたならば、自らが雇用した「議員」「官僚」のやっていること、働きぶりに、日常的に関心があるはずで、自らの問題としての意識があるはずである。しかし実際はそうではない。日本には消費者しかおらず国民はいないというのは、消費社会が進み、生活が画一的になると、自分の身辺と自らの快楽にしか興味がなくなるという現象がおきるが、そういった分断され、空洞化した状態なのだと言えるだろう。
(格差については日本の現状は20年前のアメリカと似ており、現在郊外化した消費中心の生活(郊外型SC)が行き着く果ては、2000年代から現在のアメリカと同様の問題に行き着くだろう。日本はアメリカ型の経済や社会を見本にしていてはいけないのに、相変わらず近視眼的でそれが絶望的になる。税率が高くても実質的に還元されている、北欧などをモデルにするべきだ、もっといえば、他者の問題を自らの問題と考えられない日本人には、英米のような社会をモデルにするのには無理がある)

高橋が言うところの、金を払っているのだからきちんと仕事をしろというレベルではもうないということと、何をするにも他人まかせで、自らが関わっている問題として殆どの人が問題意識なく、消費者としての暮らしだけをしようとしていることが理由なのではないだろうか。

私はどちらかと言うと、小泉時代の福田には文句は言いたいが、首相としての福田には同情さえする。マスコミがどの程度その責任を果たしているというのだろうか。格差社会が急に到来したという人がいるが、「完璧な首相」などと言われて未だにマスコミでも評価されているようにみえる小泉がやったことが内政、外交の殆どの問題を悪化させているというのに、大多数の支持がありそうなものにはメディアや議員は(利益がありそうと思う限り)追随する。彼らもまた、大多数をいうものを取込みたいだけの存在だからだ。
有権者の票、視聴率、発行部数、などなど...そして、それらは広告や企業利益に結びついている。企業利益と結びついたメディアが権力なのである。

「売れ」そうな失言や発言は飛びつくが(そしてすぐ忘れる)、売れそうもない「地道な取り組み」や「現状認識のための問題提起」は扱われることが少ない。


なぜ日本がこれほどまでに絶望的な国だと思えてくるのかといえば、メディアが描き出し映像や記事で構成する「世情」が彼らの目線によって構成されているためなのではないだろうか。

麻生48%も支持率があるというのも、おかしな話で、小泉が首相の時の世論では「次が麻生なら、小泉のほうがまだマシ」という認識で、麻生だけは首相は嫌だと言っていたのではなかったか・・・麻生支持者の実体などなく、「漫画好き」などという首相の必要条件に何の関係もない偽の近親感がメディアによって描き出され、麻生側はそれを利用しているにすぎない。それは麻生自身が、それ抜きでは全く近親感や好感や政治家の力量といったものを示せないかというギャップそのものを表層しているようだ。

高橋のコメントで的を得ているとおもうのは、彼らはわれわれとは別の国に住んでいるという点だろう。

しかし高橋源一郎も明治学院大学教授という立場になり、段々と現状認識が曇っているように思える。

社会学関連で、バーミンガムの住民が自らの行動と意志で都市問題の解決へ向かい、世界でも稀な都市再生を果たしているということを思い出すと、如何に「自らと立場の異なる人を理解しようとするか」「他者の問題を自分の問題として改良しようとするか」ということが重要だと思えてくる。発端は、自らの利益と自らの領域の回復、だということは、おそらく問題を抱える部分の共通項なのだが。


・・・などと下書きしていたら、早速の辞任騒ぎ、気になったのは「叩いたほうが売れる」(数字が取れる)となったらスイッチ切れ変えるマスメディアですね、しかし発言→報道→辞任という流れもマスメディアが権力なのが反映されているようにも思う。それは、何か政治的な判断の誤りで「実際に」もっと重大なことがあっても報道でされなかったら黙認され、責任も問われないということも反映してるように思う。
(小泉時代の内政と外交の問題など)

