1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

July 2008

一日だけ観に行ける日があったので全国埼玉舞踏コンクールにいってきました。


それはまぁいいのですけれど、、
エトワール・ガラの演目変更がありすぎやしませんか;
公然と書けるほどメジャーな意見じゃないでしょうから
自分の日記にかきますけど・・・

私は「受胎告知」「アントレデュニオン」が見たかったんです・・・・。
共にプレルジョカージュ作品です。

特に、レティシア・プジョルの「受胎告知」


ルグリが来るのはうれしいけど、なんだかBプロで
見たかった演目がずいぶん変わってしまって、
何も青い鳥とバヤが変わらなくてもいいではないか・・・

やはり日本の観客はコンテンポラリーは理解できず
(観ようともせず)
せいぜい近代的な男女関係を描いたドラマチックバレエが
「共感」できる・できないといった感じなんでしょうか・・・

「カノン」や「アダージェット」も観たいので、それは変わっていなくてよかったですけれど。しかし当初のプログラムよりは魅力を感じられないというか。



フランスは高校卒のときに(オペラ座学校の卒業も)バカロレア合格が条件だから、基本的に教育教養水準が違うからなんでしょうか。

日本は、売れる売れないで演目も変更してるようだから、
ヨーロッパ国内で評価されてる演目が来ない・・・
せざるを得ないんでしょうけれど、バレエ鑑賞者自体が、例えば他の文化・分野にはあまり関心がない人が多いからかもしれません。
バレエ好きで、絵画や文学、思想・歴史文化なども好きという方ってすごく貴重。
でもヨーロッパはそれが普通なのではないでしょうか。
だからそれらが全面にでてこなくてもいい、プティパのクラシック・バレエ作品と3大チャイコフスキー演目が中心になってしまうのかもしれません・・・
プティパのバレエは極端に形式主義だからです。
もちろんその優良な面とそうでもない部分の両方があるとは思いますけれど。

・・・・・・


レティシア・プジョルの受胎告知が見たかったです。(二度目)

本当最近のバレエ公演はまったく信用できません。
最初にチケットを買わないと需要を示せないし、
かといって、その売れ方次第で、マーケティング結果から導き出されたレベルのものに改変されてしまうからです。
マラーホフの贈り物のときもパキータから白鳥に変わってしまったし。

勿論色々な理由や事情があるのはわかります。
でも、やはり個人意見を反映させないと、マーケティング結果に浮かび上がる「お金を払う人達のイメージ」に舞台芸術・Art・作品の魅力自体が消去されていってしまう、と考えるからです。


なんだか更に疲れました・・・。
いや、夏休みも7月8月で2日+半日くらいしか休みがなくてですね。
そのうちの半日をこの公演で遣うことにしていたので・・・・
といっても私は公演の日も時間ぎりぎりまで横浜方面にいなくてはならないのですが。

ル/パルク以降は8/9だけを楽しみに生きていたので(大げさ・・・ではない)>こういう書き方は自重しないとなりませんが本当なのが嫌。

今年はル・パルクに行けただけ良かったと思うことにします・・・・
ルグリとレティシア・プジョルの「ル・パルク」は本当に観られて良かった。
こういう舞台経験は、やはりルグリの公演のときにみた、コンテンポラリー作品(タイトルを今咄嗟に思い出せない)とオネーギン以来でしたから・・

どうせ日本では、理解されないんだからこのくらいで、という演目にされることが多いと云いたいのです。

この作品が見たい、と思うのは、例えば、ミケランジェロの「奴隷像」を観たいからルーブルに行く、ルネサンス芸術をみたいからフィレンツェに行くというような、少々巡礼的な本来性を求めている理由だったりするので余計です。
勿論、バレエの場合は、身体がそれを現象させ、踊り、顕れとともに消えゆくものだから、物質性を持つ作品の確実さと比較してはいけないとは思うのです。


でも、演目追加は嬉しいけど、演目の極端な変更はいかがなものかと思います。

9daaec1e.jpg玉川上水沿いを歩いて三鷹までいきました。 
「プチ・ルーブル展」はフォンテーヌ・ブロー派からプッサン、ロラン、ル・ブラン、ヴァトー、ル・ナン兄弟、ラ・トゥールから新古典主義まで小さくてもポイントが絞れていた展示だった。 
フランス絵画史的に網羅されていました。 
もっと会場が広くてもいいのになと思う。もったいない。 
あとやはり大きさを感じるというのは、絵画を見るときに重要な感覚なのだと改めて思った。特にルネサンスから古典主義の作品は大きくて精密で静謐なだけに・・・
 