ところで、08秋公開講座「成熟」(安田講堂)にて林香里さん曰わく「マスメディアは、人々を”消費者”としてしか捉えようとしない。扱おうとしない」と指摘していましたが、納得でした。やはり、彼らが描き出す「ある特定のイメージ」は実体とは浮遊した部分がある。・・・・
また、マスメディアとジャーナリズムは分けるべきで、ジャーナリズムは元々個人の趣味的領域にあったものだということ、それが段々とプロ化していったというのが面白い。

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戦後日本におけるアメリカニズムと権力
http://todai.tv/contents/kokai/yoshimi_shunya/001/index.html
吉見先生の公演動画が(やっと)公開されてました。

本当の権力は透明で、無意識なままに人はコントロール下に置かれる。
過半数以上の人をどのように(無意識に)コントロールできるか、あたかも自分の自由意志によって行動していてそれが充実感でもあるように感じられるような方法でコントロールできるか。ということをこの話や本を読むと思うことが多いです。

公演の内容は2007年10月24日のこのブログのログにメモしてあります。

モダン・ガールという言葉で(それまではメディアによって)位置づけられていた日本女性のイメージは「家電を使いこなす奥様」というアイデンティティとなり、(戦争には負けたがその「アメリカが認めた日本の技術力と家電」)というアイデンティティが日本の企業と男性の存在の心地よさになったという点。天皇とアメリカの「結婚」「ご成婚メディア」・・・次第に「占領軍アメリカ」という暴力性は透明になり、日本人の戦後のアイデンティティとなって、イラク戦争時まで「親米意識」を形成するまでになっている。
都市研究・社会学の目線からは、旧日本軍の施設があった場所がそのまま米軍に所有されたことが現在の都市と関連しているという指摘が改めて興味深い。日比谷線沿線を辿ればそれは明確である。


現在、表象から本質を捉えるという方法は社会学が用いている。(というよりも社会学だけが一部この方法を用いてよいことになっているのではないか。あとは西洋美術の主題と表層解読は伝統的に認められている。私は時代に逆行していると言われても、本質は内在していると思うので、吉見先生の考え方は興味深いのです)
哲学、特に現代哲学というものではこの方法は用いないことになっている。現象は本質から外側に現れ出たものと捉える方法をヒューム以降の流れでは由とはしない。しかし、表象をそのままの意味だけで捉えるという方法では、人と世界を結びつけることができない(と私は思っている)
現象学的還元の方法はやはり現実の問題を捉える際に、重要だと思う。
バジュラールが言ったように、火を酸化過程としてとらえるというよりも、人は「浄化」と「熱情」のイメージとして認識することで、人は世界に結びつけられる。結びつけられるというのは、了解するということだ。

話が逸れたが、吉見俊哉氏の講演がやはり見直してもとても面白い。
講演に参加した直後から、はやくWEBでもう一度聞きたいと思っていた。勿論「親米と反米」(岩波新書)も読み、何人か、機会があると薦めている本でもある。

PDFで、パワーポイントの資料もUPされている。
吉見氏はディズニーランドの分析もしている方なのだが、このディズニーランドの隆盛というのも80年代からの消費と公共性の喪失、私化の現象とあてはまる部分がある。

日本は広場や公園という「公共」の空間を創る政策がとても貧弱なことと、更に住宅事情がとてもわるい、家(場所)の所有と共にローン地獄になるという状況になっている。それで、どちらの居心地のよさと、非日常的体験できる場所としての「ディズニーリゾート」のニーズが在る、と思うことがある。
ディズニーシーのポンテベッキオやメディテレーニアン・ハーバーを夕方歩くときの「心地よさ」は現代日本の都市が造り出せなかった空間だといつも思ってしまう。
(寧ろ、以前は街中で得られた共有や空間が、消失したといったほうがよいのかもしれない)
消費とレジャーの場であるTDRなのだが、エンターテイメントと風景の共有は不思議と「共有」という感覚も味わえることなのだろうと思う。

TDRのニーズは、ある程度、日本の社会に欠落していて補いようがないものや価値の裏返しである。税金を払ってもまるで得られない充実のために「パスポート」を購入し、「住民」となりに行くのである。(ヨーロッパにはTDR的なニーズはない)
50年前以前の記憶の風化とも無縁ではなく、アイデンテティの喪失・忘却を思う。しかしそれは遡れば維新期まで遡る話で、閑散とした江戸城跡などに行けば自然に思うことでもある。(東京は江戸歴史地区のような場所を残せなかった。明治政府を創った薩長土肥という江戸文化や日本の文化に対する無知と価値観のなさがなぜもっと問題にされないのだろう?そして、先日の新聞記事にあった、圧倒的にやはりその地域出身の首相が多いという事実も、合理化と文化レベルが迷走するのと無関係ではないと思う。世界遺産に認定された奈良や熊野へいくと、明治維新の文化的破壊者としての被害と実感をいつも聞くことが多いが、私も東京(江戸)という場所と時代に由来があるので、その思いは強い。本来性の忘却は、本当の意味で何の進展ももたらさない。ものごとの改良や保存、発展の基盤に関わるからだ。)

こんなことを書くとTDR批判のようだがそういう事ではなくて(現に今年ももう2回ほどTDSに行ってしまった)だが、色々と思うことが増えたということは確かでもある。



親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書 新赤版 1069)



家リンクなどにも参加させて貰っておりますが、私は日本の無意識のコントロールというのは、持ち家と老後不安の2点なのだと思います。皆その為に不満や不安を我慢しつつも、過剰な個人的消費に没頭するのかも、と思ってしまいます。

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日本では殆ど観られない、イタリアへ行っても西洋美術史に興味がない方には特別視されないかもしれないジョット展へ行きました。特別視されない、というのは日本における西洋絵画の位置づけが、印象派の前か後かといったような特定の美術、もっと言えば、西洋美術が最も特別な絵画であった時代を過ぎた後が中心になるためかもしれません。しかし、ギリシア・ローマからルネサンス、フランス古典主義で絵画芸術が体系化されるまでの流れと、西洋思想の流れと美術の流れを追っていけば、おのずとジョットやマザッチョ、ボッティチエリ、リッピ、・・そしてミケランジェロ、ラファエロ、レオナルドといった流れで絵画を解読および眺める視点からすれば、興味のつきない展示です。先だって、ミレイ展をみていたので、ミレイが回帰したいと熱望したのはこの絵画の静寂な質感と内面世界が関わっているのだということがよくわかると思います。

金を用いた細密な背景や文様なビザンツの影響を感じ、文様はイスラーム的な内面性表現、何より東方教会的な思想を感じます。
人物は、ローマからの自然な人物描写を復活させ、12世紀ルネサンスと初期ルネサンスの流れを感じることができます。
思っていたよりも、多くの作品が来ていて、ジョット派の工房やその後の画家によるフレスコやテンペラ、ステンドグラスもあり、想定していた時間ではとてもみられないほどでした。解説文がとても丁寧で、図録の解説文もわかりやすい。

印刷では絵画は再現できません。
絵画とはリアリズムでは表現不可能なものが表現可能なのだと、感覚と主観を重視した絵画の流れになるまえの、絵画が物質とは扱われなかった時代の、そもそも絵画ではなかった時代の、力を感じられる展示だと思う。

会場の説明パネルが素晴らしく、ローマから、ビザンツ(イスラーム世界との関わり)、ルネサンス・・・と続く図解したものがあり、それはぜひ展示会のチラシにも入れてもらいたいと思った。図録にもパンフレットにも載っていなかったので、わかりやすいだけに残念。