ジブリ美術館側は、子供達が絵画にふれられるように、と作っているようですが、けっこう子供達はスルーしていた・・・ 
美術館というものに触れたことがない子たちにとっては、絵画も物質としか認識されず、目に入ってこないのだと思う。

確かに、ジブリ美術館のコンセプトにあるように、「子供にとって美術館は敷居が高い」かもしれない。でも、それは「敷居が高い・楽しみにくい」という先入観のせいでは。乳児には無理だが、少なくとも4歳くらいになれば、「最低限のマナー・他人に迷惑をかけない」ことは子供も教えられる。
美術館も、子供向けリーフレットを作ったり、楽しめるように配慮しているところのほうが多い。だから、まず「本当の」美術館や博物館に行ってその空間を知らないと、「楽しめるように」というコンセプトでつくられたものも楽しめないのかもしれない。と何となく思ってしまった。
ルーブル側が監修に入っているからか、絵画の部屋はとてもよく出来ていた。
どうせならもう少し展開できているといいと思う。
ジブリの入り口にももっとプチ・ルーブル展らしい演出をしてもよかったかな、と。
いつもより、フランス人系のお客が多い気がしました。
 
私はシュタイナー信者ではないのだが、5歳までに音楽、絵本、美術、風景、などの最も良質なものを与えるべきだと思ってはいます。 
それが欠落すると、後では補えない。 
5歳では遅いかもしれない。3歳くらいまでに、音楽や絵、そういったものをできるだけ与るべき。ヨーロッパではそれを教育の根幹に据えているのだし。 
 
その時にはわからなくても、あとで意外と残っているもの、というか本来的なもの、本質が現前しているものは、消えないものだ。 
 
しかも良いもの=権威的として与えているようではそれは意味がない。 
 
ギリシア的な意味で「良い」(イデア的な意味で)という意味です 
 
良かったのは、プチ・ルーブル展の額絵12枚セットが買えたこと。
フォンテーヌ・ブロー派とクロード・ロランの額絵がとても嬉しい。
ヴァトーの絵も入っていました。
そしてどうせならプッサンは「アルカディアの牧人たち」を額絵にしてほしかった!!

そして本家ルーブルに行ってフランス絵画をじっくりみたくなったのでした。
ル・シュウールやプッサンを眺めたい。


入館予約していたのは12時だったので、時間までは井の頭公園を歩きました。
「うさぎ館」でガレットを食べて、小沢清人さんの薔薇の絵のカードを買い。
橋の近くまできたら、自転車で散歩をしていた方から「鯉が瀧登りをしてるよ」と声をかけてもらって、初めて鯉の瀧登りをみました。凄い。

木立と川の流れがある風景が落ち着きます。

4
アンジュラン・プレルジョカージュの「ル・パルク」でのアプローチ・コンセプトに惹かれて、メディアの夢、MC14/22も購入して観てみました。

まずmc14/22の感想から。
というのもチャコットwebマガジンの批評文?がかなり酷いものと思い。
ディケンズがラファエル前派を徹底的に否定して(表現やコンセプトを理解しようともせず)いたのを彷彿とさせる記事だったので、私なりの解釈を書いてみたいと思ったからです。

まず冒頭、儀礼的に男性が男性の身体を洗う場面。
これは洗礼者ヨハネとイエスの最初のバフテスマを象徴しているかのようですが、儀式的というよりも、どこか冷厳な親密さを帯びています。
また男性ダンサーの身体を捩るような、脱力の場面。
この身体フォルムは、長らく宗教画の題材であった「十字架降下」「十字架昇化」のフォルムと同じビジョンをとっている。
先に、プレルジョカージュのコンセプトを云うならば、それは「体感・体験」の再起を観る者に与えること。「ル・パルク」での愛の真摯ゆえの苦しさ、メディアの夢での絶望、胸の潰れるような悲痛さ、怒り、そしてMC14/22は、十二使徒の苦悩と痛み、イエスの死の葛藤を目の当たりにしたときの衝撃、その感覚をつれてくること、思い出させる事、をコンセプトにしている気がする。
これはキリスト教のというよりも、普遍的な罪悪の感覚に近い。
観ているだけで、加害者であるような、何もできなさを、拘束されたダンサーは体現してみせる。受難とは、目の当たりにした者が抱く感覚である。
最後の晩餐から、十字架に掛けられる間、12使徒たちは、自らと師を裏切り、それを傍観するのみだった。聖書は文学でもあるから、その描写のシンプルさと感情、感覚に訴える物語性が深い。
ダンサーたちが次々と飛び降りていくシーンは、殉教を思わせ、逆さに落ちていく様は、逆さ磔となったペテロを思わせる。
受難そのものは、歌い上げるダンサーに繰り返し身体のあちこちにダメージを与えて途絶えさせようとする行為によって、悲痛さを出現させる。表現ではなく、その痛みや苦しみ自体をアンジュラン・プレルジョカージュは「出現」させるのだ。
だから、そのような他者の苦しみや境遇には関心を持ちたくないと思う人々の眼にはそれは目障りに感じるのだろう。