図録は子供向けのパンフレット、小パンフレットとセットで2500円、図録のみだと2000円だが、この時代を扱った資料は少ないのでとても貴重。

天使の嶌が初期ルネサンス独特のカラフルな色彩で、また最期の審判図の地獄絵図が迫力がある。宗教改革時までは、聖書を読むのは聖職者だけで、一般信者は絵画や説教だけがその世界にふれるものだったので、やはり「絵画」として扱う以上のものだったことがわかる。

フェルメール展よりもずっと、特筆すべき展示だと思った。

http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/041.html




93e47867.JPG熊野の語源が「こもり国(隠国)」=死者の国 冥界で伊勢の対比にある特別な場所ということになるらしい。

そもそも熊野マイブームの発端は、おそらく「もののけ姫」なんですが、当時は「照葉樹林文化」を読んで満足してる程度だったのですが、調べれば調べるほどよくわからないですね。複雑だ・・
しかしどうも、足利将軍室町期になると、熊野信仰は廃れて、伊勢参りがメジャーになるらしい。とするとあながり「神殺し」(メタファーであるアミニズムから近代化への選択)の時期と重なる気がして、どこまで想定してもののけを創ったのかあらためて疑問が湧いてきました。

上皇時代は専ら熊野信仰で、なおかつ高野山が女人禁制だったのに対し、熊野は開かれていて、女子、病人(ハンセン病など)、盲人なども受け容れていた場所であるらしい。しかも沿道沿いの方は伝統的に、今も巡礼者を支援するのが自然なのだという...巡礼スタイルはヨーロッパや中東辺りではそれぞれ違うのが興味深いのですが、アミニズムに基づいた信仰だとあまり排他的にならない傾向が強いのかもしれません。


牛王宝印という(ごおうほういん)熊野独特のものが、すべて烏の文字で表されていて、凄い...
これは一体どういう経緯でこういうスタイルになったのだろうと、異常な興味が湧いてしまった。

来週、たった一日ですが、熊野に行く予定です。
帰ってきた翌日からまたぐっと忙しなくなる+一日なので強行軍ですが、古道にも行って、巡礼的気分に浸れたらと思います。
何かこう、バニッシュ級な気分転換がないとやっていけそうもありません...

熊野詣というかなり古い文献を復刊したものから引用してみます。
「熊野は謎の国、神秘の国である。シュヴァルツ・ワルトともいうべき黒い緑の森と、黒い群青の海。(略)那智の滝はながめる滝ではなくて、瞑想する滝である。あの天地のくずれるように、さくなだりに落ちる水音は、われわれの頭の中から雑念をたたき出して、次元の違う世界を思考させる」


・・・と神秘主義的なものが気分転換になる性分なので飽きません。

追記*牛王宝印も無事に記念に買ってきました。
写真は那智の滝。滝がご神体なのだそうで、実にアミニズム的な場所でした。

ラファエル前派 ミレイ展に行ってきました。
オフィーリア、マリアナなどが出品されること、巡回展ということもあって期待していましたが、とても充実した展示会でした。大規模な回顧展ともいうべき。

チャールズ・ディケンズが酷評した(あまりにも酷い批評)「両親の家のキリスト(聖家族)」の絵にまず驚きました。手、脚、腕の写実性、堅いがそれが効果的にもなっているデッサン、思慮深い表情。それになんといっても、ミレイの初期の絵画は、細密画のように精緻なことと、絵の具がとても薄く均一に硬質な美しさをもっていて、中世ー初期ルネサンスのようにテンペラ画のような質感をもっているのです。
ひんやりと神秘的なあのテンペラ画が完全なデッサン力と、豊かな色彩で描かれていて、それがとても魅力です。印刷物ではまったくこの質感は得られません。