机が一列に並べられたシーンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の遠近法空間が、青白いライトだけで演出されていた。
(遠近法一列に12使徒を並べる構図は、レオナルドが最初に描いたと云われている)


同性愛的なシーンとも書かれている部分があるが、どちらかといえば、キリスト教伝統は同性愛を認めてはいないだろうが、根源的な部分で、師に対する弟子の無私無欲な関係、共同体生活、霊的な一体感によって培われた部分がある。しかも、キリストの死や苦痛は、マニエリスムなど時代によっては苦痛よりも快楽・恍惚の表情をもつ甘美な裸体画として描かれていた側面がある。この事はとても複雑な部分問題を孕む。プレルジョカージュは、苦痛を甘美なものとは描かない。この事は、もう何度か作品をみたら違う考えが浮かぶのかもしれない。

『メディアの夢』はまた次回に語りたい。アニエス・ジロー以外のエトワールがこのメディアを演じることができるのだろうか。できるなら、おそらくジローの解釈とは異なるメディア像になるだろう。地母神的な母親像。それは「聖母」の概念が生まれる前からあったものだろう。

関心がつきない2作だが、身体の躍動や美といったものを十分に発揮できるシーンが少ないのは確かでもある。

アンジュランの作品は2008年エトワール・ガラでも2つ踊られるのでとても待ち遠しい限りです。レティシア・プジョルのル・パルクでの透明感がとても良かったので、「受胎告知」を観られるのが今から待ち遠しい限りです。

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レビューを追加したのでここにも掲載します。

2008年「ル・パルク」公演の際に会場で購入しましたが、再生に問題はなく日本国内のDVDプレーヤーに対応しています。

イザベル・ゲランとローラン・イレールによる初演キャストのパリ・オペラ座の「ル・パルク」です。ジャケット写真は3幕のパ・ド・ドゥのもの。

1幕、2幕の衣装はフランス・ロココの時代、ヴァトーの雅宴画を彷彿とさせる衣装がオペラ座のダンサーに大変似合っています。音楽は全幕モーツァルト。描き出されるのは、普遍的な愛の葛藤と苦しみ、その聖性が大胆に表されていて、その普遍さゆえに現代・モダンな舞台装置や「庭師」の存在などがシャープかつシュールな空間を演出しています。ローラン・イレールが素晴らしい。
ヒロインは『クレーヴの奥方』からインスピレーションを得たそうで、恋を拒み、自らに悩み、純粋であろうする意志をもった女性像で大変興味深い観ました。イザベル・ゲラン、ローラン・イレールは共にこの初演ファースト・キャストです。
オペラ座のコンテンポラリー作品の表現の深さ、解釈の奥深さ、テクニックの高さを観られるDVDだと思います。★を一つ減らしたのは、カメラ・ワークがダンサーに近すぎる時があり、実際の舞台での全体的な雰囲気・空間が観られない部分が1幕にあったためです。

個人的に、1幕、2幕もとてもすきな作品です。
『クレーヴの奥方』も読んでみましたが、成る程・・・と思う文体でした。
文体はシンプルなのですが、心理描写が大変細かいのですね。

ロココ・美術については、『世界美術大全集』や『ルーブル美術館』の大判図録などをみるとよくわかります。とてもあの時代のフランス的な部分(衣装や振る舞い)とそれに抗うような愛や存在の純粋さ聖性の部分がでている作品だと思います。>ル・パルク

ラファイエット夫人自身、ロココの時代の人なのに、アンリ2世の時代の世界を描きだしているところで、きっとロココの世情に違和感を感じていたのでしょう。
フォンテーヌ・ブロー派などのまだ合理的精神で整理しきれない心情や感性、そういったものも人間には必要なのだとそんな気がします。

アンジュラン・プレルジョカージュはそれを動物の部分と語っていますが、なんというか、前近代的な部分、そこには合理性では片付けられない複雑で繊細なものがあるのだと思うのです。そういった問題も、普遍性=モダンといえる。
こういった問題をバレエの舞台で表現できる・しようとするところがとても興味深いところです。

http://www.amazon.co.jp/gp/product//B0015U42FI/ref=cm_rv_thx_view

インディ・ジョーンズの19年振りの最新作を見にいきました。
このシリーズはたしか2、3辺りを小学生のときにみて結構覚えていました。
あとから考えてみると、インディは聖書考古学者のようですね。
特に1作目と3作目はそのようです。アークにまつわる話やら聖杯伝説など・・途中に挟まれる部分が史実の部分もあるのでけっこう楽しめます。
たとえアメリカハリウッド映画が、パンとサーカスのサーカス部分、アメリカン・ソフトパワーで、娯楽を通じて、政府が浸透させたい価値観を振りまいていても、面白い部分はあります。

今回は外敵がソ連。けっこうあからさまです。
外敵を描くときに、個別の兵士の扱いがまったくパーソナリティを無視しているのはあいかわらずです。ナチスの兵士だったら、ソ連の兵士だったら、どう死んでもいいという部分はあいかわらず感じてしまいます。

それよりも気になったのは、南米の古代文明を異星人の文明、と解釈しきってしまうところでした。自分たちよりも高度な文明を先住民が古代にもっていたと思うのが嫌なんでしょうか。保守層はそう思うのかもしれません・・・
ナショナル・トレジャー2で、コロンブス以前に失われた文明が、と歓喜していたのとはちょっと趣が違うような気がします。あちらはアメリカはこうあるべき、というような立場なんでしょうか。大統領はこうあるべき、というメッセイジがとても強かったり、政府は真実を隠蔽しているとする立場ですよね。ディズニーはフリーメーソンの立場なので「より本来的」と思うほうを志向するのでしょうか。どちらも反自然主義だとは思いますが・・・

話がそれましたが、古代文明=宇宙からもたらされたもの という神話の位置づけはアメリカにとってとても便利な価値観です。
古代文明=宇宙からもたらされたもの その宇宙を開発したり研究していて最先端にいるのはやっぱりアメリカ、というアイデンティティを形成できるからでしょう。
そう思いたい気持ちはわかりますが・・もう少し冷静になったらと思ってしまいます。


軍事防衛と、宇宙開発は期待と不安で際限がないものです。
だからそこに予算を費やしていくことも実は際限がない。
そして、軍事に関わる企業と共和党の繋がりも無視できません。
巨大な利潤がそこにはあります。
そして、常に、必要以上の外敵の脅威が、多国籍他民族の国民を統一するためには必要なのだと、・・もっともそんな単純なことでは説明がつかない部分は沢山ありますが、すくなくともそんな単純な部分がよく反映されていた映画だと感じた。

映画自体は面白いだけに、けっこううーん、と思ってしまいました。
そう、映画自体は結構面白いです!それはそうなんです・・・
ハリソン・フォードもよかったですけど、息子役の子も嫌味がなくめずらしく感じがよかったです。それになんといってもケイト・ブランシェットが。私好みのおかっぱなソ連将校がやたら似合っていました。何をやってもはまりますね。
エリザベスと同じ時期にとっていたのかな・・・なんて思いながらみていました。

しかし原子爆弾を冷蔵庫で防いで全然無傷だなんて、それもどうかと思います。
いろいろとよくできているだけに、勘違いしてしまう人が多いとどうなのかと思う映画でした。

余計なことですが、インディよりも花より・・(私は漫画も読んだことがないのですが;)のほうが売り上げが大きいというのも・・やっぱり、ゆとり内容になってから、世界史、世界地理、世界の文明・文化をまったく教科書で扱わなくなって、興味自体いだけない人が増えてるのかもしれません。

前倒し内容では多少、内容ももどると思いますが。
それでも世界四大文明もしらないで大人になるのはどうかと思います。
高校では世界史をやらない人も多いですしね・・・