「マリアーナ」は特に素晴らしかった。
北方フランドルの特質にみられる写実性と、室内の実物の光源(蝋燭の焔)の名案、日光の明るさ、室内装飾品と調度品の配置とデザイン、マリアナの青い天鵞絨の布地の質感、ステンドグラスの中世美術と植物の自然美の対比、気怠げなマリアナの佇まい、それらが上述の薄く精密なテンペラ画の冷ややかで艶やかな色彩の中で表現されている。鮮やかで陰鬱な、密室を描きながら、外部の自然の開放性を取り込んでいる絵画。

「オフィーリア」は殉死者のポーズと聖性と性性を取り入れた流されながら死んでいくオフィーリアと、明るい穏やかな陽差しの中の川辺の風景の調和が奇蹟的な絵画。
ドレスはアンティークなグレイシルバーだが、このドレスが川の水と同化しているところが一体感を生んでいる。
花々の象徴性が素晴らしい。わすれな草、ばら、芥子、すみれ・・・会場には福田氏訳のシェイクスピアの引用パネルがあったがその訳がまたこの絵に合っている。
現代逐語訳のあたらしさにはない、いい訳だと思った。
色彩と物語性、通常この二つは共存させるのは難しい。
デッサンと色彩、目に見えるものと目に見えないものの描写、新しさと古い美の調和が初期ミレイの絵には溢れている。

これは中期以降の肖像画などからは感じられなくなるが、感性と技術が一体化しているときの美術の醍醐味を初期の作品から十分に感じられる。
実際、何度も初期作品の展示部分を観ていた。

写実性が自然描写を超えること、時代や限定された価値からその作品が普遍になるとき、それはいつも技術の高さと既成のものを批判する感性と古い時代の良いものを継承することによって可能になるのだということがよく解る。


最近は、美術展も安易にマーケティングして媚びた内容の展覧会が増えたが、こうした巡回展は、コンセプトに基づいた構成になっているので見ごたえがある。

それにしても絵は実物を目にしないと何も観たうちには入らないとつくづく思う。
あの初期作品の油彩のフィニとはまた違う筆跡の残らない描き方。
ボッティチエリの「春」のような色彩といえばいいのだろうか。
だがあくまで油彩なので、鮮烈なほどの色彩がそこにはある。

会期中もう一度観に来たいと思うほどだった。

ミレイとラファエル前派については、「ラファエル前派」で予習してから観るとコンセプトやテーマの選び方や時代性について参考になると思います。
ラファエル前派、ウィリアム・モリス、・・ベルギー象徴派・・・ビアズレーなどの系譜も乗っています。

ところでジョットの作品が珍しく日本で展示されるらしい。
会期中一度は観に行きたいと思っています。

ところでフランス王立絵画彫刻アカデミーやロイヤル・アカデミーでもラファエルは規範とされたが、(プッサンはレオナルドを規範とした)安易に規範にできるほどラファエルのように皆が描けるわけでない、というのが規範にする間違いの部分なのだと思うのです。

ラファエル前派―ヴィクトリア時代の幻視者たち (「知の再発見」双書)


bunkamuraのミュージアムショップで、ウィリアム・モリスのタイルが売っていたので何枚か購入。家の壁紙で使っているものもありました。
モリスのブルーと緑は、自然界にある色彩を使っているので綺麗です。

UK-Japan 2008 WEBサイトに記事掲載

ディケンズがミレイの聖家族を批判したことで、ラファエル前派が注目されたことも大きな流れでみると興味深い結果。
ところで聖家族の描き方、特に聖母マリアを描く際によくこういった批判が起こった。例えば、カラバッジオも作品を教会に受け取り拒否されているし(その作品をリュベンスが購入したのでフランスにカラバッジオ画風が知られたとも)アンドレア・マンテーニャも受け取りや作品否定をされている、だが受け容れられないということは新しさと画家の特性でもある。普遍的な美というものとその新しさ、画家の特性のバランスが主題における特別な作品というものになるのだろうか?
ミレイの「オフィーリア」はそういった複雑な美と斬新さ技術、色彩とデッサン、象徴性と物語性で成り立っている繊細な作品だと感じる。

